(10)
チュリブが休んでもう三日になる。初日は昼食を一緒にとる約束をしていたので、休みだと知って驚いた。浮かれすぎて熱でも出たのではないかと周りは冗談交じりに言っていたが、自分も案外楽しみにしていたのだと気づき、我がことながら感情の変化にレオンはとまどった。
二日目は、ヘイズル・デルフィーニーが逮捕されたという知らせが学院中を駆け巡り、自分にも関係があったので衝撃を受けた。
レオンが取りに行った薬はその日のうちにキュグニー教官が分析し、やはり詐欺まがいのものだと断定されたのだが、同時にそれを裏付ける証拠が送られてきたことで、警兵が踏み入ったらしい。
ヘイズル・デルフィーニーが扱っていた粗悪品は薬だけでなく、食料や工芸品など多岐にわたっていた。自宅でくつろいでいるところを捕らえられた騒ぎの中でトープが行方不明になり、まだ見つかっていないという。
その夜、キュグニー家をケーティ市長の秘書カナル・ヴィダーレと警兵のマルク・アギリスが訪ね、ファイに感謝の意を述べていたとリリーが話してくれた。少し前に薬を飲んで亡くなった子供の親が市庁舎に勤務していたことで、カナルはケーティ市長から調査を任されていたのだ。オルトを荷物持ちにして帰宅したとき家から出てきた二人にばったり会ったのはそういうことだったのかと、リリーも得心がいったらしい。
むだに長い間ヘルツクロブフェン病に悩まされてきたのはトープの父親のせいだと知り、レオンも怒りがわいたが、トープがいないので嫌味も文句も言えない。
そして三日目、登校しないチュリブを皆が本格的に心配しだした。
「私、お見舞いに行ってみたんだけど、チュリブは寝込んでいて起きられないからって門前で追い返されたの」
報告するアンナを取り巻き、同期生たちが一様に首をひねった。前日まで元気にしていたのに、急に面会できないほどの重病にかかったのかと。
頼りになりそうなホーラー教官はどこかあせった様子で、時折現れる警兵とともに学院長室に出入りしている。授業中も難しい顔つきのホーラー教官に、何か悪いことが起きたのでなければいいがとレオンも不安になった。
四日目、一限目の演習で炎の法専攻一回生全員がホーラー教官に詰め寄った。チュリブはいったいどうしたのかと口々に問う生徒たちを見回し、ホーラー教官は答えた。
「チュリブの家から昨日、あと十日ほど欠席すると連絡があった」
「なんで?」
「そんなに大変な病気なの?」
「保護者の話では、流行り病にかかったらしい」
命に別状はなく、安静にしていればいいと診断されたとのことだ、と告げるホーラー教官に、安堵の空気が広がった。
「じゃあ、落ち着いたらまた登校してくるんですね」
「……そうだな」
笑顔の同期生たちにうなずくホーラー教官の横顔を、レオンはじっと観察した。
やはりおかしい。伝染病とはいえ生命に危険がないなら、ホーラー教官が余裕を失うとは思えない。
あまりにも見つめすぎたせいか、不意にホーラー教官の視線とぶつかった。開きかけた口を閉じたホーラー教官の真紅色の双眸は、明らかに自分に何かを訴えかけながらためらってもいる。
気づかなければよかったのかもしれない。何も知らないふりをして、皆と一緒にチュリブが来るまでおとなしくしていても、ホーラー教官はきっと咎めない。
でも、自分は勘づいてしまった。そしてホーラー教官もまたレオンの反応を読み取ったらしい。
「先生、授業内容で質問があるので、放課後に教官室へうかがってもいいですか?」
生徒がそれぞれの練習へ散るのを待ち、レオンが声をかけると、ホーラー教官が瞳を揺らした。
「ああ、かまわない」
承諾を得たので、レオンも今は自分の練習に集中することにした。
放課後に教官室に行くと、ホーラー教官は窓辺に立って外を眺めていた。
「先生、僕は何をすればいいんですか?」
「気が早いな」
前置きがないレオンの問いに、ホーラー教官は苦笑した。察しがいいのも良し悪しだな、と。
「お前、チュリブの家庭の事情をどこまで知っている?」
「両親が事故で亡くなって、叔父さんに引き取られたくらいしか……」
奇妙な胸騒ぎにのどが渇いていく。
「やっぱり病欠ではないということですか?」
「他言はするなよ。お前が持病を伏せていたように、あいつもできれば隠し通したかったはずだ」
特にお前には知られたくなかっただろうなと、ホーラー教官が大机へ視線を投げる。そこには『裁縫の課題』と貼り紙された箱が置かれていた。
「この先の展開を予想すれば武闘学科生に頼むほうがいいんだが、もしチュリブの叔父がお前のことを認識しているなら、たぶんお前が一番適任だ」
「どういう意味ですか?」
「クソ叔父がチュリブの遺産目当てで無理やり婚姻を結ぼうとしている」
レオンは言葉を失った。
「あの男はもとからそのつもりでチュリブを引き取ったんだ。だからチュリブと年の近い男が近づくのをひどく警戒していたらしい。俺も聞いたのはつい先日でな。それからチュリブがクソ叔父のもとから逃げられるよう、学院寮に入る手続きを始めたところだったんだが、チュリブが登校しなくなった」
ホーラー教官は大机に近づくと、箱のふたを開けた。
「課題の提出期限が近いからどうしても出したいと、チュリブがクソ叔父に頼み込んだようで、ずいぶん中身を探られてから持ってこられた形跡がある。手紙すら入っていなかったからな。ただ、チュリブは確かに裁縫の授業を取っていて、これも授業中に縫っていたそうだが、課題の指示はしていないと教官が言っていた」
となると、これはチュリブからの無言の伝言というわけだと、ホーラー教官は中に入っていた袋をつかんだ。
「何か気づかないか?」
目の前で袋をぶらぶらされる。薄紅色の布で作られた袋の紐は狐色で、袋自体も青や赤、緑など色も形もさまざまな玉が飾りとしてつけられていた。
意外と縫い目がそろっているなと感心したレオンは、ふと違和感を覚えた。
「……紐が細い?」
紐通し口の太さと紐があっていないように見える。まるで本来使うはずだった紐を変更したかのようだ。また、布地と紐の色の組み合わせもよくない。おしゃれが好きそうなチュリブにしては趣味が悪い。
感じたことをそのまま告げたレオンにホーラー教官はうなずいた。
「さらに付け加えれば、狐色の紐と青い玉はお前の髪と目の色だ。他の玉はおそらくそれをごまかすためのものだろう。家からは流行り病だと連絡があったが、あんなにお前との昼食を楽しみにしていたことを考えると――クソ叔父にばれたんじゃないかと俺は思っている」
「まさか、それで監禁されているとかじゃないですよね」
レオンは動揺した。自分が原因で叔父の怒りを買ってひどい扱いを受けているなど、考えたくなかった。
「残念だが、そのまさかの可能性が高い。しかも四神の御使いを何度送ってもはじかれる。偵察を妨げるよう結界を張っているんだろう。後ろ暗いことをしている家はよくやるんだ」
「そんな……」
「だが希望はある。あと十日ほど休むということは、クソ叔父もそれまではチュリブに手出しできないのかもしれない。なぜそうなのかまではわからないが、今現在チュリブが一人で奮闘しているのだけは確かだ」
だから少しでも早く救出に向かいたいと、ホーラー教官は袋を箱に戻した。
「これはまだ捜査中で公にはしていないから、本来はお前にも話せない内容なんだが、お前に協力してもらうためには説明が必要だろう。さっき上司からも許可を取ったから、口封じでお前を抹殺するということもない。安心しろ」
「物騒なことをさらっと言わないでください。それに、僕はまだ引き受けると決めたわけではないんですが」
「入ってくるなり『先生、僕は何をすればいいんですか?』って、やる気満々だっただろうが」
ここまで聞いておいて今さら逃がさねえぞとすごんでから、ホーラー教官はどかっと椅子に腰を下ろした。
「俺たちも最善は尽くすが、お前の身の安全を確実に保証することはできない。へたをすれば死ぬ」
「代員とはいえ仮にも教官が、そんなことを生徒に頼むのは大問題だと思いますが」
「俺だって好き好んでお前を危険な場所に放り込みたいわけじゃないんだ。自分で行けるならとっくにそうしている」
ホーラー教官が深緋色の髪をがしがしかく。
「僕が一番適任と言っていましたよね」
「あの男が連れて行くのは子供なんだ。そしておそらく……チュリブに近い存在であればなおさら狙われる」
うつむき、ホーラー教官は悔しそうに唇をかんだ。
「少し前に、非常に残忍な『賭け事』がおこなわれているという情報を得たんだ。子供に武器を持たせて凶暴な獣と戦わせるという――賭けというのは名ばかりで、戦い方を知らない子供がほぼ負ける。それを……子供が獣に食われるのを大人たちは安全な檻の外で見ているのだと」
理解するのに少し時間がかかった。いや、理解したくなくて頭が拒んだのだ。
「胸糞悪い話だろう。俺だって最初に聞いたときは信じられなかった。金を払って、子供が無残に食い殺されるのを見物してるなんて、正気な奴のすることじゃない」
胸糞悪い、ではとても言い表せない。ようやく想像が及び、レオンは吐きそうになった。
「それを、チュリブの叔父さんが……?」
賭けに参加しているというのか――違う。きっと主催者側なのだ。
「先生が代員として来たのは、チュリブと接触するためだったんですか」
「誤解するなよ。ヒドリ―先生が倒れたのは俺の仕業じゃない。運よくというと失礼だが、本当に偶然だった」
まあ、それを利用して学院長に協力を要請したのは確かだがと、ホーラー教官が言い訳をする。
「チュリブは警兵に妙に反応してませんでしたか? もしかしてチュリブも叔父さんのしていることを知っているんですか?」
「俺も最初はそう思ったんだが、チュリブはおそらく知らない。警兵を気にしていたのは、自分の置かれている境遇を相談するべきか迷っていたからだろうな。それにしてもお前、よく見てるな。嫌っているのは振りだけで実は好きだったというやつか?」
ホーラー教官にからかわれ、レオンはむっとした。
「今までは本当に苦手でしたよ」
反論して、しまったと歯がみする。これでは、今はそうではないみたいに聞こえる。
案の定、ホーラー教官がにんまりした。
「その件については、無事に解決したら二人で話し合ってくれ」
「わかってます。昼休憩の約束が延期されている状態なので、これ以上つつかないでください」
羞恥心を隠すためについ口調がとげとげしくなり、逆効果だったとレオンは思い知らされた。ホーラー教官の真紅色の瞳は明らかに楽しそうな色を濃くしている。
「お前、可愛いな」
「大半の男子にそれは禁句ですよ」
全然嬉しくない。できるかぎり不愉快な表情をつくるレオンに、ついにホーラー教官が笑い声をあげた。
「それで、だ。お前に頼みたいことというのは――」
「一つはチュリブの様子を確認すること。一つは……ああ、だから武闘学科生のほうがいいんですね」
「そうだ。賭けの対象にされても、武闘学科生なら武器の扱いには慣れている。神法学科生の場合、炎の法や風の法ならいけるが、もし檻に法術を封印する仕掛けが施されていたら、まず勝ち目はない」
話が早くて助かる、と言うホーラー教官はもう真顔に戻っていた。
「何度も言うが、こんな危険な任務を子供にさせるのは本意ではない。ただ、今の時点では他に手がない」
証拠もないのに屋敷に乗り込むわけにはいかないのだ。
「どうする? お前の場合、体調面の心配もある。正直、無理はさせたくない」
「『ここまで聞いておいて今さら逃がさねえぞ』と脅したのはどこの誰ですか」
「俺だな。だがそれだけよく回る頭と口がありながら、そんな一言に屈するほど気弱な人間じゃないだろうが、お前は」
別にチュリブと特別な関係というわけでもないし、いくら一回生代表でもレオンが背負う義理はない。荷が重いなら遠慮なく断れと言われ、レオンはしばし黙考した。
病気についてはさほど不安はない。毎年この時期はいつ発作が起きるかとびくびくしながら生活していたのに、キュグニー教官の薬を飲むようになってからすっかり楽になったのだ。だから多少の無理は可能だ。
「その叔父さんが僕を警戒しているなら、チュリブとは会えないかもしれません。でももしそうでも、もう一つのほうで逮捕できれば、チュリブは自由になりますよね」
「そうだな」
おそらく屋敷で捕まった後はどこかへ移送されるだろうとホーラー教官は言った。それを自分たちが追っていくと。
「僕を『賭け事』に使わず、その場で殺す可能性は?」
「それは……たぶん、ない。お前がチュリブを連れて逃げようとでもしないかぎりは」
ホーラー教官が眉間にしわを寄せて視線を落とす。どうやらまだ自分の知らない情報があるようだとレオンは察した。
「わかりました。僕が行きます」
レオンの返答に、ホーラー教官が顔を上げた。
「ここでやらないと男がすたるとか思ってないよな?」
「そんな男気は持ち合わせていませんよ。でもチュリブには借りがあるので」
「そうか」
期待と心配がないまぜになった容相で、ホーラー教官はうなずいた。
「こちらも会場へ潜入する準備を進めているから、お前一人にすべて任せることはしない。あとは流れに合わせて最適と思われる行動をとる」
「ちゃんと食いついてくれるといいんですが」
「それこそ賭けだな。チュリブの粘り具合と、クソ叔父の狂気的な執着しだいだ」
約十日という期限が叔父にも影響を与えているなら、常よりは冷静な判断が欠けていることを祈ると言って、ホーラー教官が手招きした。
「では、作戦会議といこうか」
口角を上げるホーラー教官は、嬉々としてはかりごとを巡らす悪役そのものだった。
念のためにと発作用の薬を半分ポケットに移してから、レオンはいざと気持ちを奮い立たせて屋敷に向かった。
門前で取り次ぎを求めると、しばらく待たされた後、マンティスの秘書だという男がやってきて入れてくれた。
レオンが持参したのは、各教科の教官から預かった課題と、同専攻生全員の手紙だった。それらだけ取り上げられて門前払いされた場合、翌日にまた届け物をする計画だったが、二日前に見舞いに来たアンナたちは追い返されたのに自分は一発で通されたため、やはりマンティスは把握していると考えていいだろう。
また杖は大丈夫だったが、ホーラー教官がレオンにつけていた炎の神の使いは、やはり門を越える際にはね返されていた。
秘書の反応をうかがったが、男は気づかなかったらしく、レオンはほっとした。
「チュリブの具合はどんな感じですか?」
「今朝ようやく熱が下がりはじめたところです」
「顔を見ることだけでもできますか?」
「起きていらっしゃれば、扉越しに少しだけお話をすることは可能かもしれませんが……失礼ながら、レオン様はお嬢様とさほど親しくされていないとうかがっておりましたので、旦那様も驚かれておいででした」
さぐりを入れてくる秘書に、レオンはいかにも気まずそうに視線をそらした。
「チュリブって可愛いですよね。だから何て言うか……面と向かってしゃべるのがちょっと恥ずかしくて、つい……」
「ああ、なるほど。お二人とも多感なお年頃ですからね」
秘書が納得顔で笑ってうなずく。うまくごまかせたようだが、自分で言っておいてレオンは照れ臭さに沈黙した。もう何が本当で何が嘘なのか、自分の気持ちなのにわからなくなってきていた。
ずっと苦手だと思って避けていたのに。自分の言動に傷つくチュリブの表情を見るたびに、なぜか胸がざわついた。冷たい態度をとってきた自分を助けるために必死に射的場まで走った姿を想像し、申し訳なさと感謝と……心の底のほうでこっそりわいた嬉しさに気づいて、動揺したのだ。
浮上させるのが怖い気持ちを、今はまだ懸命に押さえ込んでいる。この任務を無事に果たしたら――そのときに向き合おうと。
「使用人が思ったより少ないですね」
屋敷の中に入ったレオンは、静まり返った廊下を見回した。
「感染対策で、できるだけ接触する人間を減らしているんです」
そしてレオンは応接室へ案内された。事前に指示されていたのか、すぐに侍女らしき女性が果汁を運んでくる。
「外は暑かったでしょう。お嬢様の様子を見てまいりますので、それまでこちらでおくつろぎください」
勧められて長椅子に腰を下ろしたレオンの前に、コップが置かれる。侍女の手がかすかに震えているのに気づいてレオンがちらりと目を上げると、相手と視線があった。
「プレヌ、お前も一緒に来なさい」
明らかに様子のおかしい侍女を秘書がうながす。プレヌと呼ばれた侍女は何か言いかけ、ぺこりとお辞儀をして部屋を出ていった。
秘書はまだ動かない。まるでレオンが飲み物を口にするのを待っているかのようだ。
おそらく睡眠薬だと思うが、万が一にも致死性の毒が盛られていたらどうしよう。
「何か気になることでも?」
「ああ、いえ、きれいな色だなと思って」
なかなか手をつけない言い訳を適当に語ると、秘書が微笑した。
「あまり市場には出回っていない果実を使用しておりますので。最初は少し舌がしびれる感じがすると思いますが、意外とのどごしがよく、癖になるお味ですよ」
「そうですか」
しびれるのは嫌だが仕方がない。レオンは覚悟を決めて口にした。
確かに舌に刺激が伝わった。鼻につくのは予想より甘い匂いで、まるでチュリブの服装のようだ。
「では、すぐに戻りますので」
落ち着いた笑みの中に嘲りをにじませ、秘書も退出する。
コップを置いたとたん、ぐらりと天井が回った。
即効性がありすぎると心の中で不満をこぼしながら、レオンは眠りに落ちていった。