(8)
「チュリブ?」
何度も呼ばれていたらしい。ぼんやりしていたチュリブが我に返ったのを見て、マンティスは目を細めた。
「心ここにあらずだね」
「ごめんなさい、叔父様」
叔父の仕事が済むまで長椅子に腰かけて本を読んでいたはずだったが、最初に開いた頁から全然進んでいなかった。
マンティスが腰を浮かし、近づいてくる。
「何かあったのかい?」
隣に座ったマンティスに髪をなでられ、チュリブは目を伏せた。
「……今日の演習で、同期生が倒れたの。病気だったみたいで」
「それは感染するのか?」
チュリブがかぶりを振ると、マンティスは幾分ほっとした容相になった。
「それを気にかけていたのか。お前は優しい子だね」
チュリブの髪をなでていたマンティスの手が頬へ滑り、首筋に触れて肩へ下りていく。
「今日はもう少し進もうか」
暑い時期なので、チュリブの寝着も薄い。透けた肌をじっくりとたどる叔父の視線に、チュリブはこわばりうつむいた。
マンティスが胸元のリボンをほどいていく。はだけられた小さな胸を包むようにこする大きな手の感触に総毛立ち、チュリブは押しとどめた。
「待って、叔父様。神法学院を卒業するまで、まだあと八年はあるわ。慣れるのはもっと後でも……」
「誰が神法学院に入学させると言った?」
冷えた問いかけにチュリブは息をのんだ。
「で、でも、遺言では学校を卒業――」
「ゲミノールム学院も立派な学校だ」
目を見開いたままのチュリブに、マンティスがゆがんだ笑みを浮かべる。叔父の計画を悟り、チュリブは慌てて説得にかかった。
「叔父様、私はもっと勉強したいの」
「法術が何の役に立つ? 下等学院で十分だろう。それとも私をじらすのが目的か? 悪い子だ」
「違うわ、私は本当に神法学院に行って――」
「へたに外に出れば、デルフィーニーの息子のような虫けらが必ず現れる。どうしても学びたいのなら、女の家庭教師をつけてやろう」
「叔父様、待って! お願いっ」
そのまま長椅子に押し倒されて鎖骨を舌でなぞられたとき、チュリブは恐怖のあまり錯乱した。
「た、誕生日に……叔父様の誕生日にっ」
口からこぼれ出たとっさの言い逃れに、チュリブ自身もはっとかたまる。
「ほう? 私の誕生日にお前のすべてを捧げてくれるのか? それは結婚相手として私の名を記してくれるという意味だね?」
答えられず震えるチュリブに、最高の贈り物だとマンティスが満足げに微笑む。
「いいだろう。約束だよ、チュリブ。楽しみにしているからね」
頬に接吻を落とされる。解放されてもチュリブはすぐに動けなかった。
マンティスの誕生日まで、あと十五日しかなかった。
翌日には意識が戻ったものの、大事をとって自宅で休養していたレオンは三日ぶりに登校した。
ファイの処方した薬の効果は驚くほど覿面だったうえ、ゆっくり過ごしたおかげで体調はすこぶるいい。二度と無茶をするなとフォルマにはたっぷり叱られたが、今なら制御しなくても全力で法術を連発できそうだ。
登校した日は朝一番に顔を出せとフォルマ経由でホーラー教官に言われていたので、レオンは教官室を訪れた。
あれだけの騒ぎを起こしたのだから、きっと代表を外されるのだろう。代表や副代表だらけの冒険集団で初の不名誉をくらうのが自分というのが悔しくはあるが、仕方ない。
室内から応答がある。レオンは一度深くため息をついてから扉を開けた。
「もうすっかりよくなったみたいだな」
レオンの顔を見るなり、ホーラー教官がにやりとする。相変わらず悪人のような顔つきだが、中身は大ざっぱなようでいて意外と生徒一人一人の様子をよく観察している、楽しい先生だ。
ヒドリ―教官より好きだなと思っていたので、これからがっつり怒られるのは悲しい。それでも覚悟を決めて大机の前に立ったが、ホーラー教官からかけられた言葉は快復を喜ぶものだけだった。
何の処罰も下さないつもりだとわかり、レオンは困惑した。
「不服そうだな」
復帰を皆で派手に祝ったほうがいいかと問われ、レオンはかぶりを振った。
「いえ、そうではなく、代表を解任されるものとばかり……」
「確かに、自分の体調も顧みず阿呆な挑発に乗った点は注意してしかるべきだが、俺の監督不行届きでもある」
ドゥーダたちのお前への対抗心に気づいていながら、嫌がらせをするすきを与えてしまったからなと、ホーラー教官は深緋色の髪をかいた。
「俺もドゥーダとジュワンにはじっくり向き合って諭したが、他の奴らからなじられたのが相当こたえたみたいだぞ」
ホーラー教官の『じっくり向き合って諭した』行為も想像すると恐ろしいが、後半部分にレオンは首をかしげた。
「みんなすごかったぞ。怒涛の口撃であの二人を泣かせちまったんだからな」
特にチュリブがなあ、とホーラー教官が苦笑する。
「お前は周りと少し距離を置いた付き合いをしていたつもりだろうが、その割には好かれてたみたいだな」
「そんなはずは……」
男子は主にドゥーダが中心で、自分はいつも輪の外にいた。同じ専攻内に親しい生徒はおらず、常に愛想笑いでやり過ごしてきたのだ。
「ただの同情ですよね? 僕が病気だと知って、それで……」
形勢が逆転しただけなのではと疑うレオンに、ホーラー教官がなかばあきれ顔になった。
「お前のその妙な劣等感とひねた性格を作り上げたのは、間違いなく長年患ってきた病だな。初めて聞く病名にみんな驚いていたし、今でもどんな病気なのかわかってない奴も多い。かわいそうな目で見られるのが嫌だから黙ってたんだろうが、お前が倒れてみんな本当に心配したんだぞ。第二第三の気絶者が続けざまに出そうなくらい真っ青になって、それでも大声でケローネー先生を捜し回ったんだからな」
まあ、捜せと命じたのは俺だが、おかげで学院中に騒ぎが広まって、後で釈明に追われて大変だったとホーラー教官が肩をすくめる。
どんな様子だったか、見舞いにきたルテウスたちから話は聞いていた。炎の法専攻一回生たちの叫び声に、最初はまた魔物か何かが襲来してきたのかと勘違いするほどだったと。
ずっと隠し通せるとはさすがに考えていなかった。ただ、予想外な規模で知られてしまったことが恥ずかしかった。自分の存在すら認知していなかった他学年の生徒にとってはどうでもいいことなので、いずれ記憶から消えるとわかっていても。
だからこれは半分やつあたりだ。自分を死なせまいと必死になってくれた同期生たちに、素直に感謝することができない。自分の薬を捨てたドゥーダたちを寄ってたかって責めたと言われても、彼らに仕返しさせるほどの魅力が自分にあったとは思えない。
一時的に憐れまれただけだというほうが、よほど納得できる。
目を伏せて黙り込むレオンをじっと見つめていたホーラー教官が、「なあ、レオン」と呼びかけた。
「いつだって人より優れている者は注目される。後は尊敬と嫉妬のどちらを多く引き出すかだ。お前は自分から積極的に動いてみんなをまとめるようなことはしていないが、頼ってくる奴はなんだかんだで相手をしていただろう。中には都合よく利用するだけの人間もいると思うが、小さな恩も蓄積されれば大きな信頼になる。たとえそれが他人に向けられたものでも、見ている者は見ているんだ」
馴れあってはいなくても人望を集めることはできるし、しきっているから慕われているとも限らないと言われ、レオンは顔を上げた。
「僕は、生意気でも人を見下してもいないんでしょうか」
「ドゥーダがそういちゃもんをつけたそうだな。他の奴らの心の中までは見えないが、少なくともお前がどうなってもかまわないという奴は一人もいなかったぞ」
ここから先はお前しだいだとホーラー教官が微笑したとき、予鈴が鳴った。
「一限目は演習だな。このまま行くか」
立ち上がったホーラー教官に背中を押され、レオンは一緒に法塔へ向かった。
ヒドリ―教官の前では決して起こり得ないことだったと思う。礼儀正しく、品性を保ち、外面だけよくして皆と付き合っていたはずだ。
皮肉を吐くのもからかうのも特定の間柄だけで、同じ専攻生に見せるつもりはなかった自分の素の一面。
距離を詰めるきっかけが仮に同情だっとして、しかしきっとそれは長続きしないから、もう一歩近づくかどうかをここで決めなければならない。
ホーラー教官は選択を自分に委ねた。皆とは仲良くしたほうがいいと、模範的な教育指導をおこなうのではなく、今後どうしたいか、自分の『個』と責任を尊重してくれている。
「……あの警兵の人は、先生を先生らしくないって言ってたけど、先生はすごく先生だなって思います」
歩きながら語るレオンを、ホーラー教官が横目にとらえる。
「僕は、先生みたいな先生が好きです。代員じゃなく、この先もずっと先生でいてくれたらいいのに」
「ありがたい言葉だけどな、ヒドリー先生が聞いたらひっくり返るぞ」
ホーラー教官が苦笑する。
「先生はヒドリー先生の教え子ですよね?」
「ああ。自分で言うのも何だが、優秀だったぞ。優等生ではなかったがな」
「わかります。下等学院在学中に禁止されていることを平気で破っていたんじゃないですか?」
「……お前の両親と面識はないはずなんだが」
指摘がずばり当たったらしい。渋面するホーラー教官にレオンは笑った。
三日ぶりの同期生との対面に緊張しながら法塔に入ったレオンは、整列の号令をかけようとしていたチュリブとまず目があった。
ざわめきが瞬時にやむ。沈黙後、わっと皆が駆け寄ってきた。
「レオン、もう大丈夫なのか?」
「元気になってよかったあ」
もみくちゃにされるレオンを見て、ホーラー教官が両手を打ち鳴らした。
「お前ら、授業の挨拶が先だ。早く並べ」
ホーラー教官はいいかげんなようでいて、そういうところはきちんとしている。教官の指示に全員が素早く行動し、授業の始まりを告げる鐘の音とともに一礼した。
それからレオンは前に出て、迷惑をかけたことをあやまった。おとがめはなかったが、自分としては責任を取って代表を降りる意思があることを口にしたところで、反対意見があちこちから飛んできた。
「レオンがやめるなら、私も副代表を降りるべきだと思います」
チュリブの発言にレオンがとまどう間にも、継続を望む声がどんどん続く。
「あんなすごい技を見せられた後じゃ、誰も引き受けられないよ」
「それにさあ、学院祭で一回生が演舞するじゃん? 代表会議でルテウスが無茶なことを押し付けてきても、レオンなら防いでくれそうだし」
「あいつの言うことは高度すぎて、ついていけないんだよなー」
「できないと絶対にめちゃくちゃしごかれる」
「だからレオン、俺たちみんなのためにも代表でいてくれ」
懇願され、レオンは「あー、じゃあ、まあ……」とためらいつつ辞任を撤回した。
大きな拍手で歓迎される中、ちらりとホーラー教官を見ると、うなずく教官も口角を上げていた。
その後は通常どおり個人練習に入ったが、一回生のこの時期に威力の調整ができる生徒は全専攻あわせてもほとんどいないので、教えてほしいと囲まれた。
「おいおい、レオンは病み上がりなんだから、疲れさせるなよ。そもそも、調整を覚えるより火力を上げるほうが先だろうが」
お前たちにはまだ早いとホーラー教官が注意する。
「はーい。でもあんなふうに、ここってときにバシッて決められると格好いいよな」
「僕の場合は必要に迫られてって感じだけど、ルテウスとリリー、セピアも調整ならできるよ」
リリーなんてすでに五つの法術を使いこなしてるしと言うレオンに、皆が驚いた。
「レオンたちの冒険集団、すげえな」
「錚々たる顔ぶれだもんな」
「うん、だから遅れを取らないようにするのがけっこう大変なんだ」
そしてレオンは、発動の早さはもとからだが、威力は訓練で上がったことを話した。最初からすべてを楽にこなせるほど才能に恵まれていたわけではないと伝えたかったのに、なぜかよけいにほめそやされてしまった。
レオン自身が工夫したことをもとに威力を高める方法を教えると、うまくコツをつかんだ者から飛躍的にのびた。
「お前、俺より教えるのがうまいんじゃないか?」
成長の著しい生徒たちが競い合いながら法術を放っているのを眺めながら、ホーラー教官が感心する。
今日は男子がレオンに群がっていたので、チュリブをはじめ女子はこちらをちらちら見ながら練習していた。レオンもできれば話をしたいと思っていたせいか何度もチュリブと視線が交わるのだが、なかなか周りから人が減らない。やがて二人が互いを意識していることに気づいたのか、男子の一人がにやりとした。
「レオン、聞いた? お前が倒れた日、チュリブがドゥーダをひっぱたいたんだぜ」
「えっ?」とレオンは瞠目した。
「みんなドゥーダを非難してたけどさ、あんなに怒ったチュリブは初めて見たな」
レオンはすみのほうで目立たないように過ごしているドゥーダとジュワンを一瞥してから、もう一度チュリブを見やった。
またばちっと目が合う。いつもなら甘えた声で寄ってくるのに、チュリブはもの言いたげな容相をするだけで動こうとしない。
やはり傷つき、遠慮しているのだ。自分がチュリブのことを好きじゃないとうっかり口にしてしまったから。
ここは自分から行くべきだ。レオンは「ちょっとチュリブと話してくる」と告げて踏み出した。
今までレオンのほうから来ることはなかったせいか、女子がきゃあきゃあとはしゃぐ中、レオンはチュリブと向き合った。
「こないだはひどいことを言ってごめん。それから、フォルマに知らせてくれてありがとう。おかげで命拾いした」
「あ、うん……具合はどう?」
「まだ完治には時間がかかりそうだけど、これからよくなっていくと思う」
「チュリブの走りっぷり、すごかったのよ。私たちも頑張ったけどついていけなかったわ」
そばにいたアンナたちが会話に入ってくる。
「うん、フォルマに聞いた。僕も見たかったな、チュリブの全力疾走」
つい笑ってしまったレオンにからかわれたと感じたのか、「もう……」とチュリブが赤面して唇を尖らせる。
「それで、なんだけど。お詫びも兼ねてお礼がしたいんだ」
「えっ、そんな気にしなくていいよ……あ、でも」
両手を振って断りかけたチュリブが、少し言いにくそうに答えた。
「お昼を一緒に食べたいな。一回でいいから」
「……ずいぶん昼食にこだわるね」
「だって、ゆっくり話せるのって昼休憩くらいだから」
やっぱりだめかなとあきらめ顔のチュリブに、「いいよ」とレオンは承諾した。
「本当?」
「今日はいつもの仲間と約束しているから、明日でいい?」
ぱあっとチュリブが笑みを広げる。そのとき、アンナや他の男子が手を挙げた。
「私たちも一緒に食べたい」
「じゃあ、俺たちもっ」
「どうせならホーラー先生も呼ぶか」
まだ返事もしていないのにどこで食べるか検討を始めた彼らに、チュリブが目を伏せるのを見て、レオンは口をはさんだ。
「ごめん、明日はチュリブと二人で食べるから、みんなとはまた別の日にしてもらっていいかな」
盛り上がっていた同期生たちがぴたりと黙る。チュリブも驚いた表情をしていた。
「あー、なんだ、そういうことか」
「レオン、チュリブのことは好きじゃないって言ってたけど、やっぱり好きなんじゃないか」
「くそう、レオンが相手じゃ勝ち目がないな」
先にひやかしだした男子につられ、女子もぎこちないながら笑って退く。まもなく授業の終わりを知らせる鐘の音が響いたので、レオンは全員を整列させた。
「あの、レオン」
法塔から出ていく途中で、チュリブがそっとレオンの法衣をつかんだ。
「本当にいいの?」
チュリブはまだ信じられないのか、不安げにしている。
「みんなで食べるほうがよかった?」
「ううん……二人がいい」
ぼそりとつぶやくチュリブは耳まで赤く色づいている。その場で食事の場所を決めたものの、自分の鼓動が乱れるのをレオンは感じた。
また発作が起きようとしているのだろうか。でもキュグニー教官がくれた錠剤があるから大丈夫だと考え直し、チュリブと別れる。
どこかこそばゆいような、心がはずむような、不思議な気分だった。