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「ほら、入れよ」
がっちりと腕を掴まれ、ずるずると引きずられるように連れて来られたのは古びた雑居ビルだった。
コンクリートの壁には蔓が這っていて、階段はトンネルのように薄暗かった。たどり着いた先のドアも錆びついているのかギィと音を立て、口を開けた。
室内は電気が点いておらず、窓から入る街明かりでぼんやりとしか見えるのみ。不安ばかりが増えていく。
「あー。えっと、親に知らない人の家に入っちゃダメって言われてて……」
足を止める。無駄な抵抗とわかっていても、やらずにはいられない。
そんな俺の行動を見た男は軽く鼻を鳴らした。
「そうかそうか。それなら仕方がないな……とでも言うと思ってんのか?」
「も、もしかしたら人違い、とか。あったり、なかったり?」
直視できない。
冗談を軽く流すような前半から、NOと言わせない後半。落差が激し過ぎる。
加えて腹の底から低く唸るような声を出した男を直視することができず、空白を探しウロウロと視線を彷徨わせた。
最終的に俺の目線は男の胸元に落ちたが、そこから上げることはできない。
「あぁ? お前も薄々わかってんだろ。逆らうとロクなことないって、なぁ?」
男の苛立ちを含んだ声に、呼吸が一瞬、止まる。
「ごちゃごちゃとつまらん言い訳する前にさっさと入れ」
背中を押され、ギリギリ踏みとどまっていた敷居を超える。
バランスを崩しながらも放り込まれた部屋は想像以上に暗い。
『灯りをつけるぞ』
突然、女の人の声が響いた。
予想もしていない人物の声に驚くよりも先に違和感が生まれていた。
あの男以外、人がいただろうか?
そして、まるでイヤホンから聞こえてくるように耳元から頭の中へ直接響く、誰かの声。
その疑問を口にする前に、薄暗い部屋にパッと照明がつき、室内を明るく照らす。
急な明暗の変化に目を細めていると、だんだんと目が慣れて、部屋全体を見ることができた。
「……ここは?」
窓際に木製の重厚な机と椅子があった。すぐ隣のスペースには二人掛けのソファがローテーブルを挟むように置かれていた。壁際には本が何冊か並べてある棚のようなものがある。それだけ。
誰かが所有していると思われるの物があるのに、なぜか生活感がない。モデルルームのような人の気配を感じさせる空間ではなく、人がいるはずなのに、人の気配を感じさせない。相反する違和感に囲まれる。
この男は一体、何モノなんだ。
『座ったら、どうだ?』
再び、頭の中に直接響いてきた声。
幻聴ではない。驚きながらもう一度、周りを見渡すが人影は男のみ。
猫がいつの間にか目の前に座っていてクニャンと甲高く鳴いた。
すこしだけ気持ちがほぐれる。
混乱の渦にいる俺を支えているのは猫、君だけだ。
何がなんだかわからない状況。女の人の声はすれども姿が見えない。
切実過ぎて、思わず手を伸ばした瞬間だった。
「いつまでも猫をかぶるな」
後ろから苛立った低い声が俺の手にストップをかける。
「はい?」
自分のことは棚に上げるけど……何を言っているんだ、この男は?
言いたいことを喉の奥に押し込み、言葉にできない代わりにうろんな気持ちで視線を投げるが合うことはない。
不可解な言動をした男の目線の先は俺ではなかった。
ますます男の言動が理解不能になった。どう反応すればいいのか考えていると、予想外の返しが後ろから飛んできた。
『なんだ。現代のダジャレと言うものか?
それには少々、ひねりがないのではないか?
そもそも妾は猫の姿をしているのではない。この街での移動手段として便利だからであってだな…』
「比喩だ比喩。なんで、お前はそう話が長いんだっ」
『ふむ。お主はもう少し気を長く持った方がいいぞ。短気は損気だ。わかっているだろう?
こやつの放つ霊気は美味いぞ』
姿の見えない声は最後に笑った。
男は苛立ちを隠さずに舌打ちをする。
「・・・」
男は誰と会話をしているんだ?
瞬きを何度しても視界には男以外、人影ひとつない。
ただし、猫以外。
そう、俺の勘違いでなければ、この響くような声の元は、目の前にいる、猫。なのか?
自分でも馬鹿げている。ありえない。と頭では思いつつも、現在の状況がそれを否定する。
よくよく見れば、男の視線も猫に向いていて、猫も男の声に応えるようにしっぽを揺らす。
そして、人間みたいに目を細め……笑っている?
「まぁ、そんなこっただろうと思ってたさ。じゃなかったら、お前が大人しく触らせてるわけねぇからな」
『妾の扱いも良かったぞ』
「へーへー。で」
会話を続けていた男が吐き出すように言葉を切った。
そして、脳内処理が追いつかず固まっている俺を見る。
「早く、座れ」
区切られた言葉は短いが、有無を言わせない圧迫感。
俺は無言でコクコクと何度も頷き、急いでソファーに座った。
胸を打つ鼓動が早すぎて、心臓が軋しみ痛みを訴えてくる。
「あ、のですね。そ、その。俺になんの用でしょうか?」
「あぁ?」
男と正面で向き合った自分の口から出た声は、か細く頼りなかった。
今まで見たこともない薄紫色の瞳は冷え切っていて、その上、ドスのきいた声に俺の体は自然と震えた。
「なんでも、ない、です」
これ、あれだよな。絶対、この世のものじゃない。
そう俺の本能が警笛を鳴らしている。
つい。本当に、つい。モフモフの誘惑に負けてしまった。
後悔の波とともに、ふと思い出したのは、ばあちゃんの言葉だった。
≪壱、お前はこの世の理りから外れたモノたちを惹きつける不思議な縁を持っている≫
≪ことわり? えにし? それ、なに??≫
幼い頃、縁側でばあちゃんと並んでスイカを食べていた遠い記憶が湧き上がる。
≪今の壱には難しいことかも知れないが、もしーー≫
サッと血の気が引いたのがわかった。
筋肉が跳ねて、気づけば俺は立ち上がっていた。
「いや! その、きょ、今日、みた、聞いたことは絶対に口外しませんから!」
この時の俺はどうにかしていたに違いない。
でも、仕方がない。
俺の頭の中の思考回路はパンクしていたんだから。
疲れ切った脳に、混乱と得体の知れない恐怖と状況。
次々とやってきた衝撃を耐え抜けるほど、現代っ子の俺のメンタルは出来ていない。
ばあちゃんが言っていたこと、すべてを思い出す前に口走っていた。
「で、できることなら、なな、なんでもしますからっ! その、だから、い、命だけは勘弁してください!!」
動きの悪い唇を一生懸命に動かして、無我夢中に叫び、必死に頭を下げた。
気づけば部屋はしんと静まりかえっていた。
恐る恐る顔を上げれば、男は眉を寄せ険しい表情をしている。
あぁ、もうダメだ。消される。俺は消されてしまうんだ。
「お前。”なんでもする”って言ったな?」
男の声と同時にひやりと冷たい汗が背中を走った。
ほどなく雨が窓を叩きはじめた音。
その音が激しくなるにつれてぼんやりとしていた記憶が段々とハッキリと姿を現す。
慌てて自分の口を塞いだけどもう遅い。
一度、口から離れた言葉は戻ってはこない。
≪壱、この世の理りでないモノと約束なんぞ、してはいけないよ≫
その時になって、俺はやっと思い出したのだ。ばあちゃんの言葉を。