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「はっ」
水中から抜け出したように全身が重い。
知らない天井が見えるけど、酸欠みたいに頭がクラクラする。
「気づいたか? 若いから回復も早いの」
焦点がブレながらも声のする方へ目線を動かすと、夜空のようなチカチカと光る紋様がある深い藍色の着物が見えた。そのまま目線を上げると、つり目の美女が微笑んでいる。
そこで一気に覚醒する。
胸下まで伸びる黄金色の髪は美女が動くたびに水面のようにキラキラと輝く。こんな美女、見たことない。
「えっ…と?」
なんとも間抜けだが、寝転んだまま美女をもう一度見る。
見たことないはずなのに、何だか知っているような不思議な感覚に襲われる。
「あぁ、この姿だと分からぬか」
俺が戸惑っていることに気づいた美女はひと頷きすると、赤い唇は弧を描いた。
次の瞬間には空間がぐにゃりとねじ曲がったかと思うと、そこには着物美女ではなく、数日慣れ親しんだ子狐姿の珠美さんがいた。
「え、えッ、えぇ!? た、たま、たま!?」
驚いて飛び起きた。頭はまだグラグラと揺れている。
『お主が気を喰われすぎて、昏倒しておったからに久々に人型をとった。この姿では面倒が見きれぬからの』
「た、珠美さん⁉︎」
『ふふっ、壱は純真で、驚かせがいがあるの』
俺は床に手をつき座り込んだままだ、珠美さんを眺める。
珠美さんは尻尾をゆらゆらと揺らし目を細めた。
「あ、ありがとうございます?」
『思ったよりも早い目覚めで良い。手間が省けた。この部屋から出るぞ』
珠美さんに言われて見渡す。田中さんの部屋だったことを段々思い出していく。
ゆっくり顔を動かせば室内は台風にでもあったように物が散乱し、ぐちゃぐちゃに荒れていた。風を感じて振り返ると、ベランダのガラス戸が爆発でも起きたかのように大きな穴が開いていた。
「な、何が起きたんだ!?」
『気にするでない、玖郎の考えが甘かっただけのこと』
「そういえば、玖郎の声もしたような気がしたけど、やっぱり玖郎だったのか」
早く出るぞと珠美さんに言われて、申し訳ない気持ちがありつつも、外に出る。
「服はビチャビチャだし、散々過ぎる……」
気分転換で空を見上げると違和感があった。
どこか霞んで見える。
目元をゴシゴシと擦ってみるが、やっぱり霞みがかったまま。
『どうした? 目がおかしいのか』
「なんか空が変に霞んで見えるんだよ」
『あぁ、それは、あやつら所為じゃ。派手に暴れるからに、人間に気付かれぬよう簡易の隠り世を作った』
そう何事もないようにつぶやく珠美さんの目線の先にいたのは、マンションの屋上で揉み合う二つの影。
「あれって」
珠美さんの言葉には気になるところがたくさんあったけど、なにより目の前のことを知ることが先だ。
『玖郎と、モノノ怪だ』
「玖郎と田中さん⁉︎」
『個体はそうだろうが……モノノ怪にほとんど喰われておるからな、人であるのか分からん』
珠美さんはつまらなさそうにあくびをした。
「ちょ、それ、どう言うこと」
『何を慌てている。そのままの意味だ』
嫌な汗が流れる。
慌てて、二人がいる方を見ると、片方が釣り上げられている。
「た、田中さんっ」
釣り上げられているのは田村さんで、足には力が入っていないようにぶらりと垂れている。
「珠美さん! 俺をあそこに連れてってください」
『そう言われても、面倒だのう』
「珠美さんっ」
『だが、お主を連れていったら玖郎はどんな顔をするか……見るのも一興である』
珠美さんが一声鳴いた。
瞬間、ジェットコースターのような豪風と浮遊感。
「はぁあ!?」
気がつけば、足元にはジオラマみたいに小さくなった街並みが広がっている。
『愉快、愉快』
「すごい不安定なんですけどぉお」
近くで楽しげに笑う珠美さんの声は聞こえるけれど、そんな余裕はない。
凧のように風に煽られ、視界もグラグラと揺れる。
『これぐらいで音をあげていては玖郎とはやっていけぬぞ』
「えっなんてっ!?」
風の波に気をとられてしまい、珠美さんの言葉を聞き逃してしまった。
『おや、先客がいるようだの、タイミングが悪いの』
「先客?」
俺の目的地だった場所に、1つの影が増えていた。
それはボロボロになった田中さんを庇うように立つ奥村さんで、玖郎に向かって何かを叫んでいる。
「お願いっ! 彼の魂を狩らないでっ!!」
「座敷童子、どけ」
「いやっ」
「このくそアマ」
空に浮かぶ俺のところまで言い争う声が届く。
意識を失っているのか、田村さんはピクリとも動かない。
奥村さんは離れている俺ですら震える殺気を放つ玖郎に、怯えながらも立ち向かっている。
「あな、あなたは記憶を消せるのよね? だったら、彼から記憶を消せば、彼は元どおりになるはずでしょ」
「一介の死神に、そんなことができるはずないだろう」
「そんなっ! だって……」
「どこから聞いたか知らないが、記憶操作には上の許可と時間が必要だ。そもそもコイツは喰われ過ぎている、手遅れだ」
「手遅れ……」
玖郎の言葉に呆然とする奥村さん。
「お前は早くから気付いていたはずだ、自分がもたらす”福”により、こいつの心に綻びが生まれ、モノノ怪に付け込まれたことを」
一歩一歩、ゆっくりとでも、着実に距離を詰められていく。
愛らしい丸い瞳から、静かに涙がこぼれ落ちた。
「それ、は……」
「お前自身が生み出した業だ。その業を背負え」
「だぁぁーかーらー! 言い方を考えろよぉぉぉ」
コントロールできないと思っていた空中浮遊だったけど、この時は俺の意思を反映してくれていたと思う。
俺は勢いのまま玖郎に体当たりしていた。
「ぐっ!」
「いだぁっ!!」
重なり合うようにして地面に転がった。
玖郎にぶつかったおかげで地面に衝突することはなかったが、身体の所々が痛い。
「このっバカかがっ」
あまりの衝撃に頭がクラクラするし、玖郎の怒声が頭にガンガンと響く。
「うぅ……すみません」
なんとか起きがるが、立つこともままならない。
チッと頭の上で舌打ちが聞こえた。
「珠美っ! 面倒見とけって言っただろう」
『言われた通り、面倒を見ているぞ』
「くっ。この女狐が」
『なにを今更のことを』
「その口、二度と開けられないようにしてやろうか」
唸るような声に対して、飄々と受け答えする声。
頭上で交わされるこのアンバランスな口撃の打ち合いには慣れてきた。
心配だった奥村さんの様子をうかがうと、ポカンと目を見開き、涙は止まっている。
「よかった」
「はぁ? よかったもクソもねぇよ。なにしてんだよ、素人は黙って引っ込んでろ!」
腕を掴まれ、玖郎の奥へと引かれ倒れ込みそうになる。
「い」
後ろに体重をかけ、足先に力を入れて拒む。
「いやだ! こうなったのは俺の責任でもある!」
しっかりと玖郎の顔を、目を見て口を開く。
今まで鋭いナイフのような玖郎の瞳にわずかな揺らぎが生まれた。
やっぱり。思った通りだ。
「……違う、あの女のせいだ」
「そうじゃないだろ。俺が異変を感じてすぐに逃げ出せばこんな大騒ぎにならなかったはずだ」
「そんなことはない、アイツはー……」
「なんで、急に否定するんだ。お前の責任だって言えばいいじゃないか」
玖郎は口を引き結び、目線を反らした。
「俺のせいで誰かが不幸になるのは嫌だ」
数時間前に玖郎が言った言葉を考えてみた。
あの時は言えなかったけど、今なら言える。
「気付いたからには通り過ぎることはできない。もし通り過ぎても、俺は全力で走って戻って不幸を回避する方法を一生懸命に考える」
「おまっ、バカか」
「うん、バカで間抜けな男だ。だから玖郎。こんな出来の悪いバイト雇ったんだから尻拭いしなくちゃな?」
自然と笑いがこぼれた。
玖郎は毒気が抜かれたような顔をしていた。面白くて、ますます笑ってしまう。
いつも眉を釣り上げ、冷淡な顔しているより、ずっと温かみがあって人間らしいと思った。
「ちっ。そう簡単に言うな。あれこれ辻褄を合わせをしなくてはいけないし、範囲が広すぎるし、他のアヤカシが絡んでいるならば、上の報告だって必要だ」
「できないのか?」
「いち死神に出来るわけないだろ」
「玖郎」
俺たちの様子をじっと固唾を呑んでいた奥村さんの手は、震えている。
それでも田中さんを抱きしめることをやめたりなんかしない。
「だが、俺はその辺の死神とは違う」
いつもの鋭い声。だけど、冷たくなんかない。熱がこもっている。
「格が違ぇんだよ、まとめてぶっ潰す!」
玖郎はそう言うと、パンを音を立て、両手を合わせた。
聞き慣れない言葉をつぶやき、手を離した間に強い光が溢れ出す。玖郎を中心に風が舞い上がる。
「細かい操作では取り除くことはできない。だが、完全に消し去ることで無に帰す」
光を放つ手を田中さんへ向ける。
光線のような強い光だけど、傷つけるようなものじゃない。陽だまりのような温もりのある光。
田中さんは光に包まれて、穏やかな表情に変わる。
「モノノ怪の気配が、消えた……よかった、よかったよ」
奥村さんは田中さんの表情を見て、安心したらしく、顔をくしゃくしゃにしながら涙を流していた。
その姿はやっぱり。
「奥村さん、やっぱり、田村さんのこと……」
口にすると、それは言ってはいけなことかもしれないと途中でやめた。
けれど、奥村さんは分かったらしく、困ったように笑った。
「ううん。ヒトとして、好きだけど。キミが考えているような、心じゃないと思う」
瞳を濡らしたまま田村さんの頬を愛しげに撫でた。
二人を包む空気は穏やかなのに、すこし切なくて、胸が苦しくなった。
「座敷童子、お前も対象だ」
玖郎は本当に空気を読まないし、言い方が悪い。
だけど、なるべく傷つく人を、アヤカシを出したくないじゃないのか、そんな考えが頭をふとよぎった。「そんなことあるか、聞かれたお気楽なヤツ」なんて罵られそうだけど……なんとなくそう思った。
「えぇ、覚悟はできているわ」
「お前が消失することは、現し世と隠り世の両方にとって大きな損失になる。そのため、特定期間の記憶消去と隠り世での謹慎処分を下す」
「はい」
深々と頭を下げた奥村さん。
「わがままをきいてくれて、ありがとうございました」
顔を上げた奥村さんの表情に曇りはない。
そして、俺と目が合わせると花のように笑った。
「そして、臨時のバイト君もね。ありがとう」
いつの間に太陽が空を色付けはじめていた。
奥村さんは、座敷童子、少女の姿となり、空に溶けるように消えた。




