姫川のヒスイ
姫川のヒスイについて
新潟県糸魚川市姫川近辺で産出されるヒスイは、5億2000万年前に生成された。長い時間を経て、原産地周辺ではヒスイを利用する文化が芽生えた。その発祥は、約7,000年前の縄文時代前期までさかもぼることができる。これは世界的にみても最古であり、同じくヒスイを利用したことで知られるメソアメリカのオルメカ文化(約3,000年前)とマヤ文明(約2,000年前)よりはるかに古い起源をもつ。
ヒスイ文化は原産地である姫川を中心とする北陸地方で著しい発展を見せた。ヒスイ製品の完成品や原石類は縄文時代、弥生時代から古墳時代を通じて近隣地域だけではなく、西は九州・沖縄、北は青森や北海道、さらには海を越えた朝鮮半島にまで広く流通していた。邪馬台国が魏に朝貢した時にも、ヒスイが献上されていたことが魏史倭人伝の中で確認されている。
糸魚川以外のヒスイ産地はいずれも1970年以降に発見されたもので、質や美しさでは糸魚川産のものにはるかに及ばないと評価される。全国の遺跡から発見されているヒスイ製品は、「X線蛍光法」による科学的な成分分析によって、全てここ糸魚川流域の材料である事が判明している。即ち、縄文時代のヒスイは全て糸魚川で産出し加工され、一元的に日本全国に流通したと断定できるのである。
長者ヶ原遺跡
長者ヶ原遺跡は、西にはヒスイが産出する小滝川を支流に持つ姫川が流れ、姫川の下流右岸に形成された河岸段丘の最上面に位置する。面積は約13.6haで東京ドーム3つ分ほどの広さで、今から5,000年から3,500年前頃の縄文時代中期頃に集落が営まれていた。これまで13回におよぶ発掘調査が行われているが、遺跡全体の約3%、集落部分の約10%の調査しか終わっていない。これまでの調査で出土した遺物は膨大な量の土器・石器はもちろん、竪穴建物が24棟、掘立柱建物が3棟、そのほか数多くの土坑や柱穴が見つかった。集落は南北約180m、東西約100mで集落の中央部分に広場、その周囲に墓域や掘立柱建物さらに食糧の貯蔵穴、竪穴建物があり、さらに外側に廃棄域のある環状集落という形態が確認された。
見つかった土器の特徴をみていくと、まず土器は富山県や石川県で見つかる土器や新潟県の中越地方に多くみられる火焔型土器、長野県の遺跡で見つかる土器なども見つかることから、文化の合流点であったと考えることが出来る。
石器では糸魚川の河川や海岸でよくみることのできる蛇紋岩や透閃石岩を用いた磨製石斧が特徴的で、縄文時代中期には長者ヶ原遺跡で大量に生産がされ、日本各地に送られていた。
寺地遺跡
寺地遺跡は、長者ヶ原遺跡と同様に玉作りと石斧の生産を行っていた。1号住居跡は、日本国内で初めて完掘されたヒスイ工房跡として知られる。ヒスイの穿孔では、穴の壁面にみられる擦痕と穿孔途上の未成品にみられる中央の突起から、穿孔の際に中空の錐(ヤダケのような細い竹など)を回転させたことが推定される。竹ひごを使ってきりもみの要領で穴あけ実験をしたところ、3時間かかって1ミリメートルの穴を穿つことができたという。
古代では出雲の大国主命がコシの奴奈川姫と婚姻し、日本海側に大きな勢力圏ができあがった。出雲でも玉造という地名があるように、この婚姻でヒスイの加工技術が出雲にも伝わったと思われる。