縄文土器と三内丸山遺跡
縄文土器
東北地方にも、アイヌ人を初めとして古くから人が住んでいた。青森県外ヶ浜町の大平山元Ⅰ遺跡から出土した小さな無文土器の破片には、炭化物が付着していた。それを炭素年代測定法によって調査すると、16,500年前の物であるという結果が出た。その結果により、かつて土器のルーツと言われたメソポタミア文明の壷よりも古いことがわかった。つまり現在確認されている土器の中では、世界最古の土器ということになった。この土器の存在は、狩猟採集の時代に煮炊き調理がおこなわれていた可能性を示している。
英国のヨーク大学や新潟県立歴史博物館、福井県立若狭歴史民俗資料館などの研究チームは、日本国内から出土した縄文時代草創期の土器の破片計101個を集め、表面の付着物を分析した。その結果、ほとんどから炭化した残留物が見つかり、福井県若狭町の鳥浜遺跡や北海道帯広市の大正3遺跡の土器片からは、魚の油成分由来とみられる脂肪酸が検出された。検出物には、海産系と淡水産系の成分がみられることから、内陸部にある遺跡の住民たちが、サケのように海から川に上がってきた魚を調理したり、儀礼用として使った可能性もあるという。
三内丸山遺跡
大平山元Ⅰ遺跡から数キロメートル離れた場所では、縄文時代の最大級の集落跡である三内丸山遺跡 (青森県青森市)が発見された。炭素年代測定法による調査では、この集落が使用された年代は、約5,500~4,000年前までの間であることがわかった。この集落に最初に住んだのは、アイヌ人であったものと考えられる。ここの「三内」は古い地名で、昔は「寒苗」と書かれたこともあり、発音に対して当て字されたことがわかる。この遺跡は、青森湾に注ぐ沖館川の右岸台地上にあり、アイヌ語のサン・ナイ(=前に開けた沢)が地名の語源であったと考えられている。
この遺跡の発見は、縄文時代のイメージを大きく変えた。かつて縄文時代は、不定住狩猟の時代と考えられていたが、そこに住んだ人たちは世代交代を繰り返しながら、豊かな定住生活を営んでいたことが明らかになった。
この集落には、いろいろな施設が場所ごとに計画的につくられていた。居住区の竪穴住居のほかには、中央の広場に大型竪穴住居がつくられていた。集落の中心から東方向には幅12~15メートルの大道が伸び、道の両側に420メートルあまりにわたって大人の墓列がもうけられていた。墓の上には盛土があり、環状配石で飾られた墓もところどころにあった。大人の墓とは別に、子供は中央官場の北側に葬られた。このような計画的な配置は、住民たちの合意によって決められたものと考えられている。
また、この遺跡にはクリ林があったことがわかり、クリの果樹栽培(農薬)が行われたものと考えられている。クリ実を食料とするだけでなく、木材を建築用に使うこともできた。
それでこの遺跡には、クリの木の六本柱の大型掘立柱建物が建てられていた。その柱間は芯から芯までがすべて42メートルと一定で、柱穴も直径約2.2メートルと巨大であった。この建物の使用目的はまだ明らかになっていないが、柱は地面に垂直ではなく、それぞれが内側にやや傾いて建てられていた。これはそれぞれの柱が独立して建っていたのではなく、一つの高い建築物を構成していたことを示している。
高い建築物は、太陽を拝むための神殿であった可能性が高い。高い神殿の上に姫巫女が上り、祭祀の指揮を取って朝日を拝んだのだろう。それは当時の宗教施設であったと考えられる。
広範囲に渡る交易
またこの遺跡からは、遠方の土地で産出するヒスイや黒曜石、コハクなどが出土している。それらの産出地は、北海道から東北、北陸、中部、関東地方にまで及ぶ。これはこの遺跡に住んだ人々の交流・交易範囲が、かなり広範囲に及んだことを示している。
鬼界カルデラ大噴火などの影響により、縄文時代の中頃まで西日本側はあまり人が住んでおらず、人口は東から北日本に集中していたと思われる。そのため北海道から東北・北陸地方が縄文時代の中期において文化の中心であった。晩期になるとだんだんと西に人が再び住むようになり、縄文時代の終わりごろには大陸より渡来人が日本列島に移住しはじめ、弥生時代になると圧倒的に物事の中心が西日本に移っていったのだろう。
遺跡の衰退
川幡穂高氏らの研究によると、青森県陸奥湾の堆積物の花粉分布から気温の変遷を調査した結果、4,200年前に急激な寒冷化がおこり、クリなど陸上の食料や、陸上動物が減少したことが明らかになった。そしてこの気候の急激な変化が三内丸山遺跡の衰退や、日本全国の縄文人の人口減少の原因になった可能性が高いという。