しりとりの話をしようじゃないか
「そろそろ始めようか、春川君。」
「はい、准教授。」
真面目な顔で向かい合う一組の男女。男の方は高野慎一、女の方は春川麗といい、ある大学の国語研究室の准教授とその助手だ。2人はそれぞれA4サイズのコピー用紙とシャープペンシルを持ち、真剣な面持ちを崩さない。
「準備はできているね。では、いつも通りこちらから。しりとり。」
「リンゴ。」
始まったのはしりとり。大学の研究室という空間からはおよそ想像もつかないような言葉遊びだが、2人の顔は真剣そのもの。自分が言った言葉と相手が言った言葉を素早く書き留め、次の言葉を待つ。
「ゴール。」
慎一がこの言葉を放った瞬間、春川の瞳がキラリと光った。そして、彼女は言葉を紡ぐ。
「ルール。」
この返しに、慎一はニヤリと笑った。
「『る返し』か。」
「ええ。勿論です。それより准教授、早く返してください。」
無駄話をする気はないとばかりにせっつく春川。慎一は余裕の笑みを崩さず、淡々と言葉を放った。
「いいだろう。ルイ・リエル。」
ここからは『る返し』の応酬となる。
「ルイ・ルロワール。」
「ルイ・パスツール。」
「ルミノール。」
「ルノワール。」
「ルノアール。」
「ルシフェル。」
「ルートビール。」
「ルメリ・ヒサル。」
「ルナーボール。」
「ルーズボール。」
「……ルイス・キャロル。」
「ルイス・オマール。」
「……ルールー。」
「ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール。」
「……えっと、ルーキーパステル。」
「ルビー・スパニエル。」
『る』で始まり『る』で終わる語が次々と飛び出すが、段々と春川は詰まり始めた。一方、慎一は余裕を崩さない。
「……ルエル。」
「ルル。」
「……ルチャブル。」
「ルアーモジュール。」
「……るるる。」
「るるるるる。」
「……えー、ルーブル。」
「ルーラル。」
「…………ルジャンドル。」
「ルネ・クレール。」
「…………ルポール。」
「ルルール。」
「ルシール。」
「ルエール。」
「ルー。お願い、これでどうか……」
もう思い付かないのか、苦しげな表情で言葉を絞り出した春川に対し、慎一は無慈悲にとどめを刺した。
「簡単な言葉で詰まされるわけにはいかないね。瑠璃も玻璃も照らせば光る。」
「う、うう……る、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。」
『る返し』の言葉が思い付かなくなった春川は、負けることを選んだ。しかし、慎一は諦めた春川に落胆したような顔を向けると、溜息を吐きつつ言葉を紡ぐ。
「ンジャメナ。」
「えっ、准教授? まだ続けるおつもりですか?」
負けを認めたにもかかわらず、続けようとする慎一に、春川は驚きの声をあげる。そんな春川に対し、慎一は意味が分からない、といったように首を傾げた。
「勝ち負けはまだ決まっていないよ、春川君。」
「しりとりは『ん』で終わる言葉を言ったら負けなんですよ! だから私の負けです!」
思わず激昂する春川。すると、慎一は徐に立ち上がり、両手で机をバンッと叩いた。
「素直すぎるな、春川君。そもそも『ん』で終わったら負け、春川君はこれをおかしいとは思わないのかね?」
「え、だってそれがルールでしょう……」
「うむ、たしかにそれはそうだが、『ん』で終わったら負けというのは、『ん』で始まる言葉が無かった時代の話だという解釈もできるだろう。チャドの首都はンジャメナ、これは揺るがぬ事実だ。『ん』で始まる言葉がある以上、『ん』で終わったから負けです、などという逃げは許さないよ、春川君。」
春川に詰め寄る慎一。その顔の迫力には鬼気迫るものがある。
「し、しかし、『ん』で終わったら負け、というのはしりとりというもののルールです。こうして毎日しりとりを繰り返し研究をしている以上、その根幹に関わるルールに違反するなど……」
春川は何とか慎一を止め、自分が負けたという事実を認めさせようとする。が、一度火がついた彼を止められるほど彼女の弁舌は巧みではない。何より……
「どうやら春川君は私に論で勝負を挑みたいようだ。それが無謀という他ないということは君が一番よく理解しているはずだが……まあ、お望みならば受けて立つよ。私に論の腕で勝てると思うなら、今ここで証明してみせてくれたまえ。」
そう、彼は国語研究室の准教授。語彙量、知識量、そして弁舌。それ以外にも、言葉に関すること全般において、何をとっても春川が勝てる相手ではないのだ。
「……ッ、今回は引き下がるわけにはいきません。ルール違反は許しませんよ!」
「よくそこまで熱くなれるな。しかも自分の負けを認めさせる為だというのに。」
「ルールを守ってこそゲームはゲームたりうる、それが真理です。何があってもこれは認めさせますよ。准教授に反論はさせません。」
「ンジャメナだけじゃない。ンドーラ、ンジャジジャ島、ンゴロンゴロ保全地域、ンカイの森……『ん』で始まる言葉は山ほどある。今まで私に舌戦で一度も勝ったことがない春川君が、事実がはっきりしているこの状況で私の口を封じられるのかね?」
「ルールがなければゲームは成り立たず、成り立たないゲームの研究は無意味です。准教授と私の今までの努力が水の泡になってしまいますよ。」
「よくもまあ、そこまで根拠のない事を堂々と言えるものだ。確かにルール違反ばかりではゲームは成り立たないが、こと今回に関しては問題ないと言えるんじゃないか? 『ん』で終わったら負け、というルールを撤廃したところで然程ゲーム性が崩壊している訳でもなければ、『ん』で始まる言葉が無いわけでもない。寧ろ『ん』で終わっても負けない方が戦略性も広がり、楽しみ方も増えるだろう。ゲーム性を崩壊させていないのだから、当然しりとりというゲームは成り立つ。それならば私と春川君のこれまでの努力が水泡に帰すこともない。無問題、ノープロブレムだ。さて、私は何かおかしなことを言っているかい?」
春川は慎一の怒涛の口撃に対し、何も言い返すことができない。何せ、ゲームが成り立たないから研究が意味を失うだろう、という論すらもこの数秒で覆されてしまったのだから。
「春川君、何もそこまで気を落とすことはないだろう。私に舌戦で勝とうなどということこそが、そもそも無謀なのだから。」
「まあ、それはそうですが、でもやっぱり……」
「理論は正当だっただろう? 今日はいやにしつこいな。何かあったのかい?」
慎一は心配そうに春川を覗きこむ。その顔は先程までの春川を責める顔でも、またしりとり中の真剣な顔でもない。ただ自分の教え子を心配する師の顔だった。
「……実は、2日前に同級生や友人としりとりをしたのですが、そこで少し……」
「支障をきたすようなことが?」
「はい。私から始めようと思って『しりとり』というと、友人たちは『リアス式海岸』や『リンリン』や『リットン調査団』などと言うので、圧勝してしまったんです。私は純粋にみんなとしりとりをして楽しみたい、それだけなのに……」
「人間とはそういうものさ。自分が興味のない事には無関心を貫き、そのことで人を傷付けても平気な顔をしている。まあ、それはさておき、春川君は『ん』による相手の負けを認めて諦めているのに、私が春川君の負けを認めないから嫌だと。それで今日はしつこいんだな。」
「ぶっちゃければそうなりますね。私は負けを認めているのに准教授は、って。」
「程度が低い妬みとしか思えないな。そもそも、友人としりとりできないからといって、そこまで悩む必要があるのかい? 君がしりとりをしたいなら、私はいくらでも付き合うが。何せしりとり研究者だからね。」
「それは重々承知していますが、准教授とやると絶対勝てないじゃないですか……」
「勝ち負けが決定している訳ではないよ。何が起きるか分からないのがしりとりさ。それに、春川君がさっさと負けを選ばなければ君が勝てるかもしれないだろう?」
慎一のこの言葉に春川は溜息を吐いた。
「ここまで全部私の言葉にしりとりで続く形で発言してる准教授が言っても説得力皆無です。准教授のような異常しりとり能力者に勝てる人がいたら教えて欲しいですよ。」
「容赦がないね、春川君……まあ、今日に限った話で言えば『ん』で終わっても負けにならないから春川君が負ける確率もかなり減るよ。自分で負けを選ぶには降参しかないのだからね。」
慎一はいたずらっぽい顔でニヤニヤしている。春川はその顔を見て腹を括った。
「私はそう簡単に降参しません。『ん』で終わっても負けにならないのなら、徹底的にいかせて頂きますよ。」
「よろしい。では続きを頼もうか。」
「分かりました。ナイロン。」
慎一の『ンジャメナ』に続く形で単語をチョイスし、『ん』で終わらせる春川。慎一は彼女のその判断に対して笑みを深めた。
「『ん』攻めだね。受けてたとう。ンジャジジャ島。」
「ウコン。」
「ん廻し。」
「将軍。」
「ンドーラ。」
「蘭。」
「ンゴロンゴロ噴火口。」
「うどん。」
「ンカイの森。」
「リアス式海岸。」
「ンゴロンゴロ自然保護区。」
「苦心惨憺。」
「ンドゥール。」
ひたすらに『ん』攻めを繰り返す春川と顔色一つ変えずに『ん』で始まる言葉を連発する慎一。時計の音が響く研究室内で、言葉の応酬が続くのだった。
……尚、語彙量の差が『ん』攻めをし続けるくらいで埋まる訳もなく、数分後に春川が降参して負けが決定したのは言うまでもない。
春川の台詞と慎一の台詞がしりとりになっていることに、春川が語る以前にお気付きになっていた方はいらっしゃるでしょうか?
今作はそこに力を込めて書いてみました。お楽しみいただけましたら幸いです。