なぜ承認されたいのか
なぜ承認されたいのか。
会社の上司に認められたい、友達に格好いいと認められたい、恋人に唯一の存在だと認められたいなどなど・・・
人は誰かに認められたいと思っている。しかし、なぜ人に認められたいと思うのだろうか。
誰かに認められたいという思いがあるのは、私たちが社会的な動物だからだと考えられる。私たちは1人では生きていけない。なぜなら、私たちの住んでいる社会は他者との関係によって成り立っているからだ。だから、私たちは自分自身が生きていく上で、社会に関わる以上他者による承認を満たさなければならない。
だが一方で、他者による承認欲求に囚われすぎて、本来の自分自身を見失うということもあるだろう。例えば、周りと比べて自分が平均以下であることに悩んだり、それほど気にすることでもないようなことに悩んだりすることや、他人に認められたいがために無理に自分を誇張したりなどなど・・・
承認欲求は自然な欲求である一方で、それに囚われれば誰のために生きているのかわからなくなることもあるだろう。
また、誰かとわかりあいたいという感情も承認欲求に基づいている。なぜなら、相手に自分のことを認めてもらいたいと思うからこそ、共感を求めるからだ。しかし、このような感情が時に衝突を生んだりすることもあるだろう。そして、人はそういったことを経験していく内に「他人とわかりあうことはできない」と考えるようになる。だが、これはある意味真実であり、ごくごく当たり前のことである。むしろ、当然のことに気がつけないほうが問題なのかもしれない。
最近はSNSの復旧により、多くの人たちが見知らぬ人と繋がれる機会が増えた。誰でも動画をあげたりツイッターでつぶやいたりすることで、他人に自分の心の内を晒す機会が与えられているからだ。だから、人はYouTubeで動画をあげたりツイキャスで放送したりすることによって、他人の承認を求める傾向はより強まったと言えるだろう。逆に言えば、他人の目を気にする目も強まったと言える。他人に自分の存在を認めてもらう機会が増えた一方で、それだけ他人に自分の存在が表沙汰に晒される機会も増えたということでもある。
ところで、これを読んでいるみなさんは「一人カラオケ」をしたことがあるだろうか。私は何度かしたことがある。たまに無性に歌いたい時があり、暇な時に行ってしまうのだ。
しかし、ふと私は思った。「なぜ一人でカラオケに行っているのだろうか」と。私自身友達がいないという理由もあるだろうが、何よりも「孤独でないこと」を実感したかったのだろうと思っている。おそらく、一人カラオケに行く人たちも同じ思いで行くのではないだろうか。
従って、人間の承認欲求の本質はここにある。私たちは根源的に孤独な存在であるからだ。つまり、「私」という存在を誰よりも知っており、認めているのは「この私自身」であるということである。
ハンナアーレントは全体主義の起源で面白いことを言っている。「私は私自身に対して他者である」と。これは最初どういうことなのだろうかと思っていたのだが、おそらく、人間は誰しも孤独であるのだということを伝えたかったのだろう。とはいえ、全体主義の起源は難しすぎていったいこのことと全体主義がどう絡むのかということまでは読み取れなかったわけだが。
私が今こうしてなろう小説で文章投稿をしているということも、他人の承認を求めているからなのだろうと思う。つまり、「私はここにいる。だから、私を認めて欲しい」と。しかし、それは本当に私の存在を認めてもらうということなのだろうか。
というのも、私は自分自身を認めることができないからこそ、他人に認めてもらいたいだけなのかもしれないからだ。これは自我意識の囚われであり、結果として自分を見失っている行為であるのかもしれない。