第八章
狭間の鬼神姫、第八章を掲載します。
序章の注意事項をご理解くださった方のみ、この先にお進みください。
利輝の生まれた事情が明らかに。
それでは、始まります。
利輝と藤真、そして分所の倒魔官達は、町の中を走っていた。
犬の形をとった源魔が二体出現、対処が出来ないと応援要請が来たのは午前の事だった。子犬のような小さなものが一体、大型のものが一体だ。犬の姿をしているので足が速いという。
現場に着くと、術人の倒魔官二人が一匹ずつを追い回していた。町民達は家や店の中に避難し終わっているようで、道には誰もいなかった。源魔達はまるで倒魔官で遊んでいるかのように軽やかに逃げ回っている。利輝が一瞬、げんなりした顔をした。だが、藤真の視線に気が付くとすぐに引き締めた顔をする。藤真はというと、もう応援要請を何回もこなして慣れてきていたので、あまり緊張はしていなかった。大抵の源魔の気配では気持ち悪くなる事も無くなった。いい意味で肩の力が抜けているのを自分でも感じる。
人間の倒魔官達は安全のため少し離れた位置にいる。当然利輝もそこへ行くのだろうと思っていたらしい術人の倒魔官達は、藤真と共に利輝が近づいてきてぎょっとした顔をした。それを見た利輝は、「細かい事はいいので、まずは源魔を!」と犬達を指差し、倒魔官達からの質問を封じた。
二体が並んで逃げだしたので、利輝と藤真、術人の倒魔官達は追いかけた。利輝は刀に手をかけていない。分所の倒魔官が近くにいる時は、なるべく戦わないようにしているのだ。面と手袋と足袋で呪の痣を隠している利輝は、一見人間だ。そんな利輝が源魔を切れば、当然分所の倒魔官達は混乱する。利輝が混種という事がばれるのを避けるために、彼女は分所の倒魔官の目がある時は刀を抜かない。
だが、彼らがいなくなれば別だ。
源魔が二手に分かれた。すかさず利輝が指示を出す。
「小さい方をお願いします!」
二人の倒魔官達は「分かりました!」と答えて道を曲がって行った。彼や彼女の頭の中には、もうすでに人間の容姿の利輝が何故源魔を追っているのかという疑問は遠くへ吹っ飛んでいるだろう。利輝のてきぱきとした指示は、そんな事を考えさせない迫力があった。その毅然とした態度で押し切る事で、利輝は今まで一度も分所の倒魔官達に混種だと知られた事は無かったらしい。
子犬を追いかけた二人の姿が見えなくなると、利輝が速度を上げた。人間の少女ではありえない速さだ。藤真は急いでついて行く。
と、前方に人間の女性が立ちつくしているのが見えた。源魔がそちらに真っ直ぐに走って行く。危ない、と藤真は足を速めた。あの女性の所に源魔が向かわないように止めなくては。
藤真の少し前を走っていた利輝が抜刀した。かと思うと思い切り地面を蹴って跳躍し、力強く大型犬の源魔の背に刀を突きさした。強引に足を止められた源魔が大きく口を上げ、喉から張り裂けそうな悲鳴が飛び出す。利輝が目にもとまらぬ速さで源魔の背から刀を引き抜くと、一歩後ずさってから刀を横に払った。スパンッと源魔が横に真っ二つになる。もう悲鳴さえ聞こえなかった。源魔の身体がだんだんと黒い塵のように崩れていき、天に昇っていった。
藤真は刀を抜く時間さえ与えてもらえなかった。
利輝が涼しい顔をして納刀した。同時に、遠くから源魔の絶叫が聞こえてきた。声の方へ顔を向けた利輝は、「向こうももう少しで終わりそうだな」と言った。
藤真はムッとして利輝に言った。
「どうして全部自分で戦うんだ!」
分所の倒魔官と共に戦っている時はいい。利輝が人間役に徹するからだ。藤真は源魔と戦える。だが、他の倒魔官がおらず一体の源魔を利輝と二人で追っていると、大抵の場合彼女が一人で源魔を片付けてしまう。ここは藤真に任せるべきだろう、という場面でも利輝は一人で戦うのだ。それで少しでも危険な目に彼女が合えば藤真はもっと強く言えるのだが、余裕な顔をして倒してしまうのだから悔しい。お前は必要ない、と言われているような気がするのだ。
利輝は真摯な目で藤真の問いに答えた。
「戦えそうだと思ったからだ」
ああそうだろうな、と藤真は思った。利輝は強い。だから戦える。だが、それならば自分は一体何故ここにいるのだ。
「……相棒の俺に、もうちょっと頼ってくれてもいいんじゃないか」
「じゃあ、頼れるくらい頼もしくなってくれ」
あっさりそう言われ、藤真は思わず不貞腐れる。「子供か」と利輝に呆れた目をされ、藤真は項垂れそうになった。確かに今のは自分でも子供っぽいと思ったが、八歳も年下の少女に言われると余計にグサッと来る。
利輝がパンパン、と手を叩いた。
「とにかく、分所の倒魔官達の様子を……」
「利輝様?」
驚いたような声に利輝の言葉が遮られる。二人は、勢いよく声の方に顔を向けた。目を丸くし、怯えたように両腕を小さく縮こめた中年の女性が、声を発した本人のようだ。源魔の行く先にいた女性である。
「知り合いかい?」
藤真が訊ねる。
「いいや」
利輝が不審そうに目を細めながら首を振った。
「でも今、確かに利輝様と……」
「だが、見覚えが無いぞ」
藤真と利輝は、ひそひそと話しながら女性に近づいていった。近くに行くにつれて、女性がぷるぷると震えている事が分かった。源魔が恐ろしかったのだろうか、と藤真は思った。正面から源魔が突進してくるなど、一般の民からすればとても怖い経験だっただろう。
藤真は女性に優しく微笑みかけた。
「もう源魔はいませんよ。大丈夫です」
「あ、はい。驚きました」
女性が弱々しく笑う。彼女は、旅装束をしていた。
「ご旅行ですか?」
「はい。都へ行ってみようと思いましてね。でもまさか、来て早々源魔に会うとは……運が悪かったですね」
「その分、これからはきっと良い事がありますよ」
「ありがとうございます」
女性は藤真と会話しながらも、ちらちらと利輝を見ていた。居心地が悪そうに利輝が身じろぎをする。
「私が、何か」
耐えられなくなったのか利輝が話を向けると、女性が飛び上がった。
「申し訳ございません。じろじろと……失礼いたしました」
女性がおどおどしながらも丁寧に頭を下げた。
「お久しぶりです。利輝様」
「申し訳ありません。どちら様でしょうか。以前お会いした事がありましたか?」
利輝が困惑を隠さずに言う。
「ああ、覚えていらっしゃらないのですね。いえ、当然です。利輝様はまだとても幼くていらっしゃいましたから」
私ったら、そんな事も忘れて話しかけて。女性が自分を責めるように呟いた。それから、怯え混じりではあるが真っ直ぐな目を利輝に向けた。
「利輝様のお父上様でいらっしゃる龍泉様のお墓の墓守を仰せつかっております、納田睦子と申します。お母上様の鏡子様がお亡くなりになるまでは、お屋敷で働いておりました。鏡子様のお世話係でしたので、利輝様が三歳の時まではお会いしておりました」
「では、本当に久しぶりの再会なんですね」
藤真の言葉に、納田睦子は「はい」と頷いた。
「それでよく彼女が利輝だと分かりましたね」
「半分に割れたお面は、その頃から時折つけていらっしゃいましたから。こんなに特徴的なお面をつけていらっしゃる方はそうそうおられません」
三歳の頃にはす既にという事は、利輝が自らつけたというよりは、つけさせられたのだろう。「これか」と利輝が自分の面に触れた。
納田睦子がハッとした顔で口元を押さえた。不安そうに藤真を見る。
「あの、利輝様が何故お面を付けていらっしゃるかは……」
「知っています。彼女の種の事も」
「ああ、良かった」
納田睦子が心底ほっとしたという顔をする。
「私、ついうっかり『龍泉様』と言ってしまって……そうしたら術人のお名前だと分かるでしょう。苑条は人間のお家なのに。もう本当に、心臓が止まるかと」
『龍泉』は確かに術人らしい名前だが利輝の混種を知らない者なら変わった人間の名前だと思う可能性の方が高いし、利輝の父親と母親が亡くなっている事を他人の藤真に知れるように言った事をもっと気にした方が良いと思ったが、藤真は全てを自分の心の内に封じ込めて微笑むだけにした。添上成清が利輝の母親が亡くなっているとあっさり言った事といい、利輝の両親の事情は他人から聞いてばかりだ。
「父の墓守をしているとおっしゃいましたね」
利輝が訊ねる。
「そうですが……そんな、私などに丁寧な言葉遣いをしないでください」
納田睦子は恐縮したように言った。分かった、と利輝は頷く。
「何故、あなたが父の墓守を?」
「当主の輝政様に申しつけられたからでございます」
「そうか。ご苦労様です」
ますます恐縮したように納田睦子はぺこぺこと頭を下げた。利輝はそんな彼女をじっと見つめていた。
「……亡くなった父や母の事を、あなたが知っていると思っていいんだな」
「はい。龍泉様の事はそこまで詳しくないのですが、鏡子様の事なら、あのお方が八歳の頃から身の回りのお世話をさせていただいていたので」
真剣な目で、利輝は言った。
「ならば、教えてほしい。私は両親の事を殆ど知らないんだ。あなたが知っている父上と母上の事を、全て教えてくれないか」
「あの、私でよろしければ……」
納田睦子は視線を下げながら言った。
「では、いつがいい?」
「利輝様のご予定に合わせます」
「だったら、今日の昼はどうだ。私の職場が休憩時間に入るからな」
「はい」
「じゃあ、場所はどこにしよう。都に来たばかりなら、この辺りの事は分からないよな。それなら……あなたが泊まる宿を教えてほしい。休憩時間になったらそこへ迎えに行くから」
「あ、はい! 分かりました」
約束を交わす利輝は、前のめりだ。話を聞きたいという気持ちが藤真にもひしひしと伝わってきた。
対して納田睦子は、終始利輝に恐縮している。その上、微かな怯えが見え隠れした。それが藤真は気になった。初めは源魔に怯えているのかと思ったが、どうやらそれだけではないようだった。
*
納田睦子と別れて分所の倒魔官と合流し、後始末を終わらせてから神領省へと戻っている時の事だ。それまで黙っていた利輝が口を開いた。
「仕事中に私用の約束などをして、すまなかった」
「それはいいよ」
気にしていない、と藤真は言った。
「両親の事も……知られてしまったな」
「その、ごめんね」
「藤真は悪くない。ただ私が、少し気まずいだけだ」
利輝がぽりぽりと頬を掻いた。
「随分と怯えられていただろう」
「納田さんの事?」
「ああ。子供の頃から使用人達は大体あんな感じだった。私が混種だと知っているからな。でも、使用人達は悪くない。あの人も、悪い人ではないんだと思う。私に気付いて、話しかけてきてくれたのだから。両親の事も話してくれると約束してくれた。皆、ただ私の存在が不気味だと思っているだけだ」
藤真は、ある青年の顔を思い出した。
「三日前に会った、山杉虎吉君は? 彼も君を怖がるのかい?」
虎吉、という名前で利輝の顔が少しだけほころぶ。本人は気が付いていないだろう。
「あれは変わった奴だ。私が混種だと知っても恐れる事も気味悪がることも無かった。藤真と一緒だな」
くすり、と利輝が機嫌良さそうに笑った。そこにも虎吉という青年への信頼が見えて、羨ましいという思いがむくむくと湧き上がる。
それを悟られないように、明るく言った。
「俺も彼も、別に変わってなんかいないと思うけどなあ」
「いいや、変わってるね。虎吉も藤真も、あり得ない事を素直に受け入れる。普通、もう少し抵抗があるものだ。苑条家の使用人のように、何年たっても溝がある者もいる。でも、その人達を責めるつもりはない」
私は人間では無く、術人でも無いのだから。利輝はそう続けた。前にも言っていた自虐のような言葉だったが、以前聞いた時と何か響きが違う。何が違うのだろう、と考えるが、漠然としていてよく分からない。だが、彼女の中で何か意識の変化があった事は感じられた。
「取り敢えず、昼休憩の時は外に出る。弁当はもう頼んでしまったから、もしよければ私の分は藤真が食べてくれ」
「分かった。ありがたく頂戴するよ」
藤真がそう返事をすると、利輝が驚いた顔をした。
「何だい」
「本当に貰ってくれるとは思ってなくて……」
「二個なら腹に入るよ」
源魔と戦っていたら、もっと腹が減っていただろう。利輝が片付けてしまったので、少々運動不足だ。そう思うと、悔しさがまたじわじわと滲み出てくる。
いつか絶対に、藤真が必要だと言わせてやる。そう決意しながら、藤真は利輝と共に神領省の門をくぐったのだった。
*
目の前に座った納田睦子は、緊張か怯えか、かちこちに固まっていた。利輝は彼女に気付かれないように溜息を吐く。気付かれると彼女がますます恐縮してしまう事が目に見えているからだ。
昼の休憩時間になり、利輝は約束通り宿へ彼女を迎えに行った。そこからどこかの店に移動して食事でもしながら話を聞くつもりだったのだが、昼食を一緒にとろうと誘うと、
「そんな。利輝様と一緒にお食事をするなんて畏れ多い……」
と言ったきり彼女は固まってしまったので、利輝は仕方なく諦めた。結局、彼女が泊まる宿の部屋で話を聞く事になったのだ。
納田睦子は、怯え混じりの目で利輝をちらちらと見た。
「何か?」
これ以上怯えられてはこちらも気まずい。利輝はなるべく優しく訊ねた。しかし、その努力も虚しく彼女はびくっと肩を震わせる。
「いえ、すみません。成長されたな、と思っていただけなのです」
「あなたが私の姿を見たのは、三歳の時だと言っていたな」
「はい。日常的にお姿を見ていたのは、三歳までです」
「そりゃあ、成長しているよ。私は今年で十九になるのだから」
「そうですか。いえ、考えたらそうですよね。もうそんなに……ご立派になられましたね」
「立派かどうかは、分からないけど」
利輝は苦笑いする。彼女も口元に小さく笑みを浮かべた。ご立派ですよ、と小さな声で言う。
「母上の世話係、だったか。私が三歳の時という事は、母上が亡くなる一年前まで働いていたのだな」
「いいえ、私は鏡子様が亡くなるまでお傍にいました」
利輝は首を捻る。
「でも、私の姿は三歳の頃までしか見ていないのだろう? 母上が亡くなったのは、私が四歳の頃だったと聞いている。母上の最期まで世話をしていたのなら、何故三歳の私の姿しか知らないんだ?」
問うと、彼女の表情が暗くなった。
「利輝様は、鏡子様の事を殆ど覚えていらっしゃらないのですね」
「ああ」
利輝は頷いた。母親も父親も、利輝の記憶には殆ど無い。顔も声も思い出せなかった。
「正確には、四歳の頃の利輝様のお姿も一度だけお見かけした事があります。鏡子様の葬儀の時でした。先程、『日常的に』お姿をお見かけしたのは利輝様が三歳の時までだと申し上げたのはその為です。利輝様が三歳になられた頃から、鏡子様はお屋敷の母屋ではなく離れで暮らされていたので、利輝様をお見掛けする事は無くなったのでした」
「どうして離れに? 苑条の血を引く者は母屋に暮らすのが普通だが」
「それも含めて、お話ししようと思います」
彼女は、初めて怯えではない目を利輝に向けた。気遣うような視線だった。
「利輝様には、お辛い話になるかもしれません」
構わない、と利輝は答える。
「今まで周囲の誰もが父上と母上の事を私に話さなかった。それでどんな話かある程度は予想がついている。幸せな家族の物語、というわけにはいかないのだろう?」
納田睦子は目を伏せた。それは肯定だった。
「父上の事は何も覚えていないが、母上に関しては一つだけ覚えている事がある」
「何ですか」
「私は母上にあまり良く思われていなかった、という事だ」
彼女は大きく目を見開いた。
「それを、覚えていらっしゃるのですか」
その言葉で、利輝は自分の記憶違いではないと確信する。
「明確に何か言葉をかけられたとか、そんな記憶はない。母上の顔も声も覚えていないんだ。ただ、私の存在が母上にとってあまり良いものではなかったという事だけが、抽象的な記憶として残っている。だから、余計に気になっていたんだ。混種という存在の自分は何故生まれたのか。母親に望まれなかった自分に、生まれてきた意味はあるのか」
「そんな事!」
納田睦子は悲痛な顔をして首を力強く左右に振った。その反応に、利輝は少し驚く。
「利輝様がお生まれになる時、鏡子様は確かに喜んでいらっしゃいました。それは少し歪んだ喜びでしたけど……ですが、利輝様は確かに望まれて生まれてこられたのです!」
「そうなのか?」
「はい。それは間違いありません」
彼女は、はっきりと頷いた。
「お話致します。私が知っている事を、全て」
そして、彼女は語り始めた。
利輝にとって、全ての始まりの話を。
*
納田睦子が女中として苑条家にやって来たのは、十八歳の時だった。その時苑条家には八歳の少女、苑条鏡子がいた。睦子は、鏡子の世話係として働く事になった。
睦子は鏡子に会った時、その桁違いに豊富な霊力に圧倒された。全ての霊力の根源を彼女が所有しているのではないかという程の量と、一切の混じり気の無い穢れなき澄み切った質。鏡子の近くにいると、神域に居るような気がした。実際彼女の霊力は神域に流れているそれとほぼ変わらない。
人間よりも神に近い子。
それが苑条鏡子だった。
霊力の高い人間を輩出する事で有名な苑条家の中でも、彼女は過去最高だと称されていた。彼女より霊力の高い人間はもう生まれる事は無いだろうとさえ言われたほどだ。五歳年上の兄である信輝も一般的な人間よりは高い霊力を持っていたが、鏡子とは比べ物にもならない。霊力の高さなどの実力を重要視する苑条家の中では、鏡子が生まれて暫くしてその底なしの霊力が判明すると、彼女が次期当主になるだろうと囁かれるようになったらしい。
生まれたばかりの鏡子はそのあまりの霊力の高さにその全貌がすぐに把握できず、霊力の高さがどれほどのものか完全に認識されたのは生後五か月になってからだった。その為に苑条家当主継承権の持ち主の証である『輝』の文字は与えられていなかった。もし生まれた瞬間にその霊力の全てが判明していたのならば、彼女にも『輝』の文字が与えられていただろう。
苑条家の血を引く者としてそれなりに高い霊力を持っている信輝であっても、鏡子の前では霊力が無いも同じだ。それほどまでの圧倒的な差が、兄妹にはあった。普通ならば鏡子が輝政の跡を継ぎ、政治の重要職に就いていただろう。苑条家のみならず政府内部すらも牛耳れるほどの霊力が鏡子にはあった。輝政も、それを期待していたという。
だが結局、輝政は信輝を次期当主候補に指名した。
理由は一つ。鏡子の能力不足だ。
神に近い霊力を持つ鏡子だったが、皮肉な事に、それを扱う能力を全く持っていなかった。十二分な霊力を持っているにも拘わらず、彼女は飛び文一つ飛ばす事さえ苦労する事が分かったのだ。飛び文と言えば、人間ならば幼い頃から誰でも使える簡単な術だ。それさえ苦労するのであれば、何も出来ないと判明したも同じだった。鏡子が四歳の時の事だ。それ以来、輝政は子供への関心の殆どを信輝に注ぐようになった。当主候補として育てるのは信輝のみ。それが使用人達にも伝わった。鏡子は四歳にして、溢れるほどの霊力を持っているにも拘わらず、出来損ないの烙印を押されたのだ。
更に不幸は続いた。鏡子の身体は、そのあまりにも高い霊力を保有していくだけの強さがない事が判明したのだ。
鏡子に霊力を扱える能力があったのならば問題は無かった。しかし制御できない強すぎる霊力は、鏡子にとって毒でしかない。あまり長くは生きられないだろう、と彼女は宣告された。それが六歳の時だ。
睦子がその一連の話を他の使用人から聞かされた時は、そのあまりの悲劇に涙が溢れた。『霊力の高さ』という溢れんばかりの才能を持って生まれたにも拘らず、もう一つの『霊力を扱う』という才能が無かったために鏡子は様々なものを失ったのだ。
睦子が思うに、鏡子にとっての一番の不幸は、苑条家に生まれてきた事だった。苑条家に生まれてこなければ霊力が扱えなくてもわずか四歳で出来損ないの烙印を押される事も無かった。少なくとも睦子が育った家や周囲は、霊力を扱えない者に対してそこまで厳しくなかった。また、この家に生まれなければ高い霊力を持つ事も無く、そうしたならば長く生きられないなどという事も無かっただろう。
そんな不幸に見舞われて育ってきた美貌の八歳の少女に、睦子は出逢ったのだった。
鏡子は父親に見放された事も、自分が長く生きられないであろう事も、正しく理解していた。それでも純真さを失わず、優しく微笑み、世話係となった睦子にこう言ったのだ。
「短い時間になるかもしれませんが、よろしくお願いします」
凛としてよく響く、聡明そうな声だった。
無垢でいじらしい彼女の姿に、睦子は胸が締め付けられた。
そして決めた。彼女がそう長くはない内にいつか迎えるであろう最期を、何としてでも見届けようと。
これから睦子が鏡子の傍で働く十七年間の、最初の日の事だった。
鏡子は自分の命の短さをしっかりと受け入れながらも、前を向いて生きていった。読み書きの勉強をして本を読み、知識をつけ、少しでも苑条家の役に立てるようにと努力していた。時折意見を述べては輝政にはすげなくあしらわれていたが、鏡子はめげなかった。
なぜそんなに強くいられるのですか、と睦子は訊ねた事がある。鏡子は即答した。
「私は確かに生まれつき生きていられる時間がきっと短い。でもね、大切なのはどう生まれたかではなくどう生きるかだと思っているの。だから私は精一杯生きるのよ」
そう言って鏡子は明るく笑った。睦子はその姿と言葉に、感銘を受けた。
鏡子は成長するにつれて美しくなっていったが、男性には興味が無かった。鏡子の関心はただ一つ。どうやって苑条家の役に立つかという事だった。正確には、どうやって父親の役に立つか、だ。鏡子は父親である輝政の話をよくしていた。
術人は人間よりも寿命が長く、一度ある役職に就くと人間よりも長くその座に留まれる。そうすると術人寄りに主導権が握られてしまう事があり、とても厄介だと輝政は考えていた。だから輝政は術人が嫌いなのだという事。若い頃から苑条家当主として家のために働き、家を守り繁栄させてきた事。誰よりも苑条家の事を考えているという事。そんな父上を私は尊敬しているの、と鏡子は話していた。
「だから私は父上の絶対的な味方でいるのよ。何があってもね」
そのうっとりとした様子に睦子は少し違和感を覚えたが、大した事は無いといつも流していた。
鏡子が少し変わっているとはっきりと睦子が理解したのは、彼女が二十歳を過ぎた頃だった。
鏡子は珍しく輝政に呼びつけられ、うきうきとした様子で彼に会いに行ったが、部屋に戻ってくるとその表情は真剣なものに変わっていた。どうしたのですか、と睦子が問うと、「父上に子供を産むように言われたの」と鏡子は答えた。しかも、ただの子供ではない。輝政が鏡子に望んだのは、人間と術人の間の子、つまり混種の子供だった。睦子は、何を言っているのか分からなかった。姿は人型と似ているが、人間と術人は別の生き物だ。その間に子供など生まれるはずがない。
しかし、輝政はきちんと考えがあって『混種の子供を産め』と発言したようだ。鏡子曰く、輝政は霊力の高さ故に人間離れした鏡子という存在ならば、種の壁を越えられる可能性が高いと考えているという。確かに鏡子はその存在が人間よりも神に近いとさえ言われている。その鏡子ならば、と言われると確かにあり得るかもしれないという思いが湧いてくる。それでも、信じられない思いの方が大きかった。だが、鏡子はすっかりその気になっていた。
輝政は術人を嫌っているが、その寿命や高い能力は認めていた。その為、苑条家の切り札として混種を作るという計画を立てたようだ。その子供を人間らしく、人間の感性になるように育て、上手く育てば苑条家で利用する。更に、子宝に恵まれない信輝にいつまで経っても子供が生まれなければ、その混種の子供を苑条家の当主候補とする考えのようだった。まるで実験だ。しかし、鏡子は自分が苑条家の未来の当主を産めるかもしれないと目を輝かせていた。反面、睦子は暗い気持ちになった。
生まれた子供が輝政の望む通りに人間らしく育ち、遠い未来に当主となれたら幸せだ。しかし、心が人間と術人の狭間にあったり信輝に子供が生まれてもしその子に当主の座を奪われたら、混種の子供は苦しむだけだ。睦子がそう意見すると、鏡子は言った。
「確かに父上も混種の子に子孫が出来るかは不安だとおっしゃっていたわ。だから、兄上に子供が生まれたらその子の子供が私の子の次の当主になればいいのよ。もし兄上に子供が生まれなくて混種の子に子供が産める能力が無かったら、苑条家の血を引く親族から養子を貰えばいい。これで解決するわ。何も問題ない。父上も私と同じお考えよ。とにかく、私は混種の子を絶対に産んで見せる」
輝政の役に立てるかもしれない。鏡子はその思いで一杯で、何も見えなくなっているようだった。その輝く瞳は、様々な問題点を考える事を放棄してしまっている。睦子は、これ以上鏡子に問題点を上げることを諦めた。そして、のちに酷く後悔する事になる。
鏡子が子供の父親にと決めたのは、龍泉という術人だった。地方出身で、鏡子がたまに行く食事処で働いている青年だ。その話を鏡子に聞かされ、実際に彼が働く食事処へ睦子は連れていかれた。すると、薄灰色の髪に紫色の瞳の好青年が笑顔で鏡子を迎えた。彼が龍泉だ、と鏡子は話した。二人が会話する所を見ていると、龍泉が鏡子に好意を抱いている事はすぐに分かった。鏡子は、彼に正直に全てを話したという。輝政の言いつけで、結婚は出来ないという事。これは、輝政が苑条家に術人を入れる事を嫌がったからだろう。それでも人間と術人の間に子供が欲しいという事。龍泉は鏡子の話を聞いた後、一つだけ訊ねたそうだ。
「それで君は幸せになれるのかい?」
鏡子が満面の笑みで頷くと、龍泉は子供の父親になる事を承諾したらしい。全ては、鏡子の幸せのためだった。
そして二人は恋人になり、暫くして鏡子は懐妊した。
お腹の子供は特に危険も無く順調に育ち、当たり前のようにこの世に生まれた。その異常な事態に使用人達は戦慄した。皆、鏡子が妊娠し、お腹が膨らんでいっても、最後の最後まで信じられなかったのだ。生まれてきた子供の髪や瞳はこの国の人間らしい色だったが、同時に純粋な人間では無い事を証明する呪の痣が浮かんでいた。手首と足首の先と、何故か顔の右半分を、術人の証である呪の痣が覆っていた。その人間とも術人とも言えない容姿に、使用人達は恐れを抱いた。しかし鏡子は自分の子供の誕生を素直に喜んだ。出産に立ち会うために特別に屋敷に入る事を許された龍泉も、鏡子の幸せそうな顔と子供の顔を交互に見て、微笑んでいた。使用人と子供の両親の表情は全く違い、出産という祝いの場に異質な空気が流れた。龍泉は鏡子と子供の顔を目に焼き付けるようにじっと見ると、二度ともう会わないと鏡子に別れを告げて屋敷を去って行った。仕事を辞め、出身の地方に帰る事を彼は決めていたのだった。
混種の子供がその誕生を両親から祝福されたのは、ほんの一瞬だった。父親は離れ、母親からは忌み嫌われるようになったのだ。鏡子の態度が一変した理由は、輝政にあった。
鏡子は、輝政の望み通り混種の子供を産んだ事によって父親から褒められ、認められる事を期待していた。しかし輝政は鏡子への態度はおざなりで、その関心は全て混種の子供に向いたのだ。鏡子が望んでいた反応は、得られなかったのである。
鏡子にとって致命的だったのは、子供を産んだ事によって体力を使い果たし、自分の命の限界が見えてしまった事だった。鏡子にとって混種の子供を産む事は輝政に認められる最大にして最後の機会だったのだが、それはあえなく潰えた。これから輝政に認められるよう努力できる時間も体力も気力も、鏡子には残っていなかった。それが鏡子を狂わせたのである。
これまで彼女が明るく生きてこられたのは、いつか輝政の役に立ち、彼に認めてもらうのだという希望を持っていたからだった。彼女は幼い頃から、それだけを求めていた。幼い頃から冷遇されても、いや、そんな扱いをされていたからこそ、鏡子は父親に執着していたのだ。『どう生まれたかではなく、どう生きるかが大事』。それが、鏡子にとっては父親に認められる事だったのである。それだけが彼女を支えている全てだったのだと睦子が気が付いた時には、もう遅かった。
鏡子は生まれてきた子供を呪うようになった。輝政に執着し、彼を盲目的に愛していた鏡子にとって、輝政にその怒りや憎しみをぶつけるという発想が無い。全ての暗い感情は、子供に向かった。手を上げる事は無かったが、子供を抱きながら恨み言を呟き続けたのである。これでは子供に悪影響が出る、と輝政が指示し、鏡子は子供から離された。それでも初めは一週間に一度は会う事を許されていたのだが、毎回呪いのような言葉を子供にぶつける事から、次第に面会の時間は限られていった。子供に会わない時間にも鏡子は自室に籠ってぶつぶつと子供への憎しみを呟き続けた。睦子はその世話をしながら、後悔に涙が零れた。輝政以外の者にも関心を持つよう言えばよかった。父親の役に立ちたいと言うだけで子供を産まないように注意すればよかった。しかし、全ては手遅れだった。明るく美しかった鏡子は、もう見る影もなくなっていたのである。恨み言の呟きは段々と大きくなり、やがて他の部屋まで聞こえるようになると、ついには鏡子は母屋を追い出されて離れに押し込められるようになった。それが、子供が三歳になる頃だった。睦子は時折廊下などで成長していく子供を見かけていたが、鏡子が離れに移った事により、それもなくなった。
たった一言、輝政に労いの言葉をかけられたら鏡子は救われるだろう。だが、輝政は娘が自分の態度で狂ったというのにそれでも鏡子に見向きもせず、また睦子も輝政に『会ってほしい』と頼めるような立場ではなかった。睦子は輝政に恨みを抱きながら鏡子の世話をし、鏡子は離れで独り言を叫び続けた。
高すぎる霊力が毒のように溜まっていった鏡子の身体はどんどん弱っていき、美しさを完全に失い、ついに限界を迎えた。
正気を失って寝たきりになっていた鏡子だが、最期にふっと目に理性が灯った。
「……ごめんなさい」
そして、すーっと一筋の涙が流れた。それを睦子が拭うと、鏡子は亡くなっていた。そして、鏡子は二十五歳の生涯を終えたのである。
睦子は母屋に知らせに行く事も忘れ、暫く彼女の傍で泣き続けた。彼女の最期を看取りたいと願っていた。だが、こんなに哀しく寂しい最期など予想だにしていなかった。あの頃は、彼女は最期まで明るく美しいのだろうと、勝手に信じていたのだ。だが現実は違った。亡くなった彼女は、老人のようだった。
鏡子の葬儀が執り行われた翌日、ある知らせが入った。龍泉が亡くなったというのだ。龍泉には、鏡子が亡くなったと苑条家の使いが連絡に行っていた。それを聞き、彼女を一人にしたくないと自死を選んだらしい。止める間もなかった、と使いは話した。使いは、龍泉が住んでいた家の近所の者に彼の事情を聞いてきていた。龍泉は天涯孤独だったと、睦子はその報告を聞いて初めて知った。戻っても一人だというのに仕事を辞めて地方に帰った彼の気持ちを睦子は想像して、また涙が溢れた。
世話をする主がいなくなり、鏡子がぼんやりと過ごしていると、輝政の使いが使用人部屋にやって来た。龍泉が亡くなった事により、彼の家の墓を管理する者がいなくなった。それで、苑条家から一人墓守を派遣する事に決まったのだと言う。輝政は、混種の子供の事で一応世話になったからな、と派遣の理由について述べたらしい。そして、現在屋敷の中で仕事が無い睦子に話が回って来たと言うのだ。だが、睦子はその裏にある思惑を察した。鏡子にずっと仕えていた睦子は、輝政に反感を抱いている。それを見抜き、そんな使用人は屋敷から遠ざけてしまおうという考えなのだろう。確かに睦子は、もう少し気力が出てきたらいつか輝政に刃物を持って飛びかかってしまいそうだった。睦子はその命令を受けた。
睦子はすぐに屋敷を出て、龍泉がいたという地方に向かった。そして、その後十年以上その地で墓守をしている。
五年前、信輝に子供が生まれたという事を風の噂で聞いた。その話を聞いて睦子の脳裏に浮かんだのは、鏡子の葬儀の時に見た、面を被った子供だった。あの子はきっと当主継承権を剥奪される、と思い、睦子は暗い気持ちになった。あの子供の不気味な容姿は、何度見ても身体が強張ってしまうだろう。だが、少しでも鏡子の面影を見つければ、愛おしい気持ちが湧くかもしれないと思いながら、睦子は静かに暮らし続けたのだった。
まさか、十五年ぶりに気分転換の旅行で訪れた都でばったり再会する事になるとは、その時は思いもしなかった。
*
利輝は宿の建物から外へ出ると、それまで何とか堪えていた感情を表情に出した。今、自分の顔はとても醜く歪んでいるのだろうと思った。
やはり、両親と利輝の物語は幸せなものではなかった。父親しか興味が無かった鏡子も、鏡子だけが幸せになれば良かった龍泉も、歪んでいる。利輝は、そんな自分本位の塊から生まれたのだ。
鏡子にとっての利輝は父親に認めてもらう為の手段であり、龍泉にとっての利輝は鏡子が幸せになる為の道具のようなものでしかなかったのだろう。いくら生まれる事が望まれ、誕生した時に両親に一瞬だけでも喜ばれようと、素直に嬉しいとは思えない。更に、当主候補としても利輝は国輝までのただの繋ぎであった事がはっきりと分かってしまった。冬の終わりの輝政との面会の時にほぼ確信したが、改めてその事実を突き付けられると胸が痛い。当主となる為に努力していた五年前までの自分に教えてやりたかった。そんなに努力しても、いつかその座は奪われるのだと。元からお前のものではなかったのだと。そうすれば、何も知らないでいるよりは傷も浅かっただろう。
全ては、もう過ぎた事なのだが。
睦子は、宿の部屋を出ようとした利輝を呼び止めると、どうかご両親を恨まないでくださいと懇願してきた。真っ直ぐな故に歪になってしまった方々だったのです、と。利輝にもそれは理解できたが、その場で頷く事は出来なかった。
「利輝様のお声の響きは、鏡子様によく似ておられます。私はそれがとても嬉しいのです。鏡子様は純粋なお方でした。そんな方の血が確かに続いていると分かって、嬉しい。どうか、どうかあの方を恨まないでください。真っ直ぐなあのお方の血を引くお嬢様が、実のお母上の鏡子様を恨むなんて、そんな哀しい事……きっと利輝様は恨みを持ったら、鏡子様と同じように人生が歪んでしまわれる。そんな哀しい事、しないでくださいませ。あの真っ直ぐだったお二方の血を引くお嬢様だからこそ、恨んではならないのです」
納田睦子は、仕えた鏡子やその恋人の龍泉の事を庇いたい一心ではなく、本当に利輝の人生を案じているようだった。最後は涙声になっていた。
「……父の墓守を、これからもよろしくお願いします。よい旅を」
利輝は振り向かずにそう言い残すと、部屋を後にした。
思い出して、利輝は溜息を吐いた。
分かっているのだ。全ての元凶は輝政で、憎むべき相手は彼だという事を。それでも、両親を恨めしく思ってしまう気持ちは止められない。一体自分は何のために生まれてきたのだろうと途方に暮れるのだ。ただ実験として輝政に利用される為に生まれてきただけなのか。両親の道具として生まれてきただけなのか。悶々とした思いが、ぐるぐると毒のように体を回る。
だが、
『どう生まれたかではなく、どう生きるかが大事」
結局、こう考えるしかないのだろう。
まさか利輝を悩ませている張本人である鏡子の言葉で解決しなければいけないとは、皮肉なものだ。しかし同時に、利輝にとっては初めて知る母の言葉でもあった。大切にしたいという気持ちもある、利輝もまた、親に対する執着心のようなものがあるのだろう。
混種・苑条利輝は、どう生きるのか。
ぼんやりとだが、答えは自分の中で纏まってきた。
昼食を食べて帰ろうか、と思い、気持ちを切り替えてぶらぶらと歩き出した時だ。目の前にふわりと紙が現れた。飛び文だ。利輝が紙を取ると、折りたたまれた紙には『虎吉より 利輝様へ』とあった。利輝は急いで紙を開いた。内容に素早く目を通す。
今日は昼食抜きだな、と思いながら、利輝は神領省に向かって走り出した。
*
汗だくの利輝が二階に駆け上がってきたので、初めは何事かと菊鶴は思った。
「菊鶴さん!」
利輝は額に浮かんだ汗を拭いもせずに真っ直ぐに菊鶴の方へ向かってくる。
「今日は菊鶴さんがお弁当の日で良かったです。店だと探すのが大変だった」
「どうしたどうした」
菊鶴は笑ったが、利輝はにこりともせずに早口で言った。
「虎吉から連絡が来ました。給与課の術人についての報告です」
その一言で、菊鶴の頭は切り替わった。笑顔を引っ込める。
「続けて」
「結論から言いますと、入省前も入省後も厳柳の支援団体に所属していました」
菊鶴は驚いた。
「支援団体? ただの政治家ならいいけど、統領が持つのは禁止されているだろう」
「はい。ですが、厳柳はこっそりと隠れて支援団体を持っていたようでした。恐らく支援団体の殆どが、術人だそうです。厳柳は政策に術人びいきの策をさり気なく混ぜる代わりに支援団体を自分の思い通りに動かして、『兵器づくり』などの手伝いをさせていたようでした」
「兵器って……ああ、あの死体の呪いの事か」
「はい」
そこで利輝は少し悔しそうになる。救えなかった村の事を思い出したのだろう。
「その支援団体に死体で見つかった元倒魔官達の名前もあったようです。なので、恐らく旅人もその支援団体の者でしょう。あと、前対魔課長の名前も」
「前課長の名前まで、山杉君はよく見つけてきたね」
「私が神領省内で怪しいと思った人物の名前を、あの報告会の後に彼に教えましたから。教えてから数日でこのような結果を持って帰ってくるとは思いませんでしたが」
利輝は誇らしげだった。だが、すぐに顔を真剣なものに戻す。
「更に……」
利輝が声を潜めた。
「支援団体の所属者の中には、神領省上層部の術人も数名いたそうです」
「彼らがもしかすると人事に口出しをしていたかもしれないな。そして、支援団体の術人を給与課に送り込んだ。倒魔官達も恐らくそうだろう。前課長も。じゃあ、死体の呪いで滅んだあの村は初めから狙われていたという事かな。呪いの死体が見つかった村や町はどれも周囲から孤立気味な所だった。あの村もそうだったんだよね?」
「ええ」
「ここまでくると偶然あの村に彼らが視察に行ったとは考えにくいし、やっぱり旅人辺りが事前に下調べをして『よみがえりの術』として呪いを広めておいて、呪いの死体を作り出しそうなあの村に倒魔官達が視察に行ってちょこっと火種に煙を立てた。こういう事かな」
利輝が「同意です」と頷いた。
菊鶴は「あー」と唸った。
「これは想像以上に組織的で根が深いなあ」
「廃屋で見つかったという三つの遺体の偽造報告。あれも警察上層部に紛れ込んだ支援団体の者が圧力をかけたのかもしれません。虎吉は圧力をかけた人物までは特定できなかったようですが、内部にいると仮定して探せばすぐに見つかるでしょう」
これはうちの管轄ではありませんが、と利輝は締めくくった。
「虎吉の報告をまとめて、課長に報告してください」
「分かった」
菊鶴が頷くと、ようやく安心したように利輝が微笑んだ。
*
終業後、菊鶴は山杉虎吉からの情報を纏めて和豊に全て報告した。
「このように、神領省内の一部の幹部が違法な組織に所属し、更には人事に口出しをして不正に特定の者を特定の部署に配属させた疑いがあります。この情報は僕が個人的に依頼して集めてもらったものですが、調査者は苑条利輝の関係者ですので信憑性が高いです。また、違法な組織に所属していない幹部も、一連の事を知っていながら今まで黙視していた可能性があり、その真偽と、もし事実であるとすれば理由を教えていただきたいと思っています」
和豊はじっくりと考えている様子で、顎を撫でた。菊鶴は黙って彼が口を開くのを待つ。
やがて、和豊が静かに話し出した。
「一ヶ月と少し前のあの村の問題の発覚を受けて、確かに私も問題の倒魔官達と給与課の者の配属に対して偶然が過ぎると思った。更に、前課長が未だに五年前の視察の事に関してあまり口を開こうとしていないから、これは何かあるなと思っていたんだ。当時の事を忘れているのという様子ではなく、明らかに何かを濁らせるような調子だからね。それに思い返せば、あの村の問題の発覚前に視察をしろと一部の幹部が言ってきた事も、その時期も、図ったようだった。上層部は確かに何かを知っていた。そして菊鶴君の言う通りそれを黙視している。だから私も上層部にそれとなく探っていたんだが、はぐらかされるばかりでね。だが、菊鶴君が集めてくれた情報を突き付ければ、観念して何かこちらに情報を渡すかもしれない」
「……そうでしょうか」
報告しておきながら、菊鶴は不安に眉を下げた。源魔対策対応課が末端の部署であるという事を菊鶴は忘れていない。この現場には、情報があまり下りてこないのだ。福野には組織の闇を暴いてみたいなどと言ったが、確信的な情報を突き付けても尚はぐらかされる可能性は大いにある。
だが、和豊は菊鶴の心配を吹き飛ばすように力強く笑った。
「何とか上から情報を引き出して見せよう。大丈夫だ、藍沢君もいるんだから」
菊鶴は思わずぷっと噴き出した。
「そこは『私に任せておけ』くらい言ってくださいよ」
「それは出来ないよ。藍沢君は頭が切れる交渉人で、上層部に掛け合う上でとても重要なのは事実だからね」
「では、課長と副課長の手腕に期待します」
「ああ。菊鶴君が良い情報を持ってきてくれたんだ。それを生かすと約束しよう」
「よろしくお願い致します」
「菊鶴君は、対魔課内で情報を共有させておいてほしい。疑惑を知っている者が多いほど、こちら側が優勢に話が進みやすいだろうからね」
「分かりました」
「私は出来るだけ急いで上に話を聞くから。少し待っていてほしい」
期待を声に込めて、菊鶴は「はい!」と言った。
事態が大きく動き始める予感に、緊張と興奮で鼓動が早くなっていくのを菊鶴は感じていた。
第八章でした。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
そろそろクライマックスです。