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狭間の鬼神姫  作者: 廣本 涼
8/11

第七章

狭間の鬼神姫、第七章を掲載します。

序章の注意事項をご理解くださった方のみ、この先にお進みください。

藤真の過去編。


それでは、始まります。

 情報を集めた虎吉が報告をしたいと言うので、利輝は昼休憩の時間に合わせて虎吉を神領省から少し離れた場所にある食事処へ呼んだ。その店は神領省の者が利用する事は少なく、話を誰かに聞かれて不味い事になる、などという心配が無い。

 虎吉から直接報告させようと、菊鶴と福野も呼んでいる。彼らは午前の書類仕事がまだきりがついていないようで、それを終わらせて後から来ると言っていた。

「利輝様の同僚の方にお会いするのは初めてですね」

 虎吉が緊張気味に微笑む。

「そんなに肩を張らなくてもいい。私にするように、普段通りに報告すればいいからな」

 はい、と虎吉は頷いた。

 暫く待っていると、「お待たせ」という菊鶴の声が聞こえた。利輝と虎吉が後ろを振り向くと、菊鶴と福野と、何故か藤真がいた。三人は、利輝達の席の向かい側に腰を下ろす。藤真は少し遠慮がちだった。

「何故藤真がいるんです?」

 利輝は菊鶴に訊ねた。こういう事をするのは、福野ではない。そして藤真が自分から菊鶴達についてきたとは考えられない。

「相棒がこの話を知ってるのに、仲間外れは可哀想だと思ってさ。ちゃんと相棒同士で情報は共有しないと駄目だよ。大丈夫、ここに来るまでに一通りの事情は説明したから」

「……そういう事です」

 藤真が申し訳無さそうに言う。知ってしまったなら巻き込むしかない。「まあいいです」と利輝は気を取り直した。興味津々という顔で藤真を見ている虎吉を、利輝は肘で軽く突いた。ハッとした虎吉は、姿勢を正した。

「お初にお目に掛かります。利輝様に仕えております、山杉虎吉と申します」

「今回はありがとね」

 菊鶴の言葉に、虎吉はぺこりと一礼する。そして、周りに聞こえない絶妙な声量で話しだす。

「簡潔に、調査結果をお伝えいたします。一つ。厳柳の事ですが、彼は人間よりも術人の方が優れているとして、国の上層部の一部の人間達と対立していたようでした。その時にぽろりと、自分は兵器を作れるのだと脅すように言っていた事があったようです。それは思わず漏らしてしまった事のようで、一度言ったきりその発言に触れる事は無かったらしいです。あともう一つ。半年前、管理者のいない廃家屋で刃物を手に握り締めた身元不明の死体が三体発見されました。三人は廃家屋に住み着いていた浮浪者であり、亡くなったのは彼らが喧嘩をしてお互いを刃物で切り合ったからであるとして報告書が受理されましたが、それはどうやらどこからか圧力がかかった故の不正な報告だったようです。本当は、浮浪者とされた三人の服装や持ち物から身元が分かっていました。それが、神領省の元倒魔官である二人でした。行方が分からなくなっていた、あの二人です。もう一人は術人で、容姿の特徴が正体不明だった旅人のそれと酷似している事も分かりました。更に、その廃家屋は今は持ち主や管理者がいませんが、数十年前は厳柳の親戚が持っていた家だったようです。給与課の者については、現在調査中です。もうしばらくお時間を頂ければ、調べられると思います。報告は以上です」

 一瞬、しんとした。

「え、死んでる?」

 菊鶴が信じられないという声で言った。

「はい。殺されていたようでした。お互いを刃物で切り合ったというのも、偽装の可能性が高いです。死体があったのが誰も訪れない廃家屋だったので発見が遅れ、死体の状態がかなり悪くなっていたために詳しい事は分からないらしいですが。あ、そこに三人が住んでいたのは確かなようでした」

「その廃家屋に隠れていたのか……そして半年前に亡くなり、報告書は偽造された。それは探しても見つからないはずですね」

 福野が厳しい顔になる。菊鶴は自分の顎を撫でた。

「その廃家屋の持ち主が元は厳柳の親戚だったという事も考えると、これは確定かな」

「自分は兵器を作れる、という発言もありますしね」

 菊鶴の話を聞いた時、利輝は正直偶然の可能性も疑っていたが、そうとは考えられなくなってきた。輝政に統領の座を引きずり降ろされる気の毒な術人、という印象が利輝の中で書き変わっていく。

「山杉君、と言ったかな。給与課の術人の事は、あとどのくらいで調べられる?」

「一週間ほど頂ければ」

「よし!」

 菊鶴が力強く頷いた。

「その話を聞いてから、話を纏めて課長達に報告しよう。山杉君はご苦労様だったね。今日は好きな物を食べていいよ。僕の奢りだ」

「いいのですか? ありがとうございます」

 虎吉が嬉しそうに言った。

「この後もよろしくね」

「はい。必ずや実のある調査報告をいたします」

「菊鶴さん、僕達も奢ってもらえるんですか?」

 福野がさらっと訊ねる。「え」と声を上げた菊鶴はしばらく悩んでいたが、「いいだろう! 好きな物を頼みたまえ!」と気前の良い発言をした。

「いいんですか。やった」

 利輝は素直に喜ぶ。この店はいつも頼んでいる弁当屋の二倍くらいの値段がするのだ。

「あ、ありがとうございます」

 藤真が慌てて礼を言う。彼は話の展開について行くのに精いっぱいだったようで、ずっと真剣な表情で黙っていた。ようやく気が緩んだのか、ほっとした顔をしている。

「藤真さんは、利輝様の相棒なんですね。お仕事中の利輝様はどんなご様子ですか?」

 虎吉が身を乗り出しながら訊ねた。藤真はその勢いに戸惑ったような様子だったが、律儀に答える。

「真面目で優秀な人……ですかね」

「そうですか、そうですよね!」

「虎吉やめなさい、恥ずかしい」

 利輝がとめると、虎吉は「申し訳ありません」と姿勢を元に戻した。だが、それからもずっとうずうずとしながら藤真を見つめている。それを菊鶴はにやにやと、福野は微笑ましそうに眺めていた。

 英気を養う五人の食事は、賑やかに進んでいった。それは、嵐が到来する前の残り僅かな静けさのようにも思えた。


          *


 藤真は神領省に入省する一年前まで、ある地方の人間の家に護衛として仕えていた。その地元の名士である、三池坂という家だ。

 藤真の実家は、都南西、藤の家と呼ばれている。文字通り、都の南西にある藤の文字が象徴の家という意味だ。こういう表現は、都に昔から住んでいる一部の古い家しかしない。ちなみに藤の家は女家系で、男は肩身が狭かった。

 古い家という点や所謂名家と呼ばれる家と繋がりがある為によく勘違いされるが、藤真の実家自体は名家でも裕福でも何でもない。ただ、回復能力や戦闘能力の高さといった術人の力が強い子供が生まれるので、護衛などに重宝され家柄の良い家と知り合いになるだけなのである。

 藤真が三池坂家に働きに行ったのも、他の名家に都南西藤の家を紹介された三池坂家が護衛が出来る子供はいないかと声をかけてきた事が理由だった。条件に該当する者は藤真しかおらず、そのため藤真は十一歳の時に都にある自分の家を出て地方の三池坂家に働きに出たのだった。このように当時はまだ子供で、藤の家と他の家の付き合いや関係性の話などを知る前に三池坂家に行ったので、藤真は自分の実家の事をよく知らない。

 三池坂家には、藤真の四歳年上のらんという令嬢がいた。藤真は、彼女の護衛を仰せつかった。

「よろしくお願いしますね」

 初めて会った時、らんはそう言って微笑んだ。それがあまりに優しそうだったので、藤真は衝撃を受けた。女家系の自分の実家では、気が強い女性ばかりを見てきたからだ。よろしくお願い致します、と言った自分の声は上ずっていた。

 らんは、藤真の目の前まで近付いてくると、両手で藤真の頬を包んだ。手はひんやりとしており、藤真は肩をびくつかせた。

「白い髪、白い肌、琥珀色の瞳……」

 らんは、藤真の顔をなぞるように視線を動かした。藤真は硬直した。

「綺麗な顔。羨ましいわ」

 そう言って、最後に彼女は藤真の頬をむいっと伸ばした。

「おかしな顔。いくら美しい顔でも、こうすると変な顔になるのね。良かったわ」

 ふふっとらんが品良く笑った。藤真はされるがまま、呆然とらんを見ていた。

 それが、出会いだった。

 らんは、楚々としてたおやかな令嬢だった。頭も良く、よく「暇潰し」と言って藤真に勉強を教えてくれることがあった。背筋はいつも真っ直ぐに伸びていて凛としており、自分の意見をはっきりと言う。藤真はそんな彼女を尊敬していた。

 だが、らんは一つだけとても気にしている事があった。それが絡むと、普段の冷静で物静かな様子は一変してしまう。

 らんは、自分の容姿を酷く嫌っていた。確かに、らんはあまり器量が良いとは言えなかった。

「醜い、醜い、醜い。何でこんな顔に生まれたのかしら」

 恋に破れた時、らんは自室で髪を掻きまわしながらぶつぶつと呪いのように呟いた。藤真は、部屋の外でそれを黙って聞いていた。らんが好きになる男性はいつも、らんの容姿を理由に彼女の想いを拒絶するようだった。

 あの方の心の美しさを少しでも見れば、とても魅力的な女性だとすぐに気が付くのに。その殿方は目が悪いなと藤真は毎回思うのだった。

 一番初めに容姿で取り乱すらんを見たのは、十二歳の時だ。いつもの穏やかな様子はどこへ行ったのかと藤真は酷く動揺した。

「らん様は美しい方です。僕はそう思っています」

 何とか慰めようとそう言ったのが、間違いだった。らんは鬼のような形相で藤真を睨みつけた。藤真の髪を乱暴に掴み、引き寄せる。鼻と鼻がくっつきそうだった。

「藤真に何が分かるって言うの。美しいお前には言われたくないわ。私のどこが美しいって言うのよ。本当に美しかったら、こんな思いはしていないわ。気休めなんていらない!」

 そして、らんは藤真を突き飛ばす。藤真は畳の上に惨めに転がった。

「出て行って! 今はその綺麗な顔を見ると腹が立つの!」

 らんは叫んだ。藤真は、唇を噛んで頭を下げ、部屋の外に出ていくしかなった。

 髪を乱暴に掴まれたりした翌日、らんは藤真を見るなり駆け寄ってきて、ぎゅっと抱きしめた。

「ごめんなさい、藤真。私、とても酷い事をしたわ」

 いえ、と首を振る藤真の頭に、らんの手がそっと触れた。

「痛かったでしょう。本当にごめんなさい」

 らんの瞼は赤く腫れぼったくなっていた。あの後もきっと沢山泣いたのだ、と思うと藤真は胸が痛くなった。

 それから、らんは気分転換のためか、家の近くの小高い丘に登った。藤真はそれに同行した。丘の頂上で、らんは黙って町を見下ろしていた。

 帰り道、藤真は疲れきったらんを背負った。らんは小柄で、藤真が出会った時には既に彼女の身長を抜いていた。だから、彼女を背負って帰る事は楽だった。

「ねえ、藤真」

 背中に負ぶさったらんが、耳元で囁いた。

「藤真はとっても綺麗な顔をしているから、私、時々お前が憎くなるわ。お前に真っ直ぐに見つめられると、自分の醜い顔を隠してしまいたい気持ちになる時もある。でもね、お前が弟のように可愛いと思う時だってたくさんあるのよ。確かに私より背が高いけど、私より四つも年下で、それでも私を一生懸命守ろうと側にいてくれるお前が、可愛くて仕方がないの。お父様は心配性だから私にお前という護衛を付けたけど、この平和な町ではそんなもの必要ないのかもしれない。それでも、私はお前に出逢えてよかったと思うのよ」

 首に回ったらんの腕が、きゅっと締まる。少しの息苦しさを覚えながらも、藤真は幸福な気持ちになった。

 らんは恋に破れるたび、近くの丘に登った。そして、帰り道は必ず藤真が彼女を背負って帰った。

 屋敷までの道をゆっくりと歩いていると、らんは毎回必ず藤真の首に抱きついて

「お前は弟のように可愛い」

 と言った。それはまるでらんが自分に言い聞かせているようで藤真はざわざわとした気持ちになったが、同時に心が温かくなるような幸せな気分にもなった。

 藤真はらんに大切にされた。らんが学んだ知識を彼女から直接与えられ、らんが旅行に行く先について行って彼女の後ろで珍しい景色を見る事を許され、それは確かに護衛というよりは弟のような扱いだった。

 町を歩けば、地元の名士の令嬢として彼女は町民から慕われ、声をかけられた。彼女は呼び止められると嫌な顔一つせずに柔らかく微笑み、会話を楽しんでいた。

 素晴らしい方だと、藤真は常々そう思っていた。弟のように扱われると嬉しいが、藤真は護衛としての一線を必ず引いていた。そこは、らんも藤真の気持ちを尊重してくれ、必要以上に構おうとはしなかった。らんに仕える、という事が藤真の誇りだった。

 時折彼女が複雑な表情で藤真を見ている事は、気付いていた。彼女は本当に自分を弟のようだと思ってくれているが、それがらんが自分に言い聞かせている結果だという事も分かっていた。言い聞かせないと、藤真を弟のように思えないのだと知っていた。

 らんは、容姿の悩みから解放される事がなかった。らんが二十歳を過ぎ、縁談の話が舞い込んできても、相手に会うと断られる事が続いたのは大きかった。彼らははっきりと口にする事は無かったが、らんの容姿が断った原因である事は、縁談の話を深く知らない藤真でも分かった。恋に破れた時と同じように、らんは自分の容姿を呪い、憎み、取り乱した。

 そしてらんが縁談を断られ続け、三十歳になる年の事だった。その頃三池坂家は、らんがいつまでも嫁にいけない事に焦り始めていた。その空気はらんもひしひしと感じていたのだろう。もう何度目かもわからない。その時も縁談が断られると、らんの取り乱しようはいつもより激しかった。

「何でいつも私はこうなの……」

 這うような憎しみが籠った声が、部屋の中から聞こえてきた。藤真は、三池坂家の縁談選びに不満を感じていた。もっと相手を選べば、らんの容姿ではなく素晴らしい性格を見る人が見つかるだろう。そうすれば、らんも幸せになれるというのに。だが、三池坂家はある程度の家柄しか嫁ぎ先として認めていない。そうなると、縁談が限られることが現実だった。いっその事もう嫁がずに三池坂家の手伝いをすればいいと思うが、らんはどこかへ嫁いで子供を産む事に憧れているので、これもできない。どうしてらん様がこんな思いをしなければならないのだ、と藤真は苛立った。そして、何とかしてらんを慰められないかと必死になって考えた。今回のらんの取り乱しようは、彼女の心が壊れてしまうのではないかと心配になるほどだった。どうにかしなければと考えを巡らしていると、らんが藤真の顔を『美しい』と言って憎んでいる事を思い出した。その憎しみは、らんが容姿の事で悲しむ時に特に強くなっていると感じていた。憎いその顔が傷付けば、らんの中で少しは憎しみが和らぎ、心の負担が僅かでも減るのではないか。藤真はそう思い付いた。

 すぐに藤真は小刀で自分の顔を傷つけ、らんに見せた。らんは驚きで目を丸くしたが、その後に一瞬だが口元に笑みが浮かんだ。らんの纏っていたとげとげとした空気が、少しだけ和らぐ。ああ、これで良かったんだ。藤真は血の付いた小刀を持ったまま、らんに微笑みかけた。切れた頬は痛かったが、らんの心が少しでも穏やかになるのならば、些細な事だ。それから、らんは気持ちを持ち直し、普段のたおやかな彼女に戻った。藤真は心底ほっとした。

 その数日後、藤真はらんの部屋に呼び出された。

 部屋の前に立つと同時に、障子の奥から声が聞こえた。

「藤真、来たのね。入っておいで」

 藤真が障子を開けてそっと部屋の中へ入ると、

「私の前へ座りなさい」

 とらんが微笑んだ。その頬には、涙が流れた跡があった。藤真の心がざわつく。

 藤真は言われた通りらんの前に畳一枚分の距離を開けて腰を下ろそうとしたが、すかさず「もっと近く」と言われた。困惑しながら、半畳程度の距離を空けて座る。すると、らんはもどかしそうにお互いの膝が触れるほど近くまで移動してきた。その近さに驚いていると、らんの両腕が伸びてきて、ぎゅっと抱きしめられる。らんの方が藤真よりずっと小柄なので、抱きついていると表現した方が正しいかもしれない。

「らん様?」

「黙って」

 らんがぴしゃりと言い、藤真に抱きついている腕に力がこもった。藤真はいつもと様子がおかしいと不安になりながらも、彼女の望み通りに何も言わずにじっとしていた。

 暫くらんは藤真を抱きしめていたが、やがて、腕を解いて身体を離した。

 らんが藤真の顔を見上げてくる。

「頬の傷、もう治ったのね。藤真は術人ですものね。治るのが早いわ」

 そう言って、らんは傷があった場所を指で撫でた。

「お望みでしたら、何度でも……」

 残念そうな響きを感じて藤真は言ったが、らんは首を横に振った。

「いいえ、いいのよ。今日はその事で話があります」

 藤真の頬から手を離し、らんはすっと背筋を伸ばした。

「お前が顔に傷をつけた時、正直私は嬉しいと思ってしまったの。私のためにそこまでしてくれるお前の気持ちが、とっても嬉しかった」

 良かった、と藤真は思った。だが何故か、不安感が湧き上がってきて止まらない。

「でも、もう駄目よ。私が、お前にそんな事をさせてしまった。それで心が決まったわ」

 嫌な予感がする。藤真はごくりと唾を飲み込んだ。

「お前とは、もう一緒にはいられない」

 らんは眉を下げて微笑んだ。

 言葉の意味を理解して息苦しくなり、藤真は「は」と短く息を吐いた。

「ねえ、藤真。お前はもう不老が始まっているわね。一、二年ほど前からお前の容姿は全く変わっていないもの。そうでしょう?」

「……はい」

 掠れた声で藤真は答えた。

「私は今年で三十歳になる。もう限界だったのよ。お前の容姿は今後も変わらずに、若くて美しいまま。そんなお前の前で私はこれからどんどん老いていく。そんな事、とてもじゃないけど耐えられない。そう考えていた所に、今回私の所為でお前が自分を傷つけるという事が起きた。これではっきりとしたの。もう私はお前とは一緒にいられないと」

 傷付いたお前の顔を喜ぶなんて主として正しくないでしょう? とらんは涙目になりながら微笑む。

「歪んでいると分かっていても、私は自分の醜さを呪わずにはいられないし、お前の顔が傷付けば嬉しくなるわ。そしてお前は純粋に私を慕ってくれているから、私の思いに応えようとしてしまう。こんな歪んだ関係なんて、絶対に許してはいけないのよ」

 らんのひんやりとした手が、藤真の両頬をそっと包み込んだ。

「ずっと美しいお前が憎かった……! けれど可愛かった。お前を憎み過ぎないように自分の弟のようだと言い聞かせていたら、本当に弟のように思えてきて……」

 微笑みながらはらはらと涙を流すらんを、藤真は呆然と見つめていた。

「お願い、藤真。私から離れて。これからも衰える事の無いお前の若さと美しさを、私が心の底から憎む前に。可愛い弟だと思っている内に」

「らん様は、そんなにあっさりと俺を手放してしまわれるのですか。十五年もお傍にいたのに。可愛い弟だと言うその口で、離れろとおっしゃるのですか……?」

「ええ、言うわ」

 らんは即答した。

「お前を歪ませてしまったのは私。お前が傍にいる事が耐えられなくなったのも私の問題。恨んでくれて構わないわ。でも、もう決めたのよ」

「嫌です」

 駄々を捏ねる子供のように、藤真は首を振った。らんは困ったように笑う。

「どうか三池坂家から離れて、新しい主を見つけて。今度は私のようなお前を歪めてしまう者ではなく、お前が仕えるに相応しい真っ直ぐな素晴らしい主に出逢ってね」

「嫌です、らん様」

 藤真は思わずらんの両肩をぐっと掴んだ。らんがその手をパンッと振り払う。そして、懐から小刀を出すと鞘を放り投げ、切っ先を眼球に向けた。

「らん様、何を!」

 藤真は驚いて大きな声を上げた。

 らんは真剣な表情をして藤真を見つめた。

「藤真。お前が離れてくれないのなら、私は両目を潰した上で命を絶つわ」

「何を……」

「私にとっては都合がいいわ。だって、醜い自分の顔を見る事も美しいお前の顔を見る事も無くなるのですからね」

 らんは更に刃を目に近付ける。眼球に今にも触れそうで、ぞっとした。このままではらんは本当に言った事を実行する。十五年も傍にいたのだ、彼女が本気である事はすぐに分かった。

「藤真、私から離れて」

 藤真は頷くしかなかった。

 三日後、藤真は三池坂家の屋敷を出た。

 当主にはらんが全て話をした。藤真はらんの後ろで、黙って話が進んでいくのを聞いているだけだった。

「いいのか」

 らんの父である当主が、最後に一言だけ藤真に向かって言った。

「はい」

 と藤真は静かに答えた。それが、らんの望みだからだ。

 三池坂家は娘の我儘だから新しい護衛の働き口を見つけてやると言ってきたが、らんからまだ気持ちを切り替えられないと思った藤真はそれを断った。

「これからどこへ行くの?」

 見送りに来た使用人の女性達は、心配そうだった。

「十五年も働いてたんだ。暫くはゆっくり旅でもするよ」

 藤真は小さく笑って見せた。女性達は痛ましい者を見る目をしていた。

「らん様はお見送りにいらっしゃらないのね……」

 一人の女性が少し責めるような口調で言う。藤真は苦笑した。

 らんの部屋には、屋敷を出る前日に別れの挨拶に行っていた。部屋の前で腰を下ろし、障子越しに話をした。

「行くのね」

 静かな声だった。

「はい」

 藤真は声が震えそうになるのを必死で堪えながら言った。

「十五年間、ありがとう」

「いえ。結局お守りする機会がありませんでした」

「平和ですからね、ここは」

 らんが微かに笑った気配がする。

「お前はいつも私の傍にいたわ。外へ行って疲れたら帰り道に負ぶってくれたりしたわね。まるでお婆ちゃんのような扱いだけど、お前に負ぶわれると安心した」

「……ありがとうございます」

「藤真、元気でね」

 藤真は額が床につくまで、深々と頭を下げた。

「らん様の幸せを、願っております」

 返事は無かった。

 それを思い出しながら、藤真は使用人の女性達を見回した。

「俺は三池坂家から離れますが、当主様やらん様、そして皆さんの幸せを遠くから願っています。今までありがとうございました」

 涙ぐんだ女性達から「元気でね」などと別れの言葉を貰い、藤真は十五年住み込みで働いていた三池坂家を後にした。


          *


 暫くは主を失った喪失感に何もやる気が出ず、半年ほど放浪の旅をしていた。目的も無く、ただ色々な街を彷徨った。

 だが半年が過ぎると、生活費の問題が出てきた。いつまでもふらふらとしてはいられなくなってきたのだ。そろそろ働き口を探さなければと実家に帰り、家族にそれとなく相談すると、彼女達も「出来るのであれば働きに行ってみれば」と賛成した。

 藤真は迷った末、子供の頃に格好いいと憧れていた倒魔官になる事を決めた。今度は主ではなく相棒を見つけられる事も魅力的だった。

 半年間必死に勉強し、神領省に入省した藤真は、どんな人が相棒になるのだろうと思っていた。

 まさか令嬢と相棒になるとは、予想だにしていなかった。

 利輝は、若い頃のらんを彷彿させる高貴な少女だった。いや、その高貴さはらん以上だろう。そんな彼女から「対等でいよう」と言われた時は、これで主のいない寂しさを忘れようと思った。

 だが、利輝と山杉虎吉という青年の関係を見て、懐かしさと羨ましさが込み上げてくる。子供の頃から人に仕える事が当たり前で育ってきたのだ。神領省で働き始めてからは忘れられたと思ったが、やはり藤真にとっての『当たり前』は心の深い所に根付いていた。

 それに、虎吉は利輝に信頼の目を向けられていた。藤真にその目が向けられた事はまだ無い。

 自分は主のいない寂しさを忘れられず、相棒としても信頼されていない。今の藤真はとても中途半端だった。

 まずはどうにかして利輝に信頼されたいものだ、と藤真は思いながら、菊鶴の奢りの高級な昼食を口に運んだ。

第七章でした。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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