第四章
狭間の鬼神姫、第四章を掲載します。
序章の注意事項をご理解くださった方のみ、先にお進みください。
それでは、始まります。
利輝達は、山道を登っていた。夏が近づいてきている季節、山道を歩いていると酷く暑い。曇り空である事がまだ幸いだった。
「暑い」
普段の快活な様子はどこへ行ったのか、先頭の科乃が暗い顔でぽつりと呟いた。
利輝の隣の藤真が、最後尾を歩く花菱を気遣う。
「大丈夫ですか、花菱さん。刀を持ちましょうか」
十代前半の容姿である花菱は、背が低い。力は普通の術人よりも強いので普段刀を軽く扱っているが、体に不釣り合いな長さの刀は山道を登るのには邪魔なように見えた。
しかし、花菱は抱えこんでいる刀を持ち直して、首を振った。
「僕は大丈夫だ。これは自分で持つ。それよりも科乃の刀を持ってやってくれ。あいつには重いだろう」
それを聞いた科乃は腰に差している刀を見て、悲しそうな顔をした。彼女は先程から微かに息が上がっている。術人の藤真や花菱、術人の血が半分混じっている利輝は仕事柄も生まれ持った体力的にも刀を持ち歩く事など容易いが、同じ倒魔官でも人間である科乃は刀を持って歩く事に慣れていない。しかも、彼女は女性だ。重くて慣れない刀を持って山道を登り続けるのは辛いはずだった。それを失念していた利輝は、もっと早くに気付いてあげればよかったと後悔した。
藤真もハッとした顔をして、科乃に手を差し出した。
「持たせてください」
「……ありがとう」
科乃は少し悔しそうに、刀を藤真に渡した。神領省の備品である護身用の刀だ。短めで、人間の女性でもまだ扱える。藤真はそれを軽々と持った。腰には差さず、手で持っていくようだ。
これは、異常事態だった。
通常、視察は各分所につき一組が向かう。だが、今回は利輝と藤真、科乃と花菱の二組が出向する事になった。しかも、科乃は護身用の刀まで持っている。
問題が発覚したのは、三日前だった。
地方のある町の分所に、対魔課のある一組が視察に行った。そこで彼女らはある事に気が付いた。町の近くの山の中には小さな村があるのだが、その村の対魔分所に配属されていたはずの倒魔官達が町の分所で働いていたのだ。視察当日、問題の倒魔官達は隠れており姿を見せなかったのだが、町の分所の記録に働いていた形跡が残っていた事から、村の分所を放棄して何故か町の分所で五年前から働いていると判明した。
対魔課の者がどういう事だと問い詰めると、彼らは五年前に村民によって分所から追い出されていたのだという事が分かった。追い出された時に報告しなかったのは、誰にも言うなと村民に脅されていたからだと倒魔官達は話したという。それを破れば命が危ないと彼らは怯えていたらしい。彼らは町の分所に逃げ込み、五年間、町の倒魔官は元締めである源魔対策対応課に隠して、彼らを匿っていたようだ。運悪く対魔課の視察時の分所巡りの旅でここ近辺を通らなかった事もあり、ばれなかったというわけだ。しかし、彼らだけでは給料などはどうにもできない。それで更に詳しく話を聞き出すと、村や町の倒魔官達に相談を受けた神領省事務局給与課の担当官一人が、彼らが村できちんと働いていると偽って村の倒魔官達に給料を渡していたようだった。つまり、神領省の者と町の倒魔官と村の倒魔官達が手を組んで、問題を五年間ひた隠しにしてきたのだ。これは大問題だった。
その始末に、視察に行った倒魔官達は追われている。給与課も大騒ぎだという。源魔対策対応課も、忙しくなった。
そして、利輝達倒魔官四名に与えられた任務は、件の村の確認だった。お互いが刀を使える利輝と藤真の組に、戦闘能力が高い花菱がいる科乃達の組。状況はかなり危険である可能性があると課長達は判断したようだ。
村の情報は、殆ど無い。村の倒魔官だった二人は、命が惜しいからと追い出されるまで何があったのかをなかなか話そうとしなかった。
断片的な話を繋ぎ合わせると、
・村は自給自足で、山の中にある事もあり、孤立気味だった。
・五年前からは完全に閉ざされている。
・ある時、村は術人であるマサメ(真覚)派、人間であるアツモリ(厚森)派に分かれた。
という事である。「村人は源魔に呪われた」などともぽつりと言っていたそうだ。源魔に関する事で村に問題が起き、倒魔官達が追い出されたと推測される。彼らに確認したところ、肯定はしなかったが否定もなかったらしい。
「さて、どうなる事やら」
既に疲れたような声で花菱が言った。
「状況が殆ど見えてきませんからね」
藤真が困った顔をした。
「源魔退治なら楽なんだけどなあ……」
戦闘能力が高い花菱らしい言葉だった。科乃が振り向く。
「私は、逃げ回らないといけなくなるので、嫌ですけどね」
「大丈夫だ。今回は苑条も藤真もいる。それに、いざとなればいつものように僕が守ってやる」
聞いていて何だがこちらが恥ずかしくなり、利輝は無表情を保ちながらも視線を彷徨わせた。きゃー、格好いい! などと言って茶化してくれる菊鶴は、ここにはいない。こういう必要な時にいてくれないんだよな、と利輝はお門違いだと理解しつつも内心で菊鶴を責めた。
お願いしますね、と微笑んだ科乃は、息が上がって苦しそうだった。藤真が心配そうに眉を下げる。
「俺、科乃さんを背負いましょうか。そちらの方が科乃さんが楽でしょう」
それは嫌だろうな、と利輝が思うと同時に「遠慮しておくわ」と科乃が即答した。そうですか、と藤真は断られた事に対して不思議そうな顔をしていた。
「藤真、科乃をあまり喋らすな。科乃も話すな。体力を余計に使うんじゃない。着いて終わりじゃないんだぞ」
花菱の言葉に科乃がこくりと頷き、前を見た。「すみません」と藤真が謝る。
「とにかく、全員気を引き締めるように。状況が分からない以上、細心の注意を払え。何かが起こったら、まずは自分の命を守る事を優先すること。いいな」
利輝と藤真は「はい」と返事し、科乃は前を見たまま頷いた。
ひたすらに山道を登っていくと、禍々しい気配が近づいてきた。
「科乃、目を貸せ!」
叫んだ花菱が、科乃の前に飛び出る。バッとこちらを見た藤真に、利輝は「もう貸している」と答えた。利輝と藤真と花菱の三人はいつでも刀を抜けるように柄に手をかけた。
「まだ遠いな」
低く花菱が呟く。科乃を刀を持つ者で囲み、じりじりと四人は進んでいった。
やがて、道が開けて民家の屋根がぽつぽつと見えた。恐らく、これが件の村だろう。四人は顔を見合わせた。
利輝達は警戒態勢のまま、村に入った。じっとりとした湿気が体に、顔に、纏わりついてくる。
藤真が科乃に護身用の刀を返した。科乃がそれを握りしめる。花菱と利輝は村を見回した。隅々までここから見られるほど、小さい村だった。家は、二十軒近くしかない。
「ちょっと、これは……」
藤真が耐え切れない、といった様子で口元を手で覆った。
「吐くなら村の外に行け」
そう言う花菱も、源魔の気配の酷さに顔を歪めている。利輝も思わず顔を顰めた。
「どうしますか、花菱さん。これは少しまずいかもしれません」
「ああ」
「私と藤真が見てきましょうか。花菱さんは、科乃さんを連れてこの辺りで待っていてくだされば」
「そうだな……」
花菱が悩む表情を見せる。息を整えた科乃が、「どうしたんですか」と不安そうに花菱に訊ねた。完全な人間である科乃は、この気配を術人よりは感じないのだろう。
「源魔の気配が濃い。こんなに酷いのは初めてだ。気配に慣れている僕でも気分が悪くなる。かなり強い源魔がいるかもしれないが、普通の源魔の気配とは少し毛色が違うような気もする」
肌がぴりぴりとざわつく。本能が、危険だと訴えてきていた。人間の血が入っているので花菱達よりはましだろうが、それでも酷い気配だと利輝は思った。
藤真が発言権を求めるようにおずおずと手を上げた。
「源魔もそうですけど……この村、少しおかしいと思いませんか。人が住んでいるにしては家がぼろぼろだし、人の気配もあまり感じられません。それに、昼なのに何だが薄暗いです」
「強い源魔が来たから、昔に村の人がみんな逃げたとか?」
「いや、それはおかしいです」
利輝は科乃の言葉を否定する。
「何軒かに洗濯物があります。まだ濡れていますから、今日洗ったばかりでしょう。あんまり綺麗じゃありませんけど……でも雨が降った気配は無いので、あれは洗濯したものです」
「本当ね」
科乃が村の家を注意深く見てから、納得したように言った。
「ぼろぼろの家と、それほどではない家があるな」
花菱の言う通り、今にも崩れそうな家と辛うじて人が住めそうな家がある。住めそうな家の方が数が少ない。
「取り敢えず、分所を探すぞ。倒魔官達が真面目に仕事をしていたのなら、もしかすると五年前の書類が残っているかもしれない」
「花菱さん達はここに残っていてくださった方がいいのではないでしょうか」
花菱は首を振った。
「いや、僕達も行く。今は纏まって行動した方が良いだろう」
わかりました、と利輝は頷いた。
利輝達は刀に手をかけながら、分所を探しに静かに村の奥へと入っていった。この村の対魔分所に前回視察が来たのは、五年前だ。近くの町の分所と纏めて視察が入った。その視察が終わって一ヶ月も経たないうちに、村から倒魔官が追い出されたようだ。
前回の視察の報告書や資料は事前に読み込んできてある。その資料によると、空気も綺麗で穏やかな村だったらしい。村人と倒魔官達の関係も上々だったと報告書には書いてある。しかし、その後すぐに彼らは追い出された。その短期間で一体何があったのか。追い出された倒魔官達が語ろうとしなかったため、利輝達は分からないままだ。分所の位置は、資料に記されていた。
利輝達は、その資料通りの場所へ着いた。
「これは…」
利輝は、言葉を失った。
対魔分所の建物は、跡形もなくなっていた。辛うじて、地面に焦げたような跡が残るのみだ。藤真は動揺したような顔をし、科乃は眉を顰め、花菱は無表情で言った。
「……一応、他の場所も探すぞ」
四人は村をぐるりと回ったが、分所らしき建物は発見できなかった。気配の濃さのわりに、源魔も姿が見えない。それが奇妙であり、気味が悪かった。
結局、利輝達は分所の跡地だと思われる場所に戻ってきた。
「分所を、壊したんでしょうか」
藤真が顔を強張らせて言った。
そうだろうな、と花菱は冷ややかに頷く。
「うっかり火事か何かが起きてなくなったとは、あまり考えられない。倒魔官を追い出した村で、たまたま分所に火事が起こってたまたま跡形もなくなるなんていうのは、出来過ぎた偶然だろう」
「おい!」
突然、怒鳴り声が聞こえた。利輝達は、バッと振り返った。遠くから、術人が走ってくる。
厳つい顔をした五十代くらいの術人は、近くまでやってくると利輝達をじろりと睨みつけた。
「何者だ」
いつでも抜刀できるようにしている者が、四人中三人もいるのだ。厳つい顔に、少しの怯えが混じる。
花菱が科乃を後ろに庇いながらも刀から手を離した。利輝と藤真には、そのままでいろと目配せがあった。
「神領省から参りました。勝手に村に入っていた事はお詫びします。申し訳ありません。村人の方ですか?」
「ああ」
「それでしたら、お聞きしたい事があるのです。その為に我々はこの村にお邪魔しました。村の方を集めていただけませんか」
刀にちらちらと視線を向けながらも、術人の男性はぶっきらぼうに言った。
「何でいきなりやって来た奴らのいう事を聞かにゃならん。出ていけ。二度とここには来るな」
「お願いします」
少年の声だが、ぞくりとするような響きがあった。術人がびくっと震える。
彼は舌打ちをして、
「ちょっとここで待っておけ」
と吐き捨てるように言い残してどこかへ走って行った。
「酷く顔色が悪い人でしたね」
「こんなに濃い源魔の気配の中で暮らしているんだ。健康なわけがない。ここで暮らせているあの男の気が知れない」
僕なら絶対に無理だ、という言葉に藤真と利輝は頷いた。
あまり時間が経たないうちに、男性が戻ってきた。
「村長様がお会いになられる。ついて来い」
「ちょっと待ってください」
花菱が厳しい顔をした。
「村の皆さんを集めていただきたいのですが」
「集めるほどもう人はおらん。そんなに会いたきゃ、村長様にお願いしろ。あの方の言う事なら、みんなどれほど嫌だろうと聞くだろうさ」
苛々した表情の男性は、さっさと歩き出した。
「仕方ない」
花菱は溜息を吐いた。四人は彼の後をついて行った。
村の中で一番大きかった家の前で、男性は立ち止まった。引き戸をそっと開け、
「村長様、連れてきました」
と利輝達に対する態度からは信じられないほどに優しい声で中に声をかけた。
「どうぞ」
か細い老人の声が聞こえた。
中に足を踏み入れた男性が、忌々しそうに手招きした。利輝達は、次々に土間に入った。
家の中は、広い部屋が一つだけだった。奥に布団が敷かれ、誰かが寝ている。部屋の奥から、「どうぞお上がりください」という声が聞こえた。四人は一礼して、土間から家の中へ上がった。
「もういいわよ、ありがとう」
土間に立つ男性が戸惑った顔をする。
「いや、しかし……」
「私はこの人達とお話しするの。だから下がってください。皆、不安がっているだろうから、私が大丈夫よって言っていたと伝えてきて」
「……分かりました」
男性が渋々出ていき、戸が閉められる。
空気の流れが止まって源魔の濃い気配が立ち込めた部屋は、息が詰まるようだった。外の方が何倍もましだったのだと思い知る。
ごそごそと布団が蠢き、人が身体を起こして座った。濁った灰色の髪の、老婆だった。
老婆はにっこりと微笑んだ。黄色い乱杭歯が見える。寝間着から見える棒のような腕には呪の痣が浮かんでいない。人間のようだ。
「お座りになって」
老婆は自分の布団の近くを勧めた。利輝達は、老婆が勧めた位置より少し離れた場所に一列に、帯刀したまま座った。
「この村の村長をしております。もう年だから身体のあちこちが悪くてね、布団に入ったままお相手する事をお許しくださいね」
代表して花菱が口を開く。
「神領省霊事局警務部源魔対策対応課の者です。突然押しかける形になってしまい、申し訳ありません」
「いいんですよ」
村長がにこやかな笑顔のまま言う。
「お役人様ですね。いつかはきっと来られるものだと覚悟しておりました。予想よりずっと遅かったけれど。対魔分所の倒魔官達を追い出したから、あなた方が来られたんでしょう。あの人達、今の今までちゃんと黙っていたのね」
「問題が発覚したのは、別の場所の分所を視察した際に彼らを発見したからです。この村で働いていた彼らは何も語りませんでした。脅されたと言って。どういう事か、この村の現状も含めて全てお話していただきます。いいですね」
否と言わせない口調で、花菱が言いきった。村長の老婆は穏やかに頷いた。そして、利輝達一人一人の顔を確認するようにゆっくりと見た。
まず、真ん中に座る花菱を見る。
「お役人様として働いておられるし、しっかりしていらっしゃるから、そんな子供の容姿をしていらっしゃるけど、大人なのでしょうね。子供の容姿で不老になった方にお会いするのは、生まれて初めてです」
次に、花菱の隣に座る科乃を見た。
「貴女は人間でいらっしゃるのね。私と一緒。可愛らしく綺麗なお嬢様ですこと。それに、はきはきとしていそうだわ」
科乃の隣に座る藤真を見る。
「白い髪の方も初めてお会いします。これまた美しい方。私がきっと若かったら、ぽーっと見惚れてしまっていたわ」
最後に、花菱のもう片方の隣に座る利輝を見た。
「変わったお面を被っていらっしゃるのね。人の上に立つような、とても高貴な方。きっとそうでしょう? そんな雰囲気が伝わってきます。それに、とても独特の気配を持った方ね。不思議だわ」
困惑する空気が流れる中、村長はふふっと笑う。
「私はね、人間も術人も、とにかく人がだあいすきなんです。初めて会った方でも好きになってしまうから、村人はもっともっと大好き。みーんな家族のように接してきました。だから、家族にはなるべく争ってほしくないし、長生きしてもらいたいんです。平和に平和に、穏やかに暮らしていく。それが私が村長になった時に絶対に守ろうと決めた事ですし、実際にそんな生活が村人みんなで送れていました。……でも、人って悲しいものね」
急に、村長が悲しそうな顔になる。
「五年前、私が身体を壊した事をきっかけに、次の村長を選ぼうという話になりました。立候補したのは、真覚という術人と厚森花という人間でした。二人共まだ三十代と若かったのですが、賢くてしっかりしていて、どちらに村を任せても安心だと皆が思っていました。でも一つだけ、問題があったんです。それは、立候補の時に発表した今後の方針の中に、お互いに自分の種が楽に暮らせるような仕組みを混ぜている事でした。恐らく無意識だったのでしょう。よりよく生活していく為に、という事を真面目に考えて、それを突き詰めるとどうしても自分達の種を優先してしまう考えに辿り着いてしまったのです。人間と術人は似ているけど違う存在。相手の感覚を理解する事は難しいですよね。術人は人間の力の弱さをついうっかり忘れてしまう事があるし、人間は術人が霊力が使えない事を忘れてしまう事があります。あの時の二人には、そういう事が起こっただけ」
それはどうだろうか、と利輝は思った。真覚と厚森花が無意識だったかどうかは分からない。現統領である厳柳は、人々に気付かれないように、恐らく意識して術人優先の政策を織り交ぜている。二人が村長の言う通り賢かったならば、違う種の事まで考える事も出来ただろう。意識的に方針に入れた可能性がある。
「村人は自分と違う種の村長候補が、少しばかり不公平な方針を入れている事に気が付きました。そして、それが許せなかった。不信感を持ってしまったんです。自分と違う種が村長になれば、自分達にとってどんどん不利な状況になっていくんじゃないかって。皆、相手を糾弾し、自分と同じ種の候補を強く支持するようになってしまいました。術人は真覚を、人間は花を。あれだけ仲が良かった村が、そのたった一回で真っ二つに割れてしまったんです。こんなに脆いものなのかと、私は悲しくて悲しくて。今までの村の絆は幻だったのかと思いました」
老婆の目尻に、涙が浮かぶ。村長はそれを指先でそっと拭い、「ごめんなさいね」と弱々しく微笑んだ。
「私は何度も、争いをやめて、平和的に解決して村長を決めようと言いました。真覚と花には、問題の部分の方針をやめるように命じました。二人はすぐにそれを取り下げましたが、それでは何も解決しませんでした。一度抱いた不信感が村人の中から消える事は無かったのです。争いをやめてという私の言葉は、もう誰にも届かなくなってしまいました。真覚と花の仲も次第に悪くなっていきました。二人共、自分が村長になって村を引っ張っていくのだという気持ちがどんどん強くなっていったようでした。村長に立候補したての頃は、そんな事なかったのに。どちらが選ばれても選ばれなかった方と協力して村を良くしていこうね、なんて話していたんですよ。それなのに、どんどん仲が悪くなっていって……」
「仲が悪くなる前に、何か変わった事は無かったんですか?」
花菱が滑り込ませるように質問した。
そうねえ、と村長が考え込む。
「大きな事があったと言えば、神領省から視察に来られた事くらいしか……」
利輝達は思わず顔を見合わせた。空気がざわめいた事に気が付いたのか、村長が「でも関係ないと思うわ」と首を振った。
「真覚も花も外部の、しかも都の大きなお役所から来られた方々に興味津々だったけれど、あの方達はとてもお忙しそうで、村人と関わる時間なんてなかった様子だったもの」
「でも、うちの者が来た後に二人の仲が悪くなったんですよね」
花菱が鋭い目になる。
「そうねえ……」
「問題になった方針を二人が出したのは?」
「視察の後ですけど……」
五年前にこの村に視察に来た倒魔官達は、二人共もう神領省を辞めていたはずだ。彼らが真覚と厚森花の仲を悪くするような事をしたのか。それは考え過ぎなのか。利輝にはまだ判断が出来ない。
「村人達の対立は、もう止められないところまで来ていました。村長である私にも、どうにもできなかった。二人の立候補を私が取りやめにしたら争いが無くなるかと思ったけれど、真覚も花も今度は言う事を聞いてくれなかったんです。村に暴動が起こる寸前まで行きました。ですが、唐突に村の対立は終わりました」
村長がぽろりと涙を零した。
「村が源魔に襲われ、真覚と花が魔症になったからです。村人達は、悲しい事に、それでやっと冷静になりました。争いなんて、馬鹿げてるって。村をこの先引っ張って行けるのは真覚と花以外いない。だったら、協力すれば良かったんだって。もう問題の方針だってとっくに二人は取り下げていたのに。でもそれに村人が気付いた時には、二人は死に向かっていました。魔症を治せる薬なんて、この村にはありませんでした。だけど、二人を死なせたくはない。だから私達は、ある旅人の方から教えられたよみがえりの術を試す事にしたんです」
「よみがえりの術?」
唐突に出てきた怪しい単語に、花菱が不審そうに聞き返す。
「ええ。よみがえりの術です。薬以外に、魔症にかかった者の死を防ぐ方法はありません。でも、術人には術人の血を、人間には人間の血を、魔症にかかった者に与えるんです。そして魔症にかかった者が亡くなったら、血を含ませた水で身体を拭き、その後丁寧に拭き取ります。それを定期的に繰り返すんです。そして五年経てば、穢れた血が奇麗になってよみがえると言われました」
「そんな話を信じたんですか?」
花菱が他の者の思いを代弁した。
「私だって聞いた時には信じられませんでしたよ。その旅人の方が来られたのは、真覚と花が魔症にかかるちょうど一年前でしたかねえ……この村は幸いにして源魔に襲われる頻度は少なかったんですけど、十年に一度くらいは魔症にかかる者がいました。だから、一応覚えておいたんです。それが良かった。私達は、藁にも縋る思いで血を集め、真覚と花に与えました。するとね、身体が腐らないんですよ。魔症になった者は血が汚れて身体が腐るというのに、奇麗なままなんです。真覚と花は魔症にかかった数日後に亡くなりましたが、私達は二人の身体を血で薄めた水で拭きました。すると、死んでも身体が傷まない。まるで眠ったままのように美しい死体を保つんです。それで私達は信じる気になりました。これはきっと生き返るって。それでも亡くなった事は悲しくて堪らなくて、村の元気はなくなりました。身体を壊して、亡くなる人も増えました。村の人口は、五年前の半分以下です。でもきっと、二人が生き返ったら村は変わる。二人が村を引っ張っていってくれる。皆そう信じています。だから五年間、二人のお世話を皆で順番にやってきたのよ」
老婆はうっとりと笑った。夢の中にどっぷりと浸っているような表情だった。利輝は背筋がぞっとした。
「この村の現状は分かりました。それで、どうして倒魔官を追い出したんですか?」
表情を変えないまま花菱が訊くと、村長はキッと眉を吊り上げた。
「あの二人は、亡くなった二人の死体をこっそりと焼こうとしたからですよ! 源魔を倒しきれなかった役立たずのくせに! 死体をそのままにしておくのは良くない、早く燃やすべきだって! あんなに奇麗で、どこも傷んでいないのに、二人は真覚と花はもう死んだんだから弔うべきだって、あの子達を私達村人から奪おうとしたんです!」
「魔症で死んだ者の遺体は、燃やす決まりになっています。そうしないと、空気が汚れてしまうからです」
「それは、通常の場合ですよね? 真覚と花は違うわ。あの子達にはきちんと処理をしている。だから五年経った今でも当時の美しい姿のままよ!」
「でも、空気は酷く汚れていますよ。だから身体を壊して亡くなる人が増えたんでしょう」
「そんな事ないわ。私は全然平気よ」
「それは貴女が人間だから感じていないだけだ。貴女の身体にもこの空気は悪影響でしかない。源魔の気配を強く感じる術人は、更に辛いはず」
「術人の村人だって、何も言わないわ。貴方が少しおかしいのよ」
ねえ、平気よねえ? ひっくり返った声で老婆は利輝と科乃に同意を求めた。呪の痣は隠しているので、利輝の事も人間だと思っているのだろう。
「二人を燃やそうとする奴なんか仲間でもなんでもありません。あれは人じゃないわ。だから村から追い出したの。あいつらがいた場所は、焼き払ってやりました。あいつらがいなくなっても問題はありませんでしたよ。霊力がちょっと強めの子と喧嘩が強い子がうちの村にはいましたからね。いざとなったら二人に源魔を任せればいい話でした。五年間、それでうちの村は大丈夫だったわ。倒魔官達が仲間を呼んで真覚と花を奪いに来たらいけないから、あいつらには絶対にこの事は言わないようにと脅しました。それでもいつかはお仲間が来ると覚悟していたけれど、その時は何があっても追い帰すつもりでした」
その言葉を聞いて、利輝はすぐに刀を抜けるように手の位置をゆっくりと移動させた。
「では、何故我々にはこうして家に招いてお話をしてくださったのですか」
「だって、もういいんだもの。昨日だったら追い帰していました。本当は旅の方によみがえりの術を村の外の人間には教えちゃ駄目って言われてたんだけど……それももういいわ。今日はお祝いの日ですから、特別よ。細かい事は気にしちゃ駄目。皆が笑えるようになればそれでいいのよ」
あはは、と声高く老婆は笑った。
「五年よ、五年。長かったわ。五年って、こんなに長いものなのね。ずっと悲しかった……でも、これも今日で終わり。やっとよ。真覚と花が戻ってくる。やっと今日、目を覚ますわ。これでまたみんな仲良く暮らすのよ。今度こそね」
あはは、あはは、と老婆は壊れたように笑い続ける。その目にはもう、利輝達の姿は映っていない。
「村長さん」
花菱が声をかけるが、返事は無かった。駄目だ、というように彼は首を振った。
「お話しいただき、ありがとうございました。失礼します」
一応、という調子でその言葉を残すと、花菱は立ち上がった。
「行くぞ。死体を見に行く」
四人は老婆の家を飛び出した。すると、扉のすぐそばに立っていた案内の男性が飛び上がった。花菱が冷たい目で彼を見る。
「盗み聞きですか」
「村長様をお一人にするわけにはいかん」
「あの方は、もう正気を保ってはおられないようですよ」
「そんな事は知っておる。だからだ」
男性が花菱を睨みつけた。
「村長様は平和である事を望み過ぎた。それに執着しておられた。それだけに執着しておられたから、人間も術人も平等に不自由だった。毎日が苦しかった……だから村長様が身体を壊されて真覚と花が立候補した時、これで変わると思った! もっとのびのびとして、村が豊かになるような考えを若い二人は持っている。そう皆確信していた。それ以外の奴は駄目だ。村を引っ張れるほどの頭が無い。だから、この村にとって二人は本当に大事な存在なんだ。分かってくれ、なあ。このまま黙って帰ってくれ。今日であの日から五年目なんだ。やっと二人が目を覚ますんだ!」
「そんな話、本当にあると思うんですか」
藤真がそっと訊ねる。
「ある。それは絶対だ。五年も身体が腐らん死体なんて聞いた事も無いだろう。二人は絶対に目覚める。邪魔するんだったら、身の安全は保障せん」
この村の全員が束になってかかって来ても、凶悪な源魔を相手にしている利輝達にとっては敵ではない。相手に傷一つ付ける事なく、鎮圧できるだろう。
「争いなんかなけりゃ、きっとこんな事にはならんかった。真覚と花が魔症にかかったのは、村人全員への罰だ。それでも、もう一度やり直す機会を与えられた。だから二人は目を覚ます」
そもそも! と男性は急に怒鳴り声を上げた。
「全部全部、役人のあんた達の所為なんだ。真覚も花も、神領省から視察に来た奴らに変な事を吹き込まれて、争いになるような方針を紛れ込ませたんだ! 死ぬ前に真覚が泣きながら謝って言っていた。人間と術人の全員を幸せにできる事はどんな立派な政治家でも無理だ。だから、どちらをより幸せにするか選ばなければならない。そうしなかったから、今、村はこんなに苦しいんだろうと言われたと。真覚はその通りだと思ったらしい。花もだ。だから二人は自分達の種が幸せになるような方針を出したんだ。お前らの仲間が余計な事を言わなけりゃ、真覚も花も平等な方針を作っただろう。そうしたら争いにならなかった。そうしたら罰なんか当たらなかった。真覚と花が死ぬ事もなかったんだ!」
唾を飛ばしながら、興奮したように男性が怒鳴り散らす。その声が気になったのか、数軒の民家からぽつりぽつりと人が顔を覗かせた。人間も術人も、皆顔色が悪い。汚れた空気の所為だ。
「駄目ね。きっともう、五年前から思考を停止しているんだわ」
花菱の後ろにいる科乃が、呟いた。喚き続けている男性の耳には、聞こえていないだろう。彼も既に、利輝達を見なくなっていた。自分の世界に入りこみ、一人で怒鳴っているだけだ。
視察の倒魔官が入れ知恵をしたというのは、問題だ。だが、争いの火種は彼らが元々持っていたのだろう。自分達の種が相手の種より優位に立ちたい、相手の種より不利な事は許せない。そういう隠れていた思いが、爆発したのだ。争い自体は、彼らの自業自得だった。しかし、それを誘発させたのは倒魔官なのだ。利輝は眉間に皺を寄せた。
「視察の倒魔官の問題はある。だがいつまでもこの男の相手をしていても埒が明かない。走って、死体を探すぞ」
花菱が指示し、目の前の男性を無視して四人は走り出した。怒鳴り声が遠のいていく。追いかけてはこない。彼もまた、もう正気を失っているのだろう。こんな汚れた空気の孤立した小さな村で死体の世話を五年も続けていたらそうなるだろうな、と利輝は思った。
目についた民家の扉を、開けていく。どれも鍵も無いような小さな家だ。覗けば、家の中が全て見える。無礼どころの話ではないが、気にせずに四人は扉を開けて確認し続けた。村がざわめき始める。しかし、呆気にとられたようで追いかけてくる者はいなかった。
そして、一軒の小奇麗な小屋の扉を開けた時だ。利輝は反射的に刀を抜いた。藤真も花菱も、刀を抜いている。
この村の源魔の酷い気配、酷い空気の原因はこの小屋から発せられていたのだと、すぐに分かった。
小屋には、布団が二組並べて敷いてあった。そして、それぞれに人が横たわっている。三十代くらいの男女だ。眠っているように美しいが、肌が蝋のように白い。生きている者のそれではない。
精巧に作られた人形のように、とても美しい死体だった。
真覚と厚森花。この男女があの二人で間違いない。
小屋の中には生きている者もいた。死体の世話をしていたらしい、赤黒く汚れた手拭いを持った利輝と同い年くらいの少女だ。抜刀した者が小屋に駆け込んできたので、彼女は呆然として驚きの声も上げられないようだった。腕に巻かれた白い布には赤が滲んでいる。傍のたらいには水が張っており、赤黒い色をしていた。自分の腕を切って血を水に混ぜたようだ。
狂っている、と利輝は思った。
確かに死体が全く傷んでいない。気味が悪かった。よみがえりの術など、あるとは思えない。だがここまで死体が異常な状態になっているという事は、何らかの術である事は間違いなかった。
利輝がある事に気が付いたと同時に、科乃がハッとしたように言った。
「まだ源魔が体内に存在している!」
煙状の源魔は口から人間の体内に入りこみ、魔症を発症させる。そうすると、源魔は体内で存在が消滅するはずなのだ。それなのに、この二つの死体からは濃い源魔の気配が感じられる。村の空気を濁し、源魔の強い気配を感じさせていた原因は、この死体だったのだ。藤真を見ると、真っ青になって必死に吐き気を堪えているようだった。利輝もかなり辛い。
「つまりこの死体の中の源魔を倒せばいいのか」
花菱が呟き、躊躇いなく厚森花の死体を切る。しかし、何も変化が無い。
「どういう事?」
科乃が訝しげに言った。
花菱がもう一度死体に切りかかろうと刀を振りかぶった瞬間、二つの死体の口がぱかっと開いた。
部屋が一瞬で黒い煙に包まれる。どんっと腹を強く押され、利輝は小屋の外に転がった。体勢を整え座ったまま目の前を刀で払うと、煙の無い空間が出来て息が吸えた。煙の正体は、源魔だ。しかし、煙状の源魔とは思えないほどに濃い。
誰かに押されて小屋から出されたのは分かったが、源魔で周りが見えない。刀で煙を切り続け、何とか呼吸を確保する。煙を吸い込んでしまえば、確実に魔症になるだろう。かなり強力な煙の源魔だ。こんな状態のものは初めてだった。
「苑条、藤真!」
花菱の怒鳴り声が聞こえた。声の響きからすると、彼も小屋の外にいる。
「もう一度、死体を切れ! この煙はあの死体の口から噴き出ている! あの死体をどうにかしない事には多分この煙は収まらない!」
「了解!」
利輝は返事をして、煙を切りながら再び小屋へ飛び込んだ。浅い記憶を頼りに、煙を切って進んでいく。と、目の前の煙が消えて藤真が現れた。煙を切りながら、「利輝!」と彼は叫んだ。
「すまない、利輝。俺、利輝を守ろうとして、つい反射的に……」
押したのは藤真か、と利輝は理解した。
「それはいい。藤真は真覚という男の死体を切れ。私は厚森花を切る」
「分かった」
藤真が背を向け、煙の中にふっと消える。
真覚は入り口から見て右に、厚森花は左に寝かされていた。利輝は煙を切り裂き、左へ向かう。
布団が足に当たった。思い切り刀を振るうと、一気に視界が開けた。一瞬だけだが、白く美しい女性の死体が見えた。確かに口から煙を噴出している。
利輝はもう一度刀を大きく振り、視界を広げた。素早く刀を真下に向ける。
「申し訳ありません」
利輝は謝罪し、息を止めると、刀を死体に向けて突き刺した。ぶわっと空気が膨れ上がり、黒い煙が霧散する。
はあーっと長く息を吐き出した。隣を見ると、死体を切り裂いた藤真がじっとそれを見ていた。その刀には、血も何もついていない。死体は、とっくの昔に美しいだけの源魔を生かす入れ物になっていたのだろう。
床板まで突き刺さっていた刀を引っ張って抜くと、利輝は納刀した。源魔の気配も汚れた空気も、無くなっていたからだ。
利輝と藤真が小屋から出ると、近くにいた花菱が「よくやった」と言った。彼の足元に、科乃が座っている。科乃の膝には、小屋にいた少女の頭が乗っている。彼女の肌は所々腐っていた。少女は目を見開いている状態のまま、ピクリとも動かない。
「間に合わなかった」
科乃がぽつりと言った。
「花菱さんに引っ張られて小屋から出る時、腕を掴んで連れ出したんだけどね。でもこの子は煙の正体が源魔だとは分からなかったみたいで、息を吸っちゃったみたいなの。あれほど濃い煙だったから、身体が一瞬で蝕まれたみたい」
「近くにいる村人なら助けられるかもしれないと外へ出たんだが、煙が濃くて見つけられなかった。科乃と僕自身の命を守る事が限界だった」
無力だな、と花菱が少女を見て呟いた。科乃は、少女の目を手でそっと閉じさせた。
四人は村をくまなく歩きまわったが、生きている者は誰もいなかった。皆、身体が腐り、訳が分からないといった顔で息絶えていた。利輝達は遺体を綺麗に寝かせ、目を閉じさせていった。腐った肉で手が汚れる事は全く気にならなかった。
「助けられなくて申し訳ありません」
「ごめんなさい」
四人は遺体の一人一人に対して、そう謝った。
花菱が厚森花の死体を切っても何も変化が無かった事から、あの煙の噴射が起こるまでは死体に何をしても効果が無かったと考えられる。つまり、あの煙の源魔の発生は利輝達には防げなかったものだ。しかし、謝らずにはいられなかった。
この村の中で、正気を保っていられた者がまだ残っていたのかは分からない。だが、どんな者であろうとも源魔からその命を守るのが倒魔官の役割だった。利輝達は今回、その役割を果たせなかったのだ。
*
遺体を整え終えると、四人は一度下山して町に向かった。町の対魔分所で起こった出来事を話し、また、飛び文で源魔対策対応課へ連絡した。分所も対魔課も、あまりに凄惨な出来事に騒然となったようだった。
夕方、村の遺体の弔いが始まった。魔症にかかった者の死体ばかりだ。放っておけば汚れた空気が発生する。早急に火葬する必要があった。火葬が終われば、お祓いが執り行われる事になっている。
利輝と藤真、花菱と科乃は、燃やされて天に昇っていく煙をじっと見つめた。誰も、一言も発しなかった。
次々に燃やされていく遺体に、利輝は爪が食い込むほど手を握りしめた。
誰も守れなかった事など、今回が初めてだった。
倒魔官として、二度とこんな事が無いように。
利輝は、暮れていく空の下でそう誓った。
第四章でした。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。