第二章
狭間の鬼神姫、第二章を掲載します。
序章の注意事項をご理解くださった方のみ、この先へお進みください。
それでは、始まります。
苑条利輝の新しい相棒は、随分と美丈夫の新人だった。
洋装の左の袖から覗く手に呪の痣。源魔と戦った時、左脚を使って回し蹴りをしていたので恐らく利き脚も左だ。術人の中でも珍しい、透き通るような白髪。琥珀色の瞳。繊細だが男らしさもある美しい顔立ち。利輝に仕えている虎吉も美しい顔立ちをしているが、中性的な容姿の虎吉とはまた違う種類の美青年だ。
出身は都南西、藤の家だと聞いた。苑条家と深い関わり合いはないが、当主同士が年始の挨拶程度はする仲だ。透き通るような白髪の、能力が高い子孫が生まれる事で有名だが、名前が知られている割には特別裕福というわけではないというのが利輝の印象だ。とは言っても、それは五年前までの印象なので今は分からない。利輝がそういった情報を表立ってまめに仕入れられたのは五年前までだったからだ。
静かな喫茶店で本でも広げているのが似合いそうな容姿をしているが、中身は相当変わっていると思う。利輝が混種だと告白した時は奇跡だの希望だのこっ恥ずかしい事を言うだけで、気味が悪いという顔を微塵も見せなかった。あの時利輝は、奇跡や希望などそんな単純で明るい話にするなと怒る気持ちも忘れて呆然としてしまった。その後も、反論の機会を逃してしまっている。
今は、利輝が明らかに面倒だという顔をしているにも拘らず、ずっと質問攻めをしてきていた。明るい性格である事は分かったが、そういう者に興味を持たれると厄介だという事を利輝は痛感していた。
「利輝さんって、初めて会った時はずっとその面をしてましたよね。でも今日は朝からずっと外している。気になったんで前からちょっと観察させてもらってたんですけど、外している日と外していない日がありますよね。その差って何ですか?」
利輝はわざと藤真の質問が終わってから弁当を口いっぱいに頬ばり、咀嚼した。だがその間、藤真はずっと待つようにじっとこちらを見ていた。自分の弁当を早く食べろと言いたい。昼休憩の時間は限られている。
弁当を飲み込んでから、利輝は仕方なく口を開いた。この『仕方なく』を先程から繰り返している。
「神領省の敷地から出ている時は絶対につけるようにしているが、省内……とくにこの課の建物にいる時は気分だ。神領省内では私が混種である事は広まっている。だから見られる事自体は問題ないが、容姿をじろじろ見られるのが気になる時はつけている」
「外の人、つまり省内以外の人に混種である事を知られるのはまずいんですか?」
「あまり良くないと思っている。存在しないはずの者が存在しているとなると混乱が広がる可能性があるからな。神領省内の人間はそれをよく分かっていて、外には広めていないようだ。だが、省内で広まった事も私にとっては不本意だった」
「では、何で知られたんですか?」
「入省試験の時に混種だと説明したら広がった。呪の痣を隠せば人間だという事で押し通す事も出来たが、さすがに嘘を吐くのはまずいと思って正直に話したらこれだ。まあ、神領省の上層部には苑条家と縁がある人もいるから、もし黙っていたとしてもどこかでばれていただろうがな」
「そうだったんですか。上層部にまで関係者がいるなんて凄いんですね、苑条家って」
「何故そうなる。面の話をしていただろう、今」
最終的にずれた感想を述べる藤真に、横で耳を澄ませている川波科乃と菊鶴が噴き出した。福野忠助は笑いを堪えて震えている。花菱だけが、もくもくと弁当を食べていた。
「そういえば、何で利輝という名前なんですか?俺、辞令に書かれている利輝さんの名前を見て男性だと思っていましたよ。読み方も、『としき』さんとか『としてる』さんかと」
藤真は周囲で笑われているのも気にせず、邪気の無い顔で新しい質問に移った。
藤真に限らず、『利輝』という名前だけで女だと思った者はいない。そして、『りき』と読む者も少なかった。
藤真の『としてる』という読み方は、実はある意味正解である。
「苑条家の跡取り候補の人間には『輝』の文字が名前に組み込まれる決まりになっている。あと、母のお腹の中に私がいると分かった時、祖父が男児を希望して、名前を『としてる』という男のものに決定してしまったんだ。結局生まれたのは女だったわけだが、読みだけ変えてそのままつけられた」
「じゃあ、利輝さんは跡取りなんですか?」
「いいや」
利輝は感情を込めず、短く言った。しかし藤真は何かを察したようで、「色々答えてくださって、ありがとうございました」と笑い、自分の弁当を食べ始めた。この辺りの察しの良さから、藤真は鈍感ではないとよく分かる。つまり、利輝が面倒に思っている事に気付きながらも知らないふりで質問をしていたという事だ。良い性格をしている。
「やっと終わったか。利輝に興味津々だね、藤真君」
科乃が揶揄うように言う。藤真はにこりと微笑んで、
「相棒の事ですから」
と返した。さらりとかわされた事に、科乃は少しつまらなそうな顔をした。
「面倒そうな顔をしていても何だかんだで答えてあげるんだから、利輝は優しいね」
菊鶴の言葉に、利輝は首を横に振った。
「無視しても諦めなさそうだったので返事しただけです」
福野が「ちょっと話は変わるけど、質問ついでに」と口を開いた。
「僕から一つ、藤真君に質問していいかい?」
「何でしょうか」
藤真が首を傾げる。
「何故、神領省に入ったんだい?」
「あ、それは私も気になります」
と科乃が同意する。
視線が藤真に集まった。花菱まで箸を止めて藤真を見る。
藤真は照れたように頬を掻いた。
「倒魔官に憧れて、入ったんです。子供の頃、倒魔官を正義の味方みたいに思っていたので」
「それなら対魔分所に行った方が良かったんじゃない? 神領省みたいに一応希望は聞かれても結局どこに配属されるか分からないなんて事は無くて、確実に倒魔官になれる。それに、源魔を倒す機会は圧倒的に分所の方が多いよ。うちの課の仕事の半分以上は地方に散らばっている分所の視察だからさ」
菊鶴が指摘した。
全国の対魔分所の元締めは神領省の源魔対策対応課――通称対魔課であり、その対魔課が集めた視察の報告は警務部の上層部に上げてそこで人事や問題解決を図る。このように対魔分所は神領省の管轄だが、分所で働くための試験は神領省の試験とは別であった。神領省が総合的な試験をして適性を審査するのに対し、対魔分所の試験は倒魔官になる為だけの試験だ。それだけに特化している。合格に必要とされるのは、倒魔官としての能力や知識だけである。そのため対策もしやすく、難易度もそう高くないので、受かりやすい。
菊鶴の言う通り、藤真のように倒魔官に憧れるのならば、対魔分所の試験を受けた方が良いのだ。
藤真は、言い難そうにぼそりと言った。
「それでも、給料が桁違いに良いので……」
一瞬の間が空き、爆笑が広がった。声が大きいのは菊鶴と科乃だ。福野も笑い声を上げている。花菱はにやついていた。利輝も我慢できず、噴き出す。室内に残っていた周囲の者が、何事かという目でこちらを見た。
「いや、あの、すみません」
藤真が身体を縮こまらせる。
「いやいや、全然いいよ。給料、大事だもんね!」
「素直でいいのよ!」
そう言いながらも、菊鶴と科乃は大笑いしながらバンバンと机を叩いている。
「うるさいぞ」
花菱が文句を言うが、二人には聞こえないようだ。
「でも、うちの課としては藤真君が神領省に入ってきてくれたのはありがたいよ」
福野が笑いを治めて言った。不思議そうに藤真が首を傾げる。
「対魔課は万年人手不足なんだ」
福野は説明を始めた。
「源魔が出たのは三十年前だっていうのは知っているよね?」
「はい」
藤真が頷く。
源魔は、昔からこの国に存在していたわけではない。
三十年前、突如として現れるようになった『魔』なのだ。『魔』とまとめて呼ばれる存在はいたが、それらはそこまで深刻な被害をもたらす事はない力が弱い存在だった。飛び抜けて力が強い『魔』もいたが、それは普通に暮らしていて目にする存在ではない。苑条家など、強い霊力を持つ者だけが相手をしていた。そこに突然、強力な『魔』が一般人の生活圏の中に現れたのだ。
現れた当時はかなりの犠牲者が出たと記録には残っている。人間は源魔が見えるが戦う術を持たず、術人は戦えるが源魔が見えないのだ。当然、当時は人間が力を送って目を貸すという方法は知られていなかった。それが分かるまでに相当な時間が過ぎ去り、戦う方法を得てからも目を貸せるほどの霊力を持つ人間が少ないので数で立ち向かうことが出来なかった。
何とか全ての源魔を倒したという確認が出来た頃には、魔症で、形をとった源魔に襲われて、全国で多くの死者が出ていた。
仕方がない事とはいえ、未知の存在に後手後手になったのが致命的だったと、のちに言われている。
「三十年前に源魔が現れてから、地域に密着して源魔を倒す対魔分所が全国に設置され、その元締めとして『魔』に関する事も扱っていた神領省内に対魔課が置かれた。つまり、対魔課は神領省内ではかなり新しくできた部署なんだ。それで……」
福野が口ごもった。どう言えばいいのか考えているようだ。
「はっきり言えばいいだろう」
花菱がそう言って説明を引き継ぐ。
「神領省は省庁の中でも給料が高い事が魅力的だと僕は思っているが、神やら霊やら魔やらと扱っている事柄が危険な物ばかりだ。だから、避ける者も多い。しかも、神領省に入るには人間も術人も霊力なり戦闘能力なりの一定の強さが必要だ。つまり、入省する者、入省できる者がもともと少ない。その少ない貴重な人材を、うちの人事は必要以上に神事局に充てたがるんだ」
「何故ですか?」
「神事局の力が強いからだよ。うちの事務局は頭が固い上に権力に弱いという困った奴らの集まりなんだ。神事局は神領省の中でも歴史が古く、神事というかなり重要な事を担っている部署であるのは間違いない。だから自分達を偉いと思っている奴が多いし、省内で変な力をつけているのも事実だ。その神事局から『うちに人材を多く寄越せ』なんて言われたら、人事部は言いなりになって多めに神事局に新人を渡してしまう。まあ、神事局が欲しがるのは主に人間の新人だが。そうやって毎年まんまと神事局に取られ、やっと来た新人は基本的に問題児。いや、これは新人に限った話じゃないな。他の部署から移動してきた奴も、問題がある事が多い。人手をなかなか寄越さない上に、面倒な人間は対魔課に入れとけという考えが透けて見えるよ。そういう奴は大抵、うちに来てしばらくしたら辞めていく。でも補充の人材はめったに来ない。だから結局残った者だけで仕事を回さなければいけなくなり、万年人手不足の完成だ」
「酷いですね」
藤真が眉を顰めた。
「うちの課が万年人手不足なのは、新しく出来た課という事で軽く見られているからという理由が大きい」
「古い部署は偉く、新しい部署はそうではないという事ですか?」
「馬鹿馬鹿しいと僕は思っているんだがな。僕だけじゃない、この場にいる者は全員そう思っているはずだ。でも、部署によってそういう変な階級のようなものが出来ているのは事実なんだよ」
花菱は面白くないと言わんばかりに鼻を鳴らす。
福野が眉を下げた。
「結局僕が言いたかったのは、入ってきてくれる人が少ない神領省に藤真君が入省してきてくれて、更に対魔課に来てくれたことは凄く助かるしありがたい、って事だけだったんだけどね」
「どうだ? うちの内情を知ってがっかりしたか? 正義の味方がいる場所にはふさわしくないもんな」
花菱が意地悪く笑う。「花菱さん、相変わらず性格が悪い…」と科乃が呟いた。科乃さんも初日の藤真に事務局の悪い話をしていましたけどね、と利輝は思ったが、口に出す事はやめておいた。
「びっくりはしました」
と藤真は苦笑する。
「でも、そういう事を知らないで働くより、知っておいた方が上手く立ち振る舞える事もあると思います。教えてくださってありがとうございます」
ほう、と科乃が感嘆の息を吐く。
「藤真君、良い子! 本当に今年はまともな人で良かったわ。利輝なんて、入省してきた時期が悪くて他部署から回されてきた問題のある術人しか組む相手がいなくてね。相手がどんどん辞めちゃって半年に一回くらいで相棒が変わっていたわよね」
「ええ」
利輝は頷いた。もう元相棒達の顔は忘れている。辞める時に、混種がいたという事は絶対に人に言わないように、と強く言い聞かせた事だけしか記憶にない。
「珍しく補充で来てくれた喬山さんは仕事が出来る良い人だったけどね。それでもやっぱり半年くらいしかうちの課にいなくて、今年は元いた部署に戻ったみたいだけど。組む相手が変わってばかりだった利輝に、ついにまともな相棒ができて良かったよ」
菊鶴はにこにこと言った。藤真は、はにかみながら頬を掻いた。
確かに喬山を除く今まで組んだ相手の中では、ずっとまともそうだと利輝は思った。変わっていると感じたり良い性格をしていると思う事もあるが、許容範囲内である。
正直なところ、利輝はこの課で長く働く気は全く無い。花菱が言っていたように神事局の方が省内で力を持っているので、そちらに行きたかった。力の差がある事は馬鹿馬鹿しいとは思うが、現状ではそれが事実だ。力を持っている上に省内の部署の中で重要性を比べても、神事局に行った方が省の上層部に行きやすいという事は確かだった。今のように末端の部署に留まっていれば、輝政に対抗できる武器を何一つとして持てない。
よく話しかけ、気にかけてくれる科乃達の存在は自分の中でそれなりに大きなものになっている。倒魔官としての仕事にも、誇りを持っていた。それでも、それらを全て手放してでもいつかは上に行きたいと思っていた。
だが、残念ながらしばらくはそれが叶いそうにない。ならば、まともな相手と相棒を組みたかった。
利輝は目の前の席に座っている藤真を見た。藤真は菊鶴達との会話をやめ、弁当を黙々と食べていた。休憩時間がもうすぐ終わるからだろう。食べる事に専念する事にしたようだ。こうやって黙っている姿は、どこか影が差しているように感じる。
一年前まで地方で働いていた、という話は聞いている。そこを辞めた理由を、藤真は絶対に語ろうとしなかった。その話を利輝にした藤真はいつも通り明るかったが、辞めた理由を質問する事は許さないという、透明で硬質な壁を作っていた。
藤真の過去に何があろうとそれは別に知らなくても問題ない、と利輝は考えている。仕事をする上での相棒としてそこそこ上手く付き合っていければそれでいいのだ。藤真に敬語をやめろと言ったのは、使用人でもない年上の者に丁寧に接せられるのは落ち着きが悪かっただけだ。
菊鶴達は先程とは全く別の話題で盛り上がっていた。先輩である福野と菊鶴、花菱と科乃は固い信頼関係で結ばれている。
休憩時間の福野と菊鶴は、古い友人同士のような穏やかさがある。花菱は、まるで科乃の保護者のようだ、と利輝は思っていた。見た目だけだと歳の離れたしっかり者の弟がだらしのない姉を叱っているようだった。
しかし、仕事をする時は適度な緊張感を持ちつつ、お互いの弱点を補いながら要領よく進めていく。二組とも、利輝が入省した時には既にそんな関係だった。同僚でありながらそれ以上の心の繋がりがあるという、理想的な相棒関係だ。素晴らしいと思う。だが、それを真似るつもりはない。利輝は、仕事をする上で必要となる程度に親しくするくらいでよかった。
本当は相棒など必要ないのに。自分は一人で十分だ。利輝はそんな思いを持っていた。
利輝は日替わり弁当を急いで掻き込んだ。朝に注文すると職場まで持ってきてくれる弁当屋を、利輝は毎日のように利用していた。科乃や菊鶴達は外に食べに行く事もあるが、今日はその弁当屋を利用したようだ。朝に職場で纏めて飛び文で発注し、昼休憩の時間になると弁当の種類ごとに分けられて番重が運ばれてくる。食べ終わったら、その番重に弁当の容器を戻すのだ。そうすれば、休憩時間が終わる直前に弁当屋が回収していく。昼に美味しい飯を食べる事が生きがいだと行列が出来る店に並ぶ者もいるが、利輝はこの弁当屋で良い。日替わり弁当を頼めば飽きる事は無い上、味もなかなかのものだ。藤真も利輝と同じらしく、弁当屋の存在を知らなかった初出勤の日以外はずっとこの弁当屋を利用しているようだった。
利輝は弁当を食べ終わると、一階の扉の近くにある番重に容器を戻しに行った。店に昼食を食べに行っていた者達が、外からぞろぞろと帰ってくる。
取り敢えず午後も頑張るか、と利輝は肩をほぐすように回した。
*
苑条の屋敷は、いつも静かでひっそりとしていた。使用人を含めるとそれなりの人数が屋敷の中で行動しているはずなのだが、忙しい時間帯であろうとも誰もが息を潜めているかのような静寂が広がっている。台所など、使用人ばかりが集まる場所はまた違うのかもしれないが、利輝はそういった場所に足を踏み入れないので分からない。利輝が聞く騒がしい音といえば、昼間に幼い国輝が遊び、はしゃいでいる時だけだった。
利輝が幼い頃から、この広い屋敷は静かだった。だから、利輝も与えられている自室で一人静かに本を読んでいる事の方が多かった。外で遊びまわって静寂を壊すのは、何となく憚られた。はしゃぎたいという子供らしい欲求が薄かったという事もある。なので、無邪気に屋敷の中を走り回る国輝を見ると、自分の子供らしさのない幼少期を思い出して何とも言えない切ない気持ちにさせられるのだった。
しかし、今日はいつもと様子が違う。利輝は仕事から帰り屋敷に一歩入った瞬間に、気配がざわめいている事に気が付いた。
自室に行き、仕事着の袴から家の中で着ている着物に着替えると、唯一の腹心の従者である虎吉を呼んだ。
虎吉を部屋に入れると、利輝は訊ねた。
「今日は家の中が騒がしいように感じる。昼間に何かあったか?」
「はい」
虎吉は声を潜めた。
「どうやら、もうすぐ我が国の統領が変わる事が決まったようです」
「ああ、なるほどな」
その言葉だけで利輝は納得した。
苑条家は政界にも力を持つ。輝政が統領決めの裏で何か工作でもしているのだろう。恐らく、その補佐で信輝も動いている。そういった大きな事をしていると、いくら隠そうとしても家の中くらいは空気が普段と変わるものだ。
「となると、今度の統領は人間か?」
「そのような噂を耳にしました」
今の統領は術人だ。だが、輝政はそれをあまり面白く思っていなかった。家の外では上手く隠しているようだが、輝政は術人嫌いだ。次の統領は何としてでも人間が務められるよう手を尽くしたのだろう。前々代の統領は人間だったが、ある政策を大失敗して辞職に追い込まれた。その代わりに統領の職に就いたのが、今の厳柳という術人だ。任期はまだ残っていたはずだが、もうすぐ変わるという事は引きずり降ろされるのだろうな、と利輝は思った。汚点のような、何かつけ入る隙を輝政に見つけられたのだろう。いくらなんでも、清廉潔白な人物を役職から降ろすような事は輝政だろうと不可能だ。
「気の毒に」
自然と言葉が零れ落ちた。
「次の統領はどんな方なんでしょうね」
無意識だろうが、虎吉は微かにほっとした表情を浮かべる。自分と違う種の者が統領だと、自分達に不利益な事にならないかと心配する者は珍しくない。実際、今の統領は僅かに術人の方が待遇が良くなる政策をしていた。虎吉はそれに気付いた様子はなかったし、大抵の国民は気が付かなかっただろう。それほど微妙な、嫌らしい政策だった。だから、虎吉がほっとした顔をしているのは人間という種としての本能のような反応だ。
利輝はというと、人間が優遇されようが術人が優遇されようが、どちらでもよかった。利輝はどちらにも当てはまらないからだ。政策には、混種という枠は組み込まれていない。純粋な術人、もしくは純粋な人間に対しての策ばかりだ。混種は過去を見ても利輝一人しかいないようなので、当然と言えば当然である。
こういう時に突き付けられる。自分は一人なのだと。幼い頃から利輝の味方である虎吉は、やはり人間なのだと。虎吉の、無意識であろうさり気ない反応が、時々憎らしい。
それでも、虎吉は利輝の忠臣だ。当主継承権を剥奪された利輝は、輝政達がどう動いているのかもう知る事は出来ない。その利輝に、こっそりと情報を探って教えてくれるのが虎吉だった。今日も、利輝が家に帰ってきて空気の変化に疑問に思うだろうからと予め情報を集めていたのだろう。
尽くしてくれる虎吉を恨めしく思うなど、と叱る自分と、それでも孤独を突き付けられるのは苦しいのだ、と嘆きたくなる自分がせめぎ合う。
その全てを抑え込んで、利輝は虎吉に微笑みかけた。
「情報を集めるのは大変だっただろう。ありがとう」
虎吉が「当然のことをしたまでです」と言いながら、頬を緩める。一歳だけとはいえ年上とは思えないほど、虎吉は無邪気な時がある。
そこまで慕ってくれるに相応しい立派な主でなくてすまない。利輝は心の中で謝った。
「ご苦労だった。もう下がっていいぞ」
「はい」
一礼し、出て行こうとする虎吉に声をかける。
「お茶を一杯、部屋の前に置いておいてくれ。後で飲む」
「かしこまりました」
虎吉が出ていき、障子が静かに閉まると、利輝はだらしなく横になった。
頭に浮かんでくるのは、職場である神領省の事である。
神領省は、他の省庁と違い働いているのは人間の方が多い。他だと大体半々だというが、神領省はおおよそ六、七割が人間だ。
神領省で人間が多いのは、多くの役職で霊力が必要になるからである。霊や一部の魔は術人にも見えるので、霊事局でそれらを相手に戦ったり対処したりする事は出来る。事務局は飛び文を出せないくらいで、霊力が無くてもあまり支障はない。だが、霊力をふんだんに使う事が多い神事局は、ほぼ人間しかいないという。しかも、霊力がそれなりに強い者しか入れない神領省の中でも選りすぐりの霊力の強さと質の良さを持っている者ばかりだ。術人は、式事や祭事の時に警備をしたり、神と対峙している時の人間を守る為に、少しの人数が所属しているだけだった。
この国の政治をする上で、神々の機嫌を窺う事は大事だ。霊や魔に近い存在から天災をも引き起こす存在まで様々な神がいるが、彼らは総じて気まぐれだった。神々の気まぐれを予想し、その残虐な災いを抑えて政治が上手くいくように補助するのが神領省、特に神事局の役割だ。よって、神領省や神事局の上層部は国の政とは切っても切れない関係だった。
だから、利輝は神領省に入省したのだ。この省で出世すれば、国の中心に近付く事ができ、苑条家とも張り合える。
利輝は、自分の霊力の高さを自覚している。そして術人のような戦闘能力も持っている。神事局で働ける資格は十二分に持っていた。
人間と術人、そのどちらにもなれない事は時折利輝を苦しめ、深い闇のような孤独を運んでくる。だが、能力としてはこれを利用しない手はない。
神領省に入省すれば多少苑条家から邪魔は入るかもしれないと予想していた。当主ではない利輝が苑条家に対抗する力を持つ事は、厄介だからだ。だが、妨害されたとしても実力でどうにかして上に行ってやると思っていた。今では、少し実家を甘く見ていたと反省している。三年目でもまだ末端の部署にいるとは考えてもいなかった。やはり苑条の力は相当強い。
初めは自分の実力不足なのかもしれないと神妙な気持ちを持っていたが、昨年度の人事と輝政との話で確信した。苑条家が人事部に圧力をかけたのだ。入省の際に、神事局に入れる資格を持っていながらも霊事局の末端の部署に配属されたのも、輝政が口出しをした可能性が高い。
出世を諦めるつもりは全くない。だが、これからどうすれば良いのかさっぱり思いつかないのが現状だった。
のろのろと体を起こし、四つん這いで進んで障子を開ける。廊下には、湯気が立った湯呑が盆の上に置いてあった。
利輝は廊下に出ると、そこへ座り、湯呑を持った。手にじんわりと温かさが伝わってくる。ゆらゆらと揺れる茶には、欠けた月がぷかりと浮かんでいた。口元に湯呑を近づけ、茶を啜る。喉の奥が熱くなり、ほっと心が柔らかくなった。
月を眺めながら茶を飲んでいると、パタパタと軽い足音が近付いてきた。利輝には、それが誰かすぐに分かった。
この時間に珍しい、と思った。
「姉さま?」
足音が止まり、不思議そうな声が聞こえた。見ると、やはり国輝が立っていた。月の光があるとはいえ薄暗い廊下を、灯りも持たずによく走って来たものだ。
「一人?」
利輝は静かに訊ねる。「はい!」と元気よく国輝が頷いた。利輝のすぐ側までやってくる。
「姉さまは、なにをしているのですか?」
「お茶を飲んでいる」
と利輝は湯呑を軽く揺らした。
走っていたせいか、国輝の着物の襟が少しはだけている。利輝はそれを直してやろうと湯呑を置いて国輝に手を伸ばし、自分の手が震えている事に気が付いた。国輝に触れるなど、いつ以来だろう。国輝に気付かれないように、利輝は急いで着物を直した。
「ありがとうございます、姉さま!」
国輝が満面の笑みで礼を言った。国輝は従姉である利輝の事を『姉さま』と呼んでいる。可愛らしくて無邪気な良い子だった。冷静でいられなくなるのは、利輝の問題だ。
利輝は微笑んだ表情を作った。どうか今の私の顔が醜く歪んでいませんようにと願いながら。
「国輝、寝なさい」
国輝は首をぶんぶんと横に振る。
「寝られないのです」
「だから部屋をこっそりと抜け出してきたの?」
「はい」
利輝は国輝に言い聞かせるような声を出した。
「眠れないと思っても、布団の中に入って目を瞑りなさい」
「そんなのつまらないです」
「つまらないかもしれないけれど、もう夜も遅いんだから。ほら、部屋に戻りなさい」
ね? と言うと、国輝は不本意そうな顔をしたが、それでも「わかりました」と頷いて廊下を戻っていった。
幼い足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。利輝はふう、と溜息を吐く。
その直後、頬を涙が伝った。
気持ちが複雑に入り混じり、何故泣いているのか自分でもはっきりしなかった。ただ、胸がつぶれるような苦しさがあり、涙は目から溢れ続けた。
時折、こういう夜がある。
利輝は長い間、月を見上げながら一人で涙を流し続けた。拭う事もしなかった。
湯呑の中の茶は月を浮かべながら、冷たくなっていった。
第二章でした。ここまで読んでくださってありがとうございました。