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狭間の鬼神姫  作者: 廣本 涼
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序章

とある文学新人賞に応募し、見事落選した物語を推敲して掲載します。

物語の都合上、冷遇や差別的な物言いをする人物も出てきますが、筆者が同じ思想・思考を持っているわけではありません。残酷な描写や血や死体の表現がある章があります。

また、少々強引な展開があるかもしれませんが、そこはご愛嬌という事で、一つお願い致します。


以上の点をご理解いただき、読んでやろうかな、と思ってくださった方は、どうぞこの先にお進みください。


それでは、始まります。


 門の中に入ると、人が溢れかえっていた。忙しそうに早足で歩いていく者も、端で立ち止まって会話している者達も皆、真剣な表情だ。

 どの者も背筋がしゃんと伸びた賢そうな顔立ちをしている。そして、実際彼らは優秀だ。そうでないと、国の試験を突破して省庁には入れない。ここで仕事をしている者達は自信に溢れているように見えるな、と山杉虎吉やますぎこきちは思った。

 ここは神領省じんりょうしょう。名の通り、神の領域にまつわる事を扱う省庁だ。それ以外にも、霊や魔にまつわる事も扱っている。

 広大な敷地の中に、神に関係する事を扱う『神事局しんじきょく』に属する部署の建物が門から一番遠い奥の場所に纏めて建っている。中ほどの場所には霊や魔に関係する事を扱う『霊事局』に属する部署の建物が建ち、門から一番近い場所には人事部や総務部が属している『事務局』の建物が密集している。という事を事前に調べた時に知った。一つ一つの建物が部や課まで細かく分かれて充てられているため、この敷地内は小さな町のように建物数が多い。初めて来た者は目的の建物に辿り着くまでほぼ確実に迷うとさえ言われているらしい。

 しかし、虎吉はそんな心配などしていなかった。自分は必ず目的の場所まで辿り着けるという自信がある。なぜならば、どの省庁も似たような造りになっているからだ。幾つかの省庁に時折使いに走らされている虎吉にとっては、神領省は初めて来た場所のような気がしない。この省より建物数が多い省庁に行った事もある。問題ない、と虎吉は一人頷いた。

 今日の使いも見事こなして見せる。虎吉はやる気に満ちていた。

 普段省庁に使いに走らされるときは、あまり乗り気でない。というのも、それを命じているのが虎吉が一生お仕えすると心に決めた主ではないからだ。しかし、主の家の当主の命令とあらば逆らえる筈もなく、虎吉は表面上は恭しく、しかし内心はかなり渋りつつ、命をこなしていた。

 今日の使いもその当主から言い渡された事だが、その内容がいつもの雑用とは違う。今日は、虎吉の主を迎えに行くようにとの命だった。

 最近主は仕事が忙しく、側に仕えている虎吉は主の身体が心配だった。主は数日間寝ていない様子で、屋敷に帰ってこない日もあった。しかし、今日は当主の呼び出しがあるため、主は仕事を昼に終わらせて屋敷に帰ってくる予定だ。当主の呼び出しという事自体は主にとっても虎吉にとっても喜ばしい事ではない。だがその後、主が自室でゆっくりと身体を休める時間が得られるのだ。主の身体の事を思えば、今日の予定は喜ばしい気持ちの方が勝つ。それに、主を迎えに行くという事は虎吉にとって非常に楽しみな事だった。職場の主を見るのは、初めてなのだ。

 受付を済ませ、虎吉は好奇心旺盛な少年のようにわくわくしながら敷地の奥へと進んだ。

 目指すは、霊事局の建物が密集する場所だ。

 神領省の中とあって、敷地内の空気は清らかだった。非常に質の高い霊力を感じる。

 人間は誰しも霊力を持っているが、その力の強さや質、量には大きな個人差がある。虎吉は平々凡々とした、細やか且つどこにでもあるような質の霊力しか持っておらず、せいぜい連絡用の飛び文を出せるくらいだ。しかし、ここで働けるような人間の霊力がその程度のものであるはずがない。空気の澄み具合だけで言うと、神域に近いものがある。この場所に居るだけで軽い疲労なら回復しそうなほどだ。

「すみません、ちょっといいですか」

 後ろから肩を軽く叩かれ、虎吉は立ち止まって振り向いた。薄い灰色の髪に桜色の瞳の青年が立っていた。

「何ですか?」

「初めて来たんですけど、迷っちゃって。事務局の総務部に行きたいんですけど、どういけばいいか分かりますか?」

 虎吉は、先程通った建物に小さく『総務部』の看板がかかっていた事を思い出した。不安そうな顔をした青年に愛想よく微笑む。

「門の方へ戻ってもらって、ほら、あそこに少し背の高い赤茶色の屋根があるでしょう?」

 と、指差す。

「えっと……あ、はい。ありますね」

「あそこの隣に、小さく『総務部』と書かれた看板がありますよ。結構広そうな建物でしたから、見れば分かると思います」

「ああ、あの建物か!」

 青年は納得したように頷き、苦笑して頭を掻いた。

「いやあ、受付で行き方は説明してもらったんですけど、全然わからなくて。通り過ぎていたんですね」

「似たような建物が密集していて、説明されても分かりにくいですよね」

「地図とかあったら便利なんですけどね」

「本当に」

 青年は「ありがとうございました」と頭を下げて、去って行った。虎吉は軽く会釈をして、歩き出す。

 青年は術人すべびとだった。人間である虎吉とは、似て非なる存在だ。人間と同じ割合で存在するので、珍しくもない。神領省内にも術人が人間と共に歩いている。

 容姿は人間とは少し違い、白い肌と色の薄い髪、赤や青や紫や金色などの色鮮やかな瞳を持つ。そして最大の特徴は、呪の痣と呼ばれる黒っぽい痣が利き腕と利き脚に浮かんでいる事だった。

 人間のように霊力は無い。しかし、運動能力、戦闘能力、回復能力が人間より優れている。

 寿命は百六十歳前後だ。個人差があるが、ある程度成長すると容姿が不老になる。先程の青年も、見た目が若いだけで本当は五十を超えているかもしれない。大体が青年や中年、老年など大人の容姿で止まる事が多いようだが、稀に子供の姿のまま不老が始まる術人もいるそうで、その場合は能力が一般よりも高いと言われている。

 身体の作りは人間とさほど変わらないそうだが、人間と術人の間に子供は出来ない。

 このような、似ているようで確かに違う種の人間と術人は、互いの苦手な事を補いながら共存していた。

 虎吉の主の仕事がまさにそれだ。人間と術人、お互いの苦手分野を補い、戦っている。主はたまにぶつぶつと「私には必要ない」と文句を言っているが。

 霊事局所属の部署の建物が集まっている場所に来た。ここから主が働く課の建物を見つけ出すのだ、と気合を入れ直したが、それはすぐに無駄な事になった。

 ある建物から、主が丁度出てきたからだ。虎吉は走り出そうとしたが、状況を見て堪えた。

 主は、人間と術人の三人で何かを話していた。人間が何やら熱くなっているようで、術人は苦笑いをしながら時折口を動かし、主は黙って眉間に皺を寄せている。と、主がこちらに気付いた。虎吉は深々と頭を下げる。顔を上げると、主がちょいちょいと手招きをした。いけませんお話し中ではないですか、という気持ちを込めて虎吉は力強く首を左右に振った。しかし主は手招きを続ける。仕方なく、虎吉は三人に近づいていった。その途中、話に集中していない主に気が付いた二人が虎吉を見た。虎吉は頭を下げ、ささっと三人の側に寄った。

「私を迎えに来たのか、虎吉」

 凛と響き通る声で問いかけられる。虎吉の背筋が伸びた。

「はい、利輝様」

 虎吉の一つ年下の主――苑条利輝は頷き、「ご苦労様」と言った。中年男性の容姿の術人は苦笑いを深くした。

「こら、苑条君。そう自棄にならない」

「もういいんです。ありがとうございました。私の問題に付き合わせてしまい、申し訳ありません」

「ほら、自棄になってる」

「そんな事ありません」

 そう言いつつ、利輝は人間の方の中年男性を睨みつける。彼はびくりと身体を震わせた。人間の男性は、術人の男性に比べて態度に余裕が無い。

「今回の人事は、私の能力が足りなかったと受け止めます」

「そ、そうだ、最初からそうしていれば良かったんですよ。全く、働き始めてまだ五年も経っていない者が人事に文句を言うなんて……」

「文句なんて言いませんよ、それが公正であったならば」

 利輝の言葉に、人間が黙り込む。

「私は上司に移動願を出しました。これは誰もが持つ権利です。上司も私の能力を見て、神事局に推薦してくださいました。例年ならば移動願が受理されている状況でした。それなのに今回、来年もこの課に留まるようにと辞令があり、疑問に思ったのでお訊ねしたのです。何故このような人事になったのだ、と。上司が人事について話し合っていた時点では、私は移動するはずだったらしいですね。ですが、最終決定をする人事部が審議してから、急に話が覆された。おかしな話です。しかし、あなたは、審議した時の内容は答えられないが確かに公正な人事だったとおっしゃいましたね」

「……あ、ああ」

「ならば私はそれを受け入れるしかないんです」

 利輝は早口で呟いた。それから、術人に向かって頭を下げる。

「ということで、課長、来年度もよろしくお願い致します。今日はご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

「……君がそれでいいのなら」

「仕方ありません」

 術人は息を吐き、人間を見た。

「今回の件で、私は人事部に疑問を抱きました。貴方に言ったところで何も変わらないと分かっているのでもう言いませんが、貴方の上司方にお伝えください。許されると思っているのか、と」

 その冷えた声に、虎吉はぞくっとした。人間の男性の顔色が悪くなり、額に変な汗をかき始めた。

 すぐに術人は優しい顔になり、利輝に声をかけた。

「じゃあ、今日はこれで君は終わりだね」

「はい、お疲れさまでした」

「お疲れさま」

 利輝が頭を下げると、術人は建物の中に入っていった。人間の中年男性が低い声で呟く。

「貴方に言ったところで変わらない、だと。馬鹿にしやがって。戦うだけしか能が無い人外が何を偉そうに」

 虎吉は思わず男性を睨みつけた。男性は虎吉を見、利輝を見て、「別に悪く言ったわけじゃない」と弁解するように慌てて言った。

「ご説明いただき、ありがとうございました」

 利輝がもうどうでもいいという風に淡々と言うと、男性はそそくさと事務局がある方へ歩いて行った。どうにも小物感がぬぐえない動きだった。

 彼の姿が見えなくなると、虎吉は怒りの声を上げた。

「何ですか、あの失礼な男は!」

 利輝がつまらなそうに答える。

「我が神領省事務局人事部の人間。でも説明係にされているくらいだ、多分あまり地位は高くない」

 それが態度に滲み出ていたな、と虎吉は冷ややかに思った。しかしあの男性に対して怒るのは終わりだ。虎吉は気持ちを落ち着けてから、主に諌言した。

「それはそうとして、利輝様。お話の途中で僕を呼んだり、話しかけるのは良くありませんよ。僕も応えてしまいましたけれど……」

「……ああ」

「見たところ、あの術人の方は利輝様の上司の方でしょう。あの方は利輝様の為にあの人事部の男と話をしていてくださったはず。それを途中で打ち切るのは、はっきり申し上げて失礼でしたよ。それに、あの人事部の男。確かに彼は尊敬するに値しない様子でしたが、それでも仕事を始めてから二年の利輝様よりは目上の方でしょう。仕事をする上で、いくら腹が立とうとも目上の方にはそれなりの態度で接しなければなりません。そうしない事で、敵を作って苦労なさるのは利輝様です。最後の彼に対する態度はあまり良くなかったですよ。人事部に敵を作ってどうするのですか」

「はい」

 利輝は素直に頷いた。

「確かにそうだった。虎吉の言う通りだ。少し苛立ってたんだ。でも、やるべきじゃなかった。失礼だった」

 反省している顔だ。虎吉は微笑む。

「利輝様は優秀で素晴らしいお方である事は虎吉がよく分かっております。それに、僕のような者からの言葉も素直に受け入れられる。これからもますますご成長なされます事を楽しみにしております」

「……成長、か」

 虎吉、と名前を呼ばれ、「はい」と返事をする。利輝の表情は暗く沈んでいた。

「話を聞いていて分かっただろう。局の移動、出来なかった」

「……はい」

 利輝はずっと神事局に行きたいと言っていた。それが叶わなかった事に、虎吉は我が事以上に悲しくなった。

「明らかにおかしい人事だった。多分、うちの家が何かやったんだと思う。人事部は黒い噂が多いから、あり得ない話じゃない。今日、お祖父様に会うついでに訊いてやろうと思うけど、はぐらかされるんだろうな」

 はあ、と利輝は深く溜息を吐いた。そして、気分を変えようとしている声で

「帰るか」

 と言った。虎吉は「はい!」と力強く答える。

「少しだけお待ちください。お屋敷に飛び文を出すので」

「今から帰るのにか?」

「今から帰るから、です。利輝様を時間通りにお連れしますと知らせないと」

 そういうものか、と利輝は頷いた。興味を失った顔だ。

「私は荷物を取ってくる」

「分かりました」

 建物に戻る利輝を見送ってから、虎吉は素早く懐から折りたたまれた紙を出した。文章はもう書いてある。この文は、使用人が受け取るだろう。手の平に乗せ、霊力を込めてふっと息を吹きかける。紙がふわりと浮かび、やがて空気に溶けるように消えた。

 利輝が建物から出てきた。手荷物を持って、顔の右半分を覆う面を被っている。纏う雰囲気がやはりそこらに歩いている者達とは格が違う、と感じた。虎吉はごく自然に頭を下げた。

 利輝が歩き出す後ろに、虎吉は影のように続いた。こうしていると、心が安らいでいくのを感じた。仕事をし過ぎている主の身体が心配だった事は事実だが、忙しい利輝に話しかけてもらえない事も自分にとっては辛かったのだと分かり、虎吉はこっそりと苦笑いをした。


          *


 苑条家とは、政界にも力を持つ長い歴史がある一族である。虎吉の主である苑条利輝は、現当主である苑条輝政えんじょうてるまさの孫だった。

 人間の名家として名を馳せる苑条家は、それにふさわしい優美にして立派な屋敷を持っていた。

 屋敷に帰ってきた利輝に、虎吉は自室で着替えたらどうかと勧めた。しかし、利輝は頷かなかった。

「仕事で着ている物とはいえ、人前に出て恥ずかしいような恰好はしていない」

 利輝の本音は、

『お祖父様に会うために何故わざわざ着替えなければならない』

 だろうが、虎吉は気付かないふりで「失礼しました」と頭を下げた。

 虎吉は利輝の後に付いて、輝政が待つ奥の間に向かって廊下を歩いた。行きたくない、という気持ちが利輝の足取りから滲み出ていて、その歩みは酷くのろい。

 と、遠くの廊下からパタパタと子供が走る音が響いてきた。ただでさえ遅かった利輝の足が、完全に止まった。

 この屋敷の中であのように走る幼い子供は一人しかいない。利輝の従弟の国輝くにてるだ。

「……今日も元気が良いな。今年でいくつになるんだったか」

 本当は知っているはずだ。利輝が国輝の事を気にしないはずがない。

「国輝様は、五歳になられます」

「そうか…そりゃあ、あんなに走り回るよな。まだ子供なんだものな」

 利輝は右手にある中庭の方へ体を向けた。虎吉も視線だけを中庭に向ける。

 今は寒いので花は咲いていない。だが、暖かくなれば桜の木が柔らかい色の花びらをつける。太い幹の立派な桜の木なので、満開の様子はそれは見事なものだ。利輝を見ると、虎吉の主は目を細めていた。まるで桜の花が咲き誇っているところを見ているようだった。

「移動できずに春になるのは憂鬱だが……花が咲くところを見れるのはいいな」

「はい」

「一つ、春の楽しみがあるから良かった。どれほど現実が酷くても、花を見ていると夢の中にいるように幻想的な気分になれる。忘れたい事を全て、忘れさせてくれる」

 利輝の言う『忘れたい事』とは、恐らく今日あった人事の出来事だけではない。もっと複雑でどす黒いものを、主は経験してきた。

 八歳の虎吉が七歳だった利輝の側仕えとして仕え始めてから、今年で十二年だ。十二年もの歳月を利輝の側で過ごしてきても、主が経験してきたこと全てを知っているわけではない。利輝が両親を失ったのはもっと早い年齢だったと聞く。近くに虎吉がいたからといって利輝の心が救われるわけではないが、それでももっと早くお仕えしたかったと虎吉は思っている。

 初めて利輝に出逢った時、虎吉の主は一人で過ごしていた。なんて孤独で、寂しそうな方なのだろうと思った。もし、利輝が両親を失う前に側仕えになれたとしても、虎吉は幼すぎて何も役に立たなかっただろう。しかしそんな子供でも、この広い屋敷の中で、利輝を一人にしない事くらいは出来たのだ。

「利輝様。虎吉は一生、利輝様に忠誠を誓います」

 いっそ美しいとさえ感じる孤独さを纏う主に、虎吉は囁いた。利輝がこちらを見て、苦笑する。

「何を今更。お前が私に背を向けるなんて考えた事も無い。そんな事が出来るほどお前は器用じゃないからな」

 そう言って、利輝は俯いた。

「お前は私がいけない事をしたら窘めてくれる。そんな事をしてくれて、尚且つ信頼できる人間は、虎吉しかいない。お前がいなくなると困るよ」

「勿体ないお言葉です」

 利輝はまた中庭の方を向いた。虎吉はその横顔を見つめる。顔の右側しか見えず、そこは面に隠れていて表情が読めない。しかし、顔を動かす前の利輝は、唇に悲しそうな笑みをたたえていたように見えた。

 利輝の側にいると、心地よい風が吹いているような気がする。それは、利輝の霊力がそう感じさせているのだった。

 利輝の霊力は桁違いで、底の無い湖のように豊富な量と雪解けの水のように清らかな質を持ち合わせている。更に、それを使いこなせるだけの生まれながらの優秀さもあった。それは、この苑条家に生まれたからこそ得られたものなのかもしれないが、利輝はこの家に生まれたために報われない思いをしている。

 どうか利輝様の望みや願い、そして人生が報われますように。

 虎吉はそう願わずにはいられない。そして、そのすぐ後ろを自分は命が続く限りひたすらついて行くのだ。全ては利輝様のために、と虎吉は心の底から思っていた。

 ぼんやりと佇んでいる利輝に、虎吉は静かに声をかけた。

「利輝様。そろそろ行きませんと」

 分かった、と利輝が身じろぎをする。ほぐすように、首をぐるりと回した。

「行くか」

 嫌だな。心の奥底から漏れたような言葉が、ぽつりと響いた。

 結局、利輝はたっぷりと時間をかけて奥の間に向かった。間に合うのか、と最後の方ははらはらしたが、着いてみると程よい時間だったようだ。利輝が奥の間の障子の前に立つと、廊下の向かいから利輝の伯父である信輝のぶてるがやってきたところだった。虎吉は頭を下げた。

「利輝も来たのか」

「ええ、呼び出されましたから」

 利輝の声は面倒だという気持ちを隠そうともしていない。信輝が慌てたように「利輝!」と囁き、不安そうな目で障子を見た。

「この奥には既に父上がいらっしゃる。聞こえたらどうするんだ」

「聞こえたからといって、何かを思うような方ではないでしょう」

「どうしてお前はそうなんだ」

「こういう態度を取りたくもなるような事をお祖父様が私にしてきたからですよ」

 ひそひそと話す信輝に対し、利輝は声を潜めようとしない。

 しかしな、と信輝が言いかけた時、

「いつまで待たせるつもりだ」

 障子の奥から低い声が聞こえてきた。信輝と利輝が同時に障子を見る。虎吉はひやりとした。

「さっさと入れ」

「はい」

 信輝が声を張り、障子を滑らかに開けた。二十人ほどで宴会が出来るほどの広さがある広間の一番奥に、当主の輝政が不機嫌そうな顔で座っていた。年齢による白髪に、顔の皺。しかしその存在感は若々しく、そして他者を圧倒するほど堂々としている。彼が当主になってから苑条家は更に飛躍したと言われているが、輝政の姿を見れば誰もが納得するだろう。

 虎吉は慌てて廊下に腰を下ろし、深々と頭を下げる。

「失礼します」

 と信輝が部屋に入っていく気配がした。利輝もそれに続くと思っていたが、一向に気配が動かない。虎吉が疑問に思うと同時に、「どうしたんだ、利輝」と輝政の声が聞こえた。

「お祖父様、虎吉も同席させてください」

 何をおっしゃるのですか利輝様! 虎吉は心の中で叫ぶ。それは流石に無理だろう、と思った。

 しかし、

「入ってきてすぐの場所に居るというのならば、構わんよ」

 信じられない言葉が返ってきた。虎吉はぎょっとして思わず頭を上げる。利輝を見上げると、当然だと言わんばかりの顔だった。

「ほら、行くぞ」

 利輝はさっさと部屋の奥へと入っていく。虎吉は慌てて部屋に一歩入り、障子を閉めてからその場に腰を下ろした。信輝は輝政の前に座っている。信輝の斜め後ろに、利輝は座った。

 利輝と信輝を確認するように見てから、輝政は口を開いた。

「今日、呼び出したのは大した用ではない。なに、久しぶりに息子と孫の顔を見ようと思ったまでだ。だから虎吉がいる事も許そう。信輝、お前とは仕事の顔でしか会わなかったからな、儂もお前もしかめっ面ばかりしておった。たまにはこうして親子として顔を合わせるのも良いだろう」

「はあ」

 信輝は困惑した声だった。それもそうだろう、と虎吉は思う。虎吉も信じられない思いだった。あの輝政に、所謂家族の情のようなものが存在しているとは考えた事も無かった。虎吉の中の輝政の印象は、苑条家を繁栄させることのみに執着しており、家族であっても利用できないとなると冷たくあしらう男だ。そのある種の意志の強さ、冷酷さは化け物じみているとさえ思う。

「なあ、信輝。お前は儂の跡を継ぐ男だ。だからお前には誰よりも厳しく接してきた。それはお前も分かってくれているはずだな、ん?」

「はい」

 まだ困惑を滲ませたまま、信輝は答えた。この話がどこに着地するのか不安がっているようだった。

「ならば、国輝をしっかりと教育する事の重要性が分かるだろう。国輝はお前の後に苑条家を継ぐ者。子供ははしゃぐものだが、放置しておくとただの阿呆になる。あの子も今年で五つになる。儂はそろそろ国輝にも教育を始めなければいけないと思っているが、まさか親のお前が何も考えていないという事はないな?」

「いえ……はい、そろそろ礼儀作法や読み書きを教えていかなければいけないと思っていた所です。父上にも是非国輝の教育に関する意見を頂戴したく思います。よろしくお願い致します」

 信輝はそう言って頭を下げた。輝政が冷やかな目で、満足そうに頷く。

「信輝。儂はこの家を繁栄させるために人生を捧げてきた。それをお前や国輝の代で衰退させる事など、許されると思うなよ」

 部屋中の空気が鉛になったような圧が押し寄せてきて、虎吉は息が苦しくなる。信輝が、絞り出すように「はい」と言った。

 ふん、と輝政が鼻を鳴らし、空気がふっと和らいだ。虎吉はばれないように、そっと安堵の息を吐き出した。

「お前や国輝は頼りない。能力や出来は利輝の方がよっぽど良いわ」

 利輝がぴくりと肩を揺らす。虎吉も反射的に頬を引き攣らせそうになった。それを貴方がおっしゃいますか、と内心唇を噛む。

 利輝は信輝の次に当主の継承権を持っていた。だがそれは、五年前に他でもない輝政によって剥奪されたのだ。

「利輝よ、久しぶりだな」

 輝政は柔らかい声で利輝に話しかける。口元は微笑んでいるが、目は冷ややかなままで、不気味な表情だった。

「お久しぶりです、お祖父様」

 利輝も冷ややかな声で答える。

「面を外したらどうだ。家の中だろう」

「今日はつけていたい気分なので、お気になさらず」

「お前とはすれ違ってばかりで、全然会わないな」

「別に会いたいと思っていませんので。避けられているとはお考えにならないのですか」

 はははっと輝政が声を上げて笑う。

「お前は冷たいな。儂にそのような態度をとる者など、お前くらいだ。可愛い孫に冷たくされて、じじいは寂しいぞ」

「そのお歳になって、ごっご遊びは痛々しいですよ」

 利輝はそう切って捨てる。輝政の顔が、苦笑いに変わった。

「まったく、鏡子とは大違いだな……そうだ、仕事はどうなんだ? ずっと忙しそうにしておると聞いているぞ」

「お陰様で。お祖父様が人事部に働きかけてくださったお陰で、来年も激務になりそうですよ」

 虎吉は息を呑む。利輝は唐突に勝負に出た。

 輝政がすっと目を細める。

「よく働けよ。お前は家の事など気にしなくていい」

 否定しないのか。虎吉は顔を歪めないように、必死に無表情を保った。利輝が纏う気配が鋭くなる。

「私が十四になるまではこの家の事を第一に考えよとおっしゃっていたのに、随分と言葉が変わりましたね」

「お前はもう当主候補ではないからな」

「あの時から私は家の事に関われないようになった。まともな子供が生まれたらもう用済みですか」

「先程も言っただろう。お前の能力は素晴らしい。ただ、それを苑条家のためだけではなく他の事にも生かしてほしいだけだ」

 なあ、利輝よ。分かっておくれ。

 輝政は不気味なほどに優しく利輝に語り掛ける。利輝が当主継承権を剥奪される前は、輝政がこのような声で利輝に話す事など無かった。

 主が侮辱されている気がして、耐え切れず虎吉は俯いた。悔しさに思い切り顔を顰める。

「他の事に生かしてほしいとおっしゃるのなら、うちの人事に働きかけるのはやめていただけますか。私の力が今以上に活かせる場所に行きたいので」

「さてな」

 輝政は飄々としていて、相手にしない。

 ついに、利輝の声が震えた。

「……どれほど私の人生を狂わせたら気が済むのですか」

 発せられる言葉の節々に、恨みや憎しみが籠っていた。虎吉は主の背中を見る。一人ぼっちの背中だ。すぐにでも傍へ行き、利輝様の味方はここにいますと言いたかった。虎吉は利輝と距離が離れている事を恨めしく思った。

「利輝。お前は人間と術人の関係についてどう思う?」

「は?」

 利輝が唸るように呟く。今はそんな話をしていない、と言いたげだった。それを気にせず輝政は続ける。

「何故人間が術人と対等に過ごしていられると思うか? 奴らの方が寿命も戦闘能力も回復能力も人間よりずっと優れておる。そんな術人と人間が対等でいられるのは、我らが霊力を持っているからだ。その霊力によって、実は術人の能力や行動をある程度抑制できる。しかも抑制されている術人は自分の意志でそう動いていると錯覚するからな、気付かれる事がない。便利なものだ。人間はこれまで術人が人間より優位に立とうと動きかける度に霊力で抑えてきた。まあ、これは世の中を動かしている者達の更に核にいる人間しか知らん。世間に知られれば今までの均衡状態が一気に崩れるからな。霊力が無ければ、人間など初めから奴らの奴隷だったわ」

「は……」

 突然の話に、利輝は呆然としている様子だった。信輝も虎吉も、固まっている。

 人間が、術人を操れる。それはあまりに衝撃的な話だった。

「術人を操るには、かなりの霊力が必要だ。そして、それを使いこなす才能も。そこらの人間では話にならん。しかしな利輝、お前ならば易々とこなしてみせるだろう」

「……何がおっしゃりたいのですか」

「儂がもし、『術人を操れ』と言えば、お前は奴らをその霊力で思うままに動かす事が出来るか? 苑条家のため、更には人間のために」

 輝政は凄味のある笑みを浮かべた。

「お前に、それが出来るのか? ならば儂はまたお前を家の事に関わらせよう」

 虎吉はごくりと唾を飲みこみ、利輝を注視した。利輝は俯き、長い間黙っていた。

 そして、顔を上げる。

「人間のためだけに、ですか」

「ああ」

「ならば、分かりません」

「だろうな」

 輝政はつまらなそうな顔をする。

「だからお前は苑条家の事には関わらせられないのだ。この家は人間の名家であり、今後もそうあり続けなければいけない」

 一瞬間が空いた。

 利輝が渇いた笑い声を上げた。

「私が当主継承権を剥奪されたのは国輝が生まれたからという理由だけでは無かったという事ですか。はははっ、馬鹿みたいだ。お前の能力は素晴らしい、それを他にも生かしてほしい? お祖父様ともあろうお方がご機嫌伺いですか。初めからお前は使えないとはっきりおっしゃったら良かったのに。もっと早く分かっていれば、私は五年も……」

 利輝の言葉が途絶えた。

 苦しまずに済んだのに。憎まずに済んだのに。そんな言葉が続く気がした。

「お話はもう終わりでいいですね。失礼します」

 利輝は立ち上がると、虎吉がいる方へ足早に歩いてきた。その顔を見れば、利輝の複雑に絡まった感情が手に取るように分かった。

 利輝、という輝政の呼びかけに利輝は足を止める。しかし、振り向きはしない。

「家の事には関わらせられん。だが、家から出る事も許さんぞ。腐ってもお前は苑条家の者なのだからな」

「ええ、この家からは出ていきませんよ。ですが、これからは今まで以上に好きにさせてもらいます。貴方が私の人生に干渉して来ようと、それを弾き飛ばすくらいにね」

 利輝は吐き捨てるようにそう言うと、障子を乱暴に開けて部屋から出て行った。虎吉は輝政と信輝に一礼をして、腰を上げる。

「虎吉。聞いた事は全て心の内に秘めるのだぞ」

 輝政の脅すような声色も、今は恐ろしくなかった。

「承知しております」

 今は早く傷ついた主の元へ飛んでいきたかった。失礼します、と虎吉は足早に部屋から出る。廊下を音を立てずに駆けた。

 主はすぐに見つかった。行きも立ち止まっていた場所だ。廊下の真ん中に立ち、中庭の方を見ていた。今度は左の横顔が見えているので、表情が分かる。魂が抜けたような、無の表情だった。

「利輝様、今日はお仕事もあってお疲れになられたでしょう。お部屋でお休みください」

 虎吉はそっと声をかけた。風が吹き、利輝の黒髪をさわさわと揺らした。

「風もまだまだ冷たいです。お風邪をひいてしまいます」

 利輝の反応はない。ただ中庭を見つめている。

 桜の木はまだ花を咲かさない。今咲き誇っていればどれほど良かった事か、と虎吉は思った。

 今満開の桜が目の前にあれば、主の心も少しは癒されただろう。忘れたい事を忘れ、夢の中で過ごせただろう。そうであれば、どれほど主の救いになった事か。今、主が感じているであろう途方もない孤独も、桜色の花弁が降る中だったなら薄らいだかもしれない。

 世界に一人ぼっちの主の為に、無意味な事と分かっていても、虎吉は願った。

 どうか今この瞬間。桜よ、咲け。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

狭間の鬼神姫、これより始まります。

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