第35話「約束果たす時」
トントントントントン。
彼が材料を刻んでいく音がキッチンからダイニングの方まで届いてくる。
なんだかその音が耳に心地いい。私は机に頬杖をついてその音に耳を傾ける。いつまでもこうして聞いていたい。
彼が材料を刻むその横では大鍋でパスタが茹でられている。
本当は彼の手伝いをしたかったんだけど、手伝ってしまうと彼の料理、ではなくなってしまうような気がしたからやめておいた。彼と私の料理は今はいらない。ただ、彼だけが作った料理が食べたい。そう思うのだ。
そんなことを考えていたら、いつの間にか材料を刻む音は止んでしまっていた。今度はコンロに火を入れる音が聞こえてきた。
カチカチカチッ、シュッ。
そうして、コンロに火がつく。いつも自分が料理をするときは聞いているはずなのにこうして聞くと何故だか新鮮な感じがする。
それから、彼はフライパンを取り出して火に当てる。
彼が私の家のキッチンを使うのは二度目のはずなのにそれにしては調理道具を出すのが速い。昨日、一度使っただけでどこに何があるのかを覚えてしまったんだろうか。
そう思っていると、彼が無闇に引き出しを開け始めた。
何を探してるんだろうか、と彼の作ろうとしているもの、彼が買った食材を思い浮かべる。一つ思い当たるものがあった。
「缶切りなら一番上の引き出しの奥の方にあるはずですよ」
「一番上って、右のか?」
私に背を向けたまま聞いてくる。
「あ、違います。左の方です」
「……あ、あった。つか、俺が探してるものがよくわかったな」
やっぱり私の方に背を向けて缶切りを使って何かを開けている。彼が必要としたものを当てたのだ。彼が開けようとしているものも十中八九合っているだろう。細かく切ったトマトの入っている缶詰だ。
「私も料理をしている身ですからなんとなくわかるんですよ。どういう手順で料理を進めて行こうとしているのか、っていうのが」
「確かにそうかもな」
缶詰を開け終えた彼はフライパンに油をしき材料を入れていく。ジューッ、という音とともに野菜やお肉が焼けていく匂いが広がる。彼は木べらを手早く取り出すとフライパンへ入れた材料を炒め始める。
「でも、一真君もなんでそんなに道具がある場所がわかるんですか?」
「わかる、つーか大体同じところにあるんだよ。俺の家のキッチンと」
「そうなんですか」
もしかしたら、大体どの家庭も同じような感じで道具を置いてるのかな、と思う。私のところと一真君のところだけが似てる、ってのは考えられないし。
その後はまた、彼と私の間に言葉はなくなる。
でも、私は言葉は必要ないと思っている。こうして彼が料理している姿を見ているだけで平穏なものを感じる。少しだけ口元が緩んでるのがわかる。
なんでそうなるのか、その理由は少しもわからない。ただ、こういうのも悪くないな、という思いだけがある。
プルルルルルルッ……プルルルルルルッ……。
突然、無機的な電子音が割り込んできた。電話だ、と思った。この家に電話がかかってくるのはかなり久しぶりなことだった。
何だろうか、と思って立ち上がり受話器を取る。
「……はい、金崎ですけど」
あの平穏な雰囲気を邪魔されたせいか不機嫌な声になってしまっていた。
「もしもし、三柴よー。……なんだか不機嫌みたいねー。何か、邪魔をしてしまったかしらー?」
「いえ、別にそんなことはないです。それよりも、何の用ですか?」
無理やり不機嫌さを隠してそう聞く。三柴先生は全然悪くないのだし。
「今日は帰れそうになくなったわー。だから、夕食は二人だけで食べてくれるかしらー」
「わかりました。じゃあ、切りますよ」
「なんだか淡白な反応ねー。喜んだり、うろたえたりとかはないのかしらー?」
「何を喜んで、何にうろたえればいいのかわからないんですけど?」
というか、なんでそんなことを聞いてくるんだろうか。
「いや、気にしなくてもいいわー。ただ、問題を起こさなければねー」
三柴先生の声色が少しだけ楽しそうな色を帯びているような気がする。本当、何なんだろうか。
「……私が問題を起こさないと思ってますか?」
「……思ってないわよー。でも、彼が止めてくれるでしょー?だから、私が言ったのは表立って、と言う意味よー。……それに、実は私金崎さんのこと少しだけ信じてるのよー?」
答えた声は真剣だった。しかも、信じている、とまで言った。
「信じてる、ですか?」
「そう、私はあなたのことを信じているのよー。だから、私の信頼を裏切るようなことをするんじゃないわよー」
おやすみなさいー、と言って向こうから勝手に切ってしまった。
首を傾げるような発言がいくつかあったけど、とりあえず、私に釘を刺そうとしているのはわかった。
「誰からだったんだ?」
「三柴先生からです。今日は、帰れないみたいです」
椅子に腰かけながら答える。そこでふと私は自分の言葉に違和感を覚えた。
三柴先生にはちゃんとした家があるのに、帰ってくる、というのは変じゃないだろうか。知らない間に住みつかれているようなそんな感覚を抱く。でも、別にいいか。四六時中外から見張られているよりかは。
「そうか。……でも、どうするんだ?夕食、三人分作ってるぞ」
「出来たてのものを残すなんてもったいないですから、私が二人分食べます」
「お前、明らかに小食だろ」
今まで彼と何度か食事をしたけど食べた量は同じだ。何を根拠にそんなことを言ってるんだろうか。そう思ったけど、一応、事実ではある。
「大丈夫です。一真君の作った料理ならたぶん、いくらでも食べられますから」
不思議と本気でそう思う事が出来た。きっと、大丈夫だ、と。
「お前の場合、意地でも食って後で吐いてそうだからな……どうするか」
「そんなこと、しませんよ。吐きそうになっても、堪えてみせますから」
「やっぱり、吐きそうになりそうだ、っていうのは自覚してるんだな。じゃあ、だめだ、食べさせられないな」
「……じゃあ、どうするんですか」
残すことだけは絶対にしちゃダメだ、と彼の背中をじっ、と睨む。
「残しとく、……って言ってもお前は納得しないんだろうな。じゃあ、余った一人分を二人で分けるか?……いや、お前の場合、それでも食べられなさそうだな。まあ、俺が残った分を食えばいいか。それでいいか?」
「……ちょっとだけ、納得できないですけど、いいですよ」
ピピピピピピピ……。
私がそう答えた時、ちょうどパスタの茹でる時間を計っていたタイマーが時間になったことを伝える。
彼はコンロの火を止め用意してあったザルへと茹で上がったパスタを流し込む。
白い湯気がもわー、っと広がる。ここからでは見えないけど、パスタからは湯気が立ち上っているはずだ。
何度か水切りをする音が聞こえる。ここまでくれば完成は目前だ。とは言っても彼が料理をしている姿を追いかけるだけでも暇を感じなかったからそれほど待たされたような感じはしなかった。
彼はパスタを皿に盛りつけ、フライパンで作ったソースをそれにかける。
「千智、フォーク、持って行ってくれるか?」
「あ、はい。わかりました」
彼に呼ばれて私は立ち上がる。少しだけでも、彼の手伝いができることがなんだか嬉しかった。
スパゲティの盛られた皿を運んでいる一真君とすれ違う。そのときに、トマトソースのいい匂いがした。
さっきまで全然意識していなかった空腹感を感じる。
早く、用意して食べよう。そう思って小走りでキッチンの中へと入り、フォークを二本、引出しから取り出した。
それから、小走りでテーブルの方へと戻る。テーブルの上にはたっぷりとスパゲティが盛りつけられた皿が置いてある。
「はい、どうぞ」
彼に手渡しでフォークを渡す。そういえば、昼は彼に箸を渡してもらったな、と思い出す。
「……なんか、嬉しそうだな、お前」
「はい、昼から一真君の料理、楽しみにしてたんですよ」
答えながら私は自分の席に着く。
「ふーん、そうか……」
彼が私の顔をまじまじと見つめてくる。
「あの、なんですか?」
「いや、お前が嬉しそうにしてるのなんて初めて見たからな。ちょっと珍しい、と思ってな」
そう言って、彼は口元を綻ばせた。
「あ……」
それに気がついた私は小さく声を漏らしてしまう。
「ん?どうした?」
「えっと、……なんでもないです」
何故か彼が口を綻ばせていたことを口に出来なかった。なんでだろうか。
「そうか?なら、早く食うか」
少し不思議そうな表情を浮かべて私の顔を見たが、それ以上は聞いてこなかった。
「はいっ。いただきますっ」
彼の言葉に私の声は必要以上に弾んでしまう。
「急いで食って、喉に詰まらせるなよ?」
「そんなことしませんよ。急いで食べるなんてもったいないですから」
答えながら私はフォークにスパゲティを巻きつけ口の中へとを入れる。
トマトの酸っぱい味がちょうどよい塩加減とともに口の中に広がっていく。私はその味をさらに求めるように口を動かす。
パスタの程よい硬さが食感でもその味を楽しませてくれる。
噛むことができなくなるまで噛むと私はそれをゆっくりと飲み込んだ。
「すごく、美味しいですよ」
それから、彼に向けて私はそう言った。
「そうか。それは良かった」
言葉は素っ気なかったけど彼の顔には嬉しそうな笑顔が浮かんでいた。私はそんな彼の顔をじっと、見詰めてしまう。
彼は私の視線に気がつくことなく食べ始めてしまう。私はそのことにほっとしたような、がっかりしたような複雑な気分を感じていた。




