第32話「彼と交わす約束」前
「千智ちゃん、風邪は大丈夫なの?まだ、だるかったりしない?」
昼休みになると一分経ったか経たないかのうちに麻莉さんがこの部屋にやってきた。私のことをかなり心配してくれていたみたいで昼食の準備をしていた私を無理やりソファーに座らせると私に体調に関しての質問をしてきた。昨日に比べるとずいぶん大人しい。
「大丈夫ですよ。もうすっかり治りましたから」
「そう、よかったあ」
麻莉さんは安心したように胸を撫で下ろす。私のことなのに、そんなふうに純粋に安心する様子を見せられるとむず痒いようなそんな感じを受ける。
「でも、千智ちゃん無理はしちゃ駄目だよ。無理したら風邪がぶり返しちゃうかもしれないからさ。だから、あとはあたしに任せて座って待っててよ」
そう言って麻莉さんは私がソファーに座らされてから一人で準備をしていた三柴先生の方へと行く。
「汐織先生、あたしが千智ちゃんの代わりに手伝うよ。何すればいい?」
「それなら、食器の用意をしてくれるかしらー。それから、机の上をそこにある布巾で拭いてくれるかしらー」
「うん、わかった。えっとー、食器、食器ー、っと」
麻莉さんが来た途端にそれだけで騒がしくなった。といっても、嫌な騒がしさではない。必要な騒がしさ、とでもいうのだろうか。
と、部屋の扉が開かれた。彼が来たのだろう、と思って扉の方を見てみると思ったとおり、彼がそこに立っていた。
無言で部屋の中へ入ってくると私の方へと歩いてきた。そして、突然私の額に手を当てられた。
「突然、何するんですか?」
彼の少し温かい手が額に触れているのを感じ取る。
「単に風邪がぶり返してないか確認してるだけだ。……ま、とりあえず大丈夫みたいだな」
そう言いながらおもむろに手を離していく。その時に、少し、本当に少しだけ名残惜しさを感じてしまった。
昨日は調子が悪くてそれで離れることに何かを感じていたと思ったんだけど違ったんだろうか。それとも、ただ単に風邪が治りきっていないだけなんだろうか。
「あー!一真君、何で私の千智ちゃんに触ってるのっ!」
食器の用意をしていたはずの麻莉さんが私たちの姿を見てそんな声を上げる。
「私は麻莉さんのものじゃないです」
「千智はお前のものじゃないだろ」
私と一真君の突っ込みがほとんど同時に入る。けど、麻莉さんに私たちの声は届いていなかったようだ。
「二人ともそんなに近づいちゃ駄目っ!」
麻莉さんは私と彼の間に立つと両手を広げて彼と私―――主に一真君の方を押して私たちの間に距離を開ける。まあ、私はソファーに座ってるからこれ以上、下がることなんてできないんだけど。
「……お前は何がしたいんだよ」
先ほどまではそうでもなかったはずなのに一真君の口調は疲れたようなものになっている。たぶん、私が何かを喋ったら同じような感じになるんだと思う。麻莉さんと一緒にいると疲れる、というのはすでに経験済みだから。
「一真君に千智ちゃんは渡さないよっ!」
そんなわけのわからない宣言をしながら私を抱きしめる。今日は私が病み上がりだからか麻莉さんから危険そうな感じはしない。
だからといって、抱き締められて嬉しい、と言うことはない。むしろ、早く離れてほしい。
「……麻莉さん、離れてください」
「大丈夫だよ、千智ちゃん。千智ちゃんのことはあたしが守ってあげるからねっ!」
「だから、そうじゃなくて、早く離してください」
「千智ちゃん、そんなに怯える必要なんてないよ。あたしがいるんだから」
会話が噛み合っていない。麻莉さんは一人で暴走を続けていて私の声が聞こえていないようだ。
「……千智、頑張ってくれ」
「え?あの、一真君も麻莉さんを止めるの、手伝ってください!」
私一人で、暴走している麻莉さんを止められるはずもない。だから、彼に協力してもらおうと思ってたのに、彼はすでにやる気がなくなってしまっていてソファーに座ってしまっている。
「金崎さんがそうやって声を荒げるのって珍しいわねー」
背後から三柴先生の呑気な声が聞こえてきた。抱き締められているせいで振り返ることはできない。
「ほらほら、早く金崎さんを離してあげたらどうかしらー?そんなことをしてると昼食が冷めちゃうわよー」
「む、それは、確かにそうだね」
そう言いながら麻莉さんが私を抱きしめるのをやめる。また、抱き締めたりされないうちに私は麻莉さんから距離を取る。
「そう思うなら、料理を運ぶの手伝ってくれるかしらー?」
「うん、わかったっ。……一真君、あたしが離れたからって千智ちゃんに手を出したら駄目だからねっ!」
そう言うと、料理を取りに行くために麻莉さんは調理台の方へと行ってしまった。三柴先生もそれに続いて行ってしまう。
「お前も大変だな、変な奴に絡まれたりして」
「そう思ってたなら、助けてください」
わざわざ机をまわって彼の隣に座る。麻莉さんの暴走が始まってしまっているから彼女に後ろを取られるのが怖いのだ。
「変な奴はお前一人で十分だ」
「どういう意味ですか、それは」
「どう見ても、どう考えてみてもお前は変な奴だろ」
「どこが、変な奴なんですか。私は、少し変わってるかもしれませんけど、変な奴、って言われるほど変わってるとも思いません。というか、麻莉さんと私を一緒にしないでください」
今まで何度か彼には変だ、と言われてきたけど、言い返したのは今日が初めてだ。私と奇行を繰り返す麻莉さんを一緒にされたからか、彼への反発心がある。
「一応、自覚はあるんだな。でも、俺はお前とあいつが同じくらい変な奴だ、とは言ってないぞ。単に変な奴が二人もいらない、って言っただけだ。お前が麻莉と同じくらい変な奴だったら関わろうとさえ思わなかっただろうな」
「だから、変な奴、って言わないでください。それに、一真君も麻莉さんには劣りますけど変な人です。私なんかと――――っ!」
途中で彼に頭を叩かれてしまって言葉が途切れてしまう。彼に叩かれた部分を手で押さえる。
「だから、私なんか、とか言うな、って言っただろ?何回同じことを言わせたら気が済むんだ」
彼は怒ったような表情を浮かべて私を睨んでくる。
「……すみません」
何故だか、私は彼に謝っていた。今までの私は絶対にそんなことなかったのに。
「謝るんなら、最初からそういうふうに言うな。今度言ったら、また、叩くからな」
不機嫌そうな口調でそう言う。私はそのことに少しだけ居心地の悪さを感じる。
「うぅ……。二人ともひどいよ、あたしのこと変な奴、変な奴、って。……ううん、それよりも!一真君、千智ちゃんのことをいじめたらダメだよっ!」
料理を持ってきた麻莉さんは最初落ち込んだような声を出していたと思ったら、今度は怒ったような声を出した。忙しい人だな、なんて他人事のように思う。
「俺はいじめてなんかない。ただ、このわからず屋に自分を卑下するようなことを言うな、ってわからせてやろうとしてるだけだ」
「なら、叩く必要なんてないよ!優しく、優しく、教えてあげれば絶対にわかってくれるよ!」
何故だか麻莉さんの口調は興奮しているような感じだ。
「こいつが、ただ言っただけで聞くと思うか?」
「一真君はちゃんと口で言ったことがあるの?」
彼の冷静な口調での質問に、麻莉さんが先ほどよりは落ち着いた口調で質問を返す。テンションの高低差が麻莉さんを落ち着かせたんだろうか。
「……いや、別のことでこいつは全く聞き入れなかったから、口だけで言おうとは思わなかったな」
確かにそうだった。彼の前で私自身のことを卑下した時は彼に叩かれた。
「ダメだよ!いきなり、暴力なんかに頼ったりしたら。千智ちゃんが可哀想だよ!」
「……はあ、お前には関係ないことだろ」
突然巻き返した麻莉さんのテンションについていけないのか疲れたようなため息をつく。
「関係ないなんてことはないよ!千智ちゃんはあたしの大切な、あたしだけの人なんだから!」
麻莉さんの発言から身の危険を感じた私は麻莉さんに抱きつかれてしまう前にソファーから急いで立ち上がって麻莉さんから距離を取った。
「千智ちゃん、なんで逃げるの?」
「麻莉さんが近付くと身の危険しか感じないからですよ」
「む、それは心外だなあ。この前はちょっと自分が抑え切れなくなっちゃって襲いかかっちゃったけど、普段はそんなことないんだよ?」
「信用できません」
私を近づけさせるための言葉にしか聞こえない。
「ほんとに大丈夫だよ。あたしは、一真君にいじめられた千智ちゃんを慰めてあげたいだけだよ。ほらほら、安心してこっち来て」
離れた所にいる猫を誘うような手つきで私を呼び寄せようとする。そんなことをされて近づくと身の危険を感じる相手に素直に近づくような人がいるんだろうか。
「……お前、そんなことして本当にあいつがお前の所に来ると思ってるのか?」
私と麻莉さんのやり取りを見ていた一真君が呆れたような声でそう言った。その声に麻莉さんが言葉を返す。
「じゃあ、どうすればいいの?教えてよ」
「そんなもん、俺が知るか。……まあ、一つだけあるとすれば、さっさと座ってさっさと昼飯を食べ始めることだな」
「そうねー。早く食べてくれないとせっかく作った料理が冷めちゃうわー」
一真君のいるソファーとは反対側に座っている三柴先生がそう言う。
「うわっ!汐織先生、いつの間にっ?」
「ちょっと前から座ってたわよー」
麻莉さんがあからさまに驚いたような声を上げた。私は三柴先生が料理を持ってソファーに座るのを見ていたけど、ずっと私の方ばかり見ていた麻莉さんにはそれが見えていなかったようだ。
「それよりも、早く座ったらどうかしらー?食事の前は落ち着いていたほうがいいわよー」
「……うん、そうだね。千智ちゃんを慰めるのはご飯を食べて、落ち着いてからにしようか」
麻莉さんがこちらに向けてにっこりと笑顔を浮かべる。このまま逃げてしまおうか、と思った。だけど、
「千智もそんなとこに立ってないで早く座れよ」
そう、彼が呼ぶ。昨日、一日中彼には迷惑をかけていたから出来るだけ彼には迷惑をかけたくない。だから、麻莉さんに近づいていく、ということに抵抗を覚えながらも机の方に戻って再度、彼の隣に腰掛けた。
「むー、なんであたしが呼んでも来ないのに、一真君に呼ばれたら行くの?」
麻莉さんが不満そうな表情を浮かべて私を見る。
「一真君に呼ばれたから行ったんじゃありません。麻莉さんに呼ばれたから、行かなかったんです」
「じゃあ、汐織先生に呼ばれてても来てたんだ?」
「はい、そうですね」
「……でも、あたしに呼ばれても来ないんだ?何で?」
「それは、自分の行動を思い返してみてください」
「だからぁ、あれは、久しぶりに千智ちゃんみたいな可愛い人を見つけたからつい、自分を抑えられなくなっちゃっただけなんだって。ほらほら、今のあたしはこんなに落ち着いてるよ」
麻莉さんがそんなことを言う。
まあ、確かに昨日よりは落ち着いてる。それでも、近寄りがたい危なげな雰囲気が麻莉さんにはある。正直に言って三柴先生、よく隣に座れるな、と思う。
もしかしたら、長い間一緒にいたから近くにいると危ないとき、っていうのがわかるのかもしれない。出会ったばかりの私はそんなことわからないけど。
以上のことを踏まえて、
「……確かに昨日よりは落ち着いているように見えます。ですけど、やっぱり出来れば近づきたくありません」
と、答えた。何一つとして嘘偽りのない言葉だ。
「ふう、千智ちゃんは警戒心が強いからなかなか近付いてくれないね。汐織先生は出会ったばかりの時から警戒心をこれっぽっちも持ってなかったのに」
諦めが混じったため息をつく。とりあえず、今のところは諦めてくれるようだ。
「……それは、あなたが猫を被ってたからよー。川里さん、出会ったばかりの時は大人しくて素直なのを演じてたわよねー」
「あの時は、入学したばっかりでこの学校の空気に慣れなくて自分を出せなかっただけだよ。別に演じてたわけじゃないよ。あたしの真髄を見きれなかった、汐織先生がいけないんだよ」
麻莉さんが楽しそうに笑う。対して、三柴先生は小さくため息をつく。
「まあ、そういうことにしといてあげるわー。それに、あなたが来たおかげで暇をしなかったしねー」
「そうそう、そうやってあたしの存在を有り難がって、ゆくゆくはあたしのことを愛してくれればいいんだよ」
「……そうなることは絶対にないと思うわー」
「えー、そんなことないよ。汐織先生、あたしと話してる時は素の性格で話してくれてるもん」
「長い間、一緒にいたら必然的にそうなるわよー」
「それで、最終的にはあたしへの愛も育まれるんだよね」
「だから、なんでそうなるのかしらー」
三柴先生と麻莉さんの会話が延々と続く。三柴先生は麻莉さんから少し距離を取っているような喋り方をしているけど、こうして傍から見ていると仲が良さそうに見える。
麻莉さんがあんな性格じゃなければ三柴先生はもう少し麻莉さんと距離を縮めてたのかな、と思う。