第24話「雨の中」
ざぁーーーっ、という音が十数分くらい前から聞こえ続けている。
ついに雨が降ってきた。
それでも私は依然として地面の上に横になったままだ。だから、当然私の体は雨に濡れていく。
雨が降り始めた時は冷たいと感じていたけど、今はそんなことを感じることはなかった。むしろ心地いいとさえ感じている。
雨粒が落ちてくる。時々顔や目にその雨粒が落ちてきたりするけど拭い去るようなことはしない。
なんだか、動くのを面倒くさく感じてしまっているのだ。
やる気はあったのに、そのやることが出来なくなってしまって結局無気力になってしまったような感じだ。
雨粒は何度も私の顔を叩く。
私に何をしてほしいんだろうか。それとも、ただ単に面白いから私の顔を叩いているだけなのか。
と、ふと、雨と波と木の揺れる、それらの音だけだった世界に異音が混じる。
それは、誰かの足音だ。誰なのか、というのは見なくてもわかった。
だから、私は空を見上げたま聞く。
「何を、しに来たんですか?こんな雨の中傘を差さないなんて風邪を引きたい、って言ってるようなものですよ」
「それはこっちの台詞だ。お前こそ、雨が降ってるのに横になってたら風邪ひくぞ」
声は予想通りのものだった。
「……別に、私は風邪をひいても構わないです」
「俺も風邪くらいひいてもいいんだけどな。……そんなことよりも、お前はこんな朝早くからこんなところでなにやってんだよ」
少し声の調子が変わる。怒っているのか、それとも呆れているのか。とりあえず、そのどちらかの調子だ。
「空を見てるだけですよ。一真君には関係のないことです」
「ふうん、そうか」
そう言いながら彼が私の隣に座るのが気配でわかった。
「なんで私の隣に座るんですか」
「お前が自殺しないように見張ろうと思っただけだ。今はそんな気がないように見えるけど、どんなふうにそれが変わるかわからないだろ?」
「……大丈夫ですよ。今日はたぶん、死にたいなんて思わないでしょうから」
雨が降っているから、太陽の姿が見えないから。
「そうかよ」
それは私の言うことが信じられない、ということだろうか。それとも、私がなんと言おうとも関係ない、ということなんだろうか。
どちらなのか判別はつかない。でも、どっちであろうともよかった。彼がここから動く気がない、ということに変わりはないのだから。
それに、今は彼を無理やりここから離す必要もない。
私も彼も一言も発しようとしない。だから、再び雨が降る音、雨が葉を叩く音、波が打ち寄せてくる音しか聞こえてこない。
「……三柴先生も私のことを探してるんですか?」
ふと、気になって聞いてみた。
「ああ。あの先生、お前がいなくなってることに気がついた時、お前のことをかなり心配してたな」
「そう、なんですか」
それは悪いことをしてしまったかもしれない。私なんかのために心配をさせてしまって。
「一真君は、私がいなくなったのを知った時、あなたも心配したんですか?」
たぶん、それはないだろうな、と思った。まあ、もし、そうだとしたなら謝っておこう。心配させてしまったことを、無駄な徒労をさせてしまったことを。
「そんなわけないだろ。なんで俺がお前の心配をしないといけないんだよ」
予想通りの返答だった。
「つか、お前はまだ生きてることに意味がない、とか思ってるのか?」
「はい、そう思ってますよ」
「……まあ、それもそうか。まだ、俺は何もしてやれてないしな」
「一真君は、やっぱり私が死のうとするのを止めるんですか?」
そこで初めて私は彼の顔を見る。
私の隣に座っている彼は全身が濡れていた。前髪のあたりから雫が何度も落ちている。当たり前だ。これだけ雨が降っているのだから。
でも、なんでそんなになってまで私のところまで来たんだろうか。家を出て途中で雨が降ったというなら、そこで傘を取りに戻ればいいというのに。
「当たり前だろ。このままお前に死なれたら、お前のために使った時間が無駄になるからな」
「……だったら、最初から私なんかに構わなければよかったんですよ」
彼から顔をそらしてそう言った。
「いたっ……」
そうしたら、何故か軽く頭を叩かれた。
「馬鹿か。前も言っただろ、死のうとしてるやつを放っておけるほど冷たい奴じゃない、って」
なんだか少し怒っているようだ。
「なんで、私の頭を叩くんですか」
少し恨めしさを込めながら再び彼の方を見る。
「お前が自分のことをどうでもいいみたいに言うのが気に入らなかったんだよ」
「私が自分のことをどう扱おうと、それは私の勝手じゃないですか。なんでそれに対してあなたが口出しするんですか」
「だから、気に食わないからだ、って言ってるだろ。それ以外に何か理由が必要か?」
「……気に食わないなら私なんかに関わらなければいいんです」
私がそう言った途端にまた叩かれた。さっきよりも少し強かった。
「そんなことしたら、どうせお前は自殺をするんだろ?」
「はい、そうですよ。あなたさえいなければ結構、簡単にできそうですから」
彼がいなくなれば後はこの雨が上がって太陽が出てくるのを待つだけとなる。
三柴先生はこの場所を知らないだろう。けど、美沙都さんはこの場所を知っているような感じだった。
だけど、それも特に問題にはならないだろう。美沙都さんは仕事が忙しそうだからこんな場所に来ているような暇はないはずだ。
あと何人か私を止めようとする人が思い浮かぶけど、その人たちの中でこの場所を知っていそうな人はいなかった。
だから、あとは彼に諦めさせるだけでいいのだ。
彼は何故だか私がいつ死のうとしているのかわかっているようなタイミングで現われてくる。彼の直感は侮ることができない。
そして、だからこそ彼には私を止めるのを諦めさせる必要がある。
「だから、私を止めようとするのは諦めてください。私のことなんて忘れて自分のために自分の時間を使ってくださ―――っ!」
痛みと衝撃で最後まで言う事が出来なかった。
それは彼がかなり強い力で私の頭を叩いてきたせいだ。
私は痛みのあまりに反射的に頭を押さえていた。
「お前は学習能力が足りないみたいだな。それとも、そういう趣味でもあるのか?」
「そ、そんなもの、あるわけ、ないじゃないですか。それよりも、なんで、そんなに、強く、叩いたんですかっ!」
痛みのせいで言葉が途切れ途切れになってしまう。
「一回や二回、言ったくらいじゃ聞かないみたいだからな。自分のことを、どうでもいいいみたいに、言うな」
聞きわけない子供に言うように一字一句をはっきりと言ってくる。
「……さっきも言ったじゃないですか。私が私のことをどう思おうとも私の勝手だって!」
私は彼が何度も同じことを言うのが嫌になって、上体を起こしながら強い口調でそう言ってしまう。
「まだ、そんなこと言うか。じゃあ、俺も何度も言うぞ。自分のことをそんなふうに扱うな」
私と彼はそのまま睨みあう。微妙に緊張した空気が流れる。
彼は青色の瞳に鋭い光を湛えている。私も負けじと彼の顔をじっ、と睨みつける。
時折私の顔を雨の雫が伝う。けれど、私はそれを拭うようなことはしない。そんなことをしてしまったらなんだか彼に負けてしまうようなそんな気がする。勝負事ではないはずなのに。
まあ、そんなことは気にしない方がいいんだと思う。どうせ、今日はこのまま晴れてくれそうになくて、私がすべきことは何もないんだから。
そんなことを思っていると、
「……くしゅんっ」
不意にくしゃみが出た。その途端に、寒気を感じてきた。
「……さっさと帰るぞ」
「嫌です」
私は即答した。もうここから動きたくない、と思っている自分がいる。彼がここからいなくなるまで、空が晴れるまで、陽が昇ってくるまで、ずっとここにいたい、とか思っている。
「馬鹿かお前は」
ため息混じりの声でそう言われる。別に私はなんと言われようとも構わない。
不意に、彼が立ち上がる。私の手を掴んで。
「どういうつもりですか?無理やり私を帰らせるつもりですか?」
立ち上がった彼を見上げながら聞く。
「わかってんなら、早く立て」
彼が私を立ち上がらせようと腕を引っ張る
「嫌です!」
そう言って抵抗しようとするけど結局、無理やり立たされてしまう。それから、そのまま無言で彼は私を引っ張ってこの場から離れていこうとする。
私はその場に踏みとどまって私の体が前に進んでいくのを止めようとした。だけど、自分自身の体に思うように体が入らない。その結果、私は体のバランスを失ってそのまま転びそうになる。
だけど、私が転びそうになったのに気がついた彼が後ろを振り向いて私の体を支えてくれた。そのまま何故か、彼の動きが止まってしまう。
「……なんかお前の体、熱いな。熱、あるんじゃないか?」
彼は私の額へと手を当てる。彼の手は雨に濡れたせいか冷たくなっていた。私は彼の手のその冷たさに驚いて身を引く。
「こら、動くな!」
そう言って、彼が左手を私の頭の後ろへとやる。それから再び私の額に右手を当てる。冷たさを感じたけど驚くことはなかった。
けど、今度は無意識ではなく意識的に逃げようとした。だけど、意外と力を入れているらしく逃げることができない。
それでも、抵抗を続けていると彼が手を離した。その瞬間に私は走って逃げ出そうとした。
だけど、私が進めたのは一歩だけだった。
「病人が逃げようとすんな」
彼に腕を掴まれてしまっていた。
「私は、病人じゃないです。だからすぐに離してください」
「嘘つけ。……いや、お前が気付いてないだけか。とにかく、今お前は病人だ。だから、すぐに帰るぞ」
彼が私の手を引っ張り始める。私はそれに抵抗しようとする。だけど、やっぱり思うように体に力が入らない。
「嫌です。絶対に帰りません!」
ずるずる、と彼に引っ張られていく。少しずつ体に力が入っていかなくなり引きずられていく速度が徐々に速くなっていく。
私は力が抜けていくたびに力を込めようとするから疲れもどんどんたまってくる。気がつけば息が荒くなってきていた。
「ちょ、ちょっと……ま、って、ください……」
切れ切れな口調で彼に止まってくれるように言った。そうしたら彼はあっさりと立ち止まってくれた。
「なんだ?ちゃんと歩く気になったか?」
私を引っ張り続けていたからか彼の息も荒れている。と言っても私みたいに口調が乱れるほどではない。
「……このままだと、無駄に疲れるだけですので、しょうがないですけど帰ってあげます」
私はそう言った。本当は帰るつもりなんてこれっぽっちもないけど、抵抗する元気がすでにない。
「それが賢明な判断だ。じゃあ、ちゃんとついてこいよ」
彼はゆっくりとした速度で歩きはじめた。だけど、まだ私が逃げだすかもしれないとでも思っているのか私の腕を掴んだままだ。
つくづく彼は私のことを信頼していないのだと思う。まあ、それも当たり前か。大切なところでは嘘ばかり付いているんだから。それに、今も疲れが取れれば逃げようと思っていたのに間違いはないし。
そんなことを考えながら彼に引っ張られるようにして家へと向かっていった。