第12話「痴話喧嘩?」
「……――ちゃん」
誰かが誰かを呼んでいるかのような声。近いのか遠いのか曖昧ではっきりと聞き取ることはできない。
「……寝ちゃってるわね。放っておいてもいいのかしら」
次に聞こえてきた声は美沙都さんのものだとわかった。言っている内容もちゃんと聞き取ることが出来た。さっきのも、美沙都さんの声だったんだろうか。
「別にいいだろ。寝たいんなら寝かしておけば」
「まあ、それもそうね。でも、このままじゃ風邪をひくかもしれないわね。……ほんと、いつの間に寝たのかしら」
「さあな。でも、こいつ結構寝てることが多いからな」
「なんだか、前から知ってるみたいな口調ね」
「一応先週の木曜日くらいからこいつには会ってるからな」
「へえ、それは初耳ね」
「誰にも聞かれなかったからな」
「それは、そうかもしれないけど、こういうことは相談してほしかったわね」
そこまで聞いて私は瞼を開く。最初に意識を取り戻したときに目を開けなかったからそのタイミングがわからなくなってたけど、意識があるのに目を閉じたままにしているのに耐えられなくなってしまった。
「あら、おはよう、千智ちゃん。よく眠れたかしら?」
「さあ……どうでしょう」
「つか、お前はいつの間に寝てたんだよ」
「えっと……よくわかんないですけど、知らない間に寝ちゃってましたね」
何でもいいから考え事をするために瞼を閉じたはずなのにそのまま眠ってしまったようだ。
「お前って、寝てることが多いよな。寝るのが好きなのか?」
一真君はすでにいつもの通りだった。まあ、私の気にすることじゃないんだけど。
「別にそんなに好きってわけじゃないですよ」
「じゃあ、疲れてんのか?」
「そうかも、しれませんね。最近、ずっと付きまとってくるような人がいますから」
私は、疲れているのかもしれない。彼が、ずっと私の自殺を邪魔し続けるから。だから、彼には毒を吐いておいた。
「それは、俺のことか?」
その言葉に私は無言で頷く。
「まあ、確かに付きまとってるってことになるんだろうな。……そうだな、お前が絶対に自殺をしないだろう、って俺が思うことができたら付きまとうのはやめてやるよ」
「大丈夫です。私はもう自殺なんてしませんから付きまとうのはやめてください」
当然ながら嘘だ。どうして、彼に止められた程度でやめなければいけないのだろうか。
「どうせ、嘘なんだろ?」
彼は私のことなんて信用できない、とでも言うように肩をすくめる。まあ、私が嘘をついてるのは本当なんだけど。
「そんなことないですよ。私は事実しか言ってません。一真君、そんなに人を疑ってばかりいるとあんまりいい大人になれませんよ」
このままおとなしく嘘だと認めるわけにはいかないからそう言い返す。
「俺とそんなに年齢が変わらなくて、しかも自殺願望を持ってるやつにそんなこと言われたくないな」
もっともな反論が返ってきた。でも、もうそんなことは関係ない。とりあえず、私は彼に、私に付きまとうのをやめさせたいのだ。その為に、私は自殺をしたいと思っていないという嘘を貫き通す。
「だから、私は自殺をしたいなんてもう思ってないですよ」
「……ああ、わかった。じゃあ、お前は自殺したいと思っていない、ってことにしてやるよ」
投げやり気味にそう言う。たぶん、私と口論をするのが面倒くさくなったのだと思う。確かに、こうして一度口論するのを止めてしまえばなんであんなことをしていたんだろうか、と思う。
いや、私が自殺をしたいと思っていない、と彼に思わせるためにそうしていたのだ。でも、考えてみれば別の方法もあったような気がする。とりあえず、この方法ではそんな風に思わせるのは無理だと思う。むきになればなるほど信じてもらえることは難しくなるのだから。
「んで、お前が自殺はしないとして学校はどうするつもりなんだ?行かない、ってわけにはいかないだろ?」
もう終わりかと思ったら彼の言葉はまだ続いていた。なんだか面倒臭くなってきたので適当に半ば反射的に答える。
「行きませんよ。あんなつまらない場所」
「じゃあ、どうするつもりなんだよ。なんにしろ自殺をするつもりがないなら何かしないといけないだろ?」
「だから、私はそのために自殺を……、あ……」
最後に小さく漏れた声は自分の失態に気付いて無意識に出たものだった。
「やっぱり自殺するつもりなんじゃねえかよ」
彼はため息をつきながらそう言った。それは私が口を滑らしたことへの呆れか、それとも再び私の口から自殺、という言葉が出た諦めなのか。
何にしろ、適当に答えていた私はつい、本音を言ってしまった。これで、嘘を貫き通す、ということが出来なくなってしまった。
「やっぱり、俺がお前の様子を見てるしかないみたいだな」
これで、二度目だ。彼と言い合って墓穴を掘ってしまったのは。
彼が私を誘導するのが得意なのか、それとも単に私が墓穴を掘りやすいのか、というのはわからない。今まで誰かと言い合いをしたのなんてこの前と今回を合わせて二回だけだからだ。それも、相手になっているのは彼だけだ。
「ようやく痴話喧嘩が終わったみたいね」
美沙都さんがやれやれ、と肩をすくめるようにしながら言う。そういえば、彼と言い合いをしている間、美沙都さんの存在を忘れていた。
「……」
何故かそこで沈黙が流れる。美沙都さんが意図的に作ったような感じがするけど、なんなんだろうか。
「……もう少しで七時になるわね。千智ちゃんはそろそろ帰った方がいいんじゃないかしら?」
美沙都さんは壁にかけられた時計を見る。私もつられるようにして見てみると、確かに時計は後、数分をしたら七時を指示しそうだった。
「そうですね。もう、帰ります」
言いながら私は立ち上がる。
「じゃあ、俺が送っていってやるよ」
「え、いいですよ。私一人で帰れますから」
この言葉は彼についてこられるの嫌だから、ではなく純粋に迷惑になるから、と思って出た言葉だ。
この時間になればもう既に外は暗くなってしまっているだろう。夜に死ぬ、というのは私の最も望まないシチュエーションだ。だから、今は自殺をしよう、という思いはあっても衝動はない。
それに、こんな何の価値もないような私のために誰かの手を煩わせたくなかった。価値がない上にただ重りになる、というのは少し辛いことだから。
でも、考えてみれば私はもう既に一真君にも美沙都さんにも迷惑をかけてしまっている。もしかしたら、愛理さんにも迷惑をかけたのかもしれない。でも、だからといって、それがこれ以上、二人に負担をかけてもいい、という理由にはならない。
むしろ、だからこそ、二人にはこれ以上迷惑をかけないべきだ。そうだというのに、
「いや、送ってく。お前を一人にするのはどうも不安だからな。それに、女が夜道を一人で歩く、ってのも危険だろ」
そう言って彼は私に世話を焼こうとする。
「……わかりました。勝手についてきてください。もう、気にしませんから」
「なんか、今回は物わかりがいいな」
「こんなことで言い合っても意味がないですから。無駄な時間を過ごしたい、っていうなら別に何か言い返してあげてもいいんですよ」
「いや、いい」
遠慮をするように手を振る。私も面倒くさいからもともとやるつもりはない。
「じゃあ、お願いしますね」
「ああ、まかせろ。お前が変な場所に行こうとしても止めてやるよ」
彼はそう意気込んでるけど今の時間帯にあの崖の所や別の自殺できそうな場所に行くつもりはないから無駄な意気込みだ。
私はそんなこと思いながら彼と一緒に診療所から出た。その時に、背後から、
「千智ちゃん、気をつけて帰るのよ。あと、一真、絶対に千智ちゃんを安全に帰らせてあげなさいね」
そんなふうに、美沙都さんが私たちに向けて言ってきたのだった。