第10話「死を願うこと」
平日で午後になったばかりのこの時間帯では患者もほとんど来ず、暇なようだ。私が診察室に美沙都さんと一時間ほど一緒にいて誰も来ないのだからほぼ間違いないだろう。
「誰も、来ないんですね……」
つい、そんなことを言ってしまった。私から話しかけるつもりなんてこれっぽっちもなかったはずなのに。美沙都さんがずっと話しかけてこなかったからそれが原因なんだ、ととりあえず思っておく。本当の理由は私自身もわからない。
何をするでもなく机に向かっていた美沙都さんが回転いすを回転させこちらを向く。
「まあ、子供の調子が悪くなってる気がつくのは大体朝なのよ。あなただってそうでしょう?体がだるくなるのは大体朝、でしょう?」
「そう、ですね」
頷いて答えてしまう。
「だから、この時間帯は結構暇なのよ。その代わり、朝は大変だし、夕方になるともっと大変になるのよ。夕方になったら千智ちゃんに手伝ってもらおうかしら?」
「嫌ですよ。なんでそんなことしないといけないんですか」
私ははっきりと告げる。逃げることができないときははっきりしていないとすぐに精神的にも捕まってしまう。私はなんとなくそんな気がしてしまうのだ。
「意外と強く物事を言うことができるのね」
意外だ、ということを言葉に感じさせるが、その口調は本当に意外だと思っているような調子ではない。むしろ、私の反応は予想通りだった、という様子だ。
「……やっぱり、自殺しようとするには自分自身の意思が強くないと、無理なのかしら?」
たぶん、その質問は私に自殺しようとしたことを聞くための始まりの質問。そして、美沙都さんの声は今まで聞いた中で最も暗いものだった。本当はこんなこと聞きたくない、とでも訴えるかのように。
もしかしたら、美沙都さんが今まで話しかけてこなかったのはこれが原因なのかもしれない。一真君は昔、死にたい、と思っていたそうだからそれが関係してるのだろうか。
そんなものわかるはずがない。彼がどうして死にたいと思ったのかとか、昔、何があったのかとか聞きたいと思ったけど、どうせ聞くなら彼自身から聞きたい。何故だかそう思った。
「……さあ、どうなんでしょうね」
私は少し遅れて美沙都さんの問いに答えた。死にたい、と思うことに意思の強さは関係あるような気もするし、ないような気もするからそう答えていた。
「なら、死ぬのが怖いと思ったことはあるかしら?」
「そんなことは思ったこともありません」
死ぬのが怖いと思ったことなんてない。
「なら、普通に生活していて怖い、と思うことは?」
「別に、そんなこともないです」
そう、死が怖くないと同時に日常世界の中で怖いと思ったことさえないような気がする。嫌だ、と思ったり、つまらない、と思ったりすることはあるけどそれでも怖い、と感じたことだけは私の記憶の中にはなかった。
ああ、そうだ。怖いものがひとつだけあった。それは、痛みだ。痛い、ということだけには恐怖を感じてしまう。ただ、それをわざわざ美沙都さんに言おうとは思わなかった。何故なら、それを言ったところでどうなるんだろうか、という思いがあるから。
「そう……」
美沙都さんは呟くようにそう言ってから私の方をじっ、と見つめてくる。なんだか心の中を覗こうとしているような感じだ。私にしてみれば扉を無理やり開けられそうになっているような感覚だ。
このまま美沙都さんを見ているのが嫌になって窓の方に顔をそむける。
既に太陽は、傾いてきている。西向きの窓から直接、陽が降り注いできている。このままでは私が死にたいと思っている時間が過ぎてしまう。
そんな私の焦りにも似た感情が表に出てしまっていたのだろうか。
「……千智ちゃん、何をそわそわしてるのかしら?」
静かにそう問いかけられる。たぶん、美沙都さんはまだ私の方をじっ、と見ているのだろう。視線を感じるからわかる。
私は美沙都さんと顔を合わせたくなくて顔をそむけたまま答える。
「そわそわなんてしてないです」
「そうかしら?その割には外の様子をとても気にしてるように見えるわね」
きし、と美沙都さんが椅子から立ち上がる音が聞こえてきた。私の正面に立つのか、それとも後ろに立つのか。それはわからないけど、自然と体が緊張してしまう。
「何を気にしてるのかしら?外の天気?空の色?それとも、雲の姿?」
椅子に座ったままの私の周りをまわりながら歌うように言う。私は何も答えない。答えたくないし、答える必要も感じない。
美沙都さんは何も答えない私の前に立つ。私が答えるまでそこに立っているつもりなんだろうか。
けど、その程度で口を開こうとは思わない。ただ、視界に美沙都さんが入ってくるのが邪魔で私は関係ない方向を向く。それでも、美沙都さんはまた私の前に立つ。そして、私はまた、顔をそらす。
そんなことを五分程度続けたところで美沙都さんは私の前に立とうとするのをやめる。
「千智ちゃん、あなた意固地ね」
「美沙都さんこそ。私になんか構っていないで仕事をしたらどうですか?」
やっぱり黙っているだけでは駄目だとわかった私は美沙都さんの方を向いて皮肉を込めて言い返す。
「大丈夫よ。見ての通り患者は一人もいないから暇なのよ」
美沙都さんはそう言ってこの部屋全体を見る。私もつられるようにして見てしまった。見るまでもなくこの部屋に誰もいないのはわかっている。だからこそ、私は美沙都さんと話をしているのだし。
というか、誰もいないこと、って自慢げに言うことだろうか。私は違うような気がする。
「だから―――」
「先生、患者さんが来ましたよ」
美沙都さんが何かを言おうとした途中で愛理さんが何枚かの書類を持ってやってきた。
「わかったわ。じゃあ、それをこっちに渡してちょうだい」
「はい、どうぞ」
美沙都さんも愛理さんも真面目な、ここで働く人の表情を浮かべている。なんだか私だけが場違いなような、そんな気がする。
いや、実際にそうなんだろう。私がここにいたところで私は何もできない。ただ、二人の邪魔しかしていない。
そうだというのに、なんで二人は私をここに引き止めようとするんだろうか。私が自殺しようとしていることを彼に教えられたからだろうか。それとも、私なんかでは思いつきもしない理由だろうか。
何にしろ、私なんて放っておけばいいのに。私と関わったところで何かプラスがあるとは思えない。
「千智ちゃん、悪いけど部屋の隅の方に椅子を持っていって座っててくれるかしら」
愛理さんの方を見ていた美沙都さんがこちらを向く。
「……はい」
考え事をしていた私は少し返事が遅れてしまう。だけど、美沙都さんも愛理さんもそのことに疑問を思った様子はなく何も言ってこなかった。
私はそのことに特になにを思うでもなく立ち上がり今まで自分が座っていた椅子を持って部屋の隅へと移動した。