下り坂を歩む
純文学をイメージして書いた小説。
1
ふと、裸眼で散歩に行きたくなった。
別に10年来の付き合いとなる眼鏡が憎らしくなったわけでも、日に日に衰える視力を回復させたいわけでもない。
無理やり動機をこじつけるならば、「いつも通勤に使っている道から外れてみよう」だとか
「気になってはいたが、立ち寄ったことのない出店に入ろう」だとか、そういう他愛もない感情である。
身分証明にしか使ったことのない優良運転手の免許更新を終えて、私は眼鏡を外す。
寝る時以外、めったにとらない眼鏡(風呂の時でも本を読むのに眼鏡を使う)をケースに入れ、周りの景色を見てみる。
自分が想定していたほど、視力は絶望的ではなかった。
前方の信号機の色も分かるし、それに目の前に広げた手の平もよく見えている。ぼやけてはいるが、人や自転車の姿も分かる。
これならば、周辺に迷惑はかけずに済むだろう。
数キロ先の図書館に期限間近の本を返却しに、私は裸眼で散歩を開始した。
しかし、眼鏡をかけている方々ならお分かりだろうが、この安心感は偽りのものである。
2
違和感はすぐに訪れた。
軽い頭痛と目まい。そしてさほど歩かずして疲れに襲われた。
この気分の悪さは「酔い」に近い。酒に弱い私が、会社の飲み会で乾杯のビールを飲み終えた時、こんな風になる。
違うのは、顔が紅いか、蒼いか。そして気分が高揚しているか、低落しているか。
立ち止まった時には何とも思わなかった視界のぼやけが「歩行」という動作が入っただけで、急に不安を与えるのだ。
なんというか足元が覚束ない…というか、この先にあるのは本当に道なのだろうか、という感覚。緊張。
それもそのはずだ。重度ではないにせよ、私は相当な近視なのだ。遠近の境界は曖昧となり、景色はさながら絵画のようになるのだから。
絵に向かって、つまるところ、壁に向かって一歩を踏み出すような感覚なのだ。この表現が正確なのかは分からないのだが。
そして踏み出したら、踏み出したで問題は続く。どこまでこの道は続くのだろう…ということだ。
途中で不意に風景が張りぼてに変わるかもしれない恐怖。突然視界に人が生えてくるかもしれない恐怖だ。
大げさかもしれないし、実際大げさなのだろうが、眼鏡がないと私は、この世界を正しく認識することが出来ないのだ。
3
今日は散歩日和だ。
空はどこまでも青い。男は半袖のシャツに豪快に汗をかき、女は優雅に日よけの傘を差す。
植物はこぞって太陽に向けて緑の身体を差し出し、野良猫は日陰で怠そうに眠りこけている。気温は高いが湿気はないので、不快ではない。
この風景に難を言えば、何故かそんな日に慣れないことをして、ふらふらと歩く私がほんの少し不釣り合いなだけだ。
大体、さっきの文章もおおよその推察だ。辛うじて人は見えるが、顔の表情なんて読み取れやしない。肌色に黒の点が付いているだけにしか見えない。
体格も美醜もあったものじゃない。誤解を恐れず言うならば、そういうものをかき集めた「ケシキ」というクリーチャーが見えているだけだ。
今の状態の私に、どんな素晴らしい景色を見せようとも、どんな非常識な事態が起ころうとも、それを愉しむことは出来はしないだろう。
道端にあるさりげない発見とかが個人的な散歩の醍醐味だったりするのだが、今や発見どころじゃない。
灯台下暗し。
眼鏡を外しただけで、いくらでも非日常である。
そんなこんなで通い慣れたはずの図書館への道をも度忘れした私は、スマートフォンを使って道を探す。
そしてまるっきり、逆方向に歩いていたことに気づかされ、打ちのめされる。
4
しかし、まあ、文明の進化というのはありがたいものだ。
道がわからなくなっても、それ以外に用途のない地図帳を広げなくても良いし、勇気を振り絞って人に訊かなくてもよいのだから。
謎のバッテリー食いと強制終了に定評のある我がスマートフォン(4年目)も、こういう時は非常に心強い。
地図を出してくれるし、指示も出してくれる。私はただ黙って、それに従って歩くだけ。
本当にありがたいし、感謝してもし足りない。こんなにオーバーリアクションなのは近視のせいで、他の景色と違って、スマートフォンの案内だけはくっきり見えるせいなのか。
嵐で荒れる海の中、必死に羅針盤に縋りつく冒険家の気分である。
そんなにビクビクしているのなら冒険なんてやめてしまえばいいのに。
そんな周囲の声が環境音に紛れて、私に聞こえてくる。
私はそんな雑踏に向けて、絞り出すように呟いた。
「居場所を求めて、冒険に出たのに」
5
私は昔からこういうことが好きだった。いや、好きにならざるを得なかったという方が正しい。
皆でやる鬼ごっこより、一人でやるかくれんぼの方が好きだった。
一人で「頭隠して尻隠さず」を演じていた私に、周りの子や当時の先生は、最初の方こそは面白がっていた。
意味深な行いに、静かでそれとなく滑稽な雰囲気に、近づいていった子もいた。
ただ、意味なんて分かるはずもない。意味なんて端からなかったのだから。
私と一緒に「一人かくれんぼ」をやろうとした面白そうな子も、他の子に連れられて去っていった。
変化を楽しみに待ちわびていた取り巻きも、ずっと変わらず隠れている私に、しびれを切らして背を向けた。
先生の評価が「独創性のある」から「協調性のない」に変わったのも当たり前と言うものだ。
当時の私はそれが悲しかったのだろうか。就職を期に上京した。機会があれば「その当時」とやらに戻って伝えてやりたい。
東京は一人かくれんぼには適しているが、皆で鬼ごっこするには向いていないよ、と。
6
ふらふらと歩いていき、公園のベンチに腰を掛ける。木漏れ日というのはなんでこうも情緒的なのだろうと、ありもしない余韻に浸りながら、保育園帰りの母子の姿をぼやけた視界に含んだ。
母子がいる…ということは、大多数の場合、父がいる。おそらく自分と同年代の男が。
子孫を残す為の、生物としての義務。私にはそれを果たすための力を持っていない。
「人の生き方なんて自由だ」だとか「結婚は人生の墓場」だとか、今の自分に都合の良い名言ならいくらでも挙げられる。
だが、その何倍もの数、今の自分を否定する名言を挙げられてしまうあたりが、インドア派の根暗インテリ気取り(自称)の悲しみが浮き出てくる。
いや、真に悲しむべきなのは、それに対して私がそれほど悲観的になっていない、ということだろう。
「ひ孫の顔、せめて彼女の顔くらいは見せてあげる」と去年のゴールデンウィークの終わり、帰り際に90過ぎの祖母と交わした約束だって、本当に無難に自分を育ててくれた、尊敬する両親への恩だって忘れてはいない。
なのにそれを叶えることにも、蔑ろにすることにも、さほど心が動いていない自分が悲しい。
年下の同期に結婚レースで追い抜かれ、年上の同期に出世レースで追い抜かれ、大多数が抱いている幸せな未来からどんどん離れていくのに、どんどん将来が色褪せていくのに、なのにこんなところで使ってもいない免許を更新して、眼鏡を外して奇行に走る自分が悲しい。
被害者ぶっているように聞こえるが、そういうことじゃない。いじめの加害者はいじめの事実を忘れている、もしくはいじめていたことすら分からなかったという話をよく聞くが、私の現状とはつまるところ、それに似ている。
自分が「外れている」ことに気付かない。認めない。認めたとしても、それを恥じていない。
7
こんな陰気な空想をするために、眼鏡を外したわけじゃなかったのだが。
かと言って、この奇行を止めるという気持ちにはならなかった。妙なところで頑固になる悪癖も昔からのものだ。
公園を抜けてビル群へと向かう。相も変わらず、絵画のような風景だ。山下清のちぎり絵のようである。
びりびりに破かれた折り紙の集合が、一つの絵を作る。
一つの人間をつくるのにも多くの紙片が寄り添っている。
赤い服を着ているものには赤の紙が、青い服を着ているものには青の紙が寄り添う。
私の身体は何で構成されているのだろうか。芸術家に注文など失礼だろうが、もしつくるのならば、なるべく質素な紙であってほしい。
高級な和紙ではなく、100円均一ショップで200枚ぐらい入っているようなものであってほしい。
なんだったら、自分だけチラシの裏、いや、トイレットペーパーでも構わない。ごみ箱に入っている価値のない昨日の新聞なら本望だ。
若いころはとにかく特別な存在にあこがれていた。今でいうチートやら異世界とやらに。
真剣にそういう事態を望むクラスメートがいなかったことに対して、少なからず失望していたくらいには。
だが、今は。むしろ、逆か。
自分が価値のない存在であってほしいと願っている。
少なくともエネルギー保存の法則に従って、私が無駄に優れていたせいで、能力を使い余しているせいで、他の誰かが、何か望みを持つ誰かが、その望みを叶えられないなんてことがないくらいには。
そんな無意味すぎる願いを持つくらいには…私は取るに足らないものであってほしいと願う。
8
ようやく、図書館前に着いた。
階段の境目が遠目からだと分からないくらいが、私の近視の度合いだ。
つまりそれは、それだけ眼鏡に頼って目を酷使したことを表している。宿主がどんなでくの棒でも、
それを構成している細胞や臓器は、そいつの為に一生懸命に働いている、なんて話を過去に小説にして挙げていたか。
それを執筆していた時は、今日の快晴とは違って、土砂降りの雨だった。成績表に初めてB判定がつき、自分の存在意義が崩れかけていた、大学生の頃だったか。
単位のことを良く知らず、がむしゃらに勉強に取り組み、本来ならば友人と遊ぶべき時間、将来を考えるべき時間までアルバイトに差し出し、頑張っているようで、実は言い訳の為に時間を潰していた。
あの頃は本当に忙しかった。
「忙しければ人生は満たされるはず」だなんて、何とも的外れな発想で、ただ突っ走った。
本当は視界の中に入れなくてはならないものもあったのだが、見て、見ぬふりをした。
だが、まあ、アルバイトで稼いだお金の分だけ、部活動もせずに、引きこもっていた高校生時代よりかはマシであったと自分を慰めながらも。
やはり私は、走りながら道草を食っていた。
9
眼鏡なしで階段を上り下りするのが、こんなに苦しいとは思っていなかった。
手すりにつかまり、一歩ずつ踏みしめていく。はっきり言うが、別に「踏み外すかも」などとは毛ほども思っていない。
ただ「踏み込んだ先にあると思っていた一段上の階段が実はなくて、傍から見るとまるで地団駄を踏んでいるように見えるかもしれない」とは思っているが。
そういう滑稽な空想をしながらも、一歩一歩着実に進んでいく。隣で帰宅途中の小学生が、大の大人である自分の横を一段飛ばしで駆け上っていく。
その姿を見て、自分が少し情けなく思えたが、それでも子供の頃からは幾分かはましにはなっている。
今が、手すりにしがみついて一歩一歩ずつならば、昔は、階段を上るのを嫌うあまり、階段のないところ、またはエスカレータのようなところを必死に探して、壮大な遠回りをしていたのだから。
そして、それを人気のあるところで、例えるなら修学旅行の、グループ活動の最中に実施していたのだから。
それに比べれば、幾分かは自分は「皆」に近づいているのではないだろうか。
知り合いが近くにいないと分かるや否や、ヘンテコリンなことをするのは、どうにも、だが。
10
散歩が好きなのは、普段仕事をしていたり、ネットで調べたりするのでは分からない、見知らぬ領域を発見出来たりするからなのだ。
それは大多数の人が見に来る名所などではなく、どちらかというと、いつもの道をふと気まぐれで反れたところにあったりする。
その領域と言うのは場合によって様々で、コンクリートから生えてきた力強い植物だったり、ビルとビルの間から絶妙に見える夕焼けだったり、
うさんくさい80円のジュースだったりする。そう言う動機からして、いかにもアングラかぶれの残念な男である。
ありきたりと特別の間を必死にシャトルランする、悩める大人である。
もう一つ好きなのは、資格勉強である。勉強に嫌悪を持っていなかった私は、昔からコツコツと義務をこなすのが取り柄だった。
義務と言っても、社交的な付き合いの方は、てんで駄目なのだが…
理由は分からない。本当に何故なのだろう。
「勉強だけで来ても社会では通用しない」という世の中の常識に無駄に反骨心を覚えたからだろうか。
それとも何も持っていないことが、嫌だったのか。
あれほど価値のないことを望んでいる私が、どうして矛盾したことをするのだろうか。
私個人としての見解を述べるならば「私の心は渇いている」のだろう。満たせるのならば、なんでもよいのだ。
塩水をたらふく飲んで、より苦しむことになろうとも、私以外誰もいない広大な砂漠の中で喉を潤す為に。
その砂漠にオアシスがあるとは思ってはいないが、歩かないよりかはきっとましだろうと考えて、右も左も見ずに、ただひたすらに前へと歩いていく。
立ち止まってさえいれば、もしかしたらキャラバンの人に助けてもらえるかもしれない、なんて可能性を露ほども思わずに。
11
図書館の自動ドアを通り、私が目にしたのは極彩色の何かだった。
実際には色とりどりの本の背表紙が、たくさん陳列されているだけなのだが、それがひどく浮世離れした光景に思えて、私はしばし呆然と立ち止まっていた。
立ち止まった後は、ふらふらした足取りで、前へと進んでいく。眼鏡をかけていなければ、いつも通っている図書館も、こんなことになるのか。
幸いにも道路と違い、車にはねられる心配も、自転車に呼び鈴を鳴らされる心配もない。
私の顔はきっとおかしかっただろう。顔じゅうの力が抜け、恍惚の表情を浮かべていることを、自覚できているのだから。
クーラーの風が汗ばんだ服と、それにぴたりと密着している肌を撫でていく。
ここが楽園。ここが桃源郷。そうでなければ、ここが異世界か。
ぼんやりとしている視界が惜しい。ハッキリと見たい。この絶景を。そしてもし可能ならば、この極彩色の何かに触れて、
力の限り、掻き回してみたい。
とりあえず眼鏡だ。バッグから眼鏡ケースを取り出し、眼鏡を取り出そうとするが、眼鏡は見つからない。
眼鏡はどこだ。どこへいったのだ、眼鏡、メガネ、目がねぇ。そうしているうちに、視界はぼんやりしていた。
ぼんやりしている視界はさらに抽象的になっていく。
ぼんやりした視界が惜しい。
ハッキリと見たい。
この絶景を。
とりあえず眼鏡だ。
バッグから眼鏡ケースを取り出す。
眼鏡は見つからない。
眼鏡はどこだ。どこにいる。
スマートフォンに訊いてみるが、自分の眼鏡の場所は見つからない。
どこだ、どこにいるんだ。
眼鏡。私の10年来の同胞よ。ぼやける視界は、遂に目の前の人すら分からなくなるまでに白くなっていく。
肝心な時に、ようやくなくしたもののありがたみがわかるとはよく言ったものだ。
私は眼鏡よりも先に、産まれた時には一緒にいた目を大切にするべきだったのだ。
灯台下暗し。
だから私はこんなことに。
結局私は道草を食って、その草に入っていた毒で死ぬのだ。
何とも悲しいが、そのおかげでエネルギー保存の法則のおかげで、他の誰かにエネルギーが移動し、ろくでもある願いを叶えてくれる手助けになるに違いない。
さよなら世界。さよなら文明。さよなら眼鏡。さよなら眼。
そう思いながらも、私は自分がろくでもない人間で、ろくでもない死に方をするのが、とても恥ずかしくなり、顔を両手で覆う。
その時に愚鈍な私は気付く。
眼鏡はすでにかけてあったのだと。最初に不快感を覚えた時から、眼鏡をかけていたのだと。
やはり異常者にも、健常者にも、なりきれぬ半端者であったのだと。
12
後書き。
この後、死んだのでは、この記述は皆の目に入ることはないだろう。そう、私は今も生きている。
あの時の事態は、ただの熱射病による一時的な失神であった。何とも恥ずかしい限りだ。
まあ、炎天下の中、朝からろくに水分すら取らずふらふらしていたのだから、訳もない。
この経験を通して、私に劇的なことなど、何も起こっていないし、してもいない。
変わったことがあったとすれば、仕事の間に目薬を差すだとか、仕事休憩の間に眼鏡を外して遠くを見つめたりだとか、そんなことばかりだ。
簡単には人は変われない。良い勉強になった。
今は眼鏡をかけて、お盆休みの帰省に向けて、仕事をこなしている日々だ。
生前祖母が大好きだったメロンをとびきり高級にして、お返しするために。
小説にリアリティを出したかったので、実際に眼鏡外して散歩してみた。
準備も無しに、慣れないことはするもんじゃないな、と思った。




