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「王国軍騎士団である!全員動くな!」
そう怒鳴りながら飛び込んできた男達の中に騎士の装いに身を包んだウィル・グレイルが居るのを認め、彼女は唐突に気が付いた。
あ、ここ漫画の中じゃん、と。
『黄昏の系譜』。それは彼女が前の生で学生だった時アホのようにハマった漫画である。
全46巻からなる王道ファンタジーは辺境国の美形騎士ウィルと大国の可憐で美しいお姫様ローザの初々しい恋愛模様で少女達の心を、意外にダークな設定と生々しい戦闘の描写で少年達の心を、メイド服を着た美少年獣人や艶かしい肢体の元奴隷なお姉様といった魅力的な登場人物達で大きなお友達の腐った心を奪っていった超人気作だ。
アニメ化もされたし劇場版も作られ、ノベライズだっていくつか出版された。自費出版の薄い本だって一つのジャンルとして確立するくらいに数多く出されていた。
彼女自身は描いていないが見たことはある。腐った心を持った友人に姫の兄である皇太子と騎士様のそう言った作品を見せられて、シスコン気味ではあるが快活で真っ直ぐな皇太子様のイメージは脳筋バカ系わんこに変わってしまったのだった。
それはともかく、彼女は王道派だ。
原作万歳。恋愛はやはり騎士様とお姫様であるべきだと思っている。
そうして気がついた。騎士様が、ウィルがここにいるということは世界の異変を感じた自国の王に命じられて彼が秘密裡に原因究明の旅に出る前、つまりは大国のお姫様と出会う前だということ。
全てはこれから。
刺客に襲われ幼馴染みでもある護衛騎士が負傷し絶体絶命に陥ったお姫様をウィルが格好良く助けるあの出会いのシーンも、皆とはぐれた山中で水浴びをするお姫様を見つけてしまうラッキースケベ、もとい背中に入れられた刻印から彼女の正体が判明する伝説のシーンも、残酷な形で仲間を失う苦渋のシーンも、そこから二人の関係が深まる切なさと萌に満ちたシーンも、全てがこれからなのだ。
彼についていけば大好きな全てのシーンを自分の目で見て萌えて堪能することが出来る。
いやだ最高なんて素晴らしいのこの人生転生万歳モブとしてコマの端から見守ります神様ありがとう。
そんな歓喜に打ち震える胸の内をどうやら半分以上口に出していたらしい。
騎士達が漏れなくドン引く中、知り合いの少女を誘拐した人身売買組織を壊滅させるために乗り込んで大暴れしていた彼女、モブの女傭兵は大興奮のまま掴んでいた組織のボスを床に叩きつけた。
「……それからどうしてこうなった」
「それはぁ、ワンダさんがレニー達には教えてくれなかったお名前を、あんなチャラい男に教えてたからですぅ!」
おっぱいもふもふー、と高い声をはしゃがせて彼女の豊かな胸に顔を埋めるのはメイド服を着た獣人の子供だ。栗色の軟らかな髪から飛び出した耳がぴくぴくと動く様は非常に愛らしい。
愛らしいのだが、つい先日「一緒にお風呂入りましょお?」と可愛らしく誘うのに「いや、流石に男の子とお風呂には入らないよ?」と返したところ、対女性限定でスキンシップが激しいこの子供が女装をした少年と知らなかったウィルに驚かれ、こっぴどく叱られた挙げ句二度と彼女の胸に顔を埋めないと約束をさせられたはずだった。
「ウィルに怒られるよ?」
「騎士様はぁ、あのチャラ男との喧嘩で一杯一杯なのでぇ、レニーには気がついてないのです!」
だからいいのです!と力強く言って更に胸に顔を押し付ける少年の頭を軽く叩いたのは銀髪の美少女だ。
「レニー、それでも約束は約束です。いくら彼女が、ワンダが、わたくし達にこれまでずっと本当の名前を教えてくれなかった友達甲斐のない冷たくて酷い人だとしても、それとこれとは話が別ですよ」
湖面のように透き通る蒼く冷たい瞳は、はっきりとわかるほど拗ねている。お姫様はそんな仕草も美しくて、彼女は困ったように首を傾げた。
ウィルに出会ってすぐに付きまといを始めた。といっても彼女にその自覚はあまりない。どうせモブだし気が付かないだろうとタカを括って近くから遠くから観察したり見守ったりこっそり手を貸したりしていたら『お前は一体何なんだ!』と捕まって尋問をされた。
男ばかりの騎士団の周りを、いくらモブとは言え女がウロチョロしていれば認識されるのは当然だったようだ。
『お前の名前は?』
そんな質問には首を傾げる。モブに名前などあるはずがない。だってモブなんだから。
『好きに呼んで?』
『お前の、名前を、聞いてるんだ!』
『えー、だってあたし、モブだし。貴方の人生の邪魔しないから気にしないでちょうだい。ただちょーっと萌シーンを至近距離からガン見させてくれればそれでいいから!』
言葉が通じないと苛つかれながら何度も同じやり取りをした。大好きな主人公と直接話が出来るのは至福の極みではあったが、話が進まないのは彼女としても面白くない。
結局彼の隙を見て逃げ出して、また遠くから近くから観察をする日々に戻る。
苛ついた彼に何度も捕まってはまた同じやり取りを繰り返して、気が付けば頭のおかしい女傭兵として騎士団の間でも有名になっていた。
頑なに名前を名乗らない彼女のことを騎士団長がふざけて「やあ、お嬢さん」と呼び始め、そのうち誰もが彼女をレディと呼ぶようになった。
ウィルだけが何度も彼女の名前を尋ね、やがて諦めていつかお前の名前を聞き出すからなと溜め息をついたのはもう一年近くも前の話だ。
金髪美形騎士の、漫画の中では見られなかった拗ね顔にきゅんとして、転生して良かった神様本当にありがとうと会ったことのない神に心の中で何度も喝采を送ったものだ。
今思えばその辺りから何かがおかしかったのだろう。モブなんて気に留めて、名前を知りたがるから原作が狂い始めたのだろうか。
何が原因か彼女にはわからない。
騎士団員から気安く声を掛けられるようになって少しした頃、予定通りウィルに密命が与えられた。
物語が始まるとワクワクしながら宵闇に紛れて旅立った彼の後をこっそりとつける。
大好きだった数々の場面を一幕たりとも見逃す気はない。前世のように一緒に騒げる仲間がいないのは少し寂しいが、それはそれ、定められた恋人達をそっと見守って一人で萌え萌えして叫ぶのだ。
そう考えて尾行していたのに、開けた路上でいきなり振り返った彼にあっさりと見つかってしまった。
王都を出てから僅か数時間、朝日の射し始めた時間帯のことだった。
浮き立っていた心が沈む。いつものように苦虫を噛み潰した顔でついてくるなと叱られるに違いないと首を竦めて彼を伺えば、予想に反して彼は柔らかく笑ったのだった。
登り始めた太陽が後光のように彼を背後から照らし出す。
美しい金髪が陽を受けてキラキラと輝く様は本誌連載中に付いていたカラーポスターよりも流麗で彼女の心と視線を奪う。
なんてなんてなんて綺麗なんだろう。やっぱり主人公が最強!
『ついてくると思ってた。折角だから、一緒に行こう』
甘やかに微笑んで伸ばされた手。
自分に、モブである彼女に、主人公が手を伸ばしている。
あり得ない、と思った。
主人公がモブを旅の供に望むなんて、そんなことはあるはずがない。
差し出された手に泣きそうな顔で首を振って、あたしはモブなの、貴方はこの後綺麗なお姫様と出会って彼女と恋に落ちるのよ、といつもの説明を繰り返した。混乱のあまり彼女はいつもより饒舌になっていたかもしれない。
騎士と姫の恋物語がどんなに素敵か、二人がどんなに想い合っているか、言葉を尽くして語るほどにウィルの表情は暗く硬くなっていき、最後にはもういいと背を向けられた。
わかってくれたのかな。
安堵と、ほんの少しの喪失感を持って彼女は当初の予定通り一人で歩き出した彼の後をつけていく事にしたのだった。
それからは何もかもが微妙に上手くいかない。
まずは、彼が原作とは違うルートを取ろうとした。
分かれ道で地図を取りだし行程を確認している彼にそっと近づいて横から口を出したのは、お姫様との出会いをスムーズに進めたかったための親切心だ。
『この道!絶対この道!整備されてない場所とか人通りの少ない山道とかもあるけど次の町へは一番近いし素敵なアレコレあるから絶対こっちがオススメ!もうこれ一択のみ!決定!これ以外あり得ないから!』
彼女を冷たい横目でちらりと見たウィルは、黙って地図を仕舞うと無言で足を踏み出した。
彼女が指差す方とは別の道へ。
なんでどうしてそっちじゃないって嫌ダメやめてお願い戻って。
喚いて騒いで泣きついて、背中にしがみついてまで全力で止めようとしたがウィルは一向に気にした様子も見せず彼女をおぶったまま無言で原作とは違う道を行こうとする。最終的にはちょっとしたどつきあいの末彼の太く逞しい腕に自分の両腕を絡めて引きずることでようやくウィルは彼女の示す道へと進んでくれたのだった。
身体を寄せ腕を組んで歩く若い男女の姿に、極稀にすれ違う旅人達からは「お熱いねぇ」等と冷やかしが飛んだが冗談ではない、彼女が腕を緩めた瞬間に頑固な騎士は逃げ出そうとするのだ。
物語を進めるためには一瞬たりとも油断が出来ず、彼女は自分の両腕に強く力を込めて道を行く。だが唇を引き結び急ぎ足で進もうとする彼女を嘲るかのようにウィルはやれ綺麗な花が咲いているだの景色がいいから少し休んで行こうだの呆れるほどの呑気さで行程を遅らせようとした。
そうして大変不本意なことに、二人は一番重要な出会いのシーン、襲われたお姫様を助ける場面に遅刻をしてしまったのだった。
人通りのない道とも言えない道だった。
山賊などがいつ出ても不思議ではないその山道で、遠くで突然起こった爆音と火の手。少し前から不穏な気配を感じていた二人はすぐに戦闘態勢に入って現場へ向かう。
原作にこんなシーンはなかった。お姫様に何が起こったのかと青褪めて山を駆けた彼女は、本来主人公たちが出会うはずだった場所に辿り着いて膝からへたり込んでしまった。
山間の少し拓けた土地は木々が焼け大地が抉れている。
戦闘の跡が生々しいそこに、血に濡れた姿で凛と立つ者。
傷付いた仲間を守ろうとしたお姫様、ローズマリー・ヴェネトリア・ラクラスが、原作の25巻を超えた辺りで覚醒させるはずの魔力を目覚めさせ襲撃者達を倒してしまっていたのだった。
本当にどうしてこうなった。