センパイと一日一頁
うちの学校には、ちょっと有名なセンパイが居る。いつも辞典よりも大きくて、分厚い本を脇に抱えているからだ。
その本は、とある少女の冒険を書いた物語らしい。
対してボクは特に目立つ要素も無く、寧ろ地味に部類される人間だ。隣のクラスでボクの事を尋ねたところで、誰それ。と返されてしまうだろう。
ボクとそのセンパイは無関係の、謂わば他人だ。周りと同じ、噂で一方的にセンパイの存在を知っている程度。
それにセンパイ自身、余り人付き合いが多くは無い様だった。
その本が目立つから知っている人は多いが、だからと言って委員会にも部活にも入っていないセンパイに、他に態々特筆する程の要素は無いと思う。
ボク達は同じ学校に通う、ただの一般生徒。
本当にそれだけだった。
ただ一度、ボクはセンパイと話した事が有る。何の事も無い、ちょっとした世間話程度のものだった。
友人と呼べる間柄になる程では無いし、知人と名乗る事すら些か過ぎる気がする。
本当にそんな程度の、だけれどもボクには印象深い記憶だ。
偶々、センパイがその本を読んでいる所に出くわした。他に誰もいない図書室だ。
ハラリ。
センパイがページを一枚めくる音だけが、ボクの耳に届いた。
しかし、その後再びその音がする事は無く、本に元から付いている簡素な赤いリボンの栞を挟んで、センパイは未だ薄い読んだ軌跡を閉じる。
「キミ。どうかしたか?」
意外に少し荒い口調で、だけど柔らかな声でセンパイがボクを捕らえた。
「…いつも、その本を読んでいるんですか」
ナンパする分けでは無いが、咄嗟に気の利いた文句が出て来ない自分が恨めしい。
「あぁ これか。この本は私の祖父が半生を捧げた遺作なんだ」
センパイは表紙を撫でながら、この世に一冊しかないんだ。と愛しそうに呟く。
ボクは言葉を返す余裕も無く、一枚の名画でも見るかの様にその光景に見惚れてしまっていた。
「ページは全部で365に掛ける事の70。それに閏年を足した分きっかり。つまり一日に一頁を読めば70年掛かる計算になるんだ」
センパイがゆっくりと話す。ボクは立ち竦んだまま、それに耳を傾ける。
「私が読み出したのは13歳の時。祖父から最期の誕生日プレゼントとして貰ったんだ。だから、これを読み終わる頃には私は83歳だ」
ハハハ。とセンパイは笑う。
綺麗に。
奇麗に。
「とても永い、ですね。一日に数頁じゃ駄目なんですか?」
その質問は酷く無粋に感じたが、ボクは聞いていた。
「ハハッ。そんなに頑張ったら青春時代を本に奪われてしまうぞ?
どうせ急がなくてもいつかは最後が来るんだ。焦る必要は無いさ」
センパイは機嫌を損ねる分けでも無く、寧ろ弾んだ声で答えてくれた。
毎日持ち歩いているのにも関わらず、読み進んだ形跡の無い栞。誰かがそんな事も言っていた気がする。
成る程、たったの一頁ずつでは大した変化も無いだろう。
センパイの様子からして隠している事では無さそうだ。ならばずっと以前にも、同じ質問をした人は居たのだろうか。
「嗚呼。今日で丁度1826頁だ」
「え?」
「65年後の今日、私はこの少女の最後を知るんだ」
センパイは穏やかに笑った。
その後、センパイは卒業してしまった。
あの日以来、ボクがセンパイと話す事は一度も無くて。学校で姿を見掛ける事は有っても、やっぱり目が会うことだって無かった。
何処の大学に行ったのか、はたまた就職したのか。それすらもボクは知らない。
街で見掛ける事も無かった。
ボクはあの日あった出来事は夢だったのか。もしや妖精にでも出逢い、先輩という幻想を抱いたのか。とすら幾度となく考えた。
でも確かに、センパイはあの学校に居たんだ。
時は経ち、ボクも高校を卒業した。大した出来事は無いが、決して悪くは無い大学生活を過ごし、運良く一流企業への就職をして、そこそこの地位まで行った。
そこで出逢った同僚の女性と生涯を誓い、慎ましやかな暮らしの中、孫の顔を見た彼女はボクよりも先に帰らぬ旅に出た。
今は遠くでボクを待ってくれているのだろう。
そして。
今日はあの日から丁度65年経ったその日。
気が付けばボクも、案外長く生きたんじゃ無いだろうか。
センパイはどうしているだろう。ゆったりとした、あの日の様な空気が世界を占める。
既に、少女の最後を知らぬまま彼女と同じ所へ行ったのかも知れない。
もし未だだとして、ならば明日からはどうするのだろう。
ボクは、今日がセンパイの誕生日だとは知ってるが名前も知らない。
どうやって生きているのかも、誰と出逢い、話すのかも。
ホントに他人なのだ。
ボクは物語の中の少女と共に終りを迎え、彼女に逢いに行く。
根拠は無いけれど、
ボクにははっきりと確信が有った。
きっとセンパイは今頃、少女の終りを知るのだろう。
そして、
また穏やかに笑ったのだろう、と。
end