最終話
時間は誰にも等しく過ぎる。彼の別れた妻もようやく自分を取り戻し本当の意味で話しあい、少なくともお互いにきちんと立ち上がれるまで離れていようと決めた。二人はもう一度やり直せるほどにお互いへの愛情を残していたけれど、今寄り添っても自立した二人の大人としてやっていくことは難しいという結論に至ったからだ。そうして大きな区切りがついたことで彼は少しずつ余裕を取り戻し、それにつれてやつれていた頬も健康的な艶を取り戻した。このままのペースでは中年太り一直線だと言いながら二人の飲み会は途絶えることがなかった。私生活の傷を癒し、仕事ではそれぞれに脂の乗り切った良い時期を迎え、話題は仕事や後輩の話が圧倒的に多くなった。それから傷が癒えてようやく話せるようになったものも含めて思い出話も定番だ。彼女の恋の話は、あれ以来話題にはならなかった。しかし彼女の気持ちの行き先が分かってきてからは、はっきり問いかけなくても彼女の心が変わっていないことが彼には分かった。ずっと変わらず、深い愛情を持ってその人の幸せを祈っている。何一つ、見返りを求めず静かな思いを絶やさない。その秘められた情熱は何度となく酌みかわされるグラスを通って沁み入るように彼にも伝播していった。
いつもは一軒の店にずっといる二人だけれど、その日は彼が河岸を変えようと言って二軒目にはしごした。行った先は二人が再会した日と同じ小さなバーだった。同じようにカウンター席に並んで座りロングカクテルのマドラーをくるくると回す彼女の隣で、彼はアンバーエールを傾ける。残り三分の一になるまで一気に飲んでから彼女に問いかけた。
「もしも、今。俺が結婚しようって言ったらどうする?」
軽い調子で問いかけられた言葉に、彼女はふっと笑いをこぼした。
「それは光栄ね。喜ぶわ。」
「喜ぶだけ?」
心外そうに彼は言う。
「そうね、飛びついてキスするくらいはするかもね。」
彼女がこれで満足かと彼に問うように見上げると、彼は何か企むように笑って返してきた。
「婚約指輪は一緒に買いに行くので良い?」
出会ったばかりの頃の懐かしい会話を思い浮かべて微笑みながら、彼女は首を横に振る。
「婚約指輪はいらない。ダイヤモンドの永遠の輝きに誓っても、愛が永遠じゃないことを学んでしまったから。」
その言葉に彼は「はは」と小さく笑う。あの指輪を、そういえば妻はどうしたのか知らないと気付いた。しかし、その思考も彼女が体ごと彼の方に向いて続けた言葉に負けて頭の隅に追いやられた。
「そんな高価なものはもったいないじゃない。だったらお給料の一カ月分で二人で旅行に行って、綺麗なものを見て、美味しいものを食べて、楽しい時間を過ごして、二人で一緒に写真を撮って、思い出をお土産に返ってくる方がいいな。」
二人の思い出さえあればいいなんて甘い言葉に、身を切る程の思いが込められるなんて、若いころは知りもしなかった。二人ともそう思った。その切なさを振り切るように彼女は明るい調子で続ける。
「でも、結婚指輪は欲しいわ。簡単なもので良いから、お揃いで。」
彼は意外そうな表情を浮かべながら彼女を見返した。
「そうなんだ」
「うん、束縛の印に。」
「束縛?」
彼女からは思いつかない言葉に彼はますます不思議そうな表情になる。
「指輪一つ分くらい、縛りたい。指輪一つ分くらい、縛られたい。」
彼女の答えは、恋愛対象としての自分を彼に感じさせないできたが故に隠されていた彼女の一面を垣間見せた。しかし独占欲よりもむしろ、縛られたいという言葉に込められた彼女の寂しさの方が彼の胸に残った。そして、それに重ねるように自分の左手を見下ろしながら彼女が言った言葉は彼から相槌も奪っていった。
「それに、指輪を外さなければいけなくなったときはすごく寂しかったから。」
傷ついて、立ち直り。それでも傷はそこにある。彼が苦しむ間も、その前も、彼女は助けてくれと一度も言わなかったけれど。あの自慢の川を見下ろすベランダで一人で何を思っていただろう。何度、指輪の無い手を自らかざして眺めただろう。離婚したと言った日に無意識に薬指を撫でていた仕草を今になって鮮やかに思い出した。
指輪一つ分の束縛。
それは彼女の失ったもので、そしてずっと埋められないでいるもの。その全ての象徴だ。
彼が次の言葉を探していると、彼女は下から覗きこむように顔をあげて笑った。先ほどまでの寂しげな様子とはすっかり雰囲気の違う、いつも通りの明るい彼女が問う。
「それで?いいシミュレーションはできた?」
「え?」
「これは、たらればの話なんでしょう?何かインスピレーションを与えられたかしら。」
いたずらな笑顔で、その場の空気を変えてしまう彼女に助けられて彼はいつものように笑い返した。
「ああ、そうだね。たっぷり。」
「そう。じゃあ、実践したくなったら私が飛びつきやすいところでお願いね。」
ご丁寧に片目を瞑って見せる彼女に、彼は相手の方が一枚上手だと悟った。もし、なんて卑怯な言いまわしで彼女を試したことなどお見通しだ。このまま冗談にして済ませようと思えば、そうできるように自分の答えも仮定に過ぎないのだと言って見せる。その裏にあるのは、本気の答えが欲しいなら、本気で問うて来いという挑戦だ。
「はは。了解。」
残ったまま、温くなったアンバーエールを飲み干すと、彼はもの言いたげなバーテンダーにウィスキーを注文する。顔なじみのバーテンダーは黙ってウィスキーを用意して、差し出しながら「完敗ですね」と囁いた。
「まだだよ。」
彼は彼女を真似て片目を瞑って見せながらグラスを引き寄せて口をつけた。先ほどのビールとは比べ物にならない強いアルコールに喉が焼かれる感覚が心地よかった。
手洗いに立った彼女がフロアに戻ってくると、彼はわざわざ椅子から下りて彼女を迎えてくれた。その姿を見ながら、彼女は目に映るものが何かおかしいと思った。二つあったはずのフロアのテーブル席が妙に隅に寄せられてカウンター席の後ろが広く開いている。テーブルはどうしたのかと、問いかけようとして口を開いたところで彼に声をかけられた。
「俺は君と一緒にいるのが自分の一番の幸せだと思う。結婚しよう。」
彼女は思わず立ち止まり、まじまじと彼を見つめた。彼がくいっと眉を上げて両手を広げて見せると、彼女の顔には呆れたような表情とそれでも抑えきれない笑みが広がった。彼女は迷わずに僅かに広くなったフロアを横切って彼に駆けよると、その首筋に腕を回して抱きついた。互いの気持ちを知らせないでいるには最近の二人の距離は近すぎた。もっと前から分かっていた。彼女の思いも、彼の気持ちの変化も。それを口にするタイミングをきっとお互いに計りあっていた。
彼の胸に頬を預けるようにしてくすくすと笑っている彼女の頭上から、彼が声をかける。
「キスはしないの?」
「さすがに恥ずかしいよ。」
バーテンも数名いた他の客も、全員息を潜めて成り行きを窺っている。少しくらい広くしたからって、飛びつきやすいってこういう意味じゃなかったわよと彼女は彼を見上げて顔を顰めた。顰めながらもまだ表情は笑っている。器用な彼女を見下ろして彼はもう一度問いかける。もう問いかけというよりも、ねだるように。
「ねえ、キスは?」
彼女は「もう」と小さくこぼすと彼の髪に右手の指を通して少し乱暴にその頭を抱え、思い切り背伸びして右耳の付け根に噛みつくように口づけた。顔が離れるのに合わせて彼女の右手も名残惜しそうにゆっくりと彼の頭から離れて行く。
「どうしてそんなキスするのさ。」
そんな風に火をつけるような。言葉にしなくてもその表情で言いたいことは伝わった。彼女は相変わらず両手を彼の首に絡めたまま微笑んだ。
「もうお友達じゃないからじゃない?」
やっぱり彼女の方が自分より上手だと彼はため息を漏らし、驚かされたことへの仕返しのように彼女を抱き寄せる腕に力を込めた。
「今、幸せだった?」
彼の顎の下にすっぽり収まってしまった彼女が聞く。
「現在進行形で幸せですよ。」
彼女の頭の脇で小さな声で返事をすれば、彼女が笑ったのがその震えで分かった。
「ああ、良かった。」
「君は違うの?」
「貴方が幸せなら、いつでも幸せよ。」
そう言って顔をあげた表情は穏やかで優しくて。彼は不満だった。
もっと、子供同士みたいに、戦友みたいに、男同士みたいに、女同士みたいに付き合っていた時に彼女が見せてくれた無防備で無邪気な笑顔がみたい。彼のことなど一つも考えないで、彼のことなど何も心配しないで、私はとっても幸せよと言ってほしい。満面の笑顔で幸せだわと言わせたい。もうずっと彼女自身がすっかり忘れてしまっているあの頃の輝くばかりの笑顔を取り戻してほしい。取り戻させてあげたい。自信に満ちて、美しかった彼女を彼はちゃんと覚えているから。
もう我慢できない、恥ずかしすぎる、と彼女が言うので二人は店中の人間に冷やかされながらバーを出た。路上へ出ると彼は、いい年をして恥ずかしいわと笑う彼女の腰に腕を回して出来る限り自分に引き寄せた。
「人のことなんかいいよ。笑いたければ笑えばいい。」
体を離そうとした彼女を引き寄せ直しながらそう言えば、彼女は諦めたように身を任せて笑う。
「カッコいー。」
「君は馬鹿にしないで。傷つくから。」
憮然とした彼の様子に、彼女は手を伸ばして彼の頬を撫でた。
「ごめんごめん。」
何だか不思議ね。そう彼女が言ったのはタクシーを捕まえに大通りに出る直前だ。少し浮かれた調子の声で、けれどその手は裏腹に不安そうに彼のシャツを強く握っていた。これまでは、こんなに近づいて歩くことは無かった。そして大通りに出るか、駅についたらそこでお別れだった。ここから一歩進んでも、まだ一緒にいるということが信じられないというように彼女は恐る恐る静かに路地から通りに踏み出した。
自分を信じてというのは簡単だけど、本当に信じてもらうのは難しい。そんなこと知っていたし、ここ数年で嫌というほど改めて学習させられた。だから彼は信じろとは言わない。けれど諦めない。彼は胸のうちだけでもっと俺を信じてよと言って彼女の手に自分の手をかぶせて強く握った。
タクシーの中でもずっと手を繋いでいた。遊ぶように彼女は彼の手を握ったり緩めたりを繰り返す。彼は彼女の手が離れそうになったときだけ強くその手を捕まえ直した。その度に、彼女は少し泣きそうな顔をした。
ちょうど土手の桜が良い頃合いだと彼女はタクシーを少し家より手前で止めさせた。階段を上って土手に登れば確かに満開の桜並木が続いている。また手を繋いで桜の下を歩く。夜道をこんなに長い距離、寄り添って歩くのは初めてだ。それだけでふわふわと笑う彼女を連れて川沿いのマンションを目指す。
「ねえ。」
「何?」
彼が呼びかけると、桜を見上げていた彼女はくるりと振り返った。
「俺達は遠回りしたね。」
離婚したと彼女が告げた春の日を思い返す。同じように桜が降り注いでいて、あの日だって彼女は寂しかったに違いないのに、あの日だって二人は手を繋いでいたのに、こんな風に笑わせてあげることはできなかった。
「必要な道のりだったと信じるわ。私は今の貴方が好きよ。」
真っ直ぐに彼を見上げる彼女の頬はほんのり赤いけれど、瞳に酔いの色はなく、彼はもう何度目か彼女に心を射ぬかれた。
「うん。俺も。」
先ほどまで口にしかけていた待たせてごめんねという言葉なんて、きっと彼女は求めていない。今の彼が今の彼女を愛していれば、それ以上何もいらないと言うだろう。それを口に出せることがどれほど幸せで、全く当たり前ではないことを良く知っているから。それだけのことの大切さを二人はきっと忘れない。
ああ、これが今夜だけの夢ではありませんように。明日の朝も彼女が笑っていてくれますように。そしてまた一緒に手を繋いで歩いてくれますように。彼は祈る。
そう遠くない未来に、その手にお揃いの指輪を贈るから。