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第3話

 桜がまた咲いて、散って。彼女は部署を変わった。

 新しい職場の机の上で電話が光る。見慣れない内線番号が表示されるたのに構わず電話をとった。部署が変われば付き合う相手も変わる。どうせしばらくは挨拶回りだ。新しい担当になったという挨拶文をおさらいしながら名前を名乗ると、懐かしい声がした。

 彼だった。

「久しぶり。」

「うん。元気にしてる?」

 直接話すのは二年ぶりになるのに、まるで昨日も一緒にいたように自然に感じた。最近はメールも途絶えがちになっていたけれど、何も起きる前の二人の連絡はそういえばその程度だったはずだ。

「何とかね。そっちは?」

「元気よ。」

「あのね。なんて言うか。」

 電話の向こうで彼が珍しく言い淀んでいる。社内の電話の相手に向けるには少し優しすぎる表情を浮かべて彼女は静かに相槌を打った。

「うん。」

「応援してくれたのに、申し訳ないんだけど。」

「うん。」

「俺も離婚したよ。」

 一拍だけ、相槌が遅れた。

「そう。」

「駄目だった。どうしても、俺の顔見るの辛いって。辛いって泣かれると俺もどうしようもなくて。一緒に泣くしかできなくなって。それで、実家に一度帰らせて。毎週会いに行ってたんだけど、良くならなくて。」

 訥々と語る彼の言葉が途切れたところで、彼女が不意に言葉を挟んだ。

「会おうか。」

「いいの?」

 彼の問いかけに、彼女は今度は強い調子で答えた。

「会おう。」


 すぐにも会おうという彼女が言った通りに、二人はその週の金曜に小さなバーにいた。歓迎会シーズン真っ盛りの週末で二人とも別々の部署の歓迎会に一次会だけ出席した後の二軒目だ。それでも一日でも早く会いたいと二人ともが思っていた。

 背の高い椅子に、背の高いグラス。二人はカウンターに向かって完璧に注がれたビールのグラスを小さく打ち合わせた。

「良く頑張ったね。偉かったね。辛かったでしょう。」

 一口飲んで、彼女が言うと彼はふっと吹きだした。揺れてこぼしそうになったビールのグラスを慌てて下ろす。

「なんだか子供になったみたいだな。でも、ありがとう。頑張れたのか、そもそも頑張ったとか、そう言う風に言っていいのかも分からないけど。」

 苦笑いする横顔は最後に会った時よりずっと痩せて、目尻の皺が深くなって、昔は気にならなかった口元の皺にも会わなかった時間の長さを思う。彼女はその一つ一つを見つめながらゆっくりと頷いた。

「そうだね。例えば貴方の奥さんや、子供には言えないのかもしれないけど、今、私には言っていいと思うよ。そして私は貴方は頑張ったと思うよ。」

 彼はじっと彼女の目を見つめてその言葉を聞いた。もう涙など枯れてしまった自分に代わるように目を潤ませている彼女を見て、やがて柔らかく微笑みを浮かべた。昔の彼のただ優しいのとは違う苦くて甘い、まるで泣いているような笑顔。

「うん。ありがとう。」

 彼女もふわりと笑った。そして昔良くやっていたように目を煌めかせてグラスを掲げて見せる。

「飲もうか。」

「うん、飲もう。」


 何度もグラスを変えながら、二人は長く語らった。彼の離婚の話は彼自身の話よりも家族や妻が今どうしているかに終始した。それから仕事のこと。そして昔話。時折、目を合わせて、あるいは自分のグラスに視線を落として、微笑んだり、遠くを見つめたりしながら、二人は一夜で二年分の時間を過ごした。いつもの約束の終電も忘れて閉店まで。店を出る時には、あの熱帯夜のビアガーデンを出た時と同じように二人の間には余計なものは何もなく、もう名前もない絆だけがしっかり繋がっていた。

 タクシーを止めてから、そういえば今はどこに住んでいるのかと彼女が聞く。彼は彼女の家より少し遠くにある駅を答える。方角が合っているならば同じ車でいいかと二人で乗り込んで、行き先を運転手に告げてから、彼女は背中を背もたれに思い切りよく倒した。そして同じように背もたれに沈んでいる彼を振り返る。

「また随分辺鄙なところに住んでいるのね。」

 からかうように彼女が言うと、彼は笑った。

「誰も知り合いがいないところに行きたかったから。」

 その答えが冗談ではないことは明らかだった。彼女は白いシートに投げ出された彼の手に自分の手を重ねる。

「本当に、良く頑張ったね。」

 そのまま緩く手を重ねたまま、それぞれに車窓を眺めていた。

 やがて車は止まり、彼女はタクシーを下りる。

「それじゃあね。」

「またね。」

 白む夜空の下を走り去って行くタクシーを見送って、彼女はマンションのエレベーターへ乗り込む。

 まずは寝て、起きたらシャワーを浴びて、ベランダで川を眺めながらお昼を食べよう。


 彼は彼女の家を出てから驚くほど、すぐに辿りついた自宅でタクシーを下りて大きく伸びながら苦笑いをこぼした。誰にも会いたくなかったときに選んだこの家の、一番近所に住んでいる知り合いはきっと彼女だ。大した縁だ。偶然か、それとも無意識にそれを選んだのだろうか。



 以来、また二人は飲み友達に戻った。今度は毎月のように出掛ける。もう不貞ではないと誰に言い訳する必要もないのに、現地集合、現地解散の原則だけは変わらなかった。飲みに行く以外の用事でも会わない。仕事での関係がない部署に配属になったので、今や出会った頃よりもっと純粋な飲み仲間だ。相変わらず、なんでも気安く話しながらもお互いの距離を測りあうことは止めない。けれど、どこかから。あの寒い日の電話からか。それとも初めて二人でタクシーに乗った夜からか。少しだけお互いの揺らぎを感じることが増えた。何かを探るように、待っているように、あるいは、避けるように。

 彼はまだ、別れた妻の両親と頻繁に連絡をとって妻の様子を聞いていた。互いに疲弊しきって別れたものの、ひどく傷ついたままの妻を案じる気持ちは今でもある。できることがあれば、してやりたい気持ちも変わらずにあった。そういう中途半端な優しさは自分の自己満足に過ぎないのか。彼が独白のようにこぼすと、彼女は「そうねえ」と相槌をうって宙を睨んだ。そして少し考えるようにしてから彼を見る。

「別に責められるような自己満足じゃないと思うけど。会いたくないって言われているのに無理に奥さんに会いに行ってたらそれはちょっと違うと思うけども。しばらくは今のまま待ってみたら?まだあなたの気持ちは奥さんに残っているんでしょう?距離をおいて時間が経てば、奥さんの気持ちもまた変わるかもしれないし。同じ人と再婚したらいけないなんて法律ないんだし。急ぐことないでしょう?」

 小首をかしげて見せる彼女に、彼は小さく同意の言葉を返した。そして一度グラスに下ろされた視線が彼に戻ってくるのを待って問い返す。

「そっちも待ってるの?旦那さんが帰ってくるの。」

 もう離婚してから何年も経つのに、彼女は再婚する気配がない。それどころか恋人の話すら聞かない。しかし彼女の答えは彼の予想とは少し違っていた。

「うちの場合はそういう風にはできないな。私、今、元の夫以外の人が好きなのよ。だから、それをどうにかしない限り、元の鞘には戻れない。」

 彼が彼女から恋の話を聞くのは初めてだった。

「そうなの?つきあってるの?」

「ううん。」

「付き合わないの?」

「きっと付き合わないと思う。彼が幸せなら、それが一番なの。彼が私と一緒にいることが一番の幸せだって言ってくれない限り、私が彼と付き合う意味がないし。」

 彼女はグラスについた水滴を指でなぞりながら穏やかに笑う。

「言ってくれなさそうなの?」

 彼の問いかけに彼女はさっぱりとした表情で頷いた。

「今のところね。言わせようとも、今は思ってないし。」

「どうして?」

「彼の一番の幸せはたぶん違うところにあると思うの。だから、それを応援しようと思ってる。」

「何だかすごいな。そういう恋愛聞いたことない。」

 彼が感嘆を漏らすと、口もとに小さな笑みを浮かべた彼女はまるで説得するように彼を正面から見つめた。

「そう?ただ好きなのよ。大好きなの。それだけよ。」

 言葉には確かに彼女の情熱があった。紛れもなく彼女は恋をしていて、その男が好きなのだと、疑うべくもない告白だった。

「そっか。」

 彼はそれだけ言って、自分のグラスを勝手に彼女のグラスにぶつけた。複雑な彼女の恋への乾杯だった。

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