第2話
彼女が離婚したと分かってから、ご飯を食べに行く頻度が倍くらいになった。それでも元々が数カ月に一回だったのが、二、三カ月に一度になった程度。最初は彼が誘う回数が単純に増えて、一度サイクルが安定するとそのまま当たり前のように季節ごとに一度は会うようになった。彼女も、彼が自分を心配してくれていることがわかるから、その厚意に甘えながら逆に元気にしているところを見せて彼を早く安心させようとも目論んだ。会う頻度が変わっても、二人の距離は変わらない。あの日、ふらつく彼女を支えた一度きり、手も繋がない。美味しいご飯を食べながら共通の知人の近況や、職場のことをとりとめも無く話す。彼の家庭の話もこれまで通りに良く話した。何せ結婚を決意した辺りからの縁なので、彼女にはいつでも聞きたいことがあったし、彼にもいつでも何かは話すことがあった。
「次か、その次に会う頃、俺、お父さんになってる予定。」
夏はビアガーデンだろうと、熱帯夜に繰り出した都会のビアガーデンで彼が言った。ひどくうるさい場所だったから彼女は「お父さん?」と聞き返した。
「うん。子供が生まれるの。」
「うわあ、そっかあ。良かったね。奥さん、喜んでるでしょ。子供欲しがってたもんね。」
一度も会ったことがないくせに、まるで知り合いのような気がする彼の妻を思い出す。結婚式の写真を見せてもらったことがあった。二人が本当に幸せそうに笑って寄り添っていた素敵な写真だった。
「ありがとう。うん、すげー喜んでる。あと奥さんのお母さんとかも超喜んでる。」
「でかした!くらいの感じ?」
「そうそう。」
二人は飲みかけのジョッキを乱暴なくらい勢いよくガツンとぶつけた。彼の妻は少し年下だが、それでも初産を迎える妊婦としては決して若くは無い。色々心配ごとも多いだろうと彼女が水を向ければ、彼はいつの間にかいっぱしの父親になっていた。子供を迎える心構えや、妊婦のために良いこと、悪いことを真面目に学んでいた。彼女は、へえ、と相槌を打って、ときどき質問を挟みながらにこにこと話を聞く。
「ご飯作るときの匂いが駄目な人とかいるって言うけど、うちはそれは全然大丈夫そうですごい助かってる。俺、相変わらず料理駄目だから。」
「自分は外食で済ませて良くても、奥さんの分何か用意してあげなきゃだもんね。」
「そうそう。絶対どっちかのお母さんに来てもらわなきゃ駄目だったな。」
枝豆、唐揚げ、フライドポテト。一通りのつまみを眺めて、こんな食生活じゃ妊婦さんは駄目だものねと二人は大きく頷き合う。
「美味しいけどね。」
「うん。唐揚げは裏切らない。」
「至言だね。でも、そんなこと嬉しそうに言っちゃう私達は馬鹿だね。」
性別や名前や、教育方針まで子供と言えば話すことはいくらでもある。まだ性別は分からないと言いながら、勝手に息子だと想像して一緒に遊ぶのを楽しみにしている彼に、女の子だったら小学校に入ったらもう遊んでもらえないかもよ、などと水を差して彼女が笑う。
「優しい子になってくれたらいいんだ。別に何が特別すごくなくてもさ。」
だいぶお酒が回ったとき特有の少し遅い口調で彼が言う。
「そうだね。貴方の子供ならきっと大丈夫だと思うよ。」
「そうかな。」
「うん。貴方、優しいじゃない。きっと子供もそれを見て育つよ。何も特別なことをしなくてもさ。」
嬉しそうに笑う彼女は、小学校の先生みたいな慈愛を滲ませて、彼は君の方が優しいと胸の中で思う。彼女ほど朗らかで優しい子に育ったら親はさぞ自慢だろうとも思う。自分が親になると思ったら、急に親側の視線で何もかもが見え始めるのだから不思議なものだ。親にならなければ分からないというのは、あながち間違いではないかもしれない。
「そうだといいな。」
「そうだね。」
そういうことなら、次に会えるのは少し先になるかもしれないと会計を待ちながら二人は話しあう。大事な時期に旦那が外で飲んでいて、病院にかけつけられないなんて笑えない。ましてどういう関係であれ女性と二人だったなどと知れたらあっという間に大事件だ。そんな極端なことにならなくても、なるべく家にいたいだろうし、いるべきだ。落ち着いたら連絡してよ、と彼女は彼の肩をポンと叩いた。
「今度、水天宮の方に仕事あるからお参りしとくよ。」
「まじで?ありがとう。」
「お安い御用よ。奥さん、大事にしたげてね。」
ひらひらと手をふって彼女は彼に背を向ける。小さな背中はすぐに見えなくなった。彼も彼の駅へと歩き出す。次はきっと子供が生まれた後になるだろう。彼の妻は実家に戻って出産する予定なので、家に戻って来てくれる前の方が時間に自由が利きそうだ。彼は子供ができたと聞かされて以来、途切れない上機嫌をそのままに大股に歩いた。自分はきっと子供の写真を見せびらかすような親馬鹿になっているだろう。彼女は何と言うだろうか。顔が緩み過ぎだとか意地悪なことを言いそうだ。それでもきっと最後には一緒に写真を見て可愛いねと笑ってくれる。
彼女に、もうすぐ結婚するんだと言ったときを思い出した。あれから、もうそんなに時が経ったのか。変わらずに良い友人で居てくれる彼女を有難く思う。子供ができてなかなか自由に出歩けない友人が増える中、今や彼女は彼が気兼ねなく夜に呼び出せる数少ない友人の一人になっていた。
幸福は、それが貴重だから余計に輝くのだと、彼はとても残酷な方法で思い知った。冬のひどく寒い日だった。どうしても一人でいられなくて、彼女にメッセージを送った。夕方、電話がかかってきた。彼女からは滅多にない、職場の電話を使った私用の電話だった。
「大丈夫?」
声を潜めて彼女が聞く。彼が送ったメッセージは長くはなかった。事実だけを簡潔に。彼の社会人生活の長さと社会人としての優秀さを示したような分かりやすい文章で、生まれたばかりの子供がやってきたところへ帰って行ってしまったと告げていた。まだ、親馬鹿な子供自慢を彼女にする前だった。
「うん。駄目。」
声を潜めて目を伏せれば、涙がこぼれそうになる。
「奥さんは?」
「もっと駄目。」
彼よりもさらに子供を待ち望んでいた妻の落胆は、一人で家に置いておくことが心配になる程だった。実際、頻繁に母親が通ってきてくれている。電話の向こうの彼女はほんの僅かの間、黙りこんだ。彼は彼女に縋りたくなる。何を言えば良いのか分からない。けれど誰かに助けてほしかった。絶望から。悲しみから。自分以上の悲しみの中にいる妻を救ってやれない無力感から。
「今度、飲みに行かない?」
結局、口から出た言葉はいつもの台詞だった。いつもなら、彼女なら一秒も迷わずに100%の確率で「いいよ」と言ってくれる台詞だった。
でも、今回だけは彼女は黙った。彼は、ぼんやりと馬鹿なこと言うなと怒られるかと思った。けれど数秒の沈黙の後には穏やかな声が帰ってきた。
「今は止めておこう?今は辛くても、なんでも、貴方は奥さんの近くにいなくちゃ駄目よ。離れたら駄目。寄り添ってないと心まで離れちゃうよ。」
ゆっくりと言い聞かせるように彼女は言う。分かっていたことを言葉にされて彼は怒られるよりも恥ずかしくなった。今ほど妻にとって自分が重要なときはない。妻の悲しみから逃げてはいけないと分かっている。なるべく早く家に帰るようにしているし、なるべく声をかけて、抱きしめている。妻が泣くばかりで会話にならなくても、どうして子供を助けてくれなかったのかと癇癪を起しても、全部受け止めるようにしている。ただそれに、少し疲れた。自分の悲しみを顧みる余裕も暇もないことに、少し疲れた。誰もが、妻が一番辛いはずだと言う。彼だってそう思う。けれど、二番目だからって彼が辛くないわけではない。妻の嗚咽を毎日聞くことですり減り続けるのは彼の方だ。
黙ったままの彼に受話器越しに彼女は根気よく語りかける。
「私達はいつか、また会うでしょう?そのときにいくらでも話は聞くよ。メール、いくらしてくれてもいいから。貴方は奥さんの近くにいて。」
彼は知っている。自分は、彼女に甘えた。彼女なら助けてくれると思ってメッセージを送って、そして彼女はいつもはしない緊急用の方法で自分に手を差し伸べてくれた。心配で仕方がないという思いを声に託して、今も電話の向こうにいてくれる。黙ったままの自分の返事を待ってくれている。何の力もなくても、その声をもう少し聞いていたかった。自分を一番に心配してくれている人がいることに、ここしばらく感じたことの無かった安堵を感じた。
「電話は駄目なの?」
そう問い返せば、彼女が小さなため息をついたのが聞こえた。
「止めた方がいいと思う。奥さんが聞いたら嫌な気分になるでしょう。今はどんな余計な心配もかけるべきじゃないと思うよ。」
「家の外なら?」
「癖になるから。いつか家のそばや家の中でかけるようになっちゃうと思う。」
彼女の言葉には不思議な説得力があった。彼は慢性的に寝不足気味の重い頭の隅で思う。彼女が辛い思いをした時期に、彼女自身が誰かに電話をかけたのかもしれない。そして癖になってしまったのかもしれない。彼にはただの一度も電話はなかったけれど、そうやって相談できる人がいたのなら良かった。少し悔しいけど、でも、良かった。彼は閉じたままだった目を開ける。
彼女には彼女の人生。彼には彼の人生。彼女はきちんと立ち直った。誰かの手を借りたのかもしれなけれど、とにかくちゃんと乗り越えた。子供のことは彼の背負うこと。彼と彼の妻の背負うこと。きっと大丈夫。今は真っ暗で何も見えないほどだけれど、きっとまた子供ができる前の二人のように穏やかに楽しく暮らせるようになる。何度か瞬きをして顔を前に上げた。
「分かった。」
「飲みにはいけないけど、何もできないけど、何時でもメール送っておいで。」
そう言う彼女は母のようだった。思わず小さく口の端が上がる。昔からそうだった。彼女は弱い者や困っている者を放っておけない。両手を目一杯に広げて、何でも受け止めてあげるから、と言ってくれる。男らしいと後輩から人気があったのは彼より彼女の方だ。
「うん。ありがとう。少し、元気でた。」
「うん。良かった。」
電話を切って、彼は両手で顔を覆う。今自分は少しだけ笑えたみたいだと強張った口角に触れて初めて気がついた。
二人は彼女の宣言通り会わなくなった。メールだけはこまめにやりとりする。彼は支えきれなくなりそうな何かを文章にすることでなんとか消化して、また妻に向かいあった。根気よく、話を聞いて、慰め、励ます。高齢出産の域に入り、次は今回よりももっと難しいと告げられていた妻の嘆きは深く季節が移ろうことも気がつかないように生まれたばかりの赤ん坊の遺影を前にぼんやりする日が増えた。
彼女からのメールの返信はいつも短く、読んでいるよと知らせるためだけの返信のようだった。夜中の三時。泣き疲れた妻を寝かしつけて疲れてぼやける目を凝らしてメールを打つ。今日も妻は、どうしてあの子が死ななければならなかったのかと言う。答えなんかない。それだけを送る。すると三分もしないで返信がくる。
「そうだね」
たった四文字。けれど、いつもそういう彼女の声を思い返すと涙がこぼれた。彼女の「そうだね」には心が籠っていた。本当に貴方の言う通りだと思うよ、というために言ってくれる「そうだね」だ。
「そうだよ。」
ぽつりと呟いて携帯の画面におちた涙をぬぐう。声も聞けない電話の向こうに、でも確実に彼女はいて、彼の言葉を聞いて、彼の思いを認めてくれている。幸福が去った後の家で、それだけが彼の支えになった。