第1話
作中に離婚、子供の不幸に関する記述があります。苦手な方はご注意ください。
「もうすぐ結婚するんだ。」
職場の異動で知り合って、二カ月もした頃に彼はそう言った。たしか、午前中の会議が延びて、二人だけで遅いランチを食べていたときだった。
「へえ、おめでとう。とうとうプロポーズしたの?」
幼稚園のお迎え待ちらしい若いお母さんたちがたくさんいるイタリアンレストランで、彼女はキャベツの入ったペペロンチーノを食べていた。そのパスタをくるくるとフォークに巻きつけながら彼を見上げた。
「うん。この間の休暇のときに。今、婚約指輪ができるのを待ってるところ。」
彼はピザを一切れ、具を落とさないように慎重に持ち上げながら答えた。
「ああ、指輪は後で買ったの?結婚して下さいって言いながら差し出すパターンじゃなくて。」
「うん。やっぱり高い買い物なのにさ、気にいってくれなかったら嫌じゃない。」
大きな口でピザの半分をぺろりと平らげて、彼は笑う。彼女は小さく何度も頷いた。
「給料の何カ月分っていうもんね。気にいらないとか、悲しすぎるかもね。」
二人はプロポーズの話題や婚約指輪の話題で照れたり、大騒ぎするような年齢ではなくて、まして彼女は当時既に結婚四年目だったので最近の仕事の様子を話し合うのと変わらない様子で指輪選びの話を続けた。同僚であると同時に、あるいはそれ以上に、すでに飲み友達である二人にとって、平日のランチにちょうどいい健全で明るい話題。
「実際には三カ月分なんてすごいのじゃないけど。一緒に選びにいって彼女に決めてもらった。」
「自分で選ぶのはいいけど、女の立場からいうと無邪気に選びすぎてそれこそ百万円のやつとか選んじゃわないようにちょっと気を遣うと思うけどね。」
「ああ、確かに気にしてたかも。」
思い出して頷く彼に、彼女は我が意を得たりと少し胸を張る。
「でしょう?はっきり予算聞いちゃうのも興ざめだしさ。そんなわけで私は婚約指輪は持ってきて欲しい派。」
「そうなんだ。でもまあ、こっちも見栄があるから、これって言われたらちょっとくらい予算越えてても買うんじゃない。大抵の男は。」
彼が答えるのを聞いて、彼女は目を細める。これを聞いたら彼の恋人は喜ぶだろうと思う。惚れた女の前で見栄を張ってしまう男というのは、愛すべき愚かな生き物だ。それが自分のためと言われて嬉しくない女はいまい。でも、わざわざそれを彼に教えてあげるような、恋の機微に踏み込むような関係ではない。色っぽいこととは無縁の関係だからこそ、お互いに夫と、最近婚約者に格上げされたらしい恋人がいる間柄で仕事上がりにあっけらかんと二人だけで飲みに行くことができる。男同士のような、女同士のような気楽な関係を二人は楽しんでいた。同じ年代の同僚が少ない職場で、性別など気にしていたら気の合う友人になかなか巡り合えない。互いに、その辺を割りきった相手が貴重だということくらい、最早短いとは言えない会社生活の中で十分理解している。だからこそ、見えないように慎重に距離をとって、その結果としてとても気安い友人としての関係を維持しているのだ。
彼女は首を傾げて、少し意地悪をしてみる。
「それは、そうだろうね。じゃあ、しばらくは倹約?飲みに誘わないようにしようか?」
いたずらな問いかけに、彼は乾いた笑い声をあげる。いつのまにかピザの皿は空になっていた。
「ははは。いや、大丈夫。お祝いしてくれるなら、喜んでついていくけど?」
「分かった分かった。今度ね。」
彼女はグラスに残った水を飲み干すと腕時計を確認して、じゃあ行こうかと伝票を手にテーブルを立った。
次に二人とも仕事を早く上がれる日を探しながら職場へ戻る。そこでは二人の関係は仲の良い同僚に戻り、友人としての顔はそっと隠される。何も言わない。言わないけれど、もの好きな誰かに不倫だ、浮気だと面白おかしく肴にされるのはつまらない。メールで静かに次の飲み会の日時を決めて、飲むときは現地集合。さすがにそれくらいは気を遣う。何も疾しいことはないのに、こそこそするのは性に合わないけれど、これはもう処世術だから。同じテーブルを囲んで、結婚準備の報告と、自分の結婚式の経験談を語りあう二人は兄妹のようなものなのにね、と言いあいながら会う店は必ず職場から遠いところを選んだ。
春は異動の季節。彼が無事に結婚した次の春には二人の職場は離れて、自然と疎遠になった。
同じ会社にいれば情報は入るし、今時、友人の動向を知る術なんていくらでもある。たまに、本当にたまにメッセージを送りあって元気でやっているのを確かめて、数か月に一度だけ、待ち合わせてご飯を食べる。新婚の近況を聞いては、いつまでも家事が苦手な彼を笑い、彼女は結婚生活の秘訣を訳知り顔に語って見せた。気の置けない友人。二人で会っていることだけは他の同僚にも友人にも伏せていたけれど、それはやはり互いの伴侶への礼儀のようなもので、相変わらず二人は戦友のように対等で、子供同士のようにさらりとした友情だけで繋がっていた。
その関係を大事に思ったから、彼女は何も告げなかった。
結婚した時ですら大袈裟なことになるのを嫌って仕事上は旧姓で通していた彼女にとって、静かに離婚の手続きを終えることはそれ程難しいことではなかった。人事部にだけは連絡しなければならないが、幸いなことに総務人事と彼女がいる職場は建物が違う。噂になるようなことはなかった。
離婚の理由はよくある話で、夫が他の人に気を移してしまっただけのこと。いつまでも子供に恵まれなかったことが悪く作用して離婚を早め、良く作用して離婚に関わるトラブルは少なかった。分与する程の財産があるわけでもない。一度話が決まれば後は早かった。彼女は職場ではただ引っ越したとだけ告げて、昔から一度は住んでみたかった川沿いの大きなマンションに引っ越した。家に関する意見が折り合わず、結婚している間は叶えられなかったちょっとの贅沢。思った通りベランダからは川が見下ろせて晴れていれば煌めく水面をいつまでも眺めて飽きない。暇になった一人の週末はよく土手を走った。三十を越えると急に代謝が落ちる。意識して体を維持しないと体力も体型も劣化が進むばかりだ。ちょうど良かった。
誰が何と言っても彼女は夫を愛していた。とても大事に思っていた。誓ったからには、死ぬまで一緒にいるのだと覚悟を決めてもいた。分かりやすく仲の良い夫婦ではなかったかもしれない。すれ違いも多かった。けれど、彼女は忙しい夫を案じていたし、一緒に過ごすことができる時間を多くとれるように自分のための時間も削った。仕事は辞めなかったけれど、それが原因で夫が浮気に至ったとは思わない。だからこそ、何を責めればいいのか分からなかった。自分の何がいけなかったのか自問しては答えられず何度も自分を問い詰めた。自分に分かりやすい落ち度が欲しかった。そうすれば、そのせいだったと自分を納得させて、諦めることもできる。けれど、決定的なものはどうしても見つけられなかった。なぜ、夫が去って行ってしまったのか理由がなくて。どうして自分ではなくて知り合ったばかりの他の女性を選んでしまったのか分からなくて。それでも夫を憎んだり、恨んだりしたくはないと傷つけられっぱなしの自尊心が必死に叫ぶから、彼女は一人でただ悲しみが去って行くのを待つしかなかった。
彼女の静かな離婚に秘められた悲しみは、知る人もないまま川の流れと一緒に少しずつ遠くへ流されて行く。ある日曜に一人で夕食をとりながら、彼のことを思い出した。次に会ったら離婚した話をしないわけにもいかないだろう。結婚生活について先輩面して色々言ったのに十年ももたずに離婚して格好悪い。彼はあれで優しい奴だから慰めてくれるかもしれなけれど、それはそれで決まりが悪い。
結婚すると会社からいくらかの祝い金が出る。諸手続にかかる苦労は同じで、それを前向きな気持ちで行う結婚の場合に比べて、色々なことを引きずりながら行う離婚の方が気持ち的に辛い。それなのに、離婚の連絡をしても会社からは見舞金は出ない。それを理不尽に思ったけれど、離婚したこと自体を職場で伏せていた彼女には愚痴る相手もない。彼に会えば、この話だけは聞いてもらえるなと思う。彼ならば、きっと「ああ、確かにそうだね」と同意してくれるに違いない。そこまで想像して、ほんの少し笑った。週末に笑うのは、とても久しぶりだった。
花見がてら会おうかと彼は飯田橋の御堀沿いの居酒屋を予約した。当日は正に桜の季節にあたり、店は大繁盛だ。良い週末を押さえたね、と入り口で行き合わせた二人は互いの頭や肩に乗った花弁をみて言い合った。
乾杯してすぐに彼女が指輪のなくなった左手をかざしてみせると、彼はきょとんと眼を見開いた。
「あれ、指輪なくしちゃったの?」
うちの奥さんも、昔あげた指輪失くしちゃったから、結婚指輪もいつか失くすんじゃないかって心配してんだよね。そう続けてから、手をかざしたままにっこり笑う彼女の表情に首を傾げた。
「指輪はお家にあるよ。でも、もうつけないの。」
目顔で問われたことに彼女が答えると、彼は半分も中身の入ったグラスとドンとテーブルに下ろしてこぼした。
「え、別れたの?」
「そうなの。」
やっと手を戻して、名残を惜しむように右手で左手の薬指を撫でる彼女の指先と笑ったままの彼女の顔の間を彼の視線は忙しなく上下する。
「聞いてないんですけど?」
ほんの少し怒ったように彼は言う。勢いよく下ろしたせいで零れたビールをかぶった手をおしぼりで拭い、ついでにテーブルとグラスも拭ってからビールを煽った。
「ごめん。会社では言ってないんだ。さすがに人事には報告したけど。もともと旧姓で仕事してたから返って戸籍と名刺が同じ名前に戻って都合がいいくらいだし。色々言われるの面倒でさ。」
軽い口調で語る彼女に彼は怒りの矛先をそらされたように、僅かに浮かべていた不満の表情をしまった。代わりに疲れたような表情が浮かぶ。その横顔は結婚が決まったと言っていたあの日から五年を経て少し痩せて、悪く言えばやつれ、良く言えば男の色気が増した。
「そんな事務的な。それはそうだろうけど。水臭いな。」
「ごめんて。でも、普段滅多に連絡しない人から急に、離婚しそうなの、旦那が浮気したの、とか電話かかってきたら怖くない?」
彼女は視線を御通しの器に向けたまま、そう茶化して俯き加減に笑う。
「人によるでしょ。電話したかったなら電話してくれて全然良かったのに。」
「うん。ありがとう。」
彼女のいつも通りの返事に彼は鼻から一つ息を抜いて答えた。
「どういたしまして。ちっとも電話なんかもらってないですけど。俺、着信見逃してないよね?」
「ないよ。かけてないもん。」
彼は、はあ、と大きくため息をつく。そのままじっと彼女の様子をうかがって次の言葉を選んだ。見た目の印象は変わらない。いつから変わってないのか年を取るのを放棄したようにどこか幼い印象が抜けない丸い頬。そこには疲れた様子は見えない。ただ年と共に少しずつ目立つようになってきた白髪が、また少し増えたように思うくらいだ。ただ、いつもお酒を一杯飲めば「美味しい」と自分を見返した子供みたいに底抜けに明るい笑顔だけがない。それが彼に踏み込まれることへの拒絶なのかどうかは分からない。
けれど彼は彼女の人となりなら知っている。彼女はまっすぐで嘘の無い人だ。だから、変に気を回すよりは正直に話す方がいい。さっさとその結論に至った。
「どうする?話、聞くけど聞いた方がいいの?聞かない方がいいの?」
「ふふ。ありがとう。どうしようかな。何から話そう。折角話すなら貴方の役に立つように原因分析ができてからにしたかったんだけど、残念ながら根本原因が分かってないんだよね。」
「もう、そういうの良いって。大変だったんじゃないの?ただの愚痴でもいいじゃん。聞くよ。」
虚勢を張る必要なんかないと、気の置けない友人の距離をそのままにした優しい言葉の後に、間髪をいれずに店員を呼びとめて二人分のビールを追加した。彼の後ろ頭を見ながら彼女はそっと笑う。
「変わらないね。」
振り返ったら急に笑顔で話しかけられて、彼は眉を片方だけあげてみせた。
「成長しなくて悪かったね。」
「良い意味だよ。」
彼女はふふふと笑って、不審がる彼には答えずに、淡々と離婚の経緯を語った。東京のど真ん中で働く30代の男女にとって離婚は身近だ。誰だって直接の知り合いに離婚経験者がいる。一人か二人か、もっといるか。一度や二度は相談にのったこともあるだろう。だから二人の会話も、静かに、まるで中学時代の思い出を語るように懐かしむように語る彼女に、穏やかに、うんうんと彼が相槌を打つだけで、三十分も続いた。そして、三十分も話したらあらましは話し終ってしまった。
「大変だったね。」
話し終えて俯いた彼女の頭に腕を伸ばし、大きな手を一度ぽんとおいて彼は一言だけ声をかけた。それに彼女は顔をあげてにっと笑った。
「うん。大変だったですよ。愚痴も聞く?」
「いいですよ。聞きますよ。その前に、飲み物頼もう。」
二人でメニューを覗きこんで、それぞれに焼酎を注文し終わると彼女は、彼女なりの愚痴を面白おかしく話して見せた。会社の手続き、ごく親しい人以外には内緒に離婚して引っ越すための苦労、親や兄弟の反応。それは大袈裟に話せばどれも重苦しい苦労話になるものだったけれど、彼女はそうはしなかった。世間のおかしさ、ちっとも心浮き立たない秘密を抱える滑稽な緊張感。そんなものを落語家のように軽妙に語っていく。彼は笑いながら、茶々を入れ、時に笑いすぎる彼女を諌めた。
「そんなに自分を悪く言うことないでしょ。」
そう言うと、彼女は「そうなのよ、私、自分の悪いところがまだ分からないの。だから次結婚したら、また失敗しそう。」などと言って顰め面をして、ぐいと酒を煽った。その全てが芝居じみていて、彼女の本気は見えないけれど、彼は苦笑いして次のグラスを注文してやった。
いつも通り、電車がなくなるぎりぎりまで飲んで店を出る。年と共にお酒に弱くなったと言いながらふらつく彼女を見兼ねて、同じくらいふらふらのくせに彼は彼女の腕をとる。二人の頭上には桜が大きく枝を広げ、散り際の花が僅かの風にも耐えられず、ひっきりなしに降っていた。
「大丈夫?一人で帰れる?」
「大丈夫だよ。電車も乗り換えないし。」
「乗り越しさえしなければね。」
「アラームかけるし。」
「そんなんで起きれるの?」
子供みたいに言いあいながら、終電間際で込み合う駅で別々のホームに向かう互いを見送って別れた。
帰り道すがらの彼にメールが届いた。ちゃんと電車を下りたと自慢げな彼女の顔が思い浮かんで思わず笑みが漏れる。自分の家まではもう少し。彼はメールを打ち返した。
「後は転ばないで家まで帰ってね。」
家に着いたよ、と一言だけの彼女からの留守番電話を聞きながら彼もまだ怪しいままの足取りで家路を辿った。