別れと旅立ち(1)-1
Ⅰ (ロラン)
強い風が吹いている。この風は旅する先にもあるのだろうか。
中庭で顔を洗って母屋を覗くと、クロエがマリーに櫛をかけていた。マリーが気持ちよさそうに鼻歌を歌っている。綺麗に梳かされた髪はずっと量が落ち着き、マリーはぱっと見て出自の良い貴族のようだった。この辺りには珍しい濃褐色の瞳をしている。そういえばマリーの目をこれほどはっきりと見るのもこれが初めてかもしれなかった。
厩舎の前ではセバスチャンが馬車にマリーの荷物を積み込んでいた。ロランの父の形見である剣と鎧はすでに乗せてある。傷ついた鎧は町にある窯では完全に修復することは叶わなかったが、フランクたち工房の職人たちが熱心にできる限りの手当てをしてくれた。
「手伝おうか?」
ロランはセバスチャンに声をかけた。
「いえ、もうこれで終わりですから!」
セバスチャンが最後の荷物を馬車に載せて汗を拭いた。
マリーたちも一緒にこの町を出る。聖女であるという話が知れ渡っているからだ。このまま町にいれば、いずれ厄介なことになるだろう。どこまで旅をするかはまだわからないが、セバスチャンが色々と都合をつけてくれた。マリーの両親には会ったことがないが、かなりのお金持ちで、そして随分と娘を溺愛しているのがうかがい知れた。この懸架式の馬車や旅の路銀も多くは彼らが出してくれたものだ。
「やっぱ眩しいなー」
マリーがつばの広い帽子を被って母屋から出てきた。艶やかな赤い髪は緩やかな曲線を描いて腰まで垂れ下がっていて、彼女のお気に入りの白い色のローブを羽織っている。セバスチャンが彼女の手を取り馬車の客室へと案内した。セバスチャンはいつもの襟巻き(エシャルプ)を首に巻いた小姓の格好をしている。彼はひたむきな忠誠心でどこまでも彼女について行くと決めているらしかった。客室に乗り込んで早々、マリーは荷物をごそごそと漁り出す。
「なーセバスチャン、小腹が空いたよ」
「さっき食事をしたばかりではないですかマリー様」
セバスチャンが呆れた顔で釘を刺した。
「道中何かつまむものはあるんだよね?」
「干し肉くらいは用意してありますが」
「菓子じゃ。わっちは菓子を所望しておるのじゃ」
「急には無理ですよー。次の町に着くまでお待ちください」
「無理ー」
ロランは以前商人から買ったとっておきの蜂蜜菓子を胸元から取り出すと、マリーに放り投げた。
「おおー」マリーが菓子に貪りつく。
「しかしその態度を見ると、お前は本当に聖女なのか不安に思うな」
「そうだと言ったろ」
マリーはさっそくひとつを平らげて満足そうに喉を鳴らす。いつもどおりでまったく落ち着きがない。それがロランの緊張を心地よくほぐした。ロランはふと思いだして、前々から疑問に感じていたことを口にした。
「そういえば、ドルレアンの悪事をマリーはどうして知ってたんだ? やっぱり神託か?」
「鳩だよ」
溶けて手についた蜂蜜を舐めながらマリーはこともなげに言った。
「鳩?」
「前に言ったろう。あの洞窟には動物たちが休みに来るって。各地を行き交う伝書鳩も例外じゃないのさ。捕まえて書面を読めば、世の中の流れも幾分かは見える」
「なるほどね」
ロランが感心すると、セバスチャンが自分のことのように胸を張った。
それから一台の四頭引きの立派な馬車がやってきて屋敷の前で止まった。革製カーテンまでついた御者台で操作する最新式の馬車だ。よく仕付けられた御者が、流れるような手つきで客室の扉を開けた。
「準備万端だな」
客室からジャンとエマが降り立った。おおかた馬車の荷台に乗っている荷物の大半は彼の衣装だろう。よく車輪が外れないなという量で、四頭引きなのも頷ける。
「ホントについてくるのか?」
ロランは言った。
「もちろん」
ジャンもこの町にはもう用がない。ハンブルグ領へ向かいながらドルレアン男爵に取り憑いていた魔物の正体を調べるらしい。彼らしい大層な目的だ。
「こっちも準備は出来ている。せっかくだから一緒に乗ったらどうだ」
ロランはジャンの肩を叩いた。
「それはありがたい。子供はどうも苦手なのだ」ジャンは肩の力を抜いて大きく息を吐いた。
ジャンの馬車の客室の中にはドルレアンによって攫われた他の町の子供たちも乗っていた。道すがら親元に返すのも予定に含まれていた。ジャンは帽子を取ってマリーに深々と挨拶をしてからロランたちの馬車に乗り込む。マリーにもウィンクするものだから、途端にセバスチャンが不機嫌になった。
「ちょっと、ジャン様。くれぐれもご自重くださいね」
「何の話だい?」ジャンはとぼけて首を傾げた。
「はぐらかさないでください」
「いい年した男なんだ。女遊びのひとつくらいたしなみってもんだろう。セバスチャンも教えてもらったどうじゃ?」マリーがからかう。
「いいだろう。セバスチャンもいよいよ大人の階段を昇るか」
ジャンもにこやかに笑う。セバスチャンが大きく頬を膨らませた。
「もう! マリー様までっ」
馬車での喧騒をよそに、ロランは気づけばエマと二人きりになっていた。こちらは言葉少なげに気まずい雰囲気が漂っている。
「あの……気をつけてね」
「ああ」
エマとはあれからほとんど話をしていない。
「来てくれてありがとう。体の調子は大丈夫なのか? 本当はこっちから挨拶に出向くべきだったんだが……」
「いいのよ。それより、あなたはやっぱり私を責めないの?」
「俺は誰も責めたりしないよ」
ロランはきっぱりと言い放った。そこに迷いはない。クロエを魔女だと密告したのはエマだったが、彼女を責めるべきではなかった。それこそ、もう済んだことだ。
「……ここへは、戻ってくるの?」
エマは下を向いてもじもじと手を弄んた。
「母上を残していくし、ずっと過ごしてきたこの町にも愛着がある。すべてが片付けば帰ってくる気でいるよ」
ロランは思う。
(クロエの家族が見つかれば、戻ってこられるだろうか)
どうしてこんなにクロエを気にするのか。きっとけじめによって復讐にとらわれていた自分に、疑問を持たせてくれたのがあのときのクロエの涙だったからだろう。いつからか、そこが自分にとってすべての出発点になっていた。だからこそ彼女を放っておくことが出来ない。自分の道標が正しい方角を向いていて欲しいと願うからだ。
「そう、良かった。またいつか会えるのね」
エマは胸をなで下ろした。
「ああ。アントワンにも宜しく言っておいてくれ」
「お母様にはときどき手紙を出すのよ」
「そうだな。でも、なんだかその台詞はお前が母親みたいな台詞だな」
「そうよ。ロランがこーんな小さいときから面倒見てきたんですもの」
エマは手を腰ぐらいの高さにあてて、その悪戯っぽい瞳を輝かせた。ロランはそんなに小さくなかったと否定しながら、懐かしき昔のことを思い出した。
(確かに町で馴染めなかった俺を色々と面倒みてくれたのはエマだった。俺はずっと前から人に支えられながら生きている)
エマはみなに気付かれないようにロランに手早くそっと口付けた。慌てるロランにエマは
「行ってらっしゃい」と笑顔を見せた。
呆れたロランもつられて笑う。
「ああ、行ってくる」
小さく手を振るエマの姿は昔、ロランに話しかけてくれた少女の頃のままだった。子供の頃に戻った気持ちで、ロランはエマに別れを告げた。




