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一話 疑うことを知らない剣士と、嘘つきな暗殺者(2)

 Ⅱ (ロラン)


 大きく息を吸いこむ。

 勢いをつけて一気に水中へ潜った。こぽこぽと震える水の音。ゆるい流れに体を任せていると、視界の隅で魚が一匹泳いでいった。凜と肌を刺す冷たい水の感触。息が苦しくなって水面に顔を出すと、ロランはぷかりと仰向けに浮いた。ゆらゆらと揺れながら太陽の日射しを浴びる。何も考えず水に身を委ねると、五感のすべてが心地良かった。


 東の森には狼が多く出没するために町の人間は決して足を踏み入れない。古くから口減らしの森として数多くの幼い子供たちが命を落としてきた場所でもあった。いまは一匹の偉大な狼がいて、彼ら狼の群れを束ねている。住人たちは彼を森の王と呼んだ。ロランは剣術の鍛錬でたまにこの森へ忍び入る。ここなら誰にも邪魔されずに集中して稽古ができるからだ。そこで一度だけ森の王と遭遇したことがある。刺すような視線に気づくと、わずか五十歩ほどの距離を置いて森の王は自分を眺めていた。彼の銀色の体毛と黒く鋭い爪、心の奥底を覗きこまんとする深い眼光がロランを見つめ続ける。どれだけのあいだだったのか、やがて森の王はゆっくりと森の奥へと消えていった。興味を失ったのか、認められたのか。それ以来ロランの前に狼が姿を見せることはなく、ロランは自由に森を出歩く権利を得た。泉はそのときに偶然見つけたのだ。


 世間では黒死病ペストの流行で公共浴場が廃止され、入浴自体が控えられるようになって久しい。だがロランは水浴びが好きだった。それ以来、人の目を盗んでこっそりと泉に泳ぎに来ている。


 ロランは泉から出るとよく体を乾かし、わざわざ土砂で肌を汚した。誰にもばれないようにするためである。せっかく綺麗になった体を汚すのは気が滅入るが、仕方がなかった。水は体を弱らせると信じられている時代で、ロランも信心深い母上のもとで逸脱するわけにはいかなかった。このようにこっそり入浴していることがばれれば、なんと言われるかわからない。ロランは独りごちた。


(こんなに気持ち良いのだから、みんなも入ればいいのに)


 ロランは母とスクレで、遠戚にあたる公爵の別荘に住んでいた。公爵は数年前に体を悪くしてからこの町にやって来ることはなく、母と老いた侍女の三人だけで暮らしている。母は少し変わっていて、土地などには目もくれずに甲冑や肖像画など父にまつわる品々だけを本妻から譲り受けて、売ることなく後生大事にしていた。おかげで収入源のない我が家は経済的に非常に困窮していたが、縁者たちからお金を借りてどうにか生活している。ロランは剣術に励みながら、畑仕事を手伝ったり、自警団の取りまとめに協力していた。およそ貴族らしからぬ仕事だが、元々が愛人の子だ。父が死んで母が再婚をしない以上は忌むべき血筋の子として多くは望めなかった。


 それでも今年で十七歳になる。年近い町の男たちはとっくに働いていた。ロランもそろそろ先のことを考えなくてはならなかった。一生ここで終わるつもりもなく、ロランは父の暗殺に荷担したとされるアンリ四世に近づくためにも騎士になりたかった。近づく機会を得て父の名誉を回復するつもりが、母が認めようとしなかった。第一、騎士になる叙勲を受けるにはあまりに先立つものがなかった。金銭的余裕がなければ名のある騎士の元へ修行についたところで一生従者のままである。このご時世で騎士になれるのは貴族でも限られた者だけだ。土地も名誉も持たない以上は傭兵として戦地に赴いて武勲をあげるしかなかったが、それも母に止められていた。


 母はロランに勉学をさせたがった。弁護士や役人なら、ロランのような出自でもなることができるからだ。数年前までは町で一番書物の揃っているボルディエ家で毎日勉強をさせられたが、ロランのやる気の問題でほとんど身につかなかった。


(アンリ四世を討たなければならない。父の敵を討つのは自分しかいないのだ)


 父を暗殺したのはアンリ三世とナバラ王だった。アンリ三世は父の翌年に暗殺されたが、ナバラ王はフランス国王アンリ四世となっていまだ生きている。ロランは首につけたペンダントに触れた。触っていると、不思議と気分が落ち着いた。

 細かいことを考えるのが苦手で、剣ばかり振るってきた。おかげで腕に多少の覚えはできたが、復讐をどう達成すればよいのか、いつまで立っても答えが出なかった。それでぐずぐずと母の言いなりになっている。そのあいだに長らく続いていた、父が命を賭けて戦っていた宗教戦争も収束しつつある。ロランは迷っていた。


(アンリ四世は国民からの評判もよく、暮らしは少しずつ良くなっているとみな言っている。しかし汚れた手でつかみ取った栄光は、誰かが正さねばならない……)


 太陽の位置を確認して、ロランはまとまらない考えを一旦打ち切った。今日はこれから自警団の寄り合いに行かなくてはならない。ロランは手早く服を着込むと森を抜けた。森と町を結ぶ先には柵があり、番の者が出入りを監視している。しかし少し遠回りをして南側に行くと、この森に面した防壁の一部が欠けており、その割れ目に手をかけることでロランは長身と筋力をいかして塀を乗り越えることができた。ロランしか知らないし、ちょっとしたコツがないと普通の者には越えることできない高さだろう。この抜け道のおかげでロランは誰にも知られることなく自由に町と森を出入りできた。



 ロランは町へ戻るとまっすぐにボルディエ家に足を向けた。泉からあがった体には、風がやや冷たい。これから風は段々と強くなり、乾草を作るのにちょうど良い季節になる。通りの鍛冶場ではフランクが職人たちに混じって汗を流してた。鍛冶職人の四男として生まれたフランクは来年には巡歴に出る。見習いは外の町で仕事をしてきて初めて職人として認められるからだ。汗を拭うフランクと目が合って笑顔をかわした。


 先々で挨拶を交わしながら大通りを抜ける。ボルディエ家に到着した頃には約束の時間を少し過ぎていた。自警団の会合はいつもこの富豪宅の大広間で行われた。公爵の別荘にもこれほどの大部屋はない。


 広間にはもうほとんどの者が集まっていた。自警団は町の男総出の仕事だが、実際に運営しているのは幾人かの有力者と未婚の若者だった。若者は来られるものだけが会合に顔を出した。ロランは何の権力も持ち合わせていなかったが、町で一番の剣の腕前を買われて中心人物の一人として実務に携わっていた。暇だからこそではあったが、わずかな給金も貰える。


「やあ、ロラン。遅かったな」


 リシャールが言った。彼はボルディエ家の長男で、領主が常駐しないこの町では自警団の実質的なシェフ(リーダー)だった。意志の強そうな太い眉が特徴的で、実直でまわりの信頼も厚かった。


「ロ、ロラン、いらっしゃい」


 リシャールの隣にいたエマが、恥ずかしそうに葡萄の絞りかすを水で割ったピケットのグラスをロランに手渡した。エマはリシャールの妹で、ロランと同い年だった。小柄で丸顔の愛嬌のある顔をしていて、兄弟はあまり似ていない。ロランはエマの好意に気が付いていたが、奥手でまだ女性に対して興味をそれほど持っていなかった。どう接していいかわからずに、エマの照れた顔に対してロランはぶすっとした表情でグラスを受け取った。リシャールは仕事が終わるまでは決して酒を出さない。


「彼がロランかい」


 聞き慣れない声がして振り返ると、居間に通じる扉が開いており、いままで見たことのない男が立っていた。襟飾りと鮮やかな青の上着に白の半ズボンと長靴下をはいている。これほど伊達な格好は町では珍しい。行商人が売りに来る風俗雑誌の挿絵でしか見たことがなかった。特に大きな羽根飾りのついた帽子がとかく目立っている。


「紹介するよ。ジャンだ」


 リシャールが言った。


「ジャンは私たちの従兄弟なの。パリに住んでいるのだけれど、最近はあちこち飛び回っているみたい」


「ジャン=ガブリエルだ、よろしく」


 確かに肩にまでかかる彼の栗色の髪はエマの巻き髪と色がよく似ていた。ジャンが近づいて手を差しだした。思わず鼻をつまみたくなるほどの香水の薫りが漂った。そのあまりの匂いのきつさにロランは気持ち悪くなりそうになる。


「……よろしく」


 不快な顔を見せないよう隠しながら挨拶に答える。


「エマのことは嫌いかい?」


 しっかりとロランの手を掴んだまま、ジャンが囁く。ロランはエマに聞こえるのではないかと肝が冷えた。


「そんなことは……ない」


 ロランは緊張でかすれるように答えた。エマもリシャールも会話が聞き取れなかったのだろう。ただじっとこちらをみていた。


「なんだ。恥ずかしがり屋なだけか。しばらく町にいるつもりだから、宜しく頼むよ」


 ジャンはおおげさに笑みを浮かべた。



「さて、もうすぐ収穫祭だ」


 一通り挨拶が済んだところでリシャールが響き渡る大声で雑音を遮った。好き勝手に話していた男たちもとたんに静かになる。この町では七月に麦を刈り、九月に葡萄の収穫をして十月に年貢を納めるのが習わしだ。それが終わると秋の収穫祭になる。数週間も前からみんな、この祭りを楽しみにする。


「祭りの準備で忙しいが、客もやってくる。警備も十分にやらねばならない」


 このまえ町を襲った大男は、しばらく塀の外に吊された。最後は鳥のえさになって、もう骨もどこかに消えてしまった。


「楽師たちはもう呼んであるのかい?」肉屋の主人が質問した。


「ああ、それは大丈夫だ。ジャンに道中で頼んでもらった。都会でも評判の楽師が来てくれるそうだ」


 ジャンが大したことないというように軽く手を挙げた。祭りの手順について細かく打ち合わせがされる。


「それから今年もドルレアン男爵がいらっしゃる。例年通り失礼のないようにやっていこう」


 リシャールが付け足した。ドルレアン男爵はこの地方を納めるアンジュ公の血縁にあたる人物で、毎年祭りの時期にこの地へ狩りにやってきていた。この町にとってドルレアン男爵は重要な人物ではなかったが、アンジュ公に連なる貴族として邪険に扱うことはできなかった。


「この忙しい時期に……」


 誰かが不満を言った。みな心の根で思っていることだ。ドルレアン男爵は祭りに協力したりするわけではない。ただ狩りをしにきて、例えばリシャールのような大切な町の人間の手を煩わせる。


「仕方がないさ。これも祭りの一環だと思おう」


 リシャールがそう言うのなら、誰も文句は言えなかった。すべてが終わり、葡萄酒が振る舞われると空気も和らいだ。



 解散の頃合いになってジャンが


「子供が行方不明になるんだって?」


 と聞いた。誰もが触れたくない話題だっただけに場が静まる。


「ここ数年、祭りになると子供がいなくなるって聞いたけど?」


 誰も答えないのでジャンは言葉を繰り返した。


「どうせ口減らしの類いだ」


 エンゾが吐き捨てた。事実、ここ三年ほど収穫祭で子供が四人行方不明になった。家族は悲しんだが、七つになるまでは神の思し召しだと諦めも早い。いつまでも探したりはしないので、口減らしの口実だと罵られても仕方がなかった。しかし去年は行方不明になった子供の一人が金貸しを営んでいたユダヤ人の家の前に遺体で捨てられた。そこに住んでいたユダヤ人夫妻は報復を恐れて商売を畳んで町を出ていって、いまはボルディエ家が商売を継いでいる。ロランはこの親切だった夫婦に問題がないことを知っていたが、彼らユダヤ人はユダヤ人であるというだけで国内のいたるところで嫌がらせを受けた。すべての行方不明事件が関連するかはわからないが、なかには悪意をもって行動している人間がいることも確かだった。


「今年は何もないようにしないとな」


 ジャンは大きな声で独りごちた。突然やってきた人間にそんなことを言われて、町の連中が面白いはずもない。数人が険の立ったまなざしをジャンに向けた。一触即発の緊迫感があたりを包む。


「ジャン、口を慎まないか」


 リシャールが静かに言った。


「皆も落ち着いて。今日はこれで解散にする。おのおの準備を怠らぬようにな」


 どこか重たい気持ちを抱えたまま誰もが家路につく。夜の帳はとうに下りていた。


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