三話 黒い騎士と紅い瞳の乙女(1)-3
☆ (ロラン)
遠くで獣の雄叫びが聞こえる。臓腑をかき混ぜられるような気味の悪い鳴き声に、すぐにドルレアンだとわかった。
「よく啼く奴だな」
革帯をしめながらフランクが苦し紛れの悪態をつく。
「きつく締めてくれ」
ロランは目を閉じて、人狼の姿を思い起こした。どうやって対峙すればいいのか、いくつも場面を想像する。
「股当はどうする?」
「頼む」
早さでは対抗のしようがなかった。少しでも装備を固めて、食い付いてきたところを仕留めるしかないと、ロランは考えていた。普段使い慣れている諸手剣ではなく、片手で扱える長剣と盾を手にする。門では先ほど最後の手段を使ったようだ。水が屋敷の中にまで流れてきている。ローブの裾を持ち上げながらマリーが部屋へと入ってきた。フランクはわずかに驚いた顔をしたが、すぐに作業を続けた。
「あの狼とやるのか?」マリーが訊いた。
「ああ、今度こそ決着をつける」
「そうか。じゃあこれをやる」
マリーが陶器の小さな瓶をロランに手渡した。
「これは?」
「聖水みたいなもんだ。奴の顔めがけてぶつけてやれ」
マリーは興奮して拳闘のように拳を握りしめ空気を殴りつけた。その滑稽な姿にロランは思わず笑みが浮かぶのを止められなかった。
「ちょっとマリー様! 屋根裏へ避難していてくださいっ」
セバスチャンがマリーを羽交い締めにして屋根裏へと連れ去って行く。ロランはありがたく小瓶を鎧の隙間に差し込んだ。
黒鉄の鎧に覆われた自分の姿を見て、ふと父を思い出す。真っ黒に染め上げた外套と長靴下の父の姿と、自分の姿を重ね合わせる。はたして二人は似ているだろうか。父上の勇敢さを、自分は示すことができるだろうか。
「よし、準備できたぞ」フランクが言って、ロランは考えを中断した。
ロランは改めてフランクの肩を叩いて礼を述べた。ここで母たちを守ってくれるように頼むとフランクは快く引き受けてくれた。ロランは長剣を差し、盾と兜を抱えて外へと向かう。居間には母が待っていた。母は厳しい顔をしていたが、それは鎧を持ち出したせいではなかった。
「あなたに神のご加護があらんことを」モニクは厳かに十字を切った。
「行ってきます、母上。鎧にも傷ひとつとしてつけさせません」
いつも鎧の心配ばかりする母にロランは跪いて宣誓する。そんなロランの顔を、モニクは両手で包み込んだ。
「鎧なんてあなたを守るためにあるものよ。あなたさえ無事に帰ってくればいいの、ロラン。必ず生きて帰っていらっしゃい」
ロランは不覚にも鼻の奥につんとこみ上げてくるものを感じた。
「……はい」
母に深く礼をして家を出たロランを最後に待っていたのは、予想通りクロエだった。
「……お前も行くと言うのだろう?」
クロエは黙って頷いた。ここにはまだ敵の影はなかった。戦うことのできない町民たちが何人か慌ただしく行き来しているだけだ。あとはみな戦に出ているか、出られない者は家に隠れているのだろう。あたりは一面沼地のように泥水でぬかるんでいる。森からは黒い煙が上がり、剣戟の音や喚声が森や門から聞こえた。
「ここで待っていてくれ」
「え?」クロエは目を白黒させた。
「奴とは俺が一人で片をつける」
「なぜ? それ本気で言っているの? 勝てるわけがないわ!」クロエはかぶりを振った。
「やってみなくちゃわからないよ」
「ダメよ。私の力なしでどう戦うつもりなの?」
「もうクロエにはその力を使って欲しくないんだよ」
力を酷使して倒れたことを、ロランは忘れてはいない。
「そんなの勝手よ。それは私が決めることだわ」
「それならその力にすがるかどうかも俺の勝手だ」
「あなたが負けたらこの町は終わりだわ。誰が町の人たちを守るの? みんなを助けなければ! モニクさんやマリーたちを危険にさらす人間がいるのなら、私は誰であれ、何人でも殺すわ。自分の痛みなんて、大したことないもの」
ロランはそれをとても危険な考えだと感じた。自分を大切にできない人間は、他人を大切にすることもできない。人のことを言えた義理ではないが、少なくともクロエが力の行使を苦痛に感じているならば、するべきではないのだ。クロエにこれ以上の罪悪感を背負って欲しくはなかった。
「大丈夫だよ。俺は負けない」
ロランが胸を張った。フランクが隣の家から農耕馬を借りて引っぱってきた。
「重いだろうけど、我慢してくれよ」
ロランは馬の鼻先を撫でた。鞍をつけるとフランクの力も借りて、どうにか背に跨がる。馬は暴れたが、なんとかドルレアンのところまで連れて行ってもらわなくてはならない。
「どうだ? 騎士っぽいだろ?」
駄馬にまたがったロランは笑って、手綱を引いた。
「ちょっと! 話は終わってない!」
クロエが馬の前に立ちはだかる。ロランはフランクにクロエを押さえて貰うようお願いして、兜を被って馬をゆっくりと門の方へ向けた。
「ロラン! 待ちなさい!」
クロエの叫び声が後ろに聞こえた。ロランはただ前だけを見すえ、ドルレアン目指して馬を駆けさせた。




