二話 何もしなかったことを嘆く少年と、してしまったことを後悔する少女(2)-2
☆ (クロエ)
クロエはモニクに声をかけた後、そのまま家の外へと足を向けた。真実を話してしまった以上、もうあの家にはいられないと思った。当てもなく自分を受け入れてくれる場所を求めて彷徨い歩く。人を避けるようにしながらも、自然に行き着いたのは町の教会だった。クロエは自分のように汚れた人間は来てはいけない場所に思ったが、それでも他に居場所もなく、同時に望んでここへ来たのだという予感めいた気持ちも感じていた。躊躇いながらも敷地に忍び入る。教会の門前には少年が座っていたが、居眠りをしていて、クロエはすんなりと少年の脇をすり抜けることができた。
ややあって石造りの聖堂に足を踏み入れると、高い天井に向けて円柱がずっと伸びて、ステンドグラスからは様々の色をした光彩が祭壇に向けて降り注いでいた。その厳かな雰囲気に呑まれてやはり自分はこの場には相応しくない気がしたクロエは、祭壇に祭られた銅像をちらりと盗み見て、柱に隠れるように祈りを捧げた。誰かに気付かれて咎められるのではないかと気が気じゃなくて、手早く十字を切ると見つからないよう急いで外に抜け出した。
協会の中庭でクロエの胸に残ったのは、悲しみともつかない寂しげな思いだけだった。祈ったところで殺した人間が生き返るわけでもない。奪ったものは途方もなく重大で、そして掛け替えのないものだった。何をしようと取り返せないのだ。
(この町でロランやモニクさんに感謝すると共に、私は自分の罪の深さを改めて思い知った)
辺りに誰もいないことを確かめてから、クロエは懐にいつも忍ばせている短剣に手を触れた。
(これまでたくさんの人を殺めてきたのだから、自分一人を殺すことなんて簡単に出来るはずよ。リュカは死んだ。私も死ねば、すべてが終わるわ)
昔からずっと悩んでいたことだった。抵抗はあるが、肉親を殺されたロランから許しを得たのはひとつの僥倖だったのかもしれない。短剣を取り出し、じっと眺める。曇った刃に自分の姿がうっすらと映った。それは誰でもない、ただの殺しの道具だった。
(聖アポロニアだって、許されたのだから。自分の業を贖うためには、生きていない方がいいんだ……)
自ら命を絶った聖者を言い訳に、クロエは両手で強く短剣を握りしめた。これを喉に突き刺せば、自分も罪深き咎から開放される。
クロエはいまを後悔していた。
最初からこうしていれば良かったのだと。
そうすれば誰も殺さずに済んだのだと。
(たとえ魂が天国に召し抱えられずに審判の日まで彷徨い続けたとしても、それは誰を不幸にするものでもない)
最後に生き別れた姉たちに会いたかった。それだけが心残りだった。
肌身離さず持ち歩いている薔薇のブローチを手に取り、よく目に焼き付けてから胸元に大事にしまいこんだ。
(向こうの世界で会えるかな……)
死んだ後、このブローチは一緒に棺に納めてほしい。
姉たちが自分を見つけてくれるように。
もう一度短剣をしっかりと持って、目を瞑り、静かに息を吐く。
最後に息を吸ったところで覚悟を決めた。
(せーのっ……)
「なんだ、ここにいたのか」
唐突に声がして我に返った。振り向くと、いつのまにかロランが足を引きずってこちらへ歩いていた。握った短剣に気がついているはずなのに、彼は何も言わない。
「ふう。結構堪えるね。汗が出た」
ロランは傷口を押さえ、流れる汗を拭った。
クロエは興奮したまま口走る。
「どうして寝てないのっ? モニクさんは??」
「クロエを探しに行くって言ったら何も言わなかったよ」
ロランは微笑んで、クロエは眉をつり上げた。ロランがどうして自分を見て笑えるのか、クロエにはわからなかった。父を殺し、自身を死の間際まで追いやった相手なのだ。たとえ自分が心の奥底で望んでいたとしたって、ここで現れていいはずがない。
(この人は人を憎むことを知らないのだ。恨むべき相手がここにいるというのに、どれほど無垢なのだろうか)
クロエはロランの純真さが妬ましかった。その尊き魂を汚してやりたいとさえ思った。
考える前に言葉が口をつく。
「ねえ、お願い。私を殺して」
クロエは手に持つ短剣を、ロランに差しだした。
「どうして?」
「私はたくさんの人を殺めたわ。あなたの父も。この力は呪われていて、私は責任を取らなければならないの。こんな能力は、地上にあってはいけないものなのよ」
ロランは考え込んだ。
何も言わずこちらを見つめている。
(私は最後まで最低だ。ロランに同じ罪を着せようとしている……)
待っている時間が永遠のように感じた。落ち着かなくて、クロエは目線を何度も下ろして木靴を見つめたり、ローブの裾を握りしめた。
やがてロランはじっくりと間をおいてから諭すように、分かち合うように、慎重に言葉を選んで返した。
「その力を助けのために使えばいいんじゃないかな。例えば、馬に轢かれそうになっている人がいればその手を引いてあげることができるし、火事で逃げ場のない人がいれば火の届かない場所へ連れ出すこともできる。もちろんそう都合良くはいかないかもしれないよ? けど、人を救うことができるかもしれない能力を、みすみす悪の手段に貶めることもないんじゃないかな?」
ロランはクロエから、その手に持つ短剣を納めさせた。
クロエは困惑した。その気持ちを察したかのようにロランが言った。
「俺はもうとっくに許したんだ。あとはクロエが、自分を許せるかどうかだ。他に許せない者がいたとしても、俺は君のことを誰にも言わない。母上にも言わない。年ごろの男だ、親に言えない秘密のひとつやふたつあってもいいだろう?」
クロエは言葉が出てこなかった。
(私にこの人を汚すことなんてできない。したくたってそんなことできないんだ)
大きな感動と後悔がクロエを襲った。
クロエは思わずロランにすがりつこうとして包帯に触れ、その行為の愚かさに気付いて慌てて身を離した。
「ごめんなさいっ。痛かった?」
ロランは最初びっくりしたように目を見開き、それから笑ってクロエの手をとって自身の包帯に触れさせた。
「ああ、痛いさ。でもクロエの胸の痛みに比べたらずっとマシだよ」
「バカ……」
クロエはロランを傷つけないよう気を配りながら、それでも衝動を抑えきれずにそっと彼の胸元に頭をつけた。ぬくもりを感じる。心臓の鼓動を感じる。何より甘い優しさの匂いがした。
(自分は許されてもいいのだろうか)
クロエはそう思いながらも、とめどなく涙があふれた。
ロランはクロエの背中に優しく手をおいた。
「帰ろう」
黄昏に日が沈みかけていた。霞んだ視界に教会の屋根に建てられた十字が長い長い影を伸ばしていた。




