プロローグ(2)
Ⅱ (ロラン)
一五八八年。ノエル(クリスマス)を翌々日に控えた、忘れることのない凍える寒い朝だった。前の晩から降り続いた雪は溶けることなく、木々も、石屋根も、教会に建てられていた十字架さえ、すべてを白く塗りつぶしていた。
ロランは朝から宿場の中庭で従者たちを巻き込んで雪遊びをはじめた。耳を切るような空気の冷たさも、体の芯から溢れる熱で気にならなかった。雪に溶けた地面はあずき色に染まり、木靴も長靴下も泥だらけになって、今思えばとにかく浮かれていたのかもしれない。
父であるギーズ公の名誉の瞬間に立ち合うため、ロランはロワーヌ川の畔にあるブロアの街を訪れていた。ギーズ家は古くはフランク王国に繋がる血筋で、宮廷内に強い影響力をもっている。折しもカトリックとプロテスタントの内戦の最中、ギーズ公はカトリック側の中心人物としてブロア城で開催される全国三部会に参加する予定だった。
三部会とは、国王や貴族などが集まって国のこれからを決める大切な会議だということを母から教わった。しかしロラン自身は七つとまだ幼く、それをどういうことなのか理解することは難しかった。ロランはただ、たまにしか会うことのできない父と顔を合わせるのを楽しみにしてやってきたのだ。
母に会いに来たのか、朝早くから騒ぐ息子の声を聞きつけてわずかな護衛を連れたギーズ公が中庭を訪れた。削ぎ立った頬と広い額は深遠な知性を感じさせ、真っ黒に染められた外套と長靴下が長身を際立たせていた。
「父上っ」
ロランは喜び勇んで父の元へと駆け寄った。
「元気だな、ロラン」
ギーズ公の顔が綻ぶ。ロランは愛妾モニクの子で、正妃カトリーヌの嫡子ではなかったが、顔立ちからちょっとした仕草にいたるまでギーズ公の血を強く受け継いでおり、ギーズ公も同じ鳶色の髪色をしたロランをなにかと寵愛していた。
父は眠っていないのか、充血した目でロランを見すえた。
「見て下さい、こんなに雪が」
ロランは手にもった白い雪のかたまりを父に見せた。ギーズ公は大きな手で包み込むようにロランの冷たくなった手のひらを握った。
「こんなに手が冷えてるではないか。おい、手袋をさせい」
ギーズ公はロランのうしろに控える従者に声をかけた。年若い従者は慌てて手袋を取りに行く。七クデに迫るギーズ公は大きかった。ロランも同年代では人並みより大きかったが、背丈は父の胸にも届かない。
「ずいぶん手が大きくなってきたな」
「はい、父上。母上はいまに剣を振るにりっぱな手になると言います」
「毎日稽古はしているか?」
「もちろん。かかしません」
ロランは自慢げに答えた。
「そうか」父は柔らかい笑顔で息子を眺めた。
「ところで父上。三部会というところではなにかめでたいことがあるのですか? 母上がしきりに気にしています」
父の護衛をしていた兵士たちがくすくすと笑った。ロランは気分を害してふくれ顔をしたが、ギーズ公はロランの頭を優しく撫でた。
「すべてが終われば話してやろう。お前にもきっと良いことがあるはずだ。楽しみにまっていなさい」
「本当ですか、父上っ」ロランは寒さで真っ赤に染まった頬をさらに赤くした。
「閣下! 閣下!」
そのとき中庭に鎖帷子に身を包んだ兵士が駆け込んできた。激しく息を切らせて倒れ込むようにギーズ公の前に跪く。その場に緊張が走ったのが、年若いロランにもわかった。
「閣下! すぐにお戻り下さい。命を狙われております」
「何だと?」
「王の手の者と思われます。王位を奪われるのを恐れて強硬手段にでたものと」
「この期に及んでまだ争うというか」
「すでにロレーヌ枢機卿も相手の手に落ちております。一刻の猶予もなりませぬ。早くここをお発ち下さい」
ロレーヌ枢機卿はギーズ公の弟であり、カトリック同盟での同志でもある。
「なんたることだ……」
ギーズ公は拳を震わせた。ロランは心配そうに父を見上げた。
「よし、パリへ戻るぞ。ロランはモニクの側を離れるな。すぐに迎えを寄越す」
ロランは頷いて室内にいる母の元へと駆けだした。けれども遅かった。騒々しい物音とともに、甲冑を身につけた兵士たちが瞬く間に中庭を取り囲む。盾に描かれた青地に百合の紋章は国王の軍を表していた。
ロランは母屋の壁に張り付いて体を震わせる以外になかった。中庭にはざっと二十人以上の兵士が溢れた。ギーズ公には護衛が二人。あとはロランと従者である。抜剣した兵士たちはロランには目もくれず一斉にギーズ公に襲いかかった。護衛たちは必死にギーズ公を守ろうとしたが、多勢に無勢で四方八方から伸びる凶刃の前に斬り捨てられた。それでもギーズ公は相手のひとりから剣を奪うと、長身から剣を繰り出して甲冑ごと兵士を叩きつぶした。ギーズ公の太刀筋は鋭く、うかつに近づいた兵士は次々と傷を負った。
「次にこの刃の餌食なりたい者はどいつだ!」
ギーズ公は猛々しく吠えた。もはや甲冑の兵士たちは、自分たちの圧倒的有利を信じてはいられなかった。ロランは安心したが、自身が剣を持って戦うなど思いもよらない。ただうずくまるように固まって、歯をカチカチと鳴らしていた。
けれども均衡は、一瞬にして破れた。
父の胸元から鮮血がほとばしる。
何が起こったのかロランにはよくわからなかった。瞬きをする間もないくらいの早さで、気がつけば父は傷つき、その場に崩れ落ちた。
「ロランッ! に、げ……」
父の最後の言葉は空気が漏れるように喉が鳴っただけで、ロランは聞き取ることはできなかった。
倒れた父の見開いた眼光。地面に広がる鮮やかな血。ロランは頭が真っ白になって金縛りにあったかのようにその場から動けなくなった。情けなくも股下が濡れている。
涙で滲む視界の中で、ロランは倒れた父の向こう側に小さな女の子がいるのが目に入った。黒いローブを着た男のそばに立っている。ローブの男は腰を屈め少女の耳元でギーズ公を指差しながら何かをつぶやいていた。この状況で誰とも知れない少女に注目するなど、普通ならありえなかっただろう。しかしこの場にそぐわない少女の存在は、血なまぐさい現場であまりにも空気が違っていた。
少女は青い瞳からぽろぽろと涙を流して倒れた父を見ていた。
こんなところで父のために泣くのは誰なのか。
その異様な姿にロランは目を奪われた。
兵士が近づいてくる。ロランは固まり、ただ立ちつくしていた。
ここで死ぬ。そう思ったときに、体が宙に浮いた。背にあった壁の鎧戸が開けられ、ロランは首根っこを掴まれて部屋の中に引きずり込まれていた。そのまま床に尻餅をつく。痛む尻を押さえて振り返ると、宿の主人など数人がロランを見下ろしていた。その奥には母がいる。
「早くこちらにいらっしゃいっ」
仁王立ちした母がぴしゃりと言いのけた。ロランは反射的に立ち上がり、母に飛びつく。後ろを振り返ると、閉じられようとした鎧戸の隙間から、兵士のひとりが父の胸に剣を突き立てているのが見えた。
それから先の記憶はロランにはあまりなかった。あらゆる感覚が麻痺していたのかもしれない。いつのまにか母と共に馬車に乗っており、馬はただひたすらに道を走り続けていた。母は客室の中で泣いていた。ロランが母の涙を見たのはこれが最初で最後だ。
世間体から巷ではギーズ公はブロワ城にて暗殺されたことになっているが、実際は違った。愛妾のいる宿屋で、ロランの目の前で、無残に殺されたのである。
ロランはいまでもこのことをよく思い出す。
父の苦悶の表情を。
最後の言葉を。
母の涙を。
そしてあの少女を。
なぜ自分は戦わなかったのか。
もしくはせめて彼女のように、涙を流さなかったのか。
何も行動できなかったことを、ロランは悔いている。
(自分は臆病者だ……)
ロランはずっと後悔を抱えまたまま成長し、早くも十年ばかりが過ぎていた。