二話 何もしなかったことを嘆く少年と、してしまったことを後悔する少女(2)-1
Ⅱ (ロラン)
ロランが眼を覚ますと、見慣れた天井が見えた。何か長い夢を見ていた、そんな気がした。
「目が覚めたのね」
声のする方を見ると、寝台の隣でクロエが椅子に腰掛けていた。
「動かないで。傷にさわるわ」
クロエのひんやりとした手がロランの額に触れた。
「医者はこれから熱が出ると言ってたわ」
意識がはっきりとしてくると、体中からずきずきとした痛みが感じられてきた。脇腹を触ると包帯がきつく巻かれてある。ロランは目を瞑って状況を思い出した。
「あの男はどうなった?」
「ドルレアン男爵のところへ連れて行かれて、……処刑されたそうよ」
「そうか」
「リュカは暗殺を行うために私を利用してきたの。とても残忍で、恐ろしい人だった。この町へ来たのもドルレアン男爵を殺すため。それがまさかこんなことになるなんて……」
クロエはかぶりを振った。
「なあ……」
ロランは夢だと思いたかった現実を口にした。
「……本当に父を殺したのか?」
しばしの沈黙。
「そうよ」
クロエは背筋を伸ばして椅子に座り直すと、意を決したのか滔々と告白を始めた。
「私たちの家系には代々受け継がれた特殊な力があるわ。ロランも体験でしょ。限られた時間だけだけれども、見える景色をその瞬間にとどめておけるの。それは現実から一切が切り離された、特別な世界よ。昔、精霊と約束して手に入れた力だと姉は言っていた。そして数少ない素質を持ち合わせた人間が、私たちの瞳を介して隔絶された永久の刻の世界に入り込むことができるの。
四歳の時、私たち姉妹は引き離された。この能力のせいで私たちはそれぞれ暗殺者に仕立てられることになったのよ。どのような警備でも、この目にさえ見えていれば易々と突破して相手を殺すことが出来るのだもの。それはとても大きな凶器に違いないわ。こうしていつからか数多くの人を殺め、権力を生み出してきた呪われた一族。それが私たちよ。
そしてあなたの父、ギーズ公は……私の初めての仕事だった。殺すなんて知らなかった。ただ練習の通りに相手を見なさいと言われて。あんなことになるなんて……。変装や語学など、標的に近づくために必要な技術も教え込まれて、それから私は何度も仕事をした。とても怖かったし、嫌だった。でも子供の私に何ができたというの? とても逆らうことなんてできなかった……。どうしてこんな力が存在するのかはわからない。私はこんなこと望んでないのに。普通の暮らしが許されない私たちは、どんな咎を負っているというのかしら……」
クロエの握りしめた手が震えていた。ロランは父を殺した犯人を、自分が許せるとは思いたくなかった。長い間、仇を討つことを考えてきたのだ。しかし、それと同時に彼女が自分を救ってくれたことに強く報いたい感じもした。別に命が惜しかったわけではない。その彼女の行為が、どうしても本当の彼女である気がするのだ。
「ともかく、これで奴はいなくなった。もう安全だろう」ロランは彼女を安心させるように言った。
「いいえ。リュカも組織に利用されている人間の一人にしか過ぎないもの。失敗したとわかれば次の刺客がきっと来るわ」
「クロエはどうなる?」
「わからない。連れ戻される可能性は否定できないわ。……もしくは殺されるか」
ロランはクロエがひどい闇の中にいるのだと実感した。リュカがいなくなったところで、クロエの体が自由であるわけではないのだ。
「俺が治るまでは、勝手に出ていったりはするなよ。俺がなんとかするから」
ロランは左手をクロエの膝の前で握りしめた手の上に添えた。とっさに引っ込めようとするクロエの手を優しく引き留めた。
「確かに父殺しに荷担したのかもしれない。でもそれがクロエの意思でないのならば、責めたりはしない。俺はあのとき何もできなかった。父上のためにあの場で戦いを挑むことも、失った悲しみにむせび泣くことも。……いまならわかる。俺は心のどこかでずっと感謝していたんだ。お前が代わりに泣いてくれていたことに。俺は、ずっと俺自身を恨んでたんだ。クロエがあのとき流してくれた涙をいまでも忘れられないのも、きっとそういうことなんだろう」
ロランの中でわだかまっていた、なにか得体の知れない大きなものが、急にすとんと胸に落ちてきた感じがした。
「最後は俺を助けてもくれたしな。ありがとう」ロランはリュカとの対決を思いだして、最後に感謝の気持ちを伝えた。
「私はあなたを助けてなんかいない。あなたを苦しめてばかり……。私は暗殺者なのよ。あなたの人生を滅茶苦茶にし続けているわ」
その言葉にクロエは大きく戸惑ったようだった。自分を貶めるために必死になっていた。ロランは首をふる。
「……そんなことはない。お前も辛かったろうな」
同情の言葉など、誰からもかけられたことなどなかったのだろう。クロエの肩が小さく震えた。そのままロランの手をゆっくりと外して立ち上がる。
「……モニクさんを呼んでくるわ。とても心配していたから」
「父上のこと、もう母上には言ったのか?」
「……いいえ」
「俺から伝えるよ。だからクロエからは何も言わないでくれ」
クロエが部屋を出ていく。この事実を母に伝えるべきなのかどうか、ロランは苦しい思いをしながら目を閉じた。