一話 疑うことを知らない剣士と、嘘つきな暗殺者(8)-2
☆ (ロラン)
「ずいぶん楽しそうだな」
どこかから唐突に声が聞こえてきて、クロエが体を硬くした。ロランはとっさに剣に手をかけ、あたりを窺う。見渡すかぎり人影はない。
「ふん、ここだよ」
木陰から一人の男が姿を現した。ボロ布みたいな黒い外套にロランは見覚えがあった。ドルレアン男爵を襲った男だ。浅黒い肌に段のついた鷲鼻。男の風貌は餓えた鴉を思い起こさせた。
「リュカ……」クロエが呟く。
「ちょっと俺がいないあいだに男をたぶらかすなんざ、やるじゃないか。このニンフェット(淫らな小娘)め」
リュカの下卑た笑みにロランは肌が粟立つのを感じた。
「やはりグルだったのか」
ロランは剣を抜いた。リュカは大仰に手を掲げて、おおこわいこわいとうそぶいた。
「まったく油断も隙もありゃしねえ。可愛がりようもないつまんねえ女だが、お前は人のもんに手をつけたんだ、盗みを働いたら罰を受けねばならない。覚悟してるんだろうな? ま、覚悟があろうとなかろうと殺しちまうけどな」
リュカも長い外套に隠していた尖剣を翻した。一対一の場面では尖剣のほうが軽くて取り回しが利くぶん有利だ。しかしロランも剣の腕前には自信があった。ゆっくりと間合いを詰めていく。
「ロラン、逃げて……」
クロエが震えていた。このリュカという男が暴力でクロエを押さえつけているに違いない。ロランはクロエが好んで人殺しに荷担しているとはどうしても思えなかった。
「お前のことは知ってるぜ、ロラン」
リュカが剣先を揺らして挑発した。
「ずいぶんでかくなったんだな」
「俺を、……知っているのか?」
「まさかこんな辺鄙な町で会えるとはな。よりによってお前に手を出すなんて、クロエも随分とたちが悪い」リュカは口の端を吊り上げた。
ロランはリュカの間合いににじり寄った。瞬時にリュカの尖剣がロランの剣の持ち手へ斬りかかる。手の甲を削って戦意を喪失させる作戦だろうが、ロランは構わず剣を前に突きだした。相討ちになればロランの諸手剣のほうが威力が大きい。リュカは攻撃を止めて後ろへ飛びのいた。
「ギーズ公の息子だろ。こんなところでくすぶっているとはな。ま、あのとき漏らして震えていたガキの末路なんて、親父が生きていたところでたかがしれてるだろうけどな」
リュカが嘲笑った。ロランは驚愕する。
「……っ。お前は、あの場にいたのか?」
「はは。いたも何も……俺たちが殺したんだぜ。ギーズ公を」
ロランは雷に打たれたように立ちつくした。リュカは面白くて仕方ないという風に
「記念すべきおまえの初仕事だったよな、なあクロエ?」と立ちつくすクロエに話題を振った。
ロランはクロエを見た。彼女は目を逸らして俯いた。ロランは大きな失望を覚えたが、思っていたほど混乱はしなかった。同時に千載一遇の機会が訪れたと思い直すべきだと感じた。この男とクロエを討つ。果たしてできるだろうか。正直言って迷いがあるが、そう考えるより他になかった。積年の目標が、ここで達成できるのだ。
リュカがロランの目を離している隙をみて突きかかった。予想がついていたので難なくかわす。そのまま剣を振り、二合三合と剣を交わらせた。まず目の前の相手に集中する。勝てると思った。相手の剣さばきは無駄が多く、動作もロランからすれば緩慢だった。遠心力を利用して、リュカの剣先を強くはじき返す。リュカの体勢が崩れた。ロランは勝負を決めるべく剣を振りかぶった。
「ふへへ」
その瞬間をリュカは狙っていた。外套に隠していた仕込み弓が発射された。仕込み弓は弩に近い。普通の弓矢より半分以上短い矢で、飛距離はでないものの、近寄って撃てるため接近戦や障害物の多い場所では圧倒的な威力をみせた。
「ぐっ……?」
ロランは自分の体に矢が突き刺さるまで、まるで状況がわからなかった。振りかぶった肘、腿、脇腹に激痛が走り、思わず剣を取り落とす。傷口を見ると矢が深々と突き刺さっていた。相手の腰についた発射装置をみて、計られたことに気がついた。
「甘ちゃんだなぁ。戦慣れしてないくせに調子に乗るからだぜ」
リュカは声を立てて笑った。
「俺は確かにお前の親父を殺したが、依頼をこなしたまでだ。恨むんじゃねえぞ。祟られたんじゃたまんねえから、冥土の土産に教えてやるぜ。親父が誰に殺されたかをな」
「……!」
「ギーズ公の暗殺を依頼したのはマイエンヌ公だ。ギーズ公の弟で、お前の伯父だよ。アンリ三世に兄を殺すようけしかけたんだ。プロテスタントの仕業に見せかけて、実際はカトリックの内輪もめだ。金と権力のために親兄弟すら売るときた。本当にくだらない世の中だよな」
リュカが地面に唾を吐いた。嬉しそうにロランの顔色を窺う。
「……それは本当なのか?」ロランの声は震えていた。
「信じる信じないはお前の自由だ。俺はただ、お前が死ぬ前に祈る時間をやろうってだけなんだからな」
ロランは取り落とした剣を拾おうとして、屈み込んだ。脇腹の痛みに耐えかねて無様に尻餅をつく。
「もう終わりか、だらしねえ。だが俺は盗られたら盗り返さねえと気が済まねえ質なんだ。これじゃあんまりに物足りねえよ。仕方がねえからお前の母ちゃんでも頂くか。年増は好みじゃないんだが、楽しみようもあるだろう。お前みたいな息子を産んだことを心底後悔させてやるぜ」
男の意地汚い笑みにロランはふつふつと怒りがわいた。脇腹の痛みはどうにかこらえられそうだった。剣を支えにしてよろめきながらも立ち上がる。しかし肘に刺さった矢は当たり所が悪かったらしく、利き腕にまったく力が入らなかった。片手では重い諸手剣で相手の軽い剣さばきに対応することができない。だがそれ以上に心の衝撃が大きかった。ロランは立ちつくしたままのクロエを見遣った。父の死に、涙を見せてくれていたと思っていた人間が、実は父を殺した張本人だという。一体何を信じればいいのだろうか。
「お前が、父を殺したのか?」
「……」
クロエは何を言わなかった。何か言いたそうな表情をしていたが、それでも口を開かない。必死に自分の罪を弁解しようとして、理由が思いつかないようだった。ロランは苦痛に顔を歪めながらもクロエに問いかけた。
「お前は……どうしたいんだ?」
「私は……」
「こうして、あいつの言いなりになって、人を殺めて、それでいいのか?」
「私は……」
ロランは辛抱強くクロエが言葉を続けるのを待った。もうクロエしか見ていない。背後でリュカが近づいてくる気配がした。勝負を捨てた訳ではないが、もし命をここで落とすのだとしたら、どうしても最後にその答えが聞きたかった。
「その命で償いな!」
「私はもう人を殺したくなんかない!」
二人が言い終えるのはほぼ同時だった。ロランはクロエの瞳越しに尖剣をこちらに向けるリュカの姿を認めた。いまから剣を差し返しても、きっと間に合わないだろう。
そのとき、クロエの青い瞳が深紅に変わった。その目にロランは吸いこまれそうな錯覚を起こす。尖剣に自分の体が貫かれると覚悟した瞬間。
しかし、その一撃はやってはこなかった。
怪訝に振り返ってリュカを見ると、いざロランに尖剣を突き刺そうとした姿勢のまま固まっている。クロエもこちらを向いたまま動かなかった。視界にあるものすべてが硬直している。そしてすべてが赤い。空も、木々も、地面も教会の色ガラスを透かしたように紅く染まっていた。
――リュカを殺して。
クロエの声が心の中に聞こえた。何が起こっているのかわからないなりにも、ロランはその声を聞いて反射的に剣をリュカの体に突き立ていてた。
「……!」
リュカが血しぶきをあげて地面に倒れた。視界がぐるりと回転して色彩が元に戻る。あたりは元通りの世界が広がっていた。ロランには何が起こったのか理解ができない。しかし片が付いたことは確かだった。ロランは気が抜けて座り込んだ。
「大丈夫?」
クロエが声をかけた。ロランは立ちすくんだままのクロエを見上げる。クロエのこちらを見つめる瞳は青く、儚い。
「いまのはなんだ?」ロランは訊いた。
「私の呪われた力」
クロエは淋しそうに笑い、側に来てロランの傷を確認した。
「また嘘じゃないよな?」
ロランはその不思議な力に驚いていた。クロエは黙ったまま唇を噛んで傷口に布をあてる。嘘だったらいいのに。クロエの瞳はそう語っているように見えた。
ロランは町まで歩いて戻るには難儀だったのでクロエに助けを呼んでくるように頼んだ。クロエが町の方へと駆け戻る。視界の隅ではリュカが血を流して倒れていた。意識はないようだが、ときおり風のように鳴る呼吸音でまだ息があるのがわかった。助けがやってくるまでに生きていられるかどうかは運次第だろう。自分もそうかもしれない。とどめを刺しに行くべきか迷ったが、そのままにした。もう指一本動かすのも億劫だった。それにクロエにできれば殺人の片棒を担がせたくはない。体を寒さが襲った。血が足りないのかやたら眠くなる。駆け巡る痛みに悩まされながらも、ロランは眠りの淵を漂った。
夢を見ていた。父が手を差しのばして幼いロランの顔を優しく包む。ずっと望んでいた温もり。どれほど時間が経ったのか。やがて父の姿が遠くなった。ロランはそれを淋しく見ている。
馬蹄の響きが聞こえた。風の音は聞こえたままだ。リュカも助かるのか、とロランは思った。リシャールの声がする。おぼろげな視界になにか白いものが映った。クロエの顔だ、と感じた。安心してロランは意識を手放した。




