一話 疑うことを知らない剣士と、嘘つきな暗殺者(7)-1
Ⅶ (ロラン)
ロランは色々と考えを整理しようと思いながらも、疲れからか横になった途端に深い眠りに誘われてしまっていた。目が覚めると、鎧戸の隙間から陽が洩れている。戸を開けるとすでに太陽は空高く上がっている。ロランはしばらくぼんやりとしていたが、どうも母の部屋のある方角が騒がしかった。
「ほら、とても素敵よ。私の若い頃を思い出すわ。ワーチェンカ、あれも出してちょうだい」
履き慣れたいつもの長ズボンに足を通して、声のする方へと向かうと、部屋では母が普段ではあまり考えられない甘い声色で何かを褒め称えている。脇を侍女が箱を抱えて忙しなく行き来していた。
「母上?」
「ああ、ロラン。起きたの」
部屋に入ると、中央にはクロエが立っていた。コルセットできつく絞った腰に、幾重にも纏ったペチコートに大きく膨らんだスカートをはいている。深紅のドレスに金銀で細工のされたネット帽、開いた胸元にはネックレスが、白い指に指輪が燦然と輝いていた。母が大事に取って置いた、今はもう着ることのない宮廷衣装だった。クロエに優雅な衣装はとても良く映えた。彼女の髪が美しい金髪であることをロランはこのとき初めて知った。我知らずロランは目を奪われる。
「……ロラン」
クロエが居心地が悪そうに訴える。ロランは我に返って訊ねた。
「あ、母上、これは何をしているのでしょうか?」
「クロエを見ていたら着せてみたくなったのよ。昔から私は娘が欲しかったの」
侍女が次から次へと衣装を持ちだしてきて、それを母は手際よく指示を出して広げている。
(厳しい母が、すっかり崩れている。何があったんだ?)
ロランは困惑した。
「母上、ちょっとクロエと話が……」
「ロラン、あなたがいると着替えられないでしょう。早く出ていってちょうだい」
母はぴしゃりと言いのけた。さっぱり状況がうかがえないが、母の険の立ったまなざしに、ロランは大人しく退散するしかなかった。
☆ (ロラン)
勢いをつけて一気に水中へ潜る。こぽこぽと震える水の音。凜と肌を刺す冷たい水の感触。なめらかに肌を滑る。深く、深く潜る。息が苦しくなって水面に顔を出すとぷかりと仰向けに水面に浮いた。揺れながら太陽の日射しを浴びる。とても気持ちが良かった。
ロランはまた泉にやってきていた。昨日すっかり糞尿で汚れてしまったし、色々と一人きりで考えたいこともあった。ぼっと空を見上げながら、無邪気に笑うイネス。森に住むマリーの淋しげな様子。そしてクロエの影のある眼差し。謎が順番に浮かんでは消えていった。
「おい、のっぽ」
考えごとに集中しすぎたあまり、人の気配にまったく気付いていなかった。声をかけられて、ロランは慌てて首を左右に振る。
「こっちだ」
小石が投げられて、近くに落ちた。ぽちゃんと水面が跳ねる。
ロランが石が投げられた方角を見ると、泉のほとりにはマリーがいた。
「マリー?」
「ほほう。ここが泉か。確かに気持ちよさそうだな」
「どうしてここにいるんだ?」
ロランはあたりを見回して人の気配を探った。マリー以外に誰もいそうにない。
「昨日、お前さんはすっかり糞尿にまみれておったからな。来ると思ったのだ」
「俺を探してたのか?」
「そういう訳でもない。泉が気になっただけだ」
「出歩いて平気なのか?」
「森を出入りする者なんておらんよ。あたしの世話をする憐れな従者と、カエルのように水があると飛び込まずにはいられない変わり者くらいだ」
何を思ったのか、おもむろにマリーが服を脱ぎだした。ローブを脱いであっというまにシュミーズだけになる。
「おいっ。何してるんだ!」
「あたしも折角だから入ろうと思って」
ロランは面食らって後ろを向いた。ざぶんと水を叩く大きな音がして
「うひゃっ。寒いっ」
素っ頓狂な叫びが聞こえた。ロランは姿を見ないように声だけを返す。
「慣れてないと冷たいぞ。風邪引く前に早く出ろよ」
「いや、まずっ。足がつった、……おぼれ、溺れる……」
振り返るとマリーがばたばたと水中をあがいている。
「おいっ!!」
ロランは急いで近寄ると、潜って沈みかけたマリーを引き上げる。水中にいるマリーは裸だった。褐色の肌が水面に近づくにつれて光を浴びて艶やかに輝く。ロランは水上に顔を出すとマリーを落とさないように掴みながら慌てて顔を背けた。
「いたいたいたいっ。もっと慎重に扱えっ」
「知るか。溺れるよりマシだろう。暴れるな」
ロランは水辺の上がれるところまでマリーを抱きかかえた。マリーの長い髪に隠れてそのしなやかな肢体は見えない。しかし互いにすっぽんぽんであるのに変わりはなく、素肌が触れあう温もりを、ロランはどうにか考えないよう努力した。マリーにもロランの肌が当たっているはずなのに、まったく意に介した様子がないのにロランはますます混乱した。あまつさえ離れ際、マリーはロランの首に腕を巻き付けて、耳元で囁いた。
「子供のことだがな、男爵に注意しろ」
吐息にロランは体中の毛が逆立った。マリーが腕をほどいてロランから離れる。どういうことか問いただそうとして、泉を上がるマリーのお尻が見えてロランは慌てて後ろを向いた。血がたぎって、自分の顔が真っ赤であることを自覚する。鼻血が出ていないか、何度も鼻をぬぐった。
「……ど、どういう意味だ?」
なるべく冷静に聞こえるよう注意して声を出した。答えを待っている間もマリーのもつ女性特有の柔らかな肌の感触とくびれた腰から続く心地よさそうな重みをもったお尻の残像が、絶え間なくロランの脳裏を刺激した。
「言葉通りの意味だよ。おーさぶさぶ。あたしは薄暗い洞穴に帰るよ。いまはそれしか言えない。もう少し材料が揃ったら、また教えてあげるよ」
ロランは見ないように顔を背けつつも、気配を感じようと全神経を集中させている自分が嘆かわしかった。研ぎ澄まされた聴覚にマリーが服を着る衣擦れの音だけが耳に響く。
「お、送っていこうか?」
「大丈夫だよ。あたしのほうがよっぽど森に詳しいし」
「そうか。そうだな。……ま、また近いうちに行くよ。わかることを教えて欲しい」
「じゃ。おー、いだだだだ」
ロランが恐る恐る振り返ると、マリーは痛む足をさすりながら、がに股で森に消えていくところだった。ロランは大きくため息をつく。
(柔らかかったな……夢中で助けたけど、一体どこまで触っただろうか……いかん、いかん。何を妄想してるんだ俺は!)
ロランは勢いよく潜って頭までしっかりと冷やした。それでもマリーの裸体はいつまでも頭に残って離れなかった。