一話 疑うことを知らない剣士と、嘘つきな暗殺者(6)-4
☆ (エマ)
エマは自室でふさぎ込んでいた。恐怖と、とまどいで気持ちが混乱している。刺客が逃げる寸前に見せた凄惨な笑みはしばらく忘れられそうもなかった。しかしエマを苦しめていたのはまったく別のことだった。
(どうしてロランは私を助けてくれなかったのだろうか……)
自分の元に駆け寄らずに去ってしまったロランの後ろ姿を、エマは淋しい気持ちで見送った。気のせいかもしれないが、女性を追いかけていったようにも見えた。あの女性は誰なのだろうか。どれだけ考えても、整理はつかない。
邸宅に戻ってからもドルレアン男爵は怒り狂っていた。自分を狙う輩をあんな近くに寄せ付けてしまっていたことに恐れ、無様にひっくり返った自分に腹を立てていた。どうにかして苛立ちを鎮めるべく従者たちを口汚く罵り、リシャールがいないのを良いことにボルディエ家の使用人にまで手をあげたのだ。
こんこんと扉を叩く音がして、エマは我に返る。
「男爵様がお呼びでございます」
女中の声だった。ドルレアン男爵が呼んでいる。エマはどうして良いかわからなかった。
「何をやってるんだ! 早く犯人を捕まえてこい!」
エマが部屋を訪れると、ドルレアン男爵はまだ従者を怒鳴りつけていた。
「お前たちの町の治安はどういうことだ。公爵に言いつけてやるからな」
ドルレアン男爵はエマにも吐きすて、グラスをあおる。
「男爵様、どうか落ち着いて下さい。いまに兄たちが犯人を捕まえて参ります。どうか、安らかにお待ちを」エマは懇願した。
「ならん! 必ず罰を与えてやる」
この男が底意地悪く公爵へ言いつけたら、町にどんな災難がくるのかわかったものではなかった。
「どうか、どうかおやめ下さい」
エマは途方にくれて頭をふった。ドルレアン男爵は意地汚い笑みを見せた。
「ではお前次第だ」
ドルレアン男爵はエマの胸や腿に触ろうとした。エマは失礼のない許される範囲で穏やかに手を押し返す。
「断ったら知らぬぞ。どうなるか」
ドルレアン男爵がエマが収穫祭のために新調したローブの胸元に手をかけて、エマは逃げ場のない絶望に凍りついた。
そのときだった。
「男爵殿。何をなされておりますか?」
戸口にジャンが立っていた。エマは大急ぎで乱れた衣服を直す。
「邪魔をするのか?」ドルレアン男爵がジャンに凄んだ。
「とんでもありませんよ、男爵殿」
ジャンは悠然と微笑み、礼儀よくお辞儀をした。その隙にエマは逃げるように部屋を出る。後ろからドルレアン男爵がグラスを勢いよく叩きつける音が聞こえた。エマは耳を塞いで自分の部屋に駆け戻る。涙が止まらなかった。ロランに会いたくて、エマは震える身体を両手で強く抱きしめた。
☆ (ロラン)
洞窟の帰りはセバスチャンと同行した。彼が持ってきた灯りがあるので、帰りはずっと楽な道のりだった。淡々とロランを案内する少年の後姿は、ずいぶんと大人びて見える。
「しかしあの家具なんかはどうやって持ち込んだんだ?」
ロランは素朴な疑問を口にした。いくら灯りがあったとしても、家具を持ち運べるような幅は洞窟にはない。
「角材の状態で運んだのですよ。運び込んでから組み立てたんです。あ、このあたりは動物の糞が多いので足を滑らせないで下さいね」
先頭を歩くセバスチャンが足元を照らしながら言った。来るときは気が付かなかったが確かに匂いもきつい。
「ここに狼はこないのか?」
ロランは聞いた。
「ええ。マリー様には不思議と狼たちも襲ってはきません。森の王からも一目置かれているんですよ。だからここには動物たちがよく休憩しにやってくるんです」
それがこの糞の量というわけだった。
「なるほどね」
「ボクはここへ通う途中によく襲われそうになりますけどね」
セバスチャンが自嘲する。
「それから……」
セバスチャンは少し言いよどんでから話を切り出した。
「マリー様のことは誰にも言わないで下さいますか」
「どうして?」
「マリー様は物事を予言したりすることがあります。そしてあの性格です。人に見つかったら何をされるかわかりません」
「魔女狩り、か……」
ロランもそれは最初に思ったことだった。彼女は聖女だと名乗った。魔女だと疑われたら生きていけない世の中で、冗談でも口に出来る言葉ではない。
「そうです。マリー様はある商人様のご息女です。しかしあのような言動から命を守るために隔離せざるを得なかったのです」
「いつから?」
「もう十年になります」
ロランは十年という長さを知っている。ロランが苦悩しているのと同じ時間、マリーも孤独を強いられているのかと思うと胸が痛くなった。別れ際を思い出す。
部屋を出るときに、ロランは同情してマリーに言った。
「こんところで一人は寂しいな……」
マリーは反論しようとして
「別にそんなことは、……ない」と最後は言葉を濁した。
「時々会いに来てもいいか?」
ロランは訊いた。彼女はずっと孤独で、夜中にセバスチャンがやってくるのを待ちわびているに違いない。そんな気がしたからだ。
「好きにすればいい」
マリーはそっぽを向いて答えた。
「わかった。誰にも言わないよ。でもセバスチャンはどうしてこんな生活をしているんだ?」
「ご主人様から頼まれているのですよ。彼女の身のまわりの世話をさせて頂いてます。マリー様が十五でボクが八つの頃からですから、もう四年になります」
セバスチャンが昼間寝ている理由も十分に理解した。
「ずいぶん小さいうちから働いてるんだな」
「誰にも見つからないよう夜中にこっそりと。大変ですよ」
「誰か一緒じゃないのか?」
セバスチャンはちょっとためらったあと、
「えと、父と一緒だったんですけど、死んでしまって。それからは一人です」と答えた。
「そっか。悪いことを聞いた。大変だったな」
「そんなことないですよ。マリー様のお世話ができることは誇りです」
寝る間がなくたって惜しくありませんよとセバスチャンが笑って、ロランははっと思い立った。
「……そういえば。セバスチャンが来たということは、もしかしてもう夜中か?」
「ええ」
「しまった。早く戻らないと」
洞窟探検に随分と時間を使ってしまった。結局はイネスは見つからないし、クロエも置いてきたままだった。
「もうすぐ着きますよ。母君に怒られるのですか?」
セバスチャンはにこやかに聞いた。いつも居眠りを怒られているセバスチャンにとって、母はさぞかし恐ろしい存在に違いない。
「はは。いつも悪いな。今度母上が説教を始めたらちゃんとかばってやるからな」
「それは嬉しいな……いや、ロランさんの母君の言うことも十二分に有り難いことですけど」
ロランはいつもどおり防壁を乗り越えて、セバスチャンは紐を器用に引っかけて同じように防壁をよじ登り、町に戻ってきた頃にはすっかり真夜中だった。セバスチャンに別れを告げて、夜通し祝われる祭りの喧騒を避けて家路を急ぐ。広場以外はもうだいぶ落ち着いていて、祭りの残骸だけがあちこちに転がっていた。