プロローグ(1)
Ⅰ (ロラン)
痛いほど胸が熱く鼓動を叩き、興奮で指先が震える。遠く喚声が聞こえた。自警団が押されて始めているのかもしれない。戦いを前にロランは血が漲った。
何もせずに生きるくらいなら、愚かに行動して死んだ方がマシだ。
それがロランが学んだ人生の教訓だった。
だからこそ、もうずいぶん長いあいだ惨めに命を無駄に過ごしていることになる。
ロランは屋敷の一室で甲冑を身に纏う。まだ齢十七だというのに体つきは立派で、七クデ(1クデ30cm程度)に及ぶ長身は町でも希有だった。脇では鍛冶屋の息子で親友のフランクが、せっせとロランに胸当と背当の革帯を留めている。この甲冑に打出装飾された文様は儀礼、戦闘どちらにでも扱えるよう控えめな柄に抑えられてはいるものの、熱処理によって黒く染められた鉄に白く磨かれた模様は実に良く映えた。かなり身分の高い人間しか身につけることのできない高級品だが、盗品というわけではなくロランの大切な父の形見だ。最初は大きかった甲冑も、胸まわりに関してはいまだ筋力が足りないが、着丈にほとんど違和感はない。ロランはこの甲冑そのものに誇りを持っていた。
「股当はどうする?」
腰当の金具を留めながらフランクが訊いた。
「いや、いらない」
この町には軍馬がなかった。農耕馬ならいるが、訓練せずに戦闘に出すことはできない。馬に乗らないのであれば、下半身の甲冑をするかは好みだった。馬上では歩兵に足を狙われるが、馬を使わないときは歩行の邪魔にもなる。ロランは上半身だけの半甲冑姿にとどめた。どちらかといえば身軽な方が性に合っている。
「勝てるかな?」ロランは聞いた。
「勝てるさ」フランクが答えた。
実際のところ、勝敗をさほど気にしているわけではなかった。戦うことができるならロランにはどちらでもいいのだ。行動を起こすこと。それが何よりも大切だった。
「よし、出来た」
甲冑を着せ終わると、フランクは荷馬車を用意しに部屋を出ていった。ロランは削られた盾の紋章を思い浮かべ、祈りを捧げた。壁に掛けられた同じく父の形見である大振りの諸手剣を手に取って握りを何度も確かめる。細身の突剣や、いま巷で流行っている尖剣などではなく、甲冑ごと叩き斬る形式の時代錯誤の大剣で、型は古いが長身のロランには扱いやすくぴったりの剣だった。準備が整っていることをもう一度確認して、十字を切って部屋を出る。
こっそりと玄関を抜けようとしたところで運悪くモニクとかち合った。母であるモニクは、ロランの格好を目にして慄いた。
「まあ、ロランッ。父上様の鎧に……っ」
母に見つかってしまったことを面倒に思いながら、ロランは言葉を返す。
「緊急事態ですから母上。賊が来襲しているのですよ」
「だからといって、その鎧はあなたのものではありませんっ」
「鎧は着てこそ鎧です。父上も飾られてばかりでは嘆息していることでしょう。時には衆目に晒し、名誉を誇示しなくては名折れです」
ロランが言い終わらないうちにモニクは天を仰いで十字を描いた。
「とにかく行ってまいります」
ロランは放心た母に頭を深く垂れて挨拶をして、立ち去った。去り際になってモニクがはっと気がついて声をあげる。
「ロランッ。待ちなさい。甲冑に傷がついたらどうするのっ」
「鎧の心配も結構ですが、息子の体も鑑みて下さい」
ロランは心の中で溜息をついて諸手剣と兜を抱えて表へ出た。家の前ではすでにフランクが荷馬車を引いて待っていた。普段は家畜や藁を積み込むぼろぼろの荷台にロランは乗り込む。床板にこびりついた豚の糞に思わず足を滑らせそうになった。なんとも冴えない門出だ。
「準備はいいかい?」フランクが声をかけた。
「いつでも」体勢を整えながらロランは答える。
フランクが威勢良く手綱を引いた。荷馬車は物憂げにゆっくりと歩き出す。
「ちょっとロランッ」
背後から母の怒声が聞こえた。ロランはその声を無視して町の入り口である関所へと荷馬車を走らせる。まだ敵は町の中には入り込んでいる様子はなかった。激しく荷馬車に揺られながら、ロランはこの町を荒らさせるわけにはいかないと、強く胸に刻み込んだ。
中央通りに出るとすぐに防壁が見えてくる。ここはアンジェの外れにある百戸ほどの小さな町だが、昔オルレアネであった戦闘の名残でいまも石を積んだ高い防壁が町を取り囲んでいた。当時このスクレの町は攻防拠点に使われる予定だったが、けっきょく戦闘は行われずに防壁だけがほぼそのままの形で残り、いまも外敵の侵入を頑なに拒んでいた。当時は投石機なども建てられたが、とうに兵器は撤去されて現在は物見台として空間だけが残っている。鬱蒼とした東の森に面した部分だけは防壁がないが、昔から狼たちが棲みついていて事実上、町の入り口は南側の門一カ所だけにしぼられていた。門の前には町を仕切るように細いながらも深い川が流れており、たもとに橋と関所が建ててある。町に入るには必ずこの橋を渡らなければいけなかった。
あまり考えのない盗賊は大概どちらかの行動に出る。防壁のない東の森を抜けようとして森に棲みつく狼の群れに追い回されるはめになるか、安易に正面から町を襲おうとして橋を渡りきれずに追い返されるか、だ。この町は規模の割に防壁が立派で自警団もよく訓練されている。つまり、わずかな手勢で略奪を働くには都合の悪い町なのだ。なのにそれを知らない食うに困った連中が、ときどき襲ってくる。利口な盗賊なら、まずは森を焼き払うだろう。そうして混乱のなか町に侵入するに違いなかった。しかしもっと賢い輩なら、第三の選択肢を使うはずだ。
つまり、もっと楽な町を襲うのだ。
ロランが乗った荷馬車が関所に到着しても、まだ戦いは続いていた。橋での一進一退の攻防が繰り広げられている。町外にある草原には盗賊たちが集まっていた。五十人は越えていそうだ。小さな盗みを繰りかえすには人数が多い。喰っていくにはもっと大きなことをしていかなければならないだろう。だから町を襲った。けれどその集団は統制も取れておらず、群れの中には世話をする女子供も交じっていた。身なりを見ると鎖帷子だけのみすぼらしい格好の者が多いので、戦場で入隊を断られた者たちなのかもしれない。戦場では装備の豪奢な者から順に採用される。身なりの乏しいものは手柄をあげるどころか戦に出ることすら叶わず、食い扶持に困る羽目になるのだ。きっとそんな連中がより集まって、いっそ町を荒らしてしまおうと考えたのだろう。
町は収穫が終わったばかりで穀物庫には小麦も葡萄もたんまりとあった。食べ物と女を求めて、傭兵崩れの盗賊たちは思い思いの装備に身を固めてどうにか橋を突破してやろうと躍起になっている。自警団は防壁の上から橋に向けて弓を射って、壁によじ登ろうとする輩がいれば岩で叩き落としていた。
自警団が圧倒的優位な立場にありながら戦況を変えられないのは、橋の真ん中で暴れている一人の男に理由があった。長身のロランよりさらに頭ひとつ大きく、横幅はゆうに倍以上はありそうだった。厚い甲冑で全身を固め、こちらが放る矢も穿つ槍もまるで用を為さない。大きな斧を振り回し、敵味方かまわず手の届く範囲にあるものをすべて川へと叩き落としている。男のつぎはぎのない一揃えの甲冑は盗品ではなく、きっとこの男本人の物だろう。盗賊たちの中でまともな甲冑姿をしているはこの男しかいなかった。ロランはこの男を見て、甲冑をまといに屋敷へと駈け戻っていたのである。
ロランは改めて状況を確かめると兜を被り、ゆっくりと橋に向かった。ロランの姿に気がついた自警団の面々が大男までの道を開ける。ロランは誰に邪魔されることもなく、悠々と橋の中程で大男と対峙した。
ロランの豪奢な甲冑姿に盗賊たちはざわついた。しかし圧倒されたのは最初だけで、その数が一人だけだとわかると盗賊たちの驚きはみるみるうちにはしたないヤジへと変わった。
大男がロランの姿を見止めると、兜の面頬を上げて若干舌っ足らずの口調で声を張り上げた。
「この町をぉ、治めているのはぁ、お前がぁっ?」
ひどい南部なまりで、頭の悪そうな男だとロランは思った。だからこそ、この町を攻めてきたとも言えるのだが。おおかた粗暴の悪さゆえに軍隊を追い出されたのだろう。大男の問いにロランが答えるよりも早く、お調子者のアントワンが防壁の上から身を乗り出した。彼は町で宿場と酒場を営むボルディエ家の次男で、領主が常駐しないこの町ではボルディエ家が一番の権力者だと言えた。
「ここの責任者は俺だ! こいつはロランという町で一番の剣の達人で、これからお前をぶちのめすから覚悟をしておけ! お前なんか、そこの国旗竿で十分だ! おいロラン、日頃面倒見ている恩をここで返せよっ」
アントワンは関所の脇に立ててあった鉄製の旗竿を指差した。盗賊たちがいっせいに沸き立つ。ロランはアントワンのあまりの身勝手さに閉口した。何の恩を受けた覚えもないが、彼はそう思っているようだった。ロランは急にばからしくなってきたが、この場を納めず町を危険に晒すわけにもいかなかった。
「大人しく開放すればぁ、町民の命は保障するぅ! どうだぁ?」
大男が言った。どう考えても方便だろう。なまじ命が助かったところで、年貢として納める食料がまだ倉庫に入ったままだ。それを奪われたら、とてもじゃないが冬を乗り越えられない。
「はんっ。お前らこそ、いま尻尾を巻いて逃げ出すのなら追い打ちだけは勘弁してやる。さっさと失せろ」
アントワンが尻を出して挑発した。盗賊たちが負けじと大声で罵声をあげた。交渉決裂である。大男は憤怒の表情で面頬を被り直した。ロランも関所へ歩いて旗竿を引き抜いて、改めて大男と向かい合った。ここからはもう野次馬は関係ない。二人だけの勝負だった。
大男がロランに近づいて斧を振りかぶった。ロランは相手の勢いを上手く殺しながら旗竿でその砕閃を受け止める。この一撃で、体格差はあるが技術の差で力はほぼ変わりないとロランは値踏みした。大男が今度は斧を横に払う。ロランも合わせて竿を振るった。打ち合うと見せかけてすっと体を引いて躱す。相手の全身甲冑に対してロランは半甲冑なので動作の機敏さには格段の差があった。空振りした相手の脇を旗竿で突く。しなる竿の勢いに押されて大男はたまらず体勢を崩して地面に手をついた。ロランはその隙を見逃さずに大男の兜を竿で思いきり引っぱたく。教会の鐘をついたような音が鳴り響いた。竿が大きくひん曲がったが、大男も体を折り曲げてそのまま地面に突っ伏した。脳しんとうを起こしたのか、もう動く気配もない。あっけなく勝負はついた。
自警団から大歓声が沸いた。何人かの盗賊がやけになってロランに襲いかかろうとしたが、今度こそ剣を手に取ると、賊たちは怖じ気づいて誰も近寄ってはこなかった。剣だけは毎日欠かさずに振りこんでいる。傭兵崩れに負けるような腕はしていなかった。それはロランの自信でもあり、悩みの深さでもあった。やがて諦めたのか大将を失った盗賊たちは色をなくて退散していく。自警団が二度と町に近寄ってこないように形だけの追い打ちをかけた。故郷に帰っても耕す畑がない者たちばかりだ。彼らは散り散りになりながらもまた違う町を襲うか、物乞いになり、やがてのたれ死ぬだろう。一度堕ちたものは決して元には戻れない。
凱歌のあがる橋の上で、ロランは一息ついて兜を外した。あちこちからねぎらいの言葉が飛ぶ。ロランはさっきのアントワンの口上に文句を告げようかと思ったが、彼はもうどこにもいなかった。意識を失って伸びている大男が、ロランが乗ってきた荷馬車に積まれてそのまま牢へと連行される。
ロランは思う。自分はどれほど強くなれたのだろうか、と。
もしあのときの自分にいまの強さがあれば、父を救うことができたのだろうか、と。