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シンデレラの義姉に転生しました。ガラスの靴と鳥から妹たちを守ったら、国一番の家庭教師になっていました。

作者: くみの
掲載日:2026/10/18

 熱を出して三日目の朝、私は天井を見上げたまま思った。


 あ、これ、前世だ。


 満員電車。肩掛けの鞄。キーボード。コンビニのコーヒー。ごく普通の、本当にごく普通の人生の記憶が、ざあっと頭に流れ込んでくる。特別な資格も、すごい知識もない。いわゆるチートも、見事なまでにゼロだった。


 ……で、今の私は?


 状況を整理した。私の名前はアデリーナ、九歳。父は貴族で、母はその愛人。父は別の屋敷で正妻と暮らしていて、うちには時々顔を出すだけ。母に似た五つ下の妹を溺愛している。


 待って。


 愛人の娘って、将来どうなるの。


 熱がぶり返しそうだった。私は布団の中で三十分ほど真剣に考え、結論を出した。


 分からないなら、備えるしかない。


「お母様、勉強がしたいです」


 朝食の席でそう言うと、母は紅茶のカップを持ったまま、ぱちりと瞬きをした。


「あら、いい心がけね。先生は手配するわ。お金なら惜しまないわよ」


 あっさり許可が出て拍子抜けした。母が楽しそうに続ける。


「教養のある娘は、価値が上がるもの」


 ……なるほど、投資なのか。母らしい。でも、お金を出してもらえるなら理由はどうでもいい。


 やってきた先生は、白髪をきっちりまとめた、背筋の鋭い女性だった。


 最初の授業で、私は膝を折るお辞儀をして、見事にひっくり返った。


「もう一度」


 もう一度。もう一度。もう一度。


 二十回目で、ようやく言われた。


「まあ、倒れなくなりましたね」


 たぶん褒め言葉ではなかった。でも、ちょっと嬉しかった。


 私は天才ではない。必要になるかもしれないから、覚える。それだけだ。


 それから二年。読み書きも歴史も計算も、先生の「もう一度」に鍛えられて、どうにか身についていった。お辞儀でひっくり返ることは、もうない。


* * *


 十一歳になった年、父と母の結婚が決まった。


 正妻が亡くなって、服喪の期間も明けたのだという。母は上機嫌で、私は妹のドナテッラの手を引いて、初めて父の家に足を踏み入れた。


 ドナは六歳。まっすぐな黒髪に、きらきらした目。私の三歩前を、探検隊長のような顔で歩いていく。


「お姉様、このお屋敷ひろーい!」


「ドナ、走らないの」


 注意した矢先に、ドナがぴたりと足を止めた。台所の裏口の脇、薪置き場のそばを指さしている。


「お姉様、あの子、だあれ?」


 小さな女の子が、竈の灰を掻き出していた。


 年はドナと同じくらい。金色の髪は灰でくすんで、服は何度も繕った跡だらけで、袖が手首より上で終わっている。頬に煤がついていた。


 その子が顔を上げた。


 空色の目をしていた。びっくりするくらい、きれいな目だった。


「……あの、お客様ですか」


 小さな声だった。礼儀正しく立ち上がって、膝を折ろうとする。慌てて私が屈んで目線を合わせた。


「アデリーナよ。こっちは妹のドナテッラ。ドナって呼んであげて。あなたのお名前は?」


「……エラノーラ、です。でも、みんなは」


 少し言いよどんでから、その子は続けた。


「シンデレラって、呼びます」


 笑顔が固まった。


 私の顔は、たぶん完璧に微笑んでいたと思う。


 けれど頭の中は、大嵐だった。


 シンデレラ!?


 灰かぶり。継母。ガラスの靴。かぼちゃの馬車。子供の頃に読んだ絵本の挿絵が、頭の中をぐるぐる回る。そして、とても嫌なことを思い出した。


 確か、義姉たちが、靴に足を合わせるために、かかとを。


 足を切るんじゃなかった?


 あと結婚式で、鳥が、目を。


 ……目を!?


 ふと、さらに嫌なことに気づいた。


 新しい継母の連れ子って、私とドナのことでは。


 義姉って、私では。


 ……いや、今は考えない。考えるのは後。今大事なのは、目の前の小さな手が、灰で真っ黒だということだ。


「しんでれら? へんななまえ」


 ドナが首をかしげた。


「ドナ」


 私はにっこり笑ったまま、妹の手をそっと引いた。


「エラノーラ。お母様は、あなたのことを何と呼んでいたの?」


 エラの目が、少し大きくなった。


 長い間、誰にも聞かれなかったのだろう。しばらく黙ってから、ぽつりと答えた。


「……エラ、でした。お母様は、エラって」


「素敵な名前ね」


 本心だった。


「私も、エラって呼んでもいい?」


 エラは返事をしなかった。ただ、ぎゅっと握っていた火かき棒を、ゆっくり下ろした。


「……はい」


 蚊の鳴くような声が、返ってきた。


 何が起きるのか、本当のところは分からない。記憶は曖昧で、細部はぼろぼろだ。それでも一つだけ、はっきり決まった。


 この子を灰被りと呼ばない。


* * *


「お母様とお父様は新婚ですし、私たちは領地の屋敷で暮らそうと思います」


 そう切り出したとき、母は嬉しそうに手を叩いた。


「まあ、いい考えじゃない」


 父はちらりと母を見て、頷いた。


「ああ、いいんじゃないか。好きにしなさい」


 ……この人、相変わらずお母様しかみてない。悪意があるのとも違う。ただ、見ていないんだ。


 私は礼儀正しくお辞儀をして、部屋を出た。


 領地へ向かう馬車の中で、エラは背筋をぴんと伸ばして座っていた。ドナの隣、私の向かい。窓の外も見ず、膝の上で両手を重ねたまま、微動だにしない。


 無理もない。信頼なんて、一日で生まれるものじゃない。


 昼になって、馬車が宿場で止まった。私は料理人に頼んでおいた籠を開け、パンとスープを三人分並べた。


「いただきます!」


 ドナが、ぱくぱく食べ始める。エラは少し迷ってから、そっと小さなパンを手に取り、半分だけちぎって食べた。


 残りの半分を、素早くポケットに押し込む。


 私は見ないふりをした。


 胸の奥がきゅっとなったけれど、顔には出さない。出してはいけない。


 その代わり、次の宿場で、籠をエラの隣の席に置いた。


「ここに置いておくわね。お腹が空いたら、いつでも食べていいのよ」


 エラは、籠と私の顔を見比べた。


「……でも」


「たくさんあるから大丈夫。ドナがこっそり食べても、まだ余るくらい」


「ちょっとお姉様、ひどい! 食べるけど!」


 ドナの抗議に、エラの肩がほんの少し揺れた。


 笑いかけて、やめた気配がした。それでも、さっきより少しだけ、空気がやわらかかった。


 夕方、エラは私の隣の席で、パンを一つ持ったまま眠っていた。


 ポケットには、何も入っていなかった。


* * *


 領地の屋敷は、緑に囲まれた古くて大きな建物だった。


 門の前に使用人たちがずらりと並んでいる。年配の男性が一歩進み出て、深々と頭を下げた。


「執事のグレゴールと申します。お嬢様方のご到着を、屋敷一同、心よりお待ちしておりました」


 本当に、待っていてくれたのだと分かる顔だった。普段はほとんど誰も来ない屋敷に、三人もお嬢様が来るのだから、嬉しいのだろう。


 エラの手を取った若い侍女が、にっこり笑う。


「まあ、お疲れでしょう。温かいお茶をご用意しておりますよ」


 エラが戸惑って私を見た。私は小さく頷いてみせた。


 ……大丈夫、ここは味方だ。


 その夜、私はグレゴールを呼んでお願いした。


「屋敷の管理を、教えていただけませんか」


「お嬢様に、でございますか?」


「私が覚えたいのです。この屋敷で、あの子たちが安心して暮らせるように」


 グレゴールはしばらく私を見つめた。それから、静かに微笑んだ。


「かしこまりました。帳簿から、お見せいたしましょう」


 翌日から、私の新しい勉強が始まった。


 最初の帳簿は、見事に数字が合わなかった。三回やり直して、グレゴールが優しく指摘してくれた。


「お嬢様、こちらの桁が一つずれております」


「……すみません」


「いえ、最初はどなたもそうでございます」


 本当に、全然できなかった。でも、できないことは恥ずかしくない。聞けばいいのだ。


* * *


「エラ、遊ぼ!」


 屋敷に来て三日目の朝、ドナが庭に飛び出してエラの手を引っ張った。


 エラはぎゅっと身をすくめた。


「……あの、私……」


 ドナは少し考えて、ぱっと顔を明るくした。


「お外、嫌い? じゃあ、本読んであげる!」


 それだけだった。


 ドナは自分の部屋から絵本を抱えてきて、エラを日当たりのいい長椅子に座らせた。そして、得意げに読み始めた。


「むかしむかし、あるところに、おうじさまが、いました」


 ところどころ詰まる。分からない字は、勝手に作る。


「おうじさまは、おおきな、えーと、りんごを」


「……ドナ、そこ、ちがうよ」


 エラが、遠慮がちに口を挟んだ。


「それ、『りんご』じゃなくて『りゅう』」


「ちがう? じゃあエラが読んで!」


 ドナは少しも気にせず、絵本をぽんとエラの膝に乗せた。


 エラは慌てて、でも少しだけ嬉しそうに、ページをめくった。


「……むかしむかし、あるところに」


 亡くなったお母様に、教わった字なのだろう。細くて、丁寧な声だった。


 ドナが身を乗り出して聞いている。


 私は窓の外で壁にもたれ、天を仰いだ。


 かわいい。


 待って、かわいい。何これ。無理。かわいすぎて立っていられない。


 いやいや、落ち着け私。ここで声を出したら二人が気づく。


「お嬢様?」


 通りがかった侍女が、不思議そうに私を見た。


「……少し、日差しが強くて」


「今日は曇りでございますが」


 ……そうでした。


* * *


 屋敷に来て一月がたつ頃、私は台所で運命の出会いを果たした。


 大きなかぼちゃである。


 料理長が、どんと調理台に置いたそれは、子供の頭の三倍はあった。つやつやとして、丸くて、橙色で、そして、恐ろしいことに、馬車の形によく似ていた。


「…………」


「お嬢様、本日はかぼちゃのスープにいたしますよ」


 料理長が上機嫌で言う。


 私は穏やかに微笑んだ。内心は、すでに全力疾走していた。


 かぼちゃ。かぼちゃが馬車に。いや、本当に馬車になる証拠は何もない。でも、ないということは、ならないという証拠もないということで。


 もし、もしも、エラが近くにいるときに、台所で巨大な馬車が出現したら。


 狭い台所に突然、馬車。


 危ない。絶対に危ない。


「料理長。かぼちゃは、その、どのように調理されますか」


「皮をむいて、切って、煮込みます」


「どのくらいの大きさに切りますか」


「……ええと、一口大でございますが」


「もっと細かく。できれば、かなり細かく」


 料理長の手が止まった。


「お嬢様、細かくしすぎると、煮崩れてしまいますが」


「それは構いません。むしろ、元の形が分からなくなるほど」


 料理長は、しばらく黙った。そして、ふっと笑った。


「承知いたしました。お嬢様の仰せのままに」


「それと、ヘタは、こちらで預かります」


「ヘタ、でございますか」


「ええ。……念のため」


 ヘタは、言ってみれば取っ手だ。取っ手がなければ、馬車は動かせない。……たぶん。


 何の念のためなのか、自分でもうまく説明できなかった。料理長は不思議そうに、でも丁寧に、ヘタを布に包んで渡してくれた。


 その笑顔には、からかう色が一つもなかった。屋敷の使用人たちは、私がちょっと変わったことを言っても、必ず「お嬢様は妹様たちが大事なのだ」と受け止めてくれる。ありがたい。ありがたいけれど、ちょっと恥ずかしい。


 その夜のスープは、なめらかで、甘くて、それはそれは美味しかった。


「おいしい! お姉様、おかわり!」


「ドナ、行儀が悪いわよ」


「……おいしい、です」


 エラが、小さな声で言った。スプーンを持ったまま、ふわりと表情がほどけている。


 初めて見た顔だった。


 私は無言でスープを一口飲んだ。


 味は、ちょっとだけ、しょっぱかった。


 ……かぼちゃは、馬車にならなかった。


 もちろんだ。


 ちなみに、ヘタは今も、私の机の引き出しの奥で静かに眠っている。


* * *


 ネズミ対策は、その延長で始まった。


 かぼちゃが馬車になるなら、ネズミは馬になるはずだ。馬になるネズミは、屋敷にいてはいけない。


 論理的である。たぶん。


 私は夜な夜な、燭台を片手に屋敷の中を見回った。戸棚の隙間を確かめる。穀物庫の扉を確かめる。壁の穴を探す。使用人たちにも、食料の保管と掃除の徹底をお願いした。


「お嬢様は、ネズミがそんなにお嫌いなのですか」


 若い侍女が、心配そうに聞いてきた。


「ええ、とても。馬に……」


「馬?」


「……馬のように、たくさん食べるでしょう、ネズミは」


「まあ、確かに。穀物庫が危のうございますね」


 侍女は、深くうなずいた。納得してくれたらしい。


 私は胸をなで下ろした。馬のようにたくさん食べるネズミ。自分で言っておいて、ちょっと強引だったと思う。


 ある夜、台所の隅にしゃがみ込んで、床の板の継ぎ目を調べていたときだった。


「……アデリーナ様?」


 振り向くと、寝間着姿のエラが、小さな手に枕を抱えて立っていた。


「え、エラ。どうしたの、こんな時間に」


「眠れなくて。何をしているのですか」


「…………戸締まりよ」


 嘘ではない。嘘では。


 エラは私の顔をじっと見た。それから、床の板に目を落とし、また私を見た。


「お手伝い、しましょうか」


「いいえ、大丈夫。眠れないなら、一緒に温かいミルクを飲みましょうか」


 私が差し出した手を、エラは、ためらってから、そっと握った。


 台所の隅で、二人で並んでミルクを飲んだ。


 しばらくして、エラがぽつりと言った。


「アデリーナ様は、どうして私に、優しくしてくださるのですか」


 どきっとした。


 なんて答えよう。シンデレラの話をするわけにはいかない。でも、嘘もつきたくない。


「うーん」


 私はカップを両手で包んだ。


「エラが、ここにいてくれたらいいなって、思ったからかな」


 エラの目が揺れた。それ以上、何も聞かなかった。


 けれど、飲み終わるころ、彼女は私の袖を、きゅっと握っていた。


「……お姉様」


 その呼び方に、胸の奥がじんと温かくなった。


「うん」


「……おやすみなさい」


 部屋に戻る廊下を、エラは私の袖を放さずについてきた。


 ネズミは、その夜も、次の夜も、一匹も見つからなかった。


 翌週、料理長が言った。


「お嬢様のおかげで、台所がこんなに綺麗になりました」


 私はまた、穏やかに微笑んだ。


 ……はい。何事も、起きなくて、よかったです。


* * *


 領地に来て、季節がひとめぐりした。


 エラはもう、パンをポケットに隠さない。食事のたびに、ちゃんと最後まで食べている。かぼちゃの数を毎朝数える私の習慣は、まだやめられていないけれど。


 エラとドナが七歳になる春、私は二人に「授業」を始めた。私は十二歳になっていた。


 書斎を片付けて、小さな机を二つ並べる。黒板代わりの板も用意した。私は、あの白髪の先生に教わったとおり、背筋を伸ばして宣言した。


「では、今日から読み書きと礼儀作法を始めます。背中は曲げない。私語は禁止。姿勢!」


 二人が、きゅっと固まった。


 エラは直立不動。ドナは五分で足をぶらぶらさせ、十分で窓の外の蝶を目で追い、二十分で机に突っ伏して寝た。


 ……あれ。


 エラのほうは、背筋こそぴんとしているものの、顔が真っ青だった。


「あの、お姉様。間違えたら、いけないのでしょうか」


 はっとした。


 私は、先生のやり方をそのまま真似していた。あの「もう一度」の圧を、七歳の子に向けて。


 いいわけがない。


 その夜、私はグレゴールと家政婦長のところへ行って、頭を下げた。


「教え方が、分からなくなりました」


 グレゴールは、少しも驚かなかった。


「お嬢様は、お二人がどんなときに楽しそうになさるか、ご覧になりましたか」


 楽しそう。


 思い返す。ドナが目を輝かせたのは、庭の蝶と、絵本。エラは、字を読んでいるとき。


「……どちらも、お話、ですね」


「でしたら、お話から始められてはいかがでしょう」


 家政婦長も、うなずいた。


「それに、お嬢様。お分かりにならないことは、分からないとおっしゃってよいのですよ」


 翌日、私は授業を変えた。


 絵本を一冊選んで、三人で並んで座り、字を指でたどりながら読む。難しい言葉に出会ったら、辞書を引く。


「ねえ、お姉様。この字、なんて読むの?」


 ドナが指さしたのは、私にも自信のない、古い言い回しだった。


「……分からないわ」


「え?」


 ドナが、ぽかんと口を開けた。エラも、目を丸くしている。


「お姉様にも、分からないの?」


「分からないの。だから、一緒に調べましょう」


 その瞬間、二人の顔から、ふっと緊張が抜けた。


 先生は何でも知っているものだと思っていた子供に、「分からない」を見せるのは、間違いじゃなかったらしい。


 辞書を三人で引く。ドナが先に見つけて、大声で叫ぶ。


「あった! お姉様、あった!」


「すごいわ、ドナ。よくできました」


 頭を撫でると、ドナは胸を張って、顔じゅうで笑った。


 それを見ていたエラが、そっと自分の石板を持ち上げた。何度も書き直した跡のある、小さな字が並んでいる。


「あの、お姉様。私も、書けました」


「見せて。……綺麗な字ね。よくできました」


 エラは、うつむいて、耳まで赤くした。


 それからの二人は、驚くほど頑張った。


 ドナは「お姉様みたいに、すらすら読みたい!」と鼻息を荒くして、エラは蝋燭の下で遅くまで書き取りをして、翌朝、少し得意げに紙を差し出した。


 私は先生らしい顔で「よくできました」と言いながら、内心では悶絶していた。


 もっとも、先生の顔のほうも、毎回ぎりぎりだった。教えるというのは、教わるより、ずっと難しい。二人に聞かれて答えられなければ、夜中に書庫で調べる。礼儀作法の本も、帳簿の勉強も、前より真剣に読んだ。


 私は私で、毎日が授業だった。


* * *


 二年が過ぎて、エラとドナは九歳になった。私は十四歳。


 屋敷の広間で、私は二人にダンスを教えていた。昼下がりの日差しの中、ドナは両手を腰に当てて、胸を張っている。


「お姉様、私が先に、エラに教えてあげる!」


「どうぞ、ドナ先生」


「まず、お辞儀はこう! 背中をまっすぐして、にこっとして、すーっと!」


 勢いよく膝を曲げたドナが、そのままぐらりと傾いた。


「わ、わっ」


 ぱっと、エラの手が伸びた。ドナの腕をしっかり支える。それから、さりげなく言った。


「ドナ、えっと、足をもう少しだけ前に出すと、ふらふらしないよ」


「あ、本当だ! エラ、すごい!」


 ドナはちっとも悔しがらずに、嬉しそうに足を直した。エラも、少し得意そうに頬を染める。


 ……教えていたのは、ドナなのに。


 私は、内心で悶絶した。


 なに、この子たち。優しい。賢い。かわいい。


* * *


 ある日、広間の隅の花瓶が割れた。


 侍女が慌てて片付ける中、ドナが先に手を挙げた。


「私がやったの!」


「ううん、私です」


 エラが即座に重ねた。


「ドナじゃなくて、私が」


「ちがうもん、私だもん!」


 二人の顔が、真剣そのものだった。


 私は咳払いをして、二人の前にしゃがんだ。


「二人とも、本当のことを教えてくれる?」


 エラがうつむいた。


「……私です。ドナのスカートが引っかかりそうで、慌てたら」


「だって、エラが花瓶のほうに行きそうだったから、止めようとして、私が先に」


「なるほど」


 私は真面目な顔でうなずいた。


「二人とも、相手のことを守ろうとしたのね」


 二人は顔を見合わせた。気づいていなかったらしい。そして、同時に赤くなった。


「……そ、そんなんじゃないもん」


「ドナは、ちょっと危なっかしいから」


「エラのほうが、ちょっと心配だから!」


「どっちが!」


 かわいい。


 私は笑顔を保ったまま、両手で顔を覆いたいのを、必死でこらえた。


 その夜、私は帳簿を二回も書き間違えた。


* * *


 それから三年。帳簿は、ほとんど私一人で見られるようになった。……ほとんど。二人への授業も、読み書きや礼儀作法から、家政の基礎へと進んでいる。


 二人が十二歳になった年の、雨の日のことだった。私は十七歳になっていた。


 朝から降り続く雨で、庭に出られない。私は「今日の授業はお休みにしましょうか」と言うつもりで、書庫を覗いた。


 二人は、もうそこにいた。


 エラは大きな机に、領地の収穫の記録を広げていた。ドナは窓際で、本を片手に、ぶつぶつ唱えている。


「ボンジュ……じゃない、えっと、隣の国では、こう言うのよね。『お目にかかれて光栄です』」


「ドナ、発音、少し違うよ。ここは、舌を」


「え、こう?」


「そう、上手」


 ……授業は、休みにしようと思っていたのだけれど。


「二人とも、何をしているの?」


「あ、お姉様」


 ドナが顔を上げた。


「隣の国の言葉を練習してるの。お客様が来たとき、その国の言葉で挨拶できたら、もっとたくさんお話しできるでしょう?」


 言ってから、ドナは少し照れたように、本で口元を隠した。


「……お話するのが、好きなの」


 エラは、記録の束を示した。


「私は、去年の収穫の記録を整理していました。お姉様の帳簿と一緒に見ると、来年の準備が分かりやすくなるかと思って」


 私は、思わず帳簿を覗き込んだ。


「……すごいわね、これ」


「はい。でも、続きが気になって」


 エラが、はにかんで笑った。


「お姉様に褒めていただけるのも、嬉しいです。でも、今は、知るのが楽しいんです」


「私も!」


 ドナが、ぴょんと手を挙げた。


「お姉様に褒められるのも、好きだけど、できるようになるのが、もっと好き!」


 胸の奥に、じんわりと温かいものが広がった。


 最初は、私に褒められたくて始めた勉強だった。それが、いつの間にか、二人の「好き」になっている。


「……そう。それは、すてきね」


 やっとそれだけ言った。


 そのとき、エラが、帳簿の一箇所を指さした。


「あの、お姉様。ここの数字、桁が一つ、ずれているような」


 私は慌てて確かめた。


 ずれていた。


「…………ありがとう。助かったわ」


「いえ」


 エラは、嬉しそうに微笑んだ。


 廊下に出ると、グレゴールが控えていた。


「お嬢様は、いつの間にか、先生のお顔になられましたな」


「先生? 私が?」


「はい。お二人に教えながら、ご自身も学ばれて。……ここへいらした頃の、帳簿に頭を抱えておられたお嬢様が、懐かしゅうございます」


「やめてください、あれは本当に恥ずかしいので」


 グレゴールは、ふふ、と笑った。


* * *


 それから二年。二人が十四歳になる年、私は十九歳になり、社交界デビューの準備が始まった。


 仕立て屋が、見本帳を広げる。


「お嬢様方の靴は、こちらはいかがでしょう。最新の流行でして、ガラス細工の飾りが」


「ガラス」


 私の声が、半オクターブ下がった。


「は? ……ガラス、でございます。透き通った飾りが、靴全体に」


「そのガラスは、割れませんか」


「飾りでございますから、まず割れませんが……」


「まず、ということは、割れることも」


「いえ、その、普通に歩く分には」


「走ったら?」


「お嬢様方は、走られるご予定が……?」


「ありません。ありませんが、念のため」


 仕立て屋は、手帳に何かを書きつけた。たぶん、私の名前の横に印でもつけたのだと思う。


「結構です」


 にっこり笑って言った。


 ガラスの靴。ガラスの。靴。


 割れる。脱げる。足を傷つける。全部の最悪が、一度に押し寄せてくる。


「ガラスの靴なんて、履かせるもんか」


 小声のつもりだったが、仕立て屋がびくりとした。


「何か、おっしゃいましたか」


「いえ、足元は動きやすさを重視したいのです。……白いサテンの靴をお願いします。光沢のあるものを」


 それから、私は真剣に付け加えた。


「足首にリボンを通せるように。簡単には脱げないように。結び目は、二重で」


「は、はあ。承知いたしました」


 完成した靴は、白くて、つやつやして、ほんのり輝いていて、とてもきれいだった。


 私は、念のため、試着した二人に言った。


「ちょっと、走ってみてくれる?」


「え?」


「それから、くるっと回って、ジャンプして。もう一回、思い切り」


 二人は不思議そうな顔をしながら、広間で全力で走って、回って、跳ねた。


 靴は、ちっとも脱げなかった。


「お姉様! 見て!」


 ドナが、くるりとスカートを広げて回る。


「お姉様、どうですか」


 エラも、おずおずと同じように回った。足首の白いリボンが、ひらりと揺れる。


 二人は、手をつないで、並んで立った。


 お揃いの靴。お揃いのリボン。


 …………。


 無理。


 かわいいが、天井を突き抜けた。


「お姉様? どうされたのですか」


「いえ、なんでもないのよ。ちょっと、目に埃が」


 天井を見上げて、深呼吸した。落ち着け。落ち着くのよ、アデリーナ。


 安全対策のつもりだった。本当に。


 結果として、世界でいちばんかわいい二人組が完成してしまっただけで。


 それから出発の日までの数週間、私たちは最後の仕上げをした。


 広間の端から端まで歩く練習。扇子を落としたときの拾い方。ご年配の方に先に椅子をすすめる順序。知らない人との会話の始め方と、終わらせ方。


 ドナは会話の練習が一番楽しそうだった。エラは、相手の表情を見るのが、驚くほど上手だった。


「お姉様。お話しされている最中に、お茶が冷めていたら、さりげなく替えてもらうのは、失礼ではないでしょうか」


「失礼じゃないわ。むしろ、気づいてくれてありがとうと思われるはずよ」


 二人が頭の中で、私の知らないところまで考えている。


 あの日のダンスで足をふらつかせていた二人の姿が、ふと、遠い昔のように思えた。


* * *


 二人の社交界デビューの朝。


 私は、自分の部屋で、地味な灰色のドレスを手に取った。


 付き添いなのだから、目立つ必要はない。主役は二人だ。私は後ろで見守っていればいい。


「お嬢様」


 扉の向こうから、侍女たちの声がした。


「少々、お時間をいただけますか」


 扉を開けると、侍女たちとグレゴールが、一列に並んでいた。みんな、にこにこしている。


 その手に、箱があった。


「これは?」


「お嬢様のお支度でございます。お嬢様にとっても、初めての社交界でございますから」


 箱が開いた。


 深い青のドレスが、そこにあった。


 夜空の色。上のほうは深い藍で、裾へ向かうほど、澄んだサファイアブルーに変わっていく。銀色の細かな刺繍が、星のようにきらめいていた。


「え、いえ、私は付き添いで、そんな」


「お嬢様」


 グレゴールが、静かに言った。


「屋敷の者一同、この日をずっと楽しみにしておりました」


 ……そんなこと言われたら、断れないじゃないか。


 私が黙っていると、背後から足音がした。


「お姉様!」


 白いドレスの二人が、ぱたぱたと駆け込んできた。小さなティアラ、結い上げた髪、足元には、あの白いサテンの靴。


「わあ、お姉様、きれい!」


「お姉様、お揃い、お揃いにしましょう!」


 ドナが、侍女の持つ箱から、小さな髪飾りを取り上げた。二人の髪についているものと、同じ意匠だった。


「お姉様にも、これ!」


「……お揃い、ですか?」


 エラが、期待を込めた目で私を見る。


「お姉様も、私たちとお揃いに、なってくださいますか」


 ずるい。


 そんな目で見られて、断れる人間がいるだろうか。


「……もちろん。喜んで」


 鏡の前に、三人で並んだ。


 二人の白と、私の青。


 髪飾りは、三人とも、お揃い。


「お姉様、すっごくきれい!」


「本当に、素敵です」


 褒められて照れくさくて、でも、嬉しくて、私は鏡の中の三人を眺めた。


 二人のかわいさに比べたら、私なんて、おまけみたいなものだ。


 それでも、ニコニコと笑う可愛い二人に挟まれて、私は幸せだった。尊い。


* * *


 王宮の大広間は、まぶしかった。


 シャンデリアが輝き、楽団が優雅に音を奏で、色とりどりのドレスが揺れている。私の両側で、エラとドナが、緊張しながらも、背筋を伸ばして歩いていた。


 誇らしい。


 ここまで来たんだ、と胸がいっぱいになる。


 もっとも、頭の隅では、別の仕事も進めていた。


 まず、ご令嬢方の足元の確認。シンデレラみたいなガラスの靴は……ゼロ。よし。


 次に、広間の大時計の位置の確認。入口の正面、高い壁。針は、まだ九時を指している。十二時まで、あと三時間。


 ……あと三時間は、気を抜かないこと。


 けれど、ふと気づいた。


 周りの視線が、やけに多い。


「あの青いドレスの方、どなた?」


「黒髪が、本当に……」


 ひそひそ声が聞こえた気がした。


 ……裾に、何かついてる?


 慌てて確認したが、何もなかった。気のせいだったかもしれない。私はそれ以上考えるのをやめて、妹たちに意識を戻した。


 最初に声をかけてきたのは、杖をついた年配の夫人だった。


「失礼。あなた、初めてお見かけするわね」


「は、はい。普段は領地におりますので。アデリーナと申します」


「まあ、そのドレス。夜空をそのまま仕立てたよう。髪の艶も見事だこと。どちらの仕立て屋さん?」


「屋敷の者たちが用意してくれたもので、私は何も……」


 夫人は、なぜか私の顔をまじまじと見つめた。


 ……裾に、何かついてる?


 いえ、それよりも妹たちだ。目を離している場合ではない。私は夫人に頭を下げつつ、視界の端でエラとドナの位置を確かめていた。


 そのとき、夫人の手から扇子が滑り落ちた。


 近くにいた何人かは、気づかないふりをしていた。


 エラが、すっと動いた。


 急ぐ様子もなく、でも迷いもなく、膝を折って扇子を拾い、両手で差し出す。


「どうぞ。お足元、お気をつけくださいませ」


「まあ、ご親切にどうも」


 夫人は目を細めた。エラは、夫人が杖をつく側に立ち位置を変えて、歩幅を合わせている。


「お話の途中に失礼いたしました。お立ちのままでは、お辛くありませんか。あちらに、お席が空いておりますが」


 ……さりげなさが、完璧だった。


 私が教えたのは、扇子の拾い方と、お年寄りには先に席をすすめるという順序だけだ。会話を邪魔しないように断りを入れることも、杖の側に回ることも、教えた覚えはない。エラが自分で考えたのだ。


「本当に立派なこと」


 そのとき、横から別の声が聞こえてきた。


「あら、あなたがたは、田舎の領地から来られたとか。さぞ退屈なお暮らしでしょうね」


 若い令嬢が、扇子の陰で笑っていた。ほんの少し、棘のある声だった。


 私が一歩踏み出すより早く、ドナが、にっこり笑った。


「ええ、空がとても広くて、のんびりしていますの。それに、かぼちゃがおいしいんですのよ」


 ……かぼちゃ。


 私の肩が、びくっと跳ねた。


「今度、ぜひお召し上がりにいらしてくださいませ。姉が、特別に細かく刻んでくれますわ」


「ま、まあ。かぼちゃを、細かく?」


「ええ。とても滑らかで、一度食べたら忘れられませんの」


 令嬢は目を丸くして、それから、ぷっと吹き出した。


「面白い方ね。お名前は?」


「ドナテッラと申します。ドナとお呼びくださいませ」


 棘のあった空気が、ふわりとほどけた。ドナは、相手の機嫌を損ねることなく、堂々と、しかも楽しませてしまった。


 ……あれは、練習していた会話術だ。それも、私が教えたよりずっと自然に。


 杖の夫人が、感心したように息をついた。


「お二人とも、本当に見事だこと。扇子ひとつ、ひとことの返しひとつに、相手を思う気持ちが行き届いています。礼儀作法は、どなたに習われたの?」


「姉に、教わりました」


 エラが、迷わず私のほうを手で示した。


 夫人の視線が、ゆっくり私に向く。さっきまでの、ドレスを眺める目とは違っていた。


「まあ。あなたが」


「いえ、私は、そんな」


 私は、慌てて首を振った。


「二人が頑張ったのです。私は、一緒に勉強しただけで、むしろ教わることのほうが多かったくらいで」


「教えながら学ぶ人は、いちばんよい教師になりますよ」


「はあ……ありがとうございます」


 私は、何を言われたのか、よく分からないまま頭を下げた。


 夫人の周りに、いつの間にか、人が集まっている。


「あの二人は、ご姉妹?」


「お姉様が教育を?」


「うちの娘にも、あんな風になってほしいわ」


 ……妹たち、すごい。みんな、感心してる。


 私は、誇らしさで胸がいっぱいになった。


「もしよろしければ、お姉様。うちの孫娘に、お茶会で……」


「ええ、もちろん。妹たちも、きっと喜びます」


 にこやかに答えたところで、私は、夫人が少しおかしそうに笑っているのに気づいた。


 ……あれ? 私、何か変なこと言った?


 近くにいた青年が、おずおずと口を開いた。


「あの、よろしければ、一曲、お相手を」


「あ、いえ。私、妹たちから目を離せないので」


 即答すると、青年は、がっくりと肩を落とした。


 夫人が、ころころと笑った。


「あらあら。美しいうえに、これでは」


 美しい? 何が?


 ……ああ、ドレスのことかしら。侍女たちが、頑張ってくれたものね。あとで、お礼を言わなくては。


 私が一人で納得していると、エラのほうから、小さな声がした。


「あの……」


 エラの前に、一人の青年が立っていた。


 穏やかそうな顔立ちで、品のいい装いをしている。その人が、エラを、まっすぐに見ていた。


 目が合うと、青年は慌てたように視線をそらして、でも、またちらりとエラを見る。


 ……待って。


 この視線は。もしかして。


 私が身構えるより早く、その青年が近づいてきて、丁寧に頭を下げた。


「失礼いたします。先ほど、あちらの方に席を勧められるのを、拝見しておりました。お名前を、うかがってもよろしいでしょうか」


 礼儀正しい。ものすごく礼儀正しい。


 エラたちと同じく今日、社交デビューをした第二王子だった。


 エラは、頬を赤くして、けれどきちんと膝を折って、小さな声で答えた。


「……エラノーラと、申します。エラと、お呼びください」


 第二王子は、嬉しそうに笑った。


「エラ。……素敵な名前ですね。よろしければ、一曲踊っていただけますか」


 その一言に、私は思わず、エラの横顔を見た。


 エラは、少し驚いて、それから、ふわりと微笑んだ。


 …………あ、これは、だめだ。


 私の中の警戒警報と、別の何かが、同時に鳴り始めた。シンデレラは王子からダンスに誘われてそれから……


 中央に向かう二人を見て、愕然とした。


「ドナ?」


 ドナは、広間の反対側で、とんでもなく大きな人の前に立っていた。


 近衛の制服を着た、肩幅の広い青年。腕も、胸も、制服の上から分かるほど鍛え上げられている。


「素敵……!」


 ドナの声が、ここまで聞こえた。


「あのっ! 私と、踊ってください!」


「えっ、いや、自分は」


 騎士が慌てて首を振った。


「自分は警護の職務中でして、令嬢のお相手は」


「だめ、ですか?」


 ドナが、上目遣いで見上げた。


 騎士は、固まった。


 それから、周囲を見回して、誰も助けてくれないと悟り、大きな体を小さくして、答えた。


「…………一曲だけ、でしたら」


「やった!」


 ドナが、騎士の大きな手を引っ張って、ダンスの輪へ連れ出していく。


 私は、立ち尽くした。


 我が妹ながら、行動力がありすぎる。


 そして、気づいた。


 二人とも、私の手を離れて、自分の足で、前に進み始めている。


 それが誇らしくて、少しだけ、寂しかった。


 そのとき、大広間の時計が、鐘を鳴らし始めた。


 ごーん。


 ごーん。


 私の背筋が、凍りついた。


 真夜中の鐘。


 魔法が、解ける。


 まさか、ここで。今。この場で。


 ……時計は、ずっと見ていたはずなのに。いつの間に、こんな時間に。


 私は、人の波をかき分けて、エラのもとへ走った。


「エラ! 足元は!?」


「え、はい? 靴は、大丈夫ですけど……」


「ドレスは? 馬車は? かぼちゃは?」


「お姉様、どうされたのですか」


 エラが、不思議そうに首をかしげた。


 なんともなかった。ドレスは白いままで、靴は足にぴったりはまっている。馬車の気配もない。第二王子が、少し離れたところで、心配そうにこちらを見ていた。


 ドナのほうを見ると、ダンスの真っ最中で、騎士の足を踏んでご満悦だった。


 ……何も、起きなかった。


「……お姉様、顔色が」


「大丈夫、ちょっと、安心しただけ」


 私は、近くの椅子に、すとんと腰を下ろした。


 鐘は、ちょうど十二回。ただの、時報だった。


 エラが、ふふっと笑った。


「お姉様って、時々、本当に変ですね」


「そうかしら」


「でも、そこが、好きです」


 ……この子は、本当に。


 私の目頭が、変に熱くなった。


* * *


 それから、二年と少しの時間が流れた。


 第二王子は、何度も屋敷を訪れた。エラの話を聞き、エラの意見を尋ね、エラが本を読んでいる横で、静かに座っていた。


 ドナは、いつの間にか、あの近衛騎士と結婚していた。


 過程は、よく知らない。ただ、「ねえお姉様、あの人、押したら結婚してくれるって」と、さらりと言われたのは覚えている。


 押したんだ。……物理的に、ではないわよね?


 あの舞踏会のあと、屋敷には不思議な手紙が増えた。「お嬢様のご教育について、ぜひお話を」「うちの娘を、お預かりいただけませんか」。


 私は首をかしげながら、そのたびにグレゴールに相談した。


「どうして私に、こんな手紙が来るのでしょう。妹たちへの間違いではありませんか」


「……お嬢様宛でございます」


 グレゴールは、なぜか微笑んでいた。


 一通だけ、見覚えのある署名があった。舞踏会で会った、杖の夫人からだった。


 お孫さんを、夏のあいだ屋敷で預かってもらえないか、という。人前に出ると、声が出なくなる子なのだそうだ。


 ……お茶会のお誘いじゃなかったんだ。


 あのとき「妹たちも喜びます」と答えたことが、いまさら恥ずかしくなった。夫人が笑っていたのは、そういうことだったのだ。


「私に、務まるでしょうか」


「お嬢様は、お二人を教えてこられました」


 グレゴールの言葉に、エラとドナが、後ろから声を揃えた。


「お姉様なら、できます!」


 夫人のお孫さんは、十歳の、小柄な女の子だった。


 玄関で挨拶をしようとして、口を開けたまま固まった。唇だけが、かすかに動いている。声は、出てこない。


 私はしゃがんで、女の子と目線を合わせた。


「あのね。私、初めてのお辞儀の授業で、思いきりひっくり返ったの」


 女の子の目が、ぱちりと開いた。


「先生に、二十回もやり直しさせられたのよ。二十回」


「……にじゅっ、かい?」


 かすれた、小さな声が出た。


「そう。だから、うまくできなくても平気。ここでは、誰も怒らないわ」


 後ろで、エラとドナが「お姉様、その話、私たちも最初に聞いた」と小声で笑っていた。


 その夏、女の子は、屋敷の三人目の生徒になった。


 難しかったのは、人前で話すこと。そこでエラとドナに「お客様役」をお願いした。ドナはわざと難しい質問をする係、エラは、うなずきながら聞く係。私が分からない言葉を「分からないわ」と言って、一緒に辞書を引くうちに、女の子は少しずつ、分からないと言ってもいいのだと、覚えていったようだった。


 最初の一週間は、声が出なかった。二週間目に、「はい」が出た。ひと月目には、自分の名前が言えた。


 夏の終わり、夫人が迎えに来た。


 女の子は、玄関で背筋をぴんと伸ばして、膝を折った。


「おばあさま。ごきげんよう。お迎えに来てくださって、ありがとうございます」


 はっきりした、通る声だった。


 夫人は、杖を持つ手を、小さく震わせた。


「……この子の声を、こんなに聞いたのは、何年ぶりかしら」


 夫人は、私の手を取った。


「ありがとう。本当に、ありがとう」


「いえ、頑張ったのは、お孫さんです。私は、一緒に辞書を引いただけで」


「それが、いちばんの教育なのですよ」


 夫人は笑って、少し離れたところを手で示した。女の子の母親が、手帳とペンを構えて、真剣な顔で立っていた。


「秘訣を、教えてやってくださいな」


「秘訣、ですか」


 考えた。真剣に、考えた。


「そうですね。まず、失敗を恐れる必要はないことを」


「失敗を……ですね」


 母親が、手帳に書きつけた。


「それから、食料庫は清潔に。ネズミが……あ、いえ、衛生のために」


「衛生」


「あと、かぼちゃは細かく切って、ヘタは別に保管します」


「……かぼちゃ」


 母親の手が、一瞬止まった。それでも、すぐに深くうなずいて、書き続けた。


「なるほど。細部まで、行き届いた教育なのですね」


 ……あれ? 今の、教育の秘訣だったかしら。


 後ろで、グレゴールが、咳払いをするふりをして肩を震わせていた。


 秋に、女の子から手紙が届いた。丁寧に書かれたことが分かる文字で、こう書いてあった。


『せんせいへ。ひっくりかえっても、にじゅっかいやれば、できました』


 ……せんせい。


 その文字を、私は三回読み返した。胸の奥がじんと温かくなって、ちょっと、くすぐったかった。


 その夏のあとも、ひとり、またひとりと、預かる子が増えていった。


 そしてついに、エラの結婚式の日がきた。


 控えの間で、花嫁衣装のエラが、ベールを直していた。窓から差し込む光が、金色の髪を縁取っている。


「お姉様」


 振り向いたエラは、あの日の灰だらけの少女とは、もう別人のようだった。


 でも、空色の目は、ちっとも変わっていない。


「どうかしら。……おかしくない?」


「世界でいちばん、きれいよ」


 飾らない言葉が、素直に口から出た。


 エラは、嬉しそうに笑った。それから、ドナが部屋に入ってきた。すっかり落ち着いた、人妻の顔をしている。


「エラ、緊張してる?」


「少し」


「大丈夫。私がついてるから!」


「ドナのほうが、心配だよ」


「ひどい!」


 いつもの、二人のやりとり。


 私は、少し離れて、それを眺めていた。


 庭園の下見は、昨日のうちに済ませてある。木の上、屋根の上、アーチの陰。鳥の気配は、なし。


* * *


 式は、王宮の庭園で行われた。


 白い花で飾られたアーチの下に、エラと第二王子が立っている。


 誓いの言葉が終わり、祝福の拍手がおさまったあと、エラが、ゆっくりと私のほうへ顔を向けた。


「あの、お姉様。少しだけ、お時間をいただいても、よろしいですか」


 会場が、静かになった。


 私の席は、ドナの隣だった。ドナが、私の手を握っている。


「お姉様」


 エラが、一歩、前に出た。


「私、お姉様が家に来た日のことを、今でも覚えています」


 声は、震えていなかった。でも、手が、ぎゅっと胸の前で握られていた。


「あの日、お姉様は、私に、名前を聞いてくださいました。そして、エラって、呼んでくださいました」


 喉が、ひくりと鳴った。


「私は、それだけで、まだエラでいていいんだって、思えたんです」


 エラの目に、涙が浮かぶ。


「馬車の中で、パンを入れた籠を、そっと私の隣に置いてくださいましたよね。いつでも食べていいって。あのとき、明日もご飯があるんだって、やっと信じられました」


 気づかれていた。


 私は、ずっと、気づかれないようにしていたのに。


「夜、眠れなかった私に、ミルクをくださいました。何も聞かずに、一緒にいてくださいました。……それから、ずっと、お姉様の袖を、離したくなかったんです」


 エラが、小さく笑った。


「文字を教えていただいたときも。間違えても、叱られなかったこと。分からないって、正直におっしゃってくださったこと。最初は、お姉様に褒めていただきたくて、頑張っていました。でも、今は、学ぶことが大好きです。それも、お姉様が、教えてくださったことです」


 エラは、涙を指でぬぐった。


「お姉様がいてくださったから、私は今、こんなに幸せです」


 ありがとうございます、と、エラは深く頭を下げた。


 何か言わなきゃ、と思った。


 でも、声が出なかった。


 そのとき、私の手が、ぐいっと引っ張られた。


「お姉様!」


 ドナだった。両手で、私の手をぎゅっと握っている。


「エラが先に言っちゃったけど、でも、でも」


 ドナの目も、真っ赤だった。


「私の方が、お姉様のこと大好きだもん」


 言い切ってから、ドナは唇を噛んで、声を詰まらせた。


「……ずっと、お姉様みたいに、なりたかったの。お姉様が褒めてくれると、嬉しくて、嬉しくて、だから、頑張れたの。お姉様が分からないって言ってくれた日、私、お姉様のこと、もっと好きになったんだよ」


 私の視界が、ゆがんだ。


 熱いものが、頬をつたって落ちた。


 私は、ただ、二人に幸せでいてほしかっただけだった。


 あの灰だらけの小さな手を、守りたかっただけだった。


 あの日、「エラ」と呼んだときに、小さくうなずいてくれた、あの子を。


 大きくなった二人が、今、私の前で笑って、泣いている。


 そして、お互いを大切にして、手を取り合っている。


 それは、私が望んだものの、全部だった。


「……ありがとう」


 かすれた声で、やっとそれだけ言えた。


 私は、二人を、強く抱きしめた。


 エラの髪から、花の香りがした。ドナの肩が、小さく震えていた。


 会場のあちこちで、すすり泣きが聞こえた。グレゴールが、そっとハンカチを目に当てていた。


 長い、長い時間のあとのように感じた。


 そして、静かに、拍手が広がっていった。


* * *


 そのときだった。


 ばさばさっ、と、羽音がした。


 私の肩が、びくりと跳ねた。


 アーチの上に、白い鳥が、舞い降りた。


 白い。鳥。


 鳩。


 私の頭の中で、遠い遠い昔の絵本の挿絵が、くっきりと浮かび上がった。


 結婚式。白い鳥。そして、鳥が、目を、


「鳥!? 確認したのに! まさか、あの話の……!」


 体が、考えるより先に動いた。


「二人とも伏せてーーー!!」


 私は、エラとドナの頭を抱え込んで、庭園の芝生に、ドレスごと飛び込んだ。


 ベールが宙を舞う。ティアラがずれる。会場から悲鳴が上がる。


 私は二人を、全身で覆った。


「目は! 目は無事!? 痛いところは!?」


「お、お姉様……?」


「大丈夫、大丈夫よ、お姉様が守るから、絶対に守るから!」


 くるっぽー。


 のどかな声が、頭上から降ってきた。


 くるっぽー。


 ……。


 私は、恐る恐る顔を上げた。


 アーチの上で、白い鳩が、首をかしげていた。


 祝福するように、ただ、のんびり鳴いている。


 会場が、静まり返っていた。


 誰も、何も言わなかった。


「……え?」


 私の口から、間の抜けた声が出た。


 腕の中で、エラの肩が震えた。


 最初に、ふふっと小さな笑い声が漏れた。続いて、ドナがぷっと吹き出した。


「お、お姉様……っ、ふふ、あはははは!」


「お姉様ってば、最後まで、お姉様だね!」


「待って、違うの、これは」


 第二王子が、口元を押さえて肩を震わせていた。会場のあちこちから、温かい笑いが広がっていく。


 あの舞踏会で出会った杖の夫人が、扇子で顔を隠して、全身をふるふると揺らしていた。グレゴールまで、ハンカチで顔を隠して、同じように揺れている。


 私は、芝生の上で、ドレスを広げたまま、真っ赤になった。


 ……だって、鳥だったんだもん。


 くるっぽー。


 鳩が、もう一度、鳴いた。


* * *


 その後、数々の伝説を打ち立てたお姉様は、国一番のガヴァネスと称えられることになりました。


 めでたし、めでたし。


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