シンデレラの義姉に転生しました。ガラスの靴と鳥から妹たちを守ったら、国一番の家庭教師になっていました。
熱を出して三日目の朝、私は天井を見上げたまま思った。
あ、これ、前世だ。
満員電車。肩掛けの鞄。キーボード。コンビニのコーヒー。ごく普通の、本当にごく普通の人生の記憶が、ざあっと頭に流れ込んでくる。特別な資格も、すごい知識もない。いわゆるチートも、見事なまでにゼロだった。
……で、今の私は?
状況を整理した。私の名前はアデリーナ、九歳。父は貴族で、母はその愛人。父は別の屋敷で正妻と暮らしていて、うちには時々顔を出すだけ。母に似た五つ下の妹を溺愛している。
待って。
愛人の娘って、将来どうなるの。
熱がぶり返しそうだった。私は布団の中で三十分ほど真剣に考え、結論を出した。
分からないなら、備えるしかない。
「お母様、勉強がしたいです」
朝食の席でそう言うと、母は紅茶のカップを持ったまま、ぱちりと瞬きをした。
「あら、いい心がけね。先生は手配するわ。お金なら惜しまないわよ」
あっさり許可が出て拍子抜けした。母が楽しそうに続ける。
「教養のある娘は、価値が上がるもの」
……なるほど、投資なのか。母らしい。でも、お金を出してもらえるなら理由はどうでもいい。
やってきた先生は、白髪をきっちりまとめた、背筋の鋭い女性だった。
最初の授業で、私は膝を折るお辞儀をして、見事にひっくり返った。
「もう一度」
もう一度。もう一度。もう一度。
二十回目で、ようやく言われた。
「まあ、倒れなくなりましたね」
たぶん褒め言葉ではなかった。でも、ちょっと嬉しかった。
私は天才ではない。必要になるかもしれないから、覚える。それだけだ。
それから二年。読み書きも歴史も計算も、先生の「もう一度」に鍛えられて、どうにか身についていった。お辞儀でひっくり返ることは、もうない。
* * *
十一歳になった年、父と母の結婚が決まった。
正妻が亡くなって、服喪の期間も明けたのだという。母は上機嫌で、私は妹のドナテッラの手を引いて、初めて父の家に足を踏み入れた。
ドナは六歳。まっすぐな黒髪に、きらきらした目。私の三歩前を、探検隊長のような顔で歩いていく。
「お姉様、このお屋敷ひろーい!」
「ドナ、走らないの」
注意した矢先に、ドナがぴたりと足を止めた。台所の裏口の脇、薪置き場のそばを指さしている。
「お姉様、あの子、だあれ?」
小さな女の子が、竈の灰を掻き出していた。
年はドナと同じくらい。金色の髪は灰でくすんで、服は何度も繕った跡だらけで、袖が手首より上で終わっている。頬に煤がついていた。
その子が顔を上げた。
空色の目をしていた。びっくりするくらい、きれいな目だった。
「……あの、お客様ですか」
小さな声だった。礼儀正しく立ち上がって、膝を折ろうとする。慌てて私が屈んで目線を合わせた。
「アデリーナよ。こっちは妹のドナテッラ。ドナって呼んであげて。あなたのお名前は?」
「……エラノーラ、です。でも、みんなは」
少し言いよどんでから、その子は続けた。
「シンデレラって、呼びます」
笑顔が固まった。
私の顔は、たぶん完璧に微笑んでいたと思う。
けれど頭の中は、大嵐だった。
シンデレラ!?
灰かぶり。継母。ガラスの靴。かぼちゃの馬車。子供の頃に読んだ絵本の挿絵が、頭の中をぐるぐる回る。そして、とても嫌なことを思い出した。
確か、義姉たちが、靴に足を合わせるために、かかとを。
足を切るんじゃなかった?
あと結婚式で、鳥が、目を。
……目を!?
ふと、さらに嫌なことに気づいた。
新しい継母の連れ子って、私とドナのことでは。
義姉って、私では。
……いや、今は考えない。考えるのは後。今大事なのは、目の前の小さな手が、灰で真っ黒だということだ。
「しんでれら? へんななまえ」
ドナが首をかしげた。
「ドナ」
私はにっこり笑ったまま、妹の手をそっと引いた。
「エラノーラ。お母様は、あなたのことを何と呼んでいたの?」
エラの目が、少し大きくなった。
長い間、誰にも聞かれなかったのだろう。しばらく黙ってから、ぽつりと答えた。
「……エラ、でした。お母様は、エラって」
「素敵な名前ね」
本心だった。
「私も、エラって呼んでもいい?」
エラは返事をしなかった。ただ、ぎゅっと握っていた火かき棒を、ゆっくり下ろした。
「……はい」
蚊の鳴くような声が、返ってきた。
何が起きるのか、本当のところは分からない。記憶は曖昧で、細部はぼろぼろだ。それでも一つだけ、はっきり決まった。
この子を灰被りと呼ばない。
* * *
「お母様とお父様は新婚ですし、私たちは領地の屋敷で暮らそうと思います」
そう切り出したとき、母は嬉しそうに手を叩いた。
「まあ、いい考えじゃない」
父はちらりと母を見て、頷いた。
「ああ、いいんじゃないか。好きにしなさい」
……この人、相変わらずお母様しかみてない。悪意があるのとも違う。ただ、見ていないんだ。
私は礼儀正しくお辞儀をして、部屋を出た。
領地へ向かう馬車の中で、エラは背筋をぴんと伸ばして座っていた。ドナの隣、私の向かい。窓の外も見ず、膝の上で両手を重ねたまま、微動だにしない。
無理もない。信頼なんて、一日で生まれるものじゃない。
昼になって、馬車が宿場で止まった。私は料理人に頼んでおいた籠を開け、パンとスープを三人分並べた。
「いただきます!」
ドナが、ぱくぱく食べ始める。エラは少し迷ってから、そっと小さなパンを手に取り、半分だけちぎって食べた。
残りの半分を、素早くポケットに押し込む。
私は見ないふりをした。
胸の奥がきゅっとなったけれど、顔には出さない。出してはいけない。
その代わり、次の宿場で、籠をエラの隣の席に置いた。
「ここに置いておくわね。お腹が空いたら、いつでも食べていいのよ」
エラは、籠と私の顔を見比べた。
「……でも」
「たくさんあるから大丈夫。ドナがこっそり食べても、まだ余るくらい」
「ちょっとお姉様、ひどい! 食べるけど!」
ドナの抗議に、エラの肩がほんの少し揺れた。
笑いかけて、やめた気配がした。それでも、さっきより少しだけ、空気がやわらかかった。
夕方、エラは私の隣の席で、パンを一つ持ったまま眠っていた。
ポケットには、何も入っていなかった。
* * *
領地の屋敷は、緑に囲まれた古くて大きな建物だった。
門の前に使用人たちがずらりと並んでいる。年配の男性が一歩進み出て、深々と頭を下げた。
「執事のグレゴールと申します。お嬢様方のご到着を、屋敷一同、心よりお待ちしておりました」
本当に、待っていてくれたのだと分かる顔だった。普段はほとんど誰も来ない屋敷に、三人もお嬢様が来るのだから、嬉しいのだろう。
エラの手を取った若い侍女が、にっこり笑う。
「まあ、お疲れでしょう。温かいお茶をご用意しておりますよ」
エラが戸惑って私を見た。私は小さく頷いてみせた。
……大丈夫、ここは味方だ。
その夜、私はグレゴールを呼んでお願いした。
「屋敷の管理を、教えていただけませんか」
「お嬢様に、でございますか?」
「私が覚えたいのです。この屋敷で、あの子たちが安心して暮らせるように」
グレゴールはしばらく私を見つめた。それから、静かに微笑んだ。
「かしこまりました。帳簿から、お見せいたしましょう」
翌日から、私の新しい勉強が始まった。
最初の帳簿は、見事に数字が合わなかった。三回やり直して、グレゴールが優しく指摘してくれた。
「お嬢様、こちらの桁が一つずれております」
「……すみません」
「いえ、最初はどなたもそうでございます」
本当に、全然できなかった。でも、できないことは恥ずかしくない。聞けばいいのだ。
* * *
「エラ、遊ぼ!」
屋敷に来て三日目の朝、ドナが庭に飛び出してエラの手を引っ張った。
エラはぎゅっと身をすくめた。
「……あの、私……」
ドナは少し考えて、ぱっと顔を明るくした。
「お外、嫌い? じゃあ、本読んであげる!」
それだけだった。
ドナは自分の部屋から絵本を抱えてきて、エラを日当たりのいい長椅子に座らせた。そして、得意げに読み始めた。
「むかしむかし、あるところに、おうじさまが、いました」
ところどころ詰まる。分からない字は、勝手に作る。
「おうじさまは、おおきな、えーと、りんごを」
「……ドナ、そこ、ちがうよ」
エラが、遠慮がちに口を挟んだ。
「それ、『りんご』じゃなくて『りゅう』」
「ちがう? じゃあエラが読んで!」
ドナは少しも気にせず、絵本をぽんとエラの膝に乗せた。
エラは慌てて、でも少しだけ嬉しそうに、ページをめくった。
「……むかしむかし、あるところに」
亡くなったお母様に、教わった字なのだろう。細くて、丁寧な声だった。
ドナが身を乗り出して聞いている。
私は窓の外で壁にもたれ、天を仰いだ。
かわいい。
待って、かわいい。何これ。無理。かわいすぎて立っていられない。
いやいや、落ち着け私。ここで声を出したら二人が気づく。
「お嬢様?」
通りがかった侍女が、不思議そうに私を見た。
「……少し、日差しが強くて」
「今日は曇りでございますが」
……そうでした。
* * *
屋敷に来て一月がたつ頃、私は台所で運命の出会いを果たした。
大きなかぼちゃである。
料理長が、どんと調理台に置いたそれは、子供の頭の三倍はあった。つやつやとして、丸くて、橙色で、そして、恐ろしいことに、馬車の形によく似ていた。
「…………」
「お嬢様、本日はかぼちゃのスープにいたしますよ」
料理長が上機嫌で言う。
私は穏やかに微笑んだ。内心は、すでに全力疾走していた。
かぼちゃ。かぼちゃが馬車に。いや、本当に馬車になる証拠は何もない。でも、ないということは、ならないという証拠もないということで。
もし、もしも、エラが近くにいるときに、台所で巨大な馬車が出現したら。
狭い台所に突然、馬車。
危ない。絶対に危ない。
「料理長。かぼちゃは、その、どのように調理されますか」
「皮をむいて、切って、煮込みます」
「どのくらいの大きさに切りますか」
「……ええと、一口大でございますが」
「もっと細かく。できれば、かなり細かく」
料理長の手が止まった。
「お嬢様、細かくしすぎると、煮崩れてしまいますが」
「それは構いません。むしろ、元の形が分からなくなるほど」
料理長は、しばらく黙った。そして、ふっと笑った。
「承知いたしました。お嬢様の仰せのままに」
「それと、ヘタは、こちらで預かります」
「ヘタ、でございますか」
「ええ。……念のため」
ヘタは、言ってみれば取っ手だ。取っ手がなければ、馬車は動かせない。……たぶん。
何の念のためなのか、自分でもうまく説明できなかった。料理長は不思議そうに、でも丁寧に、ヘタを布に包んで渡してくれた。
その笑顔には、からかう色が一つもなかった。屋敷の使用人たちは、私がちょっと変わったことを言っても、必ず「お嬢様は妹様たちが大事なのだ」と受け止めてくれる。ありがたい。ありがたいけれど、ちょっと恥ずかしい。
その夜のスープは、なめらかで、甘くて、それはそれは美味しかった。
「おいしい! お姉様、おかわり!」
「ドナ、行儀が悪いわよ」
「……おいしい、です」
エラが、小さな声で言った。スプーンを持ったまま、ふわりと表情がほどけている。
初めて見た顔だった。
私は無言でスープを一口飲んだ。
味は、ちょっとだけ、しょっぱかった。
……かぼちゃは、馬車にならなかった。
もちろんだ。
ちなみに、ヘタは今も、私の机の引き出しの奥で静かに眠っている。
* * *
ネズミ対策は、その延長で始まった。
かぼちゃが馬車になるなら、ネズミは馬になるはずだ。馬になるネズミは、屋敷にいてはいけない。
論理的である。たぶん。
私は夜な夜な、燭台を片手に屋敷の中を見回った。戸棚の隙間を確かめる。穀物庫の扉を確かめる。壁の穴を探す。使用人たちにも、食料の保管と掃除の徹底をお願いした。
「お嬢様は、ネズミがそんなにお嫌いなのですか」
若い侍女が、心配そうに聞いてきた。
「ええ、とても。馬に……」
「馬?」
「……馬のように、たくさん食べるでしょう、ネズミは」
「まあ、確かに。穀物庫が危のうございますね」
侍女は、深くうなずいた。納得してくれたらしい。
私は胸をなで下ろした。馬のようにたくさん食べるネズミ。自分で言っておいて、ちょっと強引だったと思う。
ある夜、台所の隅にしゃがみ込んで、床の板の継ぎ目を調べていたときだった。
「……アデリーナ様?」
振り向くと、寝間着姿のエラが、小さな手に枕を抱えて立っていた。
「え、エラ。どうしたの、こんな時間に」
「眠れなくて。何をしているのですか」
「…………戸締まりよ」
嘘ではない。嘘では。
エラは私の顔をじっと見た。それから、床の板に目を落とし、また私を見た。
「お手伝い、しましょうか」
「いいえ、大丈夫。眠れないなら、一緒に温かいミルクを飲みましょうか」
私が差し出した手を、エラは、ためらってから、そっと握った。
台所の隅で、二人で並んでミルクを飲んだ。
しばらくして、エラがぽつりと言った。
「アデリーナ様は、どうして私に、優しくしてくださるのですか」
どきっとした。
なんて答えよう。シンデレラの話をするわけにはいかない。でも、嘘もつきたくない。
「うーん」
私はカップを両手で包んだ。
「エラが、ここにいてくれたらいいなって、思ったからかな」
エラの目が揺れた。それ以上、何も聞かなかった。
けれど、飲み終わるころ、彼女は私の袖を、きゅっと握っていた。
「……お姉様」
その呼び方に、胸の奥がじんと温かくなった。
「うん」
「……おやすみなさい」
部屋に戻る廊下を、エラは私の袖を放さずについてきた。
ネズミは、その夜も、次の夜も、一匹も見つからなかった。
翌週、料理長が言った。
「お嬢様のおかげで、台所がこんなに綺麗になりました」
私はまた、穏やかに微笑んだ。
……はい。何事も、起きなくて、よかったです。
* * *
領地に来て、季節がひとめぐりした。
エラはもう、パンをポケットに隠さない。食事のたびに、ちゃんと最後まで食べている。かぼちゃの数を毎朝数える私の習慣は、まだやめられていないけれど。
エラとドナが七歳になる春、私は二人に「授業」を始めた。私は十二歳になっていた。
書斎を片付けて、小さな机を二つ並べる。黒板代わりの板も用意した。私は、あの白髪の先生に教わったとおり、背筋を伸ばして宣言した。
「では、今日から読み書きと礼儀作法を始めます。背中は曲げない。私語は禁止。姿勢!」
二人が、きゅっと固まった。
エラは直立不動。ドナは五分で足をぶらぶらさせ、十分で窓の外の蝶を目で追い、二十分で机に突っ伏して寝た。
……あれ。
エラのほうは、背筋こそぴんとしているものの、顔が真っ青だった。
「あの、お姉様。間違えたら、いけないのでしょうか」
はっとした。
私は、先生のやり方をそのまま真似していた。あの「もう一度」の圧を、七歳の子に向けて。
いいわけがない。
その夜、私はグレゴールと家政婦長のところへ行って、頭を下げた。
「教え方が、分からなくなりました」
グレゴールは、少しも驚かなかった。
「お嬢様は、お二人がどんなときに楽しそうになさるか、ご覧になりましたか」
楽しそう。
思い返す。ドナが目を輝かせたのは、庭の蝶と、絵本。エラは、字を読んでいるとき。
「……どちらも、お話、ですね」
「でしたら、お話から始められてはいかがでしょう」
家政婦長も、うなずいた。
「それに、お嬢様。お分かりにならないことは、分からないとおっしゃってよいのですよ」
翌日、私は授業を変えた。
絵本を一冊選んで、三人で並んで座り、字を指でたどりながら読む。難しい言葉に出会ったら、辞書を引く。
「ねえ、お姉様。この字、なんて読むの?」
ドナが指さしたのは、私にも自信のない、古い言い回しだった。
「……分からないわ」
「え?」
ドナが、ぽかんと口を開けた。エラも、目を丸くしている。
「お姉様にも、分からないの?」
「分からないの。だから、一緒に調べましょう」
その瞬間、二人の顔から、ふっと緊張が抜けた。
先生は何でも知っているものだと思っていた子供に、「分からない」を見せるのは、間違いじゃなかったらしい。
辞書を三人で引く。ドナが先に見つけて、大声で叫ぶ。
「あった! お姉様、あった!」
「すごいわ、ドナ。よくできました」
頭を撫でると、ドナは胸を張って、顔じゅうで笑った。
それを見ていたエラが、そっと自分の石板を持ち上げた。何度も書き直した跡のある、小さな字が並んでいる。
「あの、お姉様。私も、書けました」
「見せて。……綺麗な字ね。よくできました」
エラは、うつむいて、耳まで赤くした。
それからの二人は、驚くほど頑張った。
ドナは「お姉様みたいに、すらすら読みたい!」と鼻息を荒くして、エラは蝋燭の下で遅くまで書き取りをして、翌朝、少し得意げに紙を差し出した。
私は先生らしい顔で「よくできました」と言いながら、内心では悶絶していた。
もっとも、先生の顔のほうも、毎回ぎりぎりだった。教えるというのは、教わるより、ずっと難しい。二人に聞かれて答えられなければ、夜中に書庫で調べる。礼儀作法の本も、帳簿の勉強も、前より真剣に読んだ。
私は私で、毎日が授業だった。
* * *
二年が過ぎて、エラとドナは九歳になった。私は十四歳。
屋敷の広間で、私は二人にダンスを教えていた。昼下がりの日差しの中、ドナは両手を腰に当てて、胸を張っている。
「お姉様、私が先に、エラに教えてあげる!」
「どうぞ、ドナ先生」
「まず、お辞儀はこう! 背中をまっすぐして、にこっとして、すーっと!」
勢いよく膝を曲げたドナが、そのままぐらりと傾いた。
「わ、わっ」
ぱっと、エラの手が伸びた。ドナの腕をしっかり支える。それから、さりげなく言った。
「ドナ、えっと、足をもう少しだけ前に出すと、ふらふらしないよ」
「あ、本当だ! エラ、すごい!」
ドナはちっとも悔しがらずに、嬉しそうに足を直した。エラも、少し得意そうに頬を染める。
……教えていたのは、ドナなのに。
私は、内心で悶絶した。
なに、この子たち。優しい。賢い。かわいい。
* * *
ある日、広間の隅の花瓶が割れた。
侍女が慌てて片付ける中、ドナが先に手を挙げた。
「私がやったの!」
「ううん、私です」
エラが即座に重ねた。
「ドナじゃなくて、私が」
「ちがうもん、私だもん!」
二人の顔が、真剣そのものだった。
私は咳払いをして、二人の前にしゃがんだ。
「二人とも、本当のことを教えてくれる?」
エラがうつむいた。
「……私です。ドナのスカートが引っかかりそうで、慌てたら」
「だって、エラが花瓶のほうに行きそうだったから、止めようとして、私が先に」
「なるほど」
私は真面目な顔でうなずいた。
「二人とも、相手のことを守ろうとしたのね」
二人は顔を見合わせた。気づいていなかったらしい。そして、同時に赤くなった。
「……そ、そんなんじゃないもん」
「ドナは、ちょっと危なっかしいから」
「エラのほうが、ちょっと心配だから!」
「どっちが!」
かわいい。
私は笑顔を保ったまま、両手で顔を覆いたいのを、必死でこらえた。
その夜、私は帳簿を二回も書き間違えた。
* * *
それから三年。帳簿は、ほとんど私一人で見られるようになった。……ほとんど。二人への授業も、読み書きや礼儀作法から、家政の基礎へと進んでいる。
二人が十二歳になった年の、雨の日のことだった。私は十七歳になっていた。
朝から降り続く雨で、庭に出られない。私は「今日の授業はお休みにしましょうか」と言うつもりで、書庫を覗いた。
二人は、もうそこにいた。
エラは大きな机に、領地の収穫の記録を広げていた。ドナは窓際で、本を片手に、ぶつぶつ唱えている。
「ボンジュ……じゃない、えっと、隣の国では、こう言うのよね。『お目にかかれて光栄です』」
「ドナ、発音、少し違うよ。ここは、舌を」
「え、こう?」
「そう、上手」
……授業は、休みにしようと思っていたのだけれど。
「二人とも、何をしているの?」
「あ、お姉様」
ドナが顔を上げた。
「隣の国の言葉を練習してるの。お客様が来たとき、その国の言葉で挨拶できたら、もっとたくさんお話しできるでしょう?」
言ってから、ドナは少し照れたように、本で口元を隠した。
「……お話するのが、好きなの」
エラは、記録の束を示した。
「私は、去年の収穫の記録を整理していました。お姉様の帳簿と一緒に見ると、来年の準備が分かりやすくなるかと思って」
私は、思わず帳簿を覗き込んだ。
「……すごいわね、これ」
「はい。でも、続きが気になって」
エラが、はにかんで笑った。
「お姉様に褒めていただけるのも、嬉しいです。でも、今は、知るのが楽しいんです」
「私も!」
ドナが、ぴょんと手を挙げた。
「お姉様に褒められるのも、好きだけど、できるようになるのが、もっと好き!」
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がった。
最初は、私に褒められたくて始めた勉強だった。それが、いつの間にか、二人の「好き」になっている。
「……そう。それは、すてきね」
やっとそれだけ言った。
そのとき、エラが、帳簿の一箇所を指さした。
「あの、お姉様。ここの数字、桁が一つ、ずれているような」
私は慌てて確かめた。
ずれていた。
「…………ありがとう。助かったわ」
「いえ」
エラは、嬉しそうに微笑んだ。
廊下に出ると、グレゴールが控えていた。
「お嬢様は、いつの間にか、先生のお顔になられましたな」
「先生? 私が?」
「はい。お二人に教えながら、ご自身も学ばれて。……ここへいらした頃の、帳簿に頭を抱えておられたお嬢様が、懐かしゅうございます」
「やめてください、あれは本当に恥ずかしいので」
グレゴールは、ふふ、と笑った。
* * *
それから二年。二人が十四歳になる年、私は十九歳になり、社交界デビューの準備が始まった。
仕立て屋が、見本帳を広げる。
「お嬢様方の靴は、こちらはいかがでしょう。最新の流行でして、ガラス細工の飾りが」
「ガラス」
私の声が、半オクターブ下がった。
「は? ……ガラス、でございます。透き通った飾りが、靴全体に」
「そのガラスは、割れませんか」
「飾りでございますから、まず割れませんが……」
「まず、ということは、割れることも」
「いえ、その、普通に歩く分には」
「走ったら?」
「お嬢様方は、走られるご予定が……?」
「ありません。ありませんが、念のため」
仕立て屋は、手帳に何かを書きつけた。たぶん、私の名前の横に印でもつけたのだと思う。
「結構です」
にっこり笑って言った。
ガラスの靴。ガラスの。靴。
割れる。脱げる。足を傷つける。全部の最悪が、一度に押し寄せてくる。
「ガラスの靴なんて、履かせるもんか」
小声のつもりだったが、仕立て屋がびくりとした。
「何か、おっしゃいましたか」
「いえ、足元は動きやすさを重視したいのです。……白いサテンの靴をお願いします。光沢のあるものを」
それから、私は真剣に付け加えた。
「足首にリボンを通せるように。簡単には脱げないように。結び目は、二重で」
「は、はあ。承知いたしました」
完成した靴は、白くて、つやつやして、ほんのり輝いていて、とてもきれいだった。
私は、念のため、試着した二人に言った。
「ちょっと、走ってみてくれる?」
「え?」
「それから、くるっと回って、ジャンプして。もう一回、思い切り」
二人は不思議そうな顔をしながら、広間で全力で走って、回って、跳ねた。
靴は、ちっとも脱げなかった。
「お姉様! 見て!」
ドナが、くるりとスカートを広げて回る。
「お姉様、どうですか」
エラも、おずおずと同じように回った。足首の白いリボンが、ひらりと揺れる。
二人は、手をつないで、並んで立った。
お揃いの靴。お揃いのリボン。
…………。
無理。
かわいいが、天井を突き抜けた。
「お姉様? どうされたのですか」
「いえ、なんでもないのよ。ちょっと、目に埃が」
天井を見上げて、深呼吸した。落ち着け。落ち着くのよ、アデリーナ。
安全対策のつもりだった。本当に。
結果として、世界でいちばんかわいい二人組が完成してしまっただけで。
それから出発の日までの数週間、私たちは最後の仕上げをした。
広間の端から端まで歩く練習。扇子を落としたときの拾い方。ご年配の方に先に椅子をすすめる順序。知らない人との会話の始め方と、終わらせ方。
ドナは会話の練習が一番楽しそうだった。エラは、相手の表情を見るのが、驚くほど上手だった。
「お姉様。お話しされている最中に、お茶が冷めていたら、さりげなく替えてもらうのは、失礼ではないでしょうか」
「失礼じゃないわ。むしろ、気づいてくれてありがとうと思われるはずよ」
二人が頭の中で、私の知らないところまで考えている。
あの日のダンスで足をふらつかせていた二人の姿が、ふと、遠い昔のように思えた。
* * *
二人の社交界デビューの朝。
私は、自分の部屋で、地味な灰色のドレスを手に取った。
付き添いなのだから、目立つ必要はない。主役は二人だ。私は後ろで見守っていればいい。
「お嬢様」
扉の向こうから、侍女たちの声がした。
「少々、お時間をいただけますか」
扉を開けると、侍女たちとグレゴールが、一列に並んでいた。みんな、にこにこしている。
その手に、箱があった。
「これは?」
「お嬢様のお支度でございます。お嬢様にとっても、初めての社交界でございますから」
箱が開いた。
深い青のドレスが、そこにあった。
夜空の色。上のほうは深い藍で、裾へ向かうほど、澄んだサファイアブルーに変わっていく。銀色の細かな刺繍が、星のようにきらめいていた。
「え、いえ、私は付き添いで、そんな」
「お嬢様」
グレゴールが、静かに言った。
「屋敷の者一同、この日をずっと楽しみにしておりました」
……そんなこと言われたら、断れないじゃないか。
私が黙っていると、背後から足音がした。
「お姉様!」
白いドレスの二人が、ぱたぱたと駆け込んできた。小さなティアラ、結い上げた髪、足元には、あの白いサテンの靴。
「わあ、お姉様、きれい!」
「お姉様、お揃い、お揃いにしましょう!」
ドナが、侍女の持つ箱から、小さな髪飾りを取り上げた。二人の髪についているものと、同じ意匠だった。
「お姉様にも、これ!」
「……お揃い、ですか?」
エラが、期待を込めた目で私を見る。
「お姉様も、私たちとお揃いに、なってくださいますか」
ずるい。
そんな目で見られて、断れる人間がいるだろうか。
「……もちろん。喜んで」
鏡の前に、三人で並んだ。
二人の白と、私の青。
髪飾りは、三人とも、お揃い。
「お姉様、すっごくきれい!」
「本当に、素敵です」
褒められて照れくさくて、でも、嬉しくて、私は鏡の中の三人を眺めた。
二人のかわいさに比べたら、私なんて、おまけみたいなものだ。
それでも、ニコニコと笑う可愛い二人に挟まれて、私は幸せだった。尊い。
* * *
王宮の大広間は、まぶしかった。
シャンデリアが輝き、楽団が優雅に音を奏で、色とりどりのドレスが揺れている。私の両側で、エラとドナが、緊張しながらも、背筋を伸ばして歩いていた。
誇らしい。
ここまで来たんだ、と胸がいっぱいになる。
もっとも、頭の隅では、別の仕事も進めていた。
まず、ご令嬢方の足元の確認。シンデレラみたいなガラスの靴は……ゼロ。よし。
次に、広間の大時計の位置の確認。入口の正面、高い壁。針は、まだ九時を指している。十二時まで、あと三時間。
……あと三時間は、気を抜かないこと。
けれど、ふと気づいた。
周りの視線が、やけに多い。
「あの青いドレスの方、どなた?」
「黒髪が、本当に……」
ひそひそ声が聞こえた気がした。
……裾に、何かついてる?
慌てて確認したが、何もなかった。気のせいだったかもしれない。私はそれ以上考えるのをやめて、妹たちに意識を戻した。
最初に声をかけてきたのは、杖をついた年配の夫人だった。
「失礼。あなた、初めてお見かけするわね」
「は、はい。普段は領地におりますので。アデリーナと申します」
「まあ、そのドレス。夜空をそのまま仕立てたよう。髪の艶も見事だこと。どちらの仕立て屋さん?」
「屋敷の者たちが用意してくれたもので、私は何も……」
夫人は、なぜか私の顔をまじまじと見つめた。
……裾に、何かついてる?
いえ、それよりも妹たちだ。目を離している場合ではない。私は夫人に頭を下げつつ、視界の端でエラとドナの位置を確かめていた。
そのとき、夫人の手から扇子が滑り落ちた。
近くにいた何人かは、気づかないふりをしていた。
エラが、すっと動いた。
急ぐ様子もなく、でも迷いもなく、膝を折って扇子を拾い、両手で差し出す。
「どうぞ。お足元、お気をつけくださいませ」
「まあ、ご親切にどうも」
夫人は目を細めた。エラは、夫人が杖をつく側に立ち位置を変えて、歩幅を合わせている。
「お話の途中に失礼いたしました。お立ちのままでは、お辛くありませんか。あちらに、お席が空いておりますが」
……さりげなさが、完璧だった。
私が教えたのは、扇子の拾い方と、お年寄りには先に席をすすめるという順序だけだ。会話を邪魔しないように断りを入れることも、杖の側に回ることも、教えた覚えはない。エラが自分で考えたのだ。
「本当に立派なこと」
そのとき、横から別の声が聞こえてきた。
「あら、あなたがたは、田舎の領地から来られたとか。さぞ退屈なお暮らしでしょうね」
若い令嬢が、扇子の陰で笑っていた。ほんの少し、棘のある声だった。
私が一歩踏み出すより早く、ドナが、にっこり笑った。
「ええ、空がとても広くて、のんびりしていますの。それに、かぼちゃがおいしいんですのよ」
……かぼちゃ。
私の肩が、びくっと跳ねた。
「今度、ぜひお召し上がりにいらしてくださいませ。姉が、特別に細かく刻んでくれますわ」
「ま、まあ。かぼちゃを、細かく?」
「ええ。とても滑らかで、一度食べたら忘れられませんの」
令嬢は目を丸くして、それから、ぷっと吹き出した。
「面白い方ね。お名前は?」
「ドナテッラと申します。ドナとお呼びくださいませ」
棘のあった空気が、ふわりとほどけた。ドナは、相手の機嫌を損ねることなく、堂々と、しかも楽しませてしまった。
……あれは、練習していた会話術だ。それも、私が教えたよりずっと自然に。
杖の夫人が、感心したように息をついた。
「お二人とも、本当に見事だこと。扇子ひとつ、ひとことの返しひとつに、相手を思う気持ちが行き届いています。礼儀作法は、どなたに習われたの?」
「姉に、教わりました」
エラが、迷わず私のほうを手で示した。
夫人の視線が、ゆっくり私に向く。さっきまでの、ドレスを眺める目とは違っていた。
「まあ。あなたが」
「いえ、私は、そんな」
私は、慌てて首を振った。
「二人が頑張ったのです。私は、一緒に勉強しただけで、むしろ教わることのほうが多かったくらいで」
「教えながら学ぶ人は、いちばんよい教師になりますよ」
「はあ……ありがとうございます」
私は、何を言われたのか、よく分からないまま頭を下げた。
夫人の周りに、いつの間にか、人が集まっている。
「あの二人は、ご姉妹?」
「お姉様が教育を?」
「うちの娘にも、あんな風になってほしいわ」
……妹たち、すごい。みんな、感心してる。
私は、誇らしさで胸がいっぱいになった。
「もしよろしければ、お姉様。うちの孫娘に、お茶会で……」
「ええ、もちろん。妹たちも、きっと喜びます」
にこやかに答えたところで、私は、夫人が少しおかしそうに笑っているのに気づいた。
……あれ? 私、何か変なこと言った?
近くにいた青年が、おずおずと口を開いた。
「あの、よろしければ、一曲、お相手を」
「あ、いえ。私、妹たちから目を離せないので」
即答すると、青年は、がっくりと肩を落とした。
夫人が、ころころと笑った。
「あらあら。美しいうえに、これでは」
美しい? 何が?
……ああ、ドレスのことかしら。侍女たちが、頑張ってくれたものね。あとで、お礼を言わなくては。
私が一人で納得していると、エラのほうから、小さな声がした。
「あの……」
エラの前に、一人の青年が立っていた。
穏やかそうな顔立ちで、品のいい装いをしている。その人が、エラを、まっすぐに見ていた。
目が合うと、青年は慌てたように視線をそらして、でも、またちらりとエラを見る。
……待って。
この視線は。もしかして。
私が身構えるより早く、その青年が近づいてきて、丁寧に頭を下げた。
「失礼いたします。先ほど、あちらの方に席を勧められるのを、拝見しておりました。お名前を、うかがってもよろしいでしょうか」
礼儀正しい。ものすごく礼儀正しい。
エラたちと同じく今日、社交デビューをした第二王子だった。
エラは、頬を赤くして、けれどきちんと膝を折って、小さな声で答えた。
「……エラノーラと、申します。エラと、お呼びください」
第二王子は、嬉しそうに笑った。
「エラ。……素敵な名前ですね。よろしければ、一曲踊っていただけますか」
その一言に、私は思わず、エラの横顔を見た。
エラは、少し驚いて、それから、ふわりと微笑んだ。
…………あ、これは、だめだ。
私の中の警戒警報と、別の何かが、同時に鳴り始めた。シンデレラは王子からダンスに誘われてそれから……
中央に向かう二人を見て、愕然とした。
「ドナ?」
ドナは、広間の反対側で、とんでもなく大きな人の前に立っていた。
近衛の制服を着た、肩幅の広い青年。腕も、胸も、制服の上から分かるほど鍛え上げられている。
「素敵……!」
ドナの声が、ここまで聞こえた。
「あのっ! 私と、踊ってください!」
「えっ、いや、自分は」
騎士が慌てて首を振った。
「自分は警護の職務中でして、令嬢のお相手は」
「だめ、ですか?」
ドナが、上目遣いで見上げた。
騎士は、固まった。
それから、周囲を見回して、誰も助けてくれないと悟り、大きな体を小さくして、答えた。
「…………一曲だけ、でしたら」
「やった!」
ドナが、騎士の大きな手を引っ張って、ダンスの輪へ連れ出していく。
私は、立ち尽くした。
我が妹ながら、行動力がありすぎる。
そして、気づいた。
二人とも、私の手を離れて、自分の足で、前に進み始めている。
それが誇らしくて、少しだけ、寂しかった。
そのとき、大広間の時計が、鐘を鳴らし始めた。
ごーん。
ごーん。
私の背筋が、凍りついた。
真夜中の鐘。
魔法が、解ける。
まさか、ここで。今。この場で。
……時計は、ずっと見ていたはずなのに。いつの間に、こんな時間に。
私は、人の波をかき分けて、エラのもとへ走った。
「エラ! 足元は!?」
「え、はい? 靴は、大丈夫ですけど……」
「ドレスは? 馬車は? かぼちゃは?」
「お姉様、どうされたのですか」
エラが、不思議そうに首をかしげた。
なんともなかった。ドレスは白いままで、靴は足にぴったりはまっている。馬車の気配もない。第二王子が、少し離れたところで、心配そうにこちらを見ていた。
ドナのほうを見ると、ダンスの真っ最中で、騎士の足を踏んでご満悦だった。
……何も、起きなかった。
「……お姉様、顔色が」
「大丈夫、ちょっと、安心しただけ」
私は、近くの椅子に、すとんと腰を下ろした。
鐘は、ちょうど十二回。ただの、時報だった。
エラが、ふふっと笑った。
「お姉様って、時々、本当に変ですね」
「そうかしら」
「でも、そこが、好きです」
……この子は、本当に。
私の目頭が、変に熱くなった。
* * *
それから、二年と少しの時間が流れた。
第二王子は、何度も屋敷を訪れた。エラの話を聞き、エラの意見を尋ね、エラが本を読んでいる横で、静かに座っていた。
ドナは、いつの間にか、あの近衛騎士と結婚していた。
過程は、よく知らない。ただ、「ねえお姉様、あの人、押したら結婚してくれるって」と、さらりと言われたのは覚えている。
押したんだ。……物理的に、ではないわよね?
あの舞踏会のあと、屋敷には不思議な手紙が増えた。「お嬢様のご教育について、ぜひお話を」「うちの娘を、お預かりいただけませんか」。
私は首をかしげながら、そのたびにグレゴールに相談した。
「どうして私に、こんな手紙が来るのでしょう。妹たちへの間違いではありませんか」
「……お嬢様宛でございます」
グレゴールは、なぜか微笑んでいた。
一通だけ、見覚えのある署名があった。舞踏会で会った、杖の夫人からだった。
お孫さんを、夏のあいだ屋敷で預かってもらえないか、という。人前に出ると、声が出なくなる子なのだそうだ。
……お茶会のお誘いじゃなかったんだ。
あのとき「妹たちも喜びます」と答えたことが、いまさら恥ずかしくなった。夫人が笑っていたのは、そういうことだったのだ。
「私に、務まるでしょうか」
「お嬢様は、お二人を教えてこられました」
グレゴールの言葉に、エラとドナが、後ろから声を揃えた。
「お姉様なら、できます!」
夫人のお孫さんは、十歳の、小柄な女の子だった。
玄関で挨拶をしようとして、口を開けたまま固まった。唇だけが、かすかに動いている。声は、出てこない。
私はしゃがんで、女の子と目線を合わせた。
「あのね。私、初めてのお辞儀の授業で、思いきりひっくり返ったの」
女の子の目が、ぱちりと開いた。
「先生に、二十回もやり直しさせられたのよ。二十回」
「……にじゅっ、かい?」
かすれた、小さな声が出た。
「そう。だから、うまくできなくても平気。ここでは、誰も怒らないわ」
後ろで、エラとドナが「お姉様、その話、私たちも最初に聞いた」と小声で笑っていた。
その夏、女の子は、屋敷の三人目の生徒になった。
難しかったのは、人前で話すこと。そこでエラとドナに「お客様役」をお願いした。ドナはわざと難しい質問をする係、エラは、うなずきながら聞く係。私が分からない言葉を「分からないわ」と言って、一緒に辞書を引くうちに、女の子は少しずつ、分からないと言ってもいいのだと、覚えていったようだった。
最初の一週間は、声が出なかった。二週間目に、「はい」が出た。ひと月目には、自分の名前が言えた。
夏の終わり、夫人が迎えに来た。
女の子は、玄関で背筋をぴんと伸ばして、膝を折った。
「おばあさま。ごきげんよう。お迎えに来てくださって、ありがとうございます」
はっきりした、通る声だった。
夫人は、杖を持つ手を、小さく震わせた。
「……この子の声を、こんなに聞いたのは、何年ぶりかしら」
夫人は、私の手を取った。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
「いえ、頑張ったのは、お孫さんです。私は、一緒に辞書を引いただけで」
「それが、いちばんの教育なのですよ」
夫人は笑って、少し離れたところを手で示した。女の子の母親が、手帳とペンを構えて、真剣な顔で立っていた。
「秘訣を、教えてやってくださいな」
「秘訣、ですか」
考えた。真剣に、考えた。
「そうですね。まず、失敗を恐れる必要はないことを」
「失敗を……ですね」
母親が、手帳に書きつけた。
「それから、食料庫は清潔に。ネズミが……あ、いえ、衛生のために」
「衛生」
「あと、かぼちゃは細かく切って、ヘタは別に保管します」
「……かぼちゃ」
母親の手が、一瞬止まった。それでも、すぐに深くうなずいて、書き続けた。
「なるほど。細部まで、行き届いた教育なのですね」
……あれ? 今の、教育の秘訣だったかしら。
後ろで、グレゴールが、咳払いをするふりをして肩を震わせていた。
秋に、女の子から手紙が届いた。丁寧に書かれたことが分かる文字で、こう書いてあった。
『せんせいへ。ひっくりかえっても、にじゅっかいやれば、できました』
……せんせい。
その文字を、私は三回読み返した。胸の奥がじんと温かくなって、ちょっと、くすぐったかった。
その夏のあとも、ひとり、またひとりと、預かる子が増えていった。
そしてついに、エラの結婚式の日がきた。
控えの間で、花嫁衣装のエラが、ベールを直していた。窓から差し込む光が、金色の髪を縁取っている。
「お姉様」
振り向いたエラは、あの日の灰だらけの少女とは、もう別人のようだった。
でも、空色の目は、ちっとも変わっていない。
「どうかしら。……おかしくない?」
「世界でいちばん、きれいよ」
飾らない言葉が、素直に口から出た。
エラは、嬉しそうに笑った。それから、ドナが部屋に入ってきた。すっかり落ち着いた、人妻の顔をしている。
「エラ、緊張してる?」
「少し」
「大丈夫。私がついてるから!」
「ドナのほうが、心配だよ」
「ひどい!」
いつもの、二人のやりとり。
私は、少し離れて、それを眺めていた。
庭園の下見は、昨日のうちに済ませてある。木の上、屋根の上、アーチの陰。鳥の気配は、なし。
* * *
式は、王宮の庭園で行われた。
白い花で飾られたアーチの下に、エラと第二王子が立っている。
誓いの言葉が終わり、祝福の拍手がおさまったあと、エラが、ゆっくりと私のほうへ顔を向けた。
「あの、お姉様。少しだけ、お時間をいただいても、よろしいですか」
会場が、静かになった。
私の席は、ドナの隣だった。ドナが、私の手を握っている。
「お姉様」
エラが、一歩、前に出た。
「私、お姉様が家に来た日のことを、今でも覚えています」
声は、震えていなかった。でも、手が、ぎゅっと胸の前で握られていた。
「あの日、お姉様は、私に、名前を聞いてくださいました。そして、エラって、呼んでくださいました」
喉が、ひくりと鳴った。
「私は、それだけで、まだエラでいていいんだって、思えたんです」
エラの目に、涙が浮かぶ。
「馬車の中で、パンを入れた籠を、そっと私の隣に置いてくださいましたよね。いつでも食べていいって。あのとき、明日もご飯があるんだって、やっと信じられました」
気づかれていた。
私は、ずっと、気づかれないようにしていたのに。
「夜、眠れなかった私に、ミルクをくださいました。何も聞かずに、一緒にいてくださいました。……それから、ずっと、お姉様の袖を、離したくなかったんです」
エラが、小さく笑った。
「文字を教えていただいたときも。間違えても、叱られなかったこと。分からないって、正直におっしゃってくださったこと。最初は、お姉様に褒めていただきたくて、頑張っていました。でも、今は、学ぶことが大好きです。それも、お姉様が、教えてくださったことです」
エラは、涙を指でぬぐった。
「お姉様がいてくださったから、私は今、こんなに幸せです」
ありがとうございます、と、エラは深く頭を下げた。
何か言わなきゃ、と思った。
でも、声が出なかった。
そのとき、私の手が、ぐいっと引っ張られた。
「お姉様!」
ドナだった。両手で、私の手をぎゅっと握っている。
「エラが先に言っちゃったけど、でも、でも」
ドナの目も、真っ赤だった。
「私の方が、お姉様のこと大好きだもん」
言い切ってから、ドナは唇を噛んで、声を詰まらせた。
「……ずっと、お姉様みたいに、なりたかったの。お姉様が褒めてくれると、嬉しくて、嬉しくて、だから、頑張れたの。お姉様が分からないって言ってくれた日、私、お姉様のこと、もっと好きになったんだよ」
私の視界が、ゆがんだ。
熱いものが、頬をつたって落ちた。
私は、ただ、二人に幸せでいてほしかっただけだった。
あの灰だらけの小さな手を、守りたかっただけだった。
あの日、「エラ」と呼んだときに、小さくうなずいてくれた、あの子を。
大きくなった二人が、今、私の前で笑って、泣いている。
そして、お互いを大切にして、手を取り合っている。
それは、私が望んだものの、全部だった。
「……ありがとう」
かすれた声で、やっとそれだけ言えた。
私は、二人を、強く抱きしめた。
エラの髪から、花の香りがした。ドナの肩が、小さく震えていた。
会場のあちこちで、すすり泣きが聞こえた。グレゴールが、そっとハンカチを目に当てていた。
長い、長い時間のあとのように感じた。
そして、静かに、拍手が広がっていった。
* * *
そのときだった。
ばさばさっ、と、羽音がした。
私の肩が、びくりと跳ねた。
アーチの上に、白い鳥が、舞い降りた。
白い。鳥。
鳩。
私の頭の中で、遠い遠い昔の絵本の挿絵が、くっきりと浮かび上がった。
結婚式。白い鳥。そして、鳥が、目を、
「鳥!? 確認したのに! まさか、あの話の……!」
体が、考えるより先に動いた。
「二人とも伏せてーーー!!」
私は、エラとドナの頭を抱え込んで、庭園の芝生に、ドレスごと飛び込んだ。
ベールが宙を舞う。ティアラがずれる。会場から悲鳴が上がる。
私は二人を、全身で覆った。
「目は! 目は無事!? 痛いところは!?」
「お、お姉様……?」
「大丈夫、大丈夫よ、お姉様が守るから、絶対に守るから!」
くるっぽー。
のどかな声が、頭上から降ってきた。
くるっぽー。
……。
私は、恐る恐る顔を上げた。
アーチの上で、白い鳩が、首をかしげていた。
祝福するように、ただ、のんびり鳴いている。
会場が、静まり返っていた。
誰も、何も言わなかった。
「……え?」
私の口から、間の抜けた声が出た。
腕の中で、エラの肩が震えた。
最初に、ふふっと小さな笑い声が漏れた。続いて、ドナがぷっと吹き出した。
「お、お姉様……っ、ふふ、あはははは!」
「お姉様ってば、最後まで、お姉様だね!」
「待って、違うの、これは」
第二王子が、口元を押さえて肩を震わせていた。会場のあちこちから、温かい笑いが広がっていく。
あの舞踏会で出会った杖の夫人が、扇子で顔を隠して、全身をふるふると揺らしていた。グレゴールまで、ハンカチで顔を隠して、同じように揺れている。
私は、芝生の上で、ドレスを広げたまま、真っ赤になった。
……だって、鳥だったんだもん。
くるっぽー。
鳩が、もう一度、鳴いた。
* * *
その後、数々の伝説を打ち立てたお姉様は、国一番のガヴァネスと称えられることになりました。
めでたし、めでたし。




