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四章「腐敗思想と決意」

「もう一回言ってくれないかな」

睥睨し、私は低い声の調子でそう言った。

彼は、「はあ?」と訝しげに私を見る。

自分でも、ここで怒りを露わにするのはバカのすることだとは思う。

けれど、私はもう一度言った。

「上手く聞き取れなかったから、もう一回言ってくれないかな?」

「仕方ねえな」

ため息混じりに彼は言った。

「式霊なんて酷使してなんぼ。使い潰しても変えが効くんだよと、つったんだよ」

「ああ」

納得した。そうか。こいつも、あの受付係と同じ意見な訳だ。

妙にふに落ちた。私はひとりで頷く。

「ーーーそう言ったんだ」

「ああ? んだよ、教えてやったのにその態度、失礼じゃねえの?」

「むしろあなたの言い方のほうが、失礼だよ」

あくまでも彼が悪いと思う私に、彼は眉根をひそめた。

「はあ? 俺たち陰陽師全員が思ってることだぜ。 何を抜かしてやがる」

私はもう、怒りを抑える手段はたった一つしかないと思った。

だからこそーーー

「ーーーねえ。勝負しようよ」

と、告げる。

彼の眉根が、一層潜められる。

「意味わからねえ。何言ってんだお前」

苛立ちを声に含ませ、私を糾弾するようにそう言った。

けれど、私はそれでも臆さずに詰め寄り、言い放つ。

「私が勝ったら、さっきの発言を取り消して」

「俺が勝ったら?」

無言を返す私に、彼は失笑した。

「お話しにならねえ。いいか、てめえの言う勝負ーーーそれはいわば『決闘』だ。なら、互いにウィンウィンじゃねえと」

人差し指を立て、彼は告げる。

「俺が勝ったら、てめえの式霊をもらうってのでどうだ」

「それは、重さが違う」

「はっーーー怖気づいたのか? 決闘を申し出たのはてめえだ。それくらいのハンデは背負えよ」

相手の言うことは最もだ。

でも、彼の持つ思考は私の意見を真っ向から否定している。

だからこそ相容れず、気分が悪い。

ーーーでも、ここで引いたら腐った考えをのさばらせてしまう。1人でも変えることができれば、あるいは

私は深呼吸し、彼の目を見据えた。

そして言う。

「構えて」

彼は鼻で笑った。

「身構えるのはてめえの方だ」

護符を取り、人差し指と中指の間に挟む。ーーー刀印。

私は瞬時に攻勢術式であると判断し、いつでも防御できるよう準備した。

彼が卑しく笑いながら、動く。

「痛い目を見たくなけりゃ、しょっぱなから防御術でもすることだなっ」

刀印を切りーーー、

「ーーー隕鉄の火矢っ!」

術句を唱えると、呪力で何もない彼の目の前の空間に、鉄が溶けた時のように赤く燃える矢先を持つ矢が形成された。

不意に彼は笑み、「穿て」と命じる。燃え滾る火矢は、その命に従い、私に迫った。ヒュンと鋭く、風を切る音がする。

私に向かい直進するそれが通過した箇所が、焼け焦げているように見えるのは目の錯覚だろうか。

ーーーいや、違う。実際に空間が焼けている!

彼の口元が嗜虐的に歪む。

「焼かれて、死ね」

私は、火矢が直撃するその刹那の時間に、「心火防魔の陣」を発動した。火矢は防御結界に阻まれ、かつ、電流がかけるような音とともに弾かれ、地面に落ちた。

ことなきを得て、ふー、と肺にたまっていた息を吐き、少し呼吸を整える。でも、緊張していたためか、背中が汗でびっしょりだった。服がひっついて気持ちが悪い。

心なしか暑い気がして、パタパタと手で仰いだ。少しでも風が来て、涼しく感じる。

そんな私が腹立たしかったのか、彼は、舌打ちをした。

「くそっーーーカウンターの防御術か」

死への恐怖より、同じ人間に対する所行とは思えず、私は怒りを覚えた。

その怒りを顔に出さないように装いながら、私は静かに聞く。

「私を殺す気だったんですよね?」

「ああ」

その問いに、ゆっくりと彼は頷いた。限界だ。こいつの性根は相当腐っている。

私の怒りが爆発しかけた時、

『あなたの判断は正しかった。このまま、防御をしていなければ確実に死んでいましたよ』

檜佐木の声が聞こえた。

「檜佐木さん!」

喜びで、反射的に声の主の名を口に出す。

ーーーここは過去の世界とはいえ、私はいないことになっています。私の名前を出すのは、極力避けてください。

はっとして、声を落として私は続けた。

「すみません、名前呼んでしまいました」

『いえ、大丈夫です』

それより、と檜佐木は話題を変える。

『あの火矢は、別名、「滅却の火矢」と呼ばれる高等陰陽術。標的を穿った瞬間、その箇所から呪力をまとった火炎が駆け抜けーーー最終的には、文字通り崩壊させる術です』

「そんなーーー危険な術を」

『ええ。しかし、低級防御術ではありますが、弾くーーーカウンターの機能がある「心火防魔の陣」で防げるので、教えた甲斐がありましたよ』

檜佐木とあらかた話終わると、彼が叫ぶようにして聞いた。

「何をボソボソ言ってやがる? 」

苛立ちがたまっていたのだろう。自分の浅はかなプライドを傷つけられた、と。

「そのうぜえ殻を今すぐに消せっ! 戦うんだろうが!」

私は彼の叫びを、一笑に付した。

「そう言われて消す人がいると思う?」

「それなら反則負けにするぜ? それでもいいのかよ」

「そんな勝手な!?」

「当たり前だろうよ。そっから出ずに俺の呪力切れを狙おうなんざ、陰陽師同士の闘いに程遠い。反則負けでもあまりあるだろう?」

「くそっーーー」

戦いをふっかけたのは私だが、主導権は今や相手にある。

檜佐木が、『解除してはいけない』と言うが、このまま負けてしまえば、私のパートナーを虚仮にしたままで飽き足らず、奪うとまで相手が言っているのだ。

それは、「波」と戦う手段を失うだけでなく、“私”の正体を暴く相棒を失うことにもつながる。

望むところではないために、私は従うしかない。

檜佐木に「すみません」と謝り、私は「心火防魔の陣」を解いた。

淡い朱色の火でできた防壁が、崩壊をし始める。私は消えゆく防壁を名残り惜しく見ていたが、完全に消えた時、意識を変えた。

その私に彼は聞いた。

「お前ってさ、実は弱いだろ?」

「なにを、聞いて?」

「図星だろ、分かるぜ。知ってる陰陽術って、低級防御術と式霊の召喚と返還だけだろうしな。いやーすまない。そりゃあ、式霊を庇うような言い方をするわけだわな」

「……何が言いたいの?」

「ハンデをやるよ」

「ハンデ?」

「ああ」

彼は頷き、続きを話す。

「一発勝負だ。俺が、隕鉄の火矢をお前に向けて放つ。それを防御術使わずに避けてみせろ。それができたら、お前の勝ちだ」

その誘いが、すごく魅力的に感じた。

『乗ってはいけない』と檜佐木が叫ぶ。『危険だ』と言って、制止を促す。

けれど、私はその「リスキーではあるが、勝負が長続きしない一発勝負」が、好条件であると思い、首肯した。

『どうして』

檜佐木が問う。

理由はもちろんあるので、私は答えた。

「彼には、高等陰陽術を使えるというアドバンテージがある。それを誇示したいがための一発勝負なのでしょう。だったら、好条件なんです。それを真っ向から挫いてやればいいんですから」

自信有り気に笑って。絶対に勝てると。

『しかし』

檜佐木は、少し不安があると言う。

『彼は相手を見下していると思われる言動が多々あります。久城さん、あなたが防御術を使い続けることを反則と言う相手ですよ。そう言う相手が素直に、一発勝負だけすると思いますか?』

「それならーーーその時はその時です。私はこの戦い、絶対に勝たなきゃいけないんです。だから、あいつにだけは背中を見せられない」

式霊をバカにする彼の言葉が思い出され、腹がたつ。そんな私の感情が伝わったのか、彼女は頷いた。

『分かりました。ーーーただし、相手が何かしようというのが見て取れたら、すぐに防御術を発動してください』

檜佐木の言う懸念に、私は承諾した。

「了解です」

しばらくして、彼が問う。

「ーーー失う覚悟はできたか?」

私はその問いを鼻で笑って、返してやった。「何を今更」と。

瞬間ーーー、一発勝負の火蓋は切って落とされた。

「ーーー行くぜ!」

彼が隕鉄の火矢を生成し、私に向かって放ったのである。

それは阻む向かい風を難なく空間ごと燃やし貫きーーーいや、むしろ利用しているように思えた。ぐんぐんと速さを増していく。目で捉えるのがやっとだった。

ーーー空間を燃やしつくすほどの破滅的威力に加え、ここまでのスピードを出すとは。

先ほど放った第一の矢より、この第二の矢の方が、格別に速度が増していると私は感じた。

ということは、第二の矢の方が威力も増しているのだろう。

ーーー一発勝負では、防御術が使えない。けれど、まだ目で追えているだけ避ける余地はある。

私はいつでも避けれるよう身を前に傾け、微かに見える矢じりの影を注視した。

ーーーあと、距離的に1メートル弱で私に到達する。ぎりぎりまで引きつけて避ければ、あいつの自信を挫くことができる。

時間が経過する。あと50センチ。


ーーー30


ーーー15


私は、少しずつ左の足を下げていく。


そして、矢との距離が、あと10センチも満たなくなったその時、彼がニヤリと笑った。

瞬間ーーー第二の矢が先端から分かれるように第三、第四、第五と……分裂し、私に殺到した。

もう、一本の矢どころではなく十何本もの矢が脅威として私に迫る。


ーーーどう、して


私の足が、身体が驚愕で動かない。

まるで金縛りにでもあったかのようだ。

心の中で『やはり』と檜佐木が苦しげな声を出す。

けれど、私は諦めきれなかった。

ーーー動け


ここで諦めれば、後に待つのは後悔だけ。


ーーー動け!


私は、気力を振り絞り、全力で自分の足に指令を送る。

刹那、足が微かにだが動いた。


「無駄だ、死ねよ! 俺にたてついた雑魚として報告書に書いといてやっからよ!」


奴の下卑た声がする。

実際、もう私の鼻先に群れをなした滅却の火矢があった。

それはごうごうと燃えたぎり、私を貫かんとしている。


ーーーでも、掠るのを覚悟で避ければ!


私は、一息に「横に」跳んだ。

空中に放り出された私のすぐ側を、火矢が次々と通過する。地面に突き刺さっては火炎を撒き散らして、表面を燃やした。その焦げた臭いが、私の鼻腔をくすぐる。

だが、地面とともに空気を燃やしたために気流が発生し、私の助けとなった。

結果的に私は、一本も掠ることなく生還した。

地面に背中から叩きつけられた時には、脅威とも思えた滅却の火矢の全てが、私の代わりに地面を穿っていたのである。

檜佐木が『良かった』と安堵の声をだした。

私は返事として、「おかげさまで」と笑いかけた。

元いた場所から目算で、10メートルは離れているだろう。

そのため、何か言ってるであろう彼の言葉が聞こえ辛い。

だが、口の動きに加え、地団駄を踏んでいることから、恨みつらみを延々と吐いていることは、分かった。

檜佐木が言う通り、彼は無駄にプライドが高く、負けることを嫌うのだろう。

それは彼が、高等陰陽術を使えるから、だけなのかは知らないが……。

ーーーでも、これで勝った

そう思った時、目の前の彼が動いた。

胸元にあるポケットのようなものから、長方形の紙を取り出したのである。

『何かする気のようです。あなたは一度勝ちました、これ以上相手する必要はありません。逃げましょう』

檜佐木がそう言うが、彼はもう刀印を切り、黄土色に輝く透明な剣を生成していた。呪力の剣だ。少しずつ私との距離を詰めていっている。

彼は怒りに駆られた表情をしていた。歯を食いしばり、唇の端から一筋の血が垂れているのが見て取れる。

ーーーどこまでも往生際がわるいっ

向っ腹がたつ。どこまで強情なのだろうか。

ここで私を刺して致命傷を負わせるにしろ、自分の品位を下げるだけだ。それだけではなく、脱隊処分が下るかもしれない。

だというのに、私に肉薄し、その刃を振り上げた。

私は叫ぶようにして言う。

「ここで私を刺し殺しても、あなたのプライドを少し満たすだけです!」

「知らねえよ! 俺はてめえを殺せればいい!」

彼は勢いよく刃を振り下ろした。

間一髪、私はそれを掴む。少し彼が怯んだのを見て、私はさらに畳み掛けた。

「殺人の罪をおったあなたは、陰陽師の役職から退かなければならなくなる! もっと言えば、殺人罪で逮捕ーーー死刑です。ほんの少しーーーわずかなプライドを満たした結果がそれです。それでもいいんですか!」

「黙れ!」

彼の目にはもう、私に対する殺意しかなかった。

刃に込める力を強めていくにつれ、それが私の顔に近づいていく。

私は、彼に私の呼びかけが通用しないことを悟った。

死の恐怖に目を閉じかける。

その時、私の頬を掠める一筋の風を感じた。

同時、冷たい刃の感触と重さが消えたのを感じた。

目を薄く開けたまま、視線を動かす。

とーーー火扇が彼の首を刺し貫いていた。顔は見えない。だが、あの出血量では絶命しているだろう。

私は震える口を開き、問うた。

「どうしてーーー殺したり、したんですか」

火扇は薄く笑い、答える。

「俺たち一軍には、罪を犯した隊員を殺すことができる決まりがあるんだ」

「そんなルール、おかしいですよ」

「なに?」

「だってそうじゃないですか! 罪を犯したかもしれない、でもいきなり殺すようなことはあっちゃいけない!

それに……式霊の扱いだって」

「隊員の扱いも、式霊の扱いもひどいって? ははっ、式霊は仕方ないさ」

と火扇は冷たく笑う。

「どうして?」

私がそう問いかけると、火扇は答えた。

「式霊は人間じゃない。動物とも違う存在だ。体力は無尽蔵にあるし、呪力の保有量も陰陽師よりも優れている。そんな危険極まりないもの、使役しないでいたら、必ず人に仇をなすことになるだろう。それだけは避けなければならないんだ」

「だから、仇なしたら殺せるように術式をしかけるんですか? 」

「そうだ」

当然なことじゃないか、と分からない生徒を諭す教師のように彼は言う。

私は胸に痛みを感じた。

使役の術式は、かけた瞬間に激痛を式霊に与えるらしく、狐は苦悶の表情をしていた。

そしてーーーそんな非道なる使役の先にあるのは、酷使されるか、逆らって死ぬかの二択。

火扇の眼を見る。やはり、「決まり」だと「当然なこと」だと言うように平然とした瞳をしていた。

私は再度、問う。

「そんなひどいことが、直に分かるとあの時おっしゃったんですか」

ーーー否定してください

と。貴方だけは、あの腐りきった思想を持っていないと、否定してください。

1人だけでもいい。陰陽師の隊に1人でも、私と同じ意見を持った人がいれば、まだ耐え切れる。

けれど、彼は無言で首を縦に振った。

私の胸が一層痛くなる。どうして、と訊きたくなる。それを紛らわすように私は叫んだ。

「ふざけないでください!」

「俺は、極めて真摯に君に接しているつもりだよ」

ーーーそうかもしれない

でも、他の陰陽師と考えが同じなら話は別だ。

「私は、自分の式霊を相棒だと認識しています。けれど、陰陽師は! 式霊をただの奴隷のように飼い慣らしています」

私の訴えに、火扇はため息を吐いた。

「許せない?」

「当たり前です」

「分かった。ーーーじゃあ、君に以前言った通り、今から5ヶ月後にある総帥による御前試合に出ろ。そこで、自分が一軍に抜擢されるだけの実力者であることを示せ。そして、証明してみせろ。君が正しい、と。できなければそれまでだ」

「分かりました。ーーーその言葉、ゆめゆめ忘れないでくださいね」

もうお互いに語ることはない。

私は踵を返した。彼に背中を見せ、前に歩き出す。

空を見上げれば、私の決意をあらわしたように、夕焼けが紅く燃えていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーー


陰陽師部隊にも、寮があるそうだ。

だが、実際に新人が泊まる場所は本部ではない。檜佐木が言うには、陰陽師部隊に入隊した直後は宿舎か、温泉宿の一室を借りるらしい。

借りさせていただく代わりに、客への対応は、その陰陽師がやるというのが通例となっている。そのためにこの場合、私がやる、ということになるのだ。

と言うことで、私は今、温泉郷東の方の宿に向かっている。

道はというと、私が本部にいた間にある程度、舗装されたらしく歩くのに支障はなかった。

けれど、街灯は壊されていて、夕暮れ時も終わりに差し掛かっているのもあり、暗く感じる。そんな空に散りばめられるように星々が煌めいていた。

その星々の煌めきに目を細めながら、檜佐木に、「客の対応って本当に陰陽師の仕事なんですか?」とため息混じりに訊いてみる。否定されるの期待していたが、『ええ、そうですよ』と即答された。檜佐木は言う。

『二軍陰陽師の仕事は、4つです。

複製の波襲来に向けた対抗訓練、防衛戦の参加、そして、先の襲来によって破壊された郷の復興作業。さらに、温泉宿の客対応。これら全てが、あるからこそ「泉郷の陰陽師」と言われる所以なのですよ』

「ということはーーー二軍でい続けた場合……」

『ええ。仕事内容は基本変わりません。ああでも、慣れてきた頃には、仕事が増えますよ』

楽しそうに言われて、私は、やはりため息を吐くしかなかった。

これに加えて、“私”の正体を暴くこと、式霊の管理体制の指摘や是正を求めること、御前試合に向けた陰陽術の勉強の3つをしなくてはならない。

やることはてんこ盛りだ。

ここまで考えて、ふと思い出した。

ーーーそうだ。パートナー!

今日の内容が濃すぎて、無事を確かめる余裕がなかった。でも、今はまだ宿に到着しなくてはならない時間まで猶予がある。

檜佐木が『やめなさい』と言うが、もう私は、刀印を切ると同時に祝詞を唱えていた。

ーーー現れろ、我が式霊

「怨み狐ーーー!」

パートナーの名を叫ぶ。

刹那、私のいる場所からさらに東の方で湯気立つ水柱が上がった。

ついで、中から光の球が現れ、こちらへ向かって飛んでくる。

至近距離の地面に着弾するようにして地面を穿った。その衝撃で光の球がひび割れていく。そして、ーーー中から鏡を背負った狐が出てきた。

しかし、彼は地に伏したままで、嫌味すら言わない。

首元の黒い首輪が痛々しく感じた。

「パートナー?」

心配になり、声をかける。

と、耳がピクッと一度だけ反応したが、それだけだった。顔を上げることはない。

私は、一層心配になった。

彼に近づこうとすると、

『今はダメです。自然に温泉(ねどこ)に還るのを見送りましょう』

檜佐木の制止があった。

彼女の言葉に従って止まるものの、あまり納得がいかない。

「どうしてですか? もう、術式をかけられて、強制返還されてから時間は立っているはずですよ」

『ダメなんですよ』

檜佐木は苦しげに言う。

『今の式霊は、陰陽師に対して極度の怨みに駆られています。安易に近づけば、例え、主人でも喰い殺されます』

「そんなーーーでも、あんなに弱々しい」

『術式による痛みに馴染むまで最低でも3日はかかります。それまでは、呼び出しても命令を聞き入れることも、主人を守ろうとする意思すらもありません』

「だからーーーさっき、やめなさいと言ったんですか」

『そうです』

「すみません。聞かん坊でしたね」

『そうですよ。あなたは今まで私や怨み狐の制止を聞いた試しがあまりありません。少しは自重してください』

「うっーーーごめんなさい」

反射的に謝った。でも、ふと考えると「あまり」をつけるあたり、彼女は優しいのかもしれない。

『まあでも、彼を呼び出したくなる気持ちも分かります。私も、心配で呼び出した時がありましたから』

「そう、だったんですか?」

『ええ。ーーーと、返還が始まりましたね』

彼女の言葉に促され、狐の方を見る。狐の身体が光の球へと変化していく。

狐が術式をかけられ、その表情が苦悶に歪んだのを思い出し、私は胸が痛むのを感じた。

気づけば叫んでいた。

「私、君を守るから! 温泉郷の運命を変えてみせるから!

絶対、陰陽師部隊の式霊に対する意識を変えてみせるから! だから、だからーーー今はゆっくり休んで!」

東の方の温泉へと飛んで還るとき、見えないはずなのに彼の口元が少し、笑んだ気がした。

狐が飛んでいった方向をしばらく眺めていると、檜佐木が言った。

『さて、行きましょうか』

目を一度閉じる。そして、開いた時には胸中に渦巻き、痛みとして現出していた悲しみは、消えていた。

「はい」

私は頷く。温泉宿へと歩を進めた。


ーーーーーーーーーーーーーーーー


温泉宿に着いた。

私が今いる温泉郷東の街並みは、先の襲来で破壊されているものと思ったが、意外にも原形をとどめていた。むしろ、綺麗なものだ。

複製の波の派生、「影の礫」によって、破壊されたものもあるが、お洒落な宿は連なって残っている。

『やはり、東の方は被害が少ないですね』

「何か理由でもあるんですか?」

『うーん……推測の域を出ないのですが、東西南北の温泉郷の中でも、東の方が龍脈から流れる霊的エネルギーの濃度が高いから、でしょうか』

また新しい言葉が出た。

「龍脈? 霊的エネルギー?」

『ああ、すみません。陰陽師部隊の訓練が開始されたら習う内容の一つです。龍脈というのは、霊的エネルギー……即ち、自然の中に存在する呪力の奔流のいわゆる通路みたいなものです。それには濃度の高い低いがあるんですよ』

「そうなんですね。じゃあ、私達、陰陽師はそれを使っているんですか?」

私の問いに彼女は『いいえ』と否定した。

『難易度が高い術式を行使する時のみです。あなたが使ったことがあるのは低級陰陽術。体内で練り上げる呪力による術ですね』

若干バカにされた感はいとめないが、彼女の説明に納得したのは事実だ。

ようは、陰陽師には呪力を自分から練り上げて、術を行使するパターンと、龍脈からの呪力を吸い上げて術を行使するパターンの2つがあると言うこと。

理解はできたので、とりあえず首肯する。

「そう、ですか」

その後、温泉宿の門をくぐって、敷地内に入った。


その温泉宿は、宿というより、「旅館」に近い。私が観ていたのは、旅館のほんの一部だったらしく、広々とした敷地内に何棟も連なっていた。

旅館のその全てから覗く窓の多くが、煌々と輝いている。それが、旅館の外装に数多の恒星をとってつけたかのようで美しさを引き立たせていた。

正直、驚いて声も出ない。

そうして立ち尽くしていると、旅館の引き戸からお年を召した女性が現れた。彼女は、桃色の着物を着用し、長いグレーの髪を後ろに簪で結っている。歳の割に背を伸ばしていて、その立ち振る舞いから、しっかりとして見えた。

彼女は私の視線に気づくと、一度うやうやしく深く腰を折って、礼をする。引き戸の隣へと移動して顔を上げ、

「どうぞ、お入りくださいませ」

と微かに笑いながら、促した。

私はおずおずとしながらも、彼女に一礼する。そうして、旅館の中に入っていった。


旅館の中は、外見と同じかそれ以上の壮麗さを感じさせた。

まず、息苦しさを感じさせない、それでいて広すぎもしない、ちょうどいい幅の渡り廊下。

次に、その廊下をすぎた先にある広々とした談話室。

壁には金箔がこれでもかと装飾付けられ、天井には龍を模した影絵があった。室内に目を向けなおす。

受付はどこにあるのか?

そう思った時、「受付ルーム」と文字が刻まれた扉が、談話室の右端にあった。

室内の景観を損なわせないための、捻り出した答えなのだろう。

とは言え、少し分かりづらい、と私は思った。

彼女にその旨を聞いてみると、少し困ったように笑ってから、こう答えた。

「だからこそ、当宿は全て予約制にしております。陰陽師の皆様方の宿泊も、三つきも前から総帥様が直々に予約されていたのですよ」

へえ、それは初耳だ。彼女が私に旅館の中を案内してくれるのは、景観は綺麗だが広々としすぎていて、分かりにくいのを埋めるためだろう。

私は彼女に人差し指と中指を立てて、「2」を表した右手を見せる。

「あの、あと二つ質問いいですか?」

「はい、なんでしょう」

お婆さんは微かに笑った。

私は一つ目の質問をする。

「普通に泊まる人は、宿泊費をどこで払うんですか?」

「あそこの『受付ルーム』と言うところですね」

「そうですか。 それを踏まえてもう一つ質問です」

「はい、どうぞ」

彼女に促され、私は遠慮なく聞いた。

「私達陰陽師は、お金を払わなくてもいいですか?」

「大丈夫です。ーーーと言うより、あなた方陰陽師の皆様には、働いてもらっていますしね。無料で一室を提供しています。温泉も、無料でご利用していただいて結構ですよ」

お婆さんは、そう言って笑った。

檜佐木の言うことを疑っていたわけではないが、お婆さんの先の言葉を聞いて内心、安心した。

なぜと聞かれたら私はこう答える。「ただでさえ豪華な旅館なのです。陰陽師部隊に与えられた特権が、この旅館にも機能するのか心配になっても仕方ないじゃないですか」と。

「さて」とお婆さんは一息吐いた。

「今日はもう遅いですし、陰陽師様もお疲れでしょう。本格的な訓練は明日からでしょうし、この旅館の仕事内容を説明するのは明後日からしますね。では、部屋をご案内します。こちらです」

「ありがとうございます」

歩き出したお婆さんに合わせ、私も彼女についていく。

談話室の真ん中を横切り、目の前に見える廊下を渡る。

その廊下の両面には壁がない。代わりに、片方は障子があり、もう片方は川が見えた。

川の流れは時が止まっているのではないかと思えるほど穏やかだった。

その川の上に、踊るように蛍がチカチカと光を放っている。心が洗われるようだった。

感動の最中にいた時、「陰陽師のお嬢さん」と声がかけられて、意識がもとに戻った。

「すみません、感動して意識が……」

お婆さんは、「ありがとうございます」と涼やかに笑う。

しかし、と言葉を繋げて彼女は言った。

「当宿のお客様にアピールできるところは、まだまだございますよ」

「楽しみです」

そう返すとまた、お婆さんは頭を下げる。

「お二階はこちらです」

そうして、お婆さんが手で指し示したところに、二階への階段があった。

「陰陽師のお嬢さん。あなたが宿泊される部屋は、二階奥の右側にございます」

彼女と一緒に階段を上がる。

踏みしめるたびにキシキシと小気味良く軋む音が聴こえ、その音が聞こえなくなる頃にはそう息切れもせずに二階に上がることができた。

お婆さんは「こちらです」とまた歩き出す。

仕様なのか暗い廊下を、天井に吊るされて揺れるランプの、淡く輝く光が照らしている。

彼女の背中についていくと、奥にあるガラス窓の前で歩くのをやめた。

「着きましたよ」

お婆さんが振り返る。手には、いつの間に取り出したのか、銀に光る鍵があった。

それを私に手渡し、

「では、また何かございましたら、一階談話室受付ルームにてお申し付けくださいませ」と告げ、去っていった。

視界から、完全にお婆さんの背中が消えるまで見送ったあと、私は手に持つ鍵をドアの鍵穴に差し込む。

手を軽くひねると、かちゃりと音がした。ドアノブに手をかけ、押すようにして開く。

と、暗闇の室内が目の前にあった。

ーーー暗いな。何か光は

微かに見える下駄箱のようなものの上に、ランタンがある。

それを手に取り、床の上に置いた。

ついで、ランタンがあった場所をまさぐってみると、マッチ箱があった。

手に取って、マッチ棒に火をつける。その火を、ランタンの中にある蝋につけると、煌々と輝いた。

ランタンのガラス戸を閉める。そして、ランタンの上にそなえつけられた、針金のように細い手提げ用の棒を掴んで上げる。

と、闇に包まれて暗かった部屋の内容が見て取れるようになった。

一つは、廊下奥にある部屋。床は緑色をした畳。左の壁に備え付けられてるようにして閉められているふすまを開けると、布団があるのだろう。

廊下の右脇にある扉を開けると、木でできた風呂があった。少し空気を吸ってみる。すると、微かにだがヒノキの香りがした。心地がいい。

体の隅々まで、その香りが染み渡る感覚。

そうして浸っていると、檜佐木が言った。

『ヒノキは良いですよね。

香りが、風呂の湯に合う。だからこそ、それ以上に温泉にも合うんですよ』

「そうですね」

檜佐木の言葉に相槌を打つ。その時、脳裏によぎったのは私が幼少の頃に母と2人で行った温泉街でのことだった。

あの時は、日帰りでご飯の食べ歩きが主体だったために、時間があまり取れず、温泉には浸かれなかった。

母がそれを申し訳なく思ったのか、帰りに立ち寄ったお土産屋で、風呂に入れる温泉の素を買っていた。

家に帰ったあと、それを風呂に入れて使ってみると、硫黄の香りに微かにヒノキの香りがしたのを覚えている。

私は、クスッと笑った。

檜佐木が『何か楽しいことでも?』と聞いてくる。

「ええ、少し」と返し、風呂場を出た。

畳の部屋ーーー寝室に入る。

左奥のふすまを開けると中には、上段に布団とマットのセット、中段に寝室用らしきランタンと灯油の缶、下段には私の膝あたりの高さの机があった。

下段の机は、何のためにあるのかと思ったが、自分が陰陽師であることから、作業台かなと私は推測した。

「さて」

とりあえず、布団を出すことにした。

落とした拍子に割れては困るので、ふすまから離れたところにランタンを置く。そして、布団を掴んだ。

ふかふかとしていて気持ちのいい質感。このまま、その質感に酔いしれたくなるが、首を横に振る。

布団を引っ張り出して、床に敷いた。

その上に座り、檜佐木と喋って時間を潰す。

ーーーいい加減風呂に入るか

そう思った時、

ーーーそういえばここ、温泉宿だったな

あまりに悠々自適なくつろぎができたので、失念しかけていたが思い出した。

とは言っても、どこに露天風呂があるか分かっていない。

私は、お婆さんに露天風呂の場所を聞きに行くことにした。

一階に降り、渡り廊下を歩いて、談話室へ向かう。室内に着いたら、奥の「受付ルーム」の扉をあけて中に入った。

ルーム内は案の定、狭かった。

目測で、六畳ほどしかないと思うほどだった。

それを2、4で分けている。2の方はカウンター側で、4の方は客側だろう。

その分け方をした理由はおそらく、客に窮屈感を与えないようにするためだろうと、推測できる。

カウンター側にいたお婆さんは、私と視線が合うと、涼やかに笑った。

手招きして、私を呼ぶ。私が近づくと、お婆さんは「風呂に浸かる前に、この着物を着てください」と言って、黒い着物を手渡した。

聞くに、お婆さんはこう答えた。

「黒装束で風呂に浸かると言う行為は、身体を覆う『穢れ』を払い落とすことにつながるのですよ」

言ってる意味がわからない。でも、その『穢れ』がクラガリに通じるものがあるかもしれないと私は考えた。なら、従うべきだろう。

私は「分かりました」と了承し、その着物を受け取った。

ついでにと、私はお婆さんに尋ねる。

「大浴場ってどこにありますか?

一階ですかね」

「いいえー、屋上にあります。その奥にあるガラス戸を抜けると、露天風呂があって、温泉の湯が満たされているのですよ」

「あ、そうなんですね。ありがとうございます」


一礼して「受付ルーム」を後にした私は、屋上に上がった。

少し歩くと、左手に脱衣所がある。

入ってすぐに、着ていたものを入れるカゴが並ぶ木棚があった。カゴを手に取ると、中にバスタオルとタオル、その他寝間着が入れられていた。

それを棚に返して、持っていた着物に着替える。

タオルを持って、脱衣所奥の水蒸気で白く煙っているガラス戸を開けた。

膨大な水蒸気ーーーいや、熱気が視界を霞ませ、肌を暖かく包み込む。

しばらくして視界がクリアになると、シャワーと椅子がセットになって陳列しているのが左に。右には、黒い大理石で縁取られた長方形の、10人以上は入れるんじゃないかと思うくらい広い風呂があった。

その風呂より奥に、ガラス戸があり、近づいてみると黒い文字で「露天風呂」とあった。

ガラス戸を開ける。

刹那、外の冷気が入ってきた。

素足や素手、顔に涼やかに吹き付ける。

露天風呂は、中の風呂と同じように黒い大理石で縁取られているが、4、5人くらいが入れるほどの広さだった。

その分、四方を笹と行灯で囲まれ、和の雰囲気を楽しめるようになっている。

そして、なんといっても屋上だ。

透明な仕切りから望む景観は、格別なものだった。

眼下には周囲を山に囲まれた温泉郷がある。

夜の温泉郷は、例えるなら湖に蛍の群れの光が映り込むような、そんな幻想的な景色だった。

北のほうに目を向ければ、天高くに月が輝き、山の向こうに暗い闇をたたえた波打つ海が見える。

息を吐くことも忘れるほどの絶景であった。

私は、その景色を眺めーーー

「檜佐木さん」

『はい?』

「私、この景色を眺めて、改めて思いました。この景色を、守りたいです。滅んではいけない。世界にあるべき景色だから」

改めて決意した。

『そうーーーですか』

檜佐木は静かに肯定する。

『そう思ってくださるのなら、幸いです。ありがとう、久城さん』

返す言葉に感謝の意が込められている。

だが私にはーーーやはり、彼女の返答が、どこか諦めているとそう思えて仕方なかった。


次の日、自室までお婆さんがやってきた。手に持つ盆の上に味噌汁とご飯、塩鮭といった朝ごはんが載せられている。それを、昨晩出しておいた机に置いてもらった。

ご飯にありつこうと思った時。お婆さんは懐から茶封筒を取り出し、私に手渡した。

「この封筒は?」

聞くと、お婆さんは答えた。

「新人陰陽師様に、訓練開始の通達です。受付係の方が仰られていましたが、中には訓練のスケジュールも同梱されているとのことです」

「そうですか」

頷くものの、朝から受付係と聞くと嫌な気分になる。

相棒の苦悶に歪んだ表情。そしてその時に、冷たく事務的に私と相対する受付係。

あの時の一連の出来事を思い出す。

吐き気を催すほど陰鬱な気分になりかけたが、私は努めて平静を装い、お婆さんから茶封筒を受け取った。

お婆さんは、私がその封筒を受け取ったのを確認すると、深く頭を下げ、私の前から去っていった。

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