二章「第一防衛戦」
溺れかけの息苦しさとともに、硫黄の香りがする。全身に感じる水温は体感的に38度を超えている。
もがいて上に行くたびに、息苦しさが加速し、硫黄の香りが強まった。
しばらく上昇し続けていると黒い岩が見え、それに手をかける。
そして、グッと力を入れて身体を引き上げた。
若干の寒さと、浸かる身体の暖かさを感じーーーそんな私が見たものは、まさに今、郷が襲われようとしているところだった。
不意に衝撃が手元を襲った。ぐらつき、握力だけで岩にしがみつきながら、空を見上げる。
「なに、あれ……」
頭上に輝く月の下から薄紫色の影のようなものが迫ってきていた。
轟音とともに、濃赤色で周りの山が透けて見える箱みたいなモノが破砕されていく。
ついで、破砕されてできた箇所から雨のように「影の礫」が降り注いだ。
郷が業火に包まれていく。
ーーー私の故郷は、クラガリの本物の波によって破壊された
私ははたと気づき、呟いた。
「これが、もしかして……」
『いいえ。これでもまだレプリカです』
「わっ」
突然声がして、その声の主を探したが姿が見えない。
勘違いかと思って、温泉から這い上がった時、
『今は危険です。温泉に浸かっていた方が無難です』
と、また声がした。
それは自分の心臓辺りから響くようにして聞こえており、少し気持ち悪い。
が、私は極力その気持ち悪さを抑え、聞いた。
「檜佐木さん、あなた、いつから私の中に?」
『いやー、成功したと思ったんですが、まさか、あなたに取り憑いた状態で追体験するとは思いもよりませんでしたよ』
「いやいや、そんな軽快に言わないでくださいよ」
『でも、ナビゲート役がいて少しは安心したでしょ?』
「それもそうですね」
『すいません』
彼女の口調が急に変わった。
静かに檜佐木は言う。
『篝火の湯がいくら安全性が高いとは言え、少し悠長とし過ぎていました。ーーー来ますよ』
それは忠告だった。
だが、彼女の忠告後、しばらく待ってみるが来ない。
私は、彼女が間違えたのかと思ったが、左側の視界ーーーそこに、陽炎のように揺らぐ人影のようなモノが見えた。
そちらに顔を向ける。
次の瞬間、かぎ爪のような鋭利な風が頬を切った。
暖かい血が流れ、徐々に冷えていく。
私はそれに言いようのない恐怖を感じた。
歯がかちかちと音を立てる。
極め付けは、膝が笑い出した。
ーーーここで死ぬかもしれない
直感的にそう思った。
『動きなさい! 死にたいのですか! 次来ますよ!』
その声で我に帰り、私は第2波の死の風を避けることに成功した。
成功したはいいが、避けた拍子に足がもつれ、倒れこむ。
同時に、人影が悪魔のごとく笑いながら私の首を絞め上げた。息ができない。
握力が凄まじく、もがいても抜け出せない。
私は、死が絶対的なものであるということを悟った。
だが、
『印を切りなさい! 人差し指と中指を立てる、刀印です!』
遠のく意識の中、微かに指示を聞いた。
ーーー私は、それに縋った。
震え、満足に身体が動かないのに苛立ちながら、刀印を切る。
瞬間、「篝火の湯」の水面が一際強く輝いた。
その光は明滅を繰り返し、ついで、水面が盛り上がったかと思うと、東京タワーほどの高さはあるんじゃないかと思うだけの湯気立つ水柱があがった。
その中から光球が飛び出し、弧の軌道を描きながら人影に思い切りぶち当たった。
人影がうめき声をあげ、地面に叩きつけられる。
そこに、光球が追い打ちをかけた。
人影が地面にめり込み、骨が軋むような音が何度も聞こえた。
その音が鳴り響くさなか、光球が縦にひび割れていく。それが完全に割れ切った時、内部から「鏡を背負った狐」が現れた。
「狐?ーーーあなたが言っていた相棒って、この子?」
『ええーーー』
嗚咽を噛み殺したような声が、聞こえた。
そして、私の心が彼女の感情と同期し、暖かくなったと同時に、雨の中にいるような悲しみに包まれる。
ーーーそっか、久しぶりにあったんだもん。嬉しいやら悲しいやら複雑だよね
けれど、彼女は言った。
『でも、おかしいですね。私の相棒は鏡を背負っていませんでした。風貌は似ているのに、一点だけが違う……』
「過去が変わった?」
『いえ、そんなはずは……』
彼女の声の調子が低くなった。
彼女にしてみれば過去が変わったなど認めたくないのだろう。
あくまでも追体験。過去が変わったと考えるのは時期尚早かもしれない。
「そうですか」
私は、とりあえず頷いた。
『おい、お前』
突然声が聞こえた。
狐の方からだ。苛ついた男性のような声の調子ーーーけれど、そこに何かしらの焦りがある。
狐の方に視線を向ける。
『やっと気付いたのかーーー声かけてたんだぞ』
「ご、ごめんなさい」
『謝るのは別にいい。ーーーこんなクソ雑魚の相手もな、俺だけじゃ抑えきれねえ。あと2分が限度だ』
「でも私、初心者だから……」
『言っておくが、俺はもう気付いてる。陰陽術に精通した霊が、お前に憑いてんだろ? そいつに聞きな』
「わ、分かった!」
なんで私に、檜佐木が取り憑いているのか分かったのか知らないが、今は戦の最中だ。悠長にはしてられない。
現に、悲鳴や怒号ーーー怒声じみた命令が聞こえるのだから。
ーーー急がないと
「ねえ、檜佐木さん」
『はい?』
「相棒の召喚以外に、陰陽師初心者でできることって何かありますか?教えてください!」
『そうですね……滅却の火矢は、まだ早い……雷光の印もまだ難しい、えーと……』
そうこうしてるうちに、狐が人影に弾き飛ばされた。狐が焦燥の念を含ませ、叫ぶ。
『避けろ! 死ぬぞ!』
人影がこちらに飛んでくる。
鉤爪のような黒い風が人影の身体に鎧のごとく巻きついている。ここで殺すつもりなのだろう。
「うわっ、来た! 早く教えてください!」
人影がもう、鼻先まで来た。
死を体現した風の刃を、振り下ろすまであと5秒もかからない。
その時、檜佐木が言った。
『心火防魔の陣ーーーこれなら!先ほどと同じ印を切って!』
言われるままに私は、印を切った。
刹那、胸のあたりから真紅の火を帯びた長方形の紙が現れた。それは護符のように古めかしい文字群が描かれておりーーー、私はそれを殺意の源に投げつける。
次の瞬間、火が四面体の結界を作り出し、私を守った。
それだけではない。
カウンターのように、結界に激突した拍子に、火花が散りーーー燃え移った。
それに怯み、人影は呻き声をあげる。
狐は、その瞬間を待っていた。
人影の首筋に飛びかかり、血が滲むほどの強さで、噛みついた。
人影が身を捩り、逃れようとする。
だが、その前にーーー、
『消え失せろ、雑魚が』
持ち前の牙で、人影の首筋を喰いちぎった。耳をつんざくような断末魔があがる。私はとっさに耳を塞いだ。けれど、隙間は完全には埋まらず、その隙間から断末魔が耳に入り込んだ。
金切り声のようなそれとは別に、微かに泣き声が聞こえた。
聞こえた気がした。
ーーーえ
驚き、人影に視線を投げる。
しかし、その時すでに人影は、塵となって消えていた。
ーーーさっきのは、一体……
気になるが、首を横にふる。
ーーーそれは後に考えよう。まずは、この惨状をどうにかしなきゃ
「檜佐木さん」
『なんでしょう?』
「この惨状をどうにかして良くしたいですが、それにはどうすればいいでしょうか?」
『レプリカには、本物の波とは違い弱点にあたる「核」が剥き出しの状態であります。硬いですが、それを破壊できれば撃退することは可能かと』
「ありがとうございます!」
ーーーそれだけ聞ければ満足だ。
走りだした私の傍を、鏡を背負った狐が追随する。
『どうする気だ?』
「私だけじゃ足手まといだけど、人員を募って、数で一点集中すれば多分!」
『たしかにそりゃいい考えだな、肉の壁作戦ってことか』
「作戦名が酷すぎ……」
『おい』
「私の名前はおいじゃない」
『そうじゃねえ、階段の上を見ろ』
言われるがまま、従う。と、数十人規模の人が、符と使役した動物で、巨大な敵と戦っていた。
だが、現状では敵の方に軍配が上がっている。
「たくさんの人が、戦ってる」
『人数的に、20人前後ってところか? これは募るまでもねえな』
「でも、押されてるよ!」
『ちっーーー雑魚だな』
「雑魚って……」
『しょうがないですよ』
檜佐木が、ため息を吐く。
「え?」
反射的に聞くと、彼女はポツポツと話した。
『今、陰陽師の精鋭部隊は全員出払ってますから。残ってるのは、二軍程度の実力しか持ち得ない陰陽師の部隊です』
「どうして出払ってるんですか?」
『本物の波が来る可能性を少しでも潰したいので、その調査をしてるんですよ』
「それこそ、二軍に任せれば!」
『残念ながらそれはできません』
檜佐木は申し訳なさそうに口を切った。
「どうして!?」
『強固な防御結界とサーチのための術式の併用は、精鋭部隊クラスしかできないのですよ』
「そんな……それなら、私が行かなきゃ」
『指示するのか? 』
「それだけじゃだめ。私も手伝う !」
『バカかお前は !
いいか、よく聞け。お前が持ってる武器は、俺と低級防御術だけだ。そんな二軍にも劣る奴が、奴に傷なんてつけられるわけねえだろう !』
「やってみなきゃ分からないよ!」
そうだ。やってみなきゃ分からない。
私は決死の思いで、巨体の前に躍り出た。
後ろの二軍の隊員たちが、口々に「誰だ」「部外者がでしゃばるな、死ぬぞ」と怒鳴る。
だが、私はそれを無視した。
鼻先に、巨体の拳が迫る。
刀印を切り、「心火防魔の陣」を発動させ、すんでのところで防御。
防壁が拳を受け、軋みをあげる。
ーーー重い
割れるまで時間はそうかからないと直感した。
そしてーーー防壁を通して血の臭いがした。人を殺したのだろう。
その臭いが濃いことから、数十人は殺しているはず。
ーーー負けられない
私の中の怒りの火が、種火から業火に変わったのを感じた。
だが、状況は最悪のままだ。
巨体の手は、無数にある。
私をその中の一つで軽くあしらっているのだ。
私が一つの拳に四苦八苦してる間にも、二軍への被害が増えていく。
これを打開するには、やはり人の手が必要ーーー。
「よっ」
唐突に、隣で軽快な声がした。
反射的に振り返る。と、最悪な状況下において、1人だけ笑みを浮かべている男がいた。
ーーーこんな状況下でなんで
思う。
だが、男はその笑みを崩さず、呟くように言った。
「待たせたな。時間稼ぎ、よく頑張った」
ーーーえ?
疑問に思ったのもつかの間、男は瞬間的に私の視界から掻き消えた。
刹那、蒼と翠が織り混ざった火花が散った。
ドーンと言う強烈な衝撃音がしたかと思うと、巨体の腹が切り裂かれていた。
その間、たったの3秒程度。
神業にも近い。
男は涼しげな顔でこちらを一度だけ見て、「じゃあ、俺が殺しとくな」
と言って、敵の心臓部を破壊した。私は、ただ驚くことしか出来なかった。
そんな私に近寄り、男はこう言った。
「俺は火翁。陰陽師をやってる。所属部隊は、一軍だよ」




