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春香の居場所

同じ時、春香は闇の中を彷徨って、帰宅までの時間を引き延ばした。やがて闇の中に自宅が浮かび上がってきた。二階の灯りは、女の息子の在宅を示唆している。居間の灯りはテレビを観る女に違いなく、街路灯で照らされる車庫の白のセダンは父親が帰宅して居間に居ることを臭わせている。一軒の家に住みながら互いに家族とは言えない人々である。

 春香は黙って玄関をくぐり、居間に足を向けた。二階に上がるには、父親と女が居る居間を通らざるを得ないのである。居間からは下卑た恋愛ドラマのセリフが流れてくる。テレビを観る女が居るということである。

 春香の予想通り、テレビの前のソファには画面に食い入るように女がおり、濃い煙草の煙が漂っていた。その右の安楽椅子に父親の姿がある。

「春香、食事は? 」

 女がテレビから彼女に視線を移して言った。母親を演じるためにそう言った。

「いらない」

 春香は意図して無関心を装って返事をした。

「春香、こんなに遅くまでどこに居たんだ! 」

 そう怒ったのは、娘思いの優しい姿を装う父親である。

「別に……」

 春香は感情を出さずにそう言い、父親にちらりと冷たい視線を送った。父親は春香の意図を察するように新聞に視線を戻した。この男は春香の母親が生きている頃から外に女を作った。テレビの前にいる女はそんな一人に過ぎない。娘は何やら勘が良く心の中を読むように事実を指摘する。父親は春香の機嫌を損なば、心の底に隠しているものがさらけ出されてしまうかもしれないと危惧するのである。そして、そんな危惧は春香の心に流れ込んで春香の憎悪を刺激するという悪循環である。

「なんか食うもん無い? 」

 重量感のある足音が階段を下ってきた。女の息子で、春香より少し年長になる。続柄で言えば義兄という存在である。春香は階段の下で身を避けた。この男とは触れたくはない。

 春香は男が下りきるのを待って、階段を登った。

「なんだ? あいかわらず薄気味悪い奴だな」

 若い男は嫌悪感を隠そうともせずに言った。むろん階段を登る春香に聞こえることも承知である。口で言わずとも男の感情は春香に伝わってきている。

 春香は男の金遣いの荒さを指摘する時に、いかがわしい女性関係を関係づけて指摘したことがある。その日にちや相手の女の癖まで、男から流れてきた感情と共に指摘した。男が春香に薄気味悪さを感じるのはそのせいである。

 笑い声を背にしつつ、春香は自分の部屋に鍵をかけて閉じこもった。一見すれば仲の良い親子の笑い声が今に響く光景だが、春香の心に伝わるものは、得体の知れない存在が目に見える範囲か

ら消えたという安堵感で一致している。

 彼女は荷物を投げ出すようにベッドの上に置き、上着を脱いでハンガーに掛けた。椅子にかけると、目の前の机の上にはの生母と春香の写真がある。

 春香が記憶する母は、人を受け入れるという点で非常に楽天的な一面を持っていた。

(お母さんみたいな人になりたい)

 幼い頃の春香の願いである。彼女を苦しめるのはそんな生真面目さである。憎むということに徹して関わりを持てば、この家の片隅に彼女の居場所が出来るに違いない。

 春香はため息をついて、高校の時間割の月曜日の欄を指で辿った。日曜日は終わり、学校は明日から新しい週に入る。テキストとノートを選んでカバンにしまい込んだ。几帳面で真面目な生徒。彼女は表面上はそういう評価を得ている。ただ、彼女の記憶に蘇る学校は、彼女を奇異な目で見る同級生たちの姿である。

 パジャマに着替えて、鏡の前で髪を梳きながら、ベッドの上に投げ出したスケッチブックが視線に入った。ぱらぱらとページをめくると、あの幼児の姿があり、砂場で尻餅をついた姿が微笑ましい記憶と共に春香に実在感をもたらした。彼女は目をつむってスケッチブックを閉じ、枕元に置いた。これで楽しい夢を見ることが出来るかも知れない。そんなおまじないだった。彼女はそう言う子供っぽさを持っていた。

「おやすみなさい」

 あの幼児のおかげか、今日は素直にそう声に出して呟くことができた。そして、枕元の灯を落とした。 目が覚めれば全く新たな世界が開けているのではないかとの期待を込めて。

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