すすむの孤独と春香の孤独
公園に残った春香は、スケッチブックを開いてキリンのテムのその後の物語を考えていた。しかし心が乱れて結末は様々に分かれて思い悩むだけ。最後にただ一つのヒントであるかのように、すすむの姿を思い浮かべると、彼の記憶が心を一つにして体験するかのように伝わってきた。春香の隠された能力の一つだった。
すすむは、北向きの大きな窓に向かって、一人で膝を抱えて座っている。二階の窓である。窓のアルミサッシが額縁になって、少し薄暗い部屋の中に冬の景色が浮き上がって見える。背景は隣のアパートののっぺりした壁で、その背景の左半分に木の枝があって、何枚かの葉っぱが枝に残って、北風にくるくる舞って揺れている。すすむの記憶に同調して見える空間から切り取られた景色は、そういう変化に乏しい絵画である。
すすむは飽きもせずに、その葉を見ている。時々、幼い手を頬に当てたり、少しお尻の位置をずらしたりするほか、彼の視線はいかにも不安定な葉っぱに釘付けだった。
突然に、北風が窓をカタカタ鳴らして、すすむを威嚇した。すすむは思わず膝を強く抱いたが、それでも視線は葉っぱに釘付けにしたままだ。一枚、二枚、三枚、さらに幾枚かの葉がついに枝を離れた。葉は複雑に分岐してくるくる舞うつむじ風に乗って、すすむの視界から消えた。再び、つむじ風がすすむを威嚇して、最後の葉の1枚を枝から切り離した。すすむは急いで窓辺を離れることに決めた。
すすむは絵本を何冊か抱えて、部屋のまん中に移動した。ふと振り返ると、気まぐれな風はもう唸るのにも飽きてしまった。すすむは正座するように、腰を落としてお尻を畳につけた。すすむは疑り深く何度か肩ごしに視線をやって窓を観察した。もとより、しっかりしたアルミサッシの窓は、外と内を切り離している。
外の寂しい景色が風に乗ってすすむ入する気配はない。すすむはようやく安心して、胸に抱いた絵本を畳に下ろした。全部で五冊。彼は目の前に絵本を広げた。飛行機の絵柄や小鳥の絵柄、竜やパンダの表紙、すすむと同じくらいの子供の絵柄。色々な絵柄がすすむの目の前に広がった。彼はその中からパンダ
の絵本を拾い上げた。それは、すすむが最後にお母さんと買物に行った時に、ねだって買って貰った物だ。すすむの一番のお気に入りだった。
すすむはうつ伏せに寝そべって、左の手で顎を支え、右手でぶ厚いページを何枚かめくって考えた。
「さっきは、ここまで読んだんだ」
まだ、文字なんか読めないので、すすむは絵を読んだ。そうすると、文字はいかにも目障りだ。絵本の文字はお母さんの声を思い出させる。
すすむは小さな足のつまさきをブラブラさせた。何か、ひどく不安だ。すすむは絵本を忘れて、ごろりと仰向けになった。天井が高すぎる。すすむはまた起き上がって、膝こぞうを抱いた。目の前に窓が大きく広がっている。しかし、今度のすすむは部屋のまん中だ。部屋の中ですすむは一人ぼっちだった。
「だめだめ、ここは広すぎる」
すすむは心の中でそう言った。彼は絵本を全部拾い上げると、さっきの葉っぱみたいに部屋の中をくるくる舞った。そして、少し考えて、絵本を1冊づつ四方の壁や家具に立てかけながら1周した。部屋の中央に戻ると、彼は回りを見回して、この思い付きがすっかり気に入った。
四冊の絵本は彼の忠実な家来だ。部屋の四方に派遣されて彼を守っているのだ。また、彼を中心に手を広げて遊びの輪を作っているようにも感じられる。すすむはもう一度窓を向いて残ったパンダの絵本を抱いたままお腹を突き出して威張ってみせた。
するとまた、北風がすすむを威嚇した。今度は木の細い枝先に窓を擦らせたのだ。すすむはちょっと後ずさりした。それから、ふと気付いたように自分の臆病さを恥いるように回りの家来を見
回した。こういった行為の1つ1つ全てが、ここ三週間ほどのすすむの遊びなのだった。彼はちょっとうつ向き気味に首を傾げて、手の平を頬に当てた。これは彼の癖だ。一つの遊びの終わりに、次の
遊びを思い付くまで、この仕草で遊びの間をつなぐのである。
しかし、今度は次の遊びを考える必要はなかった。聞き慣れた足音が玄関から入って来る。どさりという鈍い音は買物袋を置く音で、ずっしりした重さを感じさせる。彼は耳を澄ませて物音を追った。足音が台所へ移動し、しばらく沈黙があったのは、おばあちゃんがほっと一息ついているからだ。それから食器が鳴る音がして、お皿とカップの音色の違いが聞き分けられた。電子レンジのタイマーの音。あれは、買ってきたホットケーキを温める音だ。
すすむは鼻をくんくんさせた。食欲をそそられたわけではなく、巣穴から出てきた野ねずみが危険を避けるために、臭いで情報を集めるのと同じ。しかし、危険な香りはしない。ミルクの匂い、バターとバニラの匂いが漂って来る。お父さんが、おばあちゃんに彼の好物がホットケーキだと教えたのかもしれない。
おばあちゃんの足音が台所から近づいて来て、ドアが開くと、ホットケーキとミルクを乗せたお盆を持ったおばあちゃんの姿が現れた。ホットケーキはこんがりと褐色に焼き上がっていて、鈍
い光沢に柔らかく輝いている。ミルクは湯気が出るほどではないが、おばあちゃんがカップを持つ様子から温かいのだと分かる。
おばあちゃんはホットケーキのお皿とホットミルクのカップを、すすむの食欲をそそるように彼の目の前に置いてそっと言った。
「冷めないうちに食べなさい」
すすむは黙ったままだ。力を持たない野ネズミの本能で、何か物音がする間は巣穴の中でじっと身をひそめて危険が去るのを待のがいい。おばあちゃんは空になったお盆に部屋の隅のプリン
のお皿を乗せた。それはおばあちゃんが孫のために十時のオヤツとして持って来たものだが、孫が食べた様子はなく、その端がスプーンでつついた様に崩れているだけだ。部屋のまん中に置い
たはずだが、部屋の端にあるのは、彼が遊びの邪魔になるのを嫌って移動させたに違いなかった。
「また、絵本を散らかしているのね」
おばあちゃんはようやく言葉を継いだ。大人の目から見ると、すすむの家来が部屋の四隅に散らかった絵本に見えるのだろう。
すすむは次の遊びを考える仕草で黙ったままだ。おばあちゃんは、彼の前で膝を曲げ、視線を彼と同じ高さにして、教師のような口調で言った。
「いい子にしていれば、きっとお母さんの病気もすぐに治って、すすむちゃんを迎えに来るからね」
すすむはもっと強く黙りこくった。
(それは何回も聞いたよ。数え切れないくらい)
すすむはそう考えたが、よい子でいるために口には出さなかった。ただ、素直にうなづいただけ。
「うん」
すすむは拾い上げる絵本を一冊づつ日数に代えて思った。
(もう、どれくらいになるのかな)
春香はここで目を開けた。公園の中に厚手のセーターを通して心の中まで冷え込むような風が吹き荒れている。
(お母さんが病気か何かで、おばあちゃんちに預けられているのね)
春香はあの幼児の境遇をそう考えた。日暮れが早い時期である。彼女を取り巻く景色は色を失い、遠
目に見える窓の明かりや街灯に照らされて輝く看板が存在を主張する新たな景色に移り変わった。彼女は景色の中に消えて存在感を失い、それが彼女にとって心地よい。
彼女はバスケットの持ち手を右肘にかけ、スケッチブックを抱えて立ち上がり、重い足取りを自宅に向けた。自分が普通の人間とは違うのに気付いたのは、ちょうどあの幼児のような年頃だった。彼女が望んだわけでもなく、周囲の人々の感情が流れ込んでくる。その彼女の能力が、周囲の人々を不快がらせ、不安をかき立てるのだが、心の奥底にそんな不安を否定するが意識ある。
人は彼女を経由して彼女の口から語られる己の意識と向きあうこ
とが出来ない。隠しているものを見透かされるとまどいと、秘密を暴かれるのではないかという不安が、彼女に対する得体の知れない拒否感にも盛り上がっている。




