八日目 雪の朝
すすむは肌を撫でる冷たい緊張感に目を覚ました。目を開けてみると窓の外はどんよりと薄暗いのに輝いてもいる。好奇心や期待をかき立てる矛盾だった。すすむは身震いを一つしてサッシの窓に歩み寄った。窓は台所から流れて来る湯気に曇っていて、ようやくまん中のあたりが楕円形に透明だ。
「あ、あっ……、ゆ・き」
すすむは大急ぎで窓を擦って視界を広げた。家の外は白く輝く雪景色だった。残念なことに、雪は降り止んでいる。それでも、夜半に地面を隠すほどに降ったらしい。すすむは雪が積もるのを見たのは初めてだった。地面は雪に隠れているし、自動車や自転車、地面に在るもの全てが冷たく覆われている。そして、目の前の樹木にも、太い枝には太い雪、細い枝には細い雪。昨日、北の国にやって来た生き物と北の国の寂しい魔法使いに降り注ぎ祝福の光で包んだ雪の輝きを思い起こさせた。
すすむは、おじいちゃんとおばあちゃんに報告に行くことに決めた。すすむが台所に飛び込んで行くと、おじいちゃんがいつもより落ち着いて新聞を読んでいる。おじいちゃんは眼鏡を鼻の頭までずらしてすすむを見た。すすむは挨拶代わりに部屋の窓を指さして言った。
「ゆき」
すすむはおばあちゃんにまとわりついて、地面の事、自動車の事、木の枝の事を話して、地面には色々な足跡が付いていたことまで付け加えた。おばあちゃんは笑って聞いていたが、孫の冷たい手に温かなミルクの入ったコップを握らせた。すすむはおじいちゃんの横までミルクを運んで、自分の椅子に座るとミルクをなめた。しかし、視線は台所の窓に釘付けだった。
すすむを嬉しくさせた原因はもう一つあった。今日は大人が休みの日だった。おじいちゃんがこの時間まで家でくつろいでいるのを見るとそれが分かる。
すすむが春香と朝から遊べる日である。春香にもさっきの光景を報告しなければならない。
すすむがコップの縁の最後の一滴を嘗めていると、おじいちゃんが言った。
「おじいちゃんの家に居る間、すすむもいい子にしていたな」
すすむはしばらくその言葉の意味を考えていたが、一つの判断をして尋ねた。家に帰れるという事かも知れないということだ。
「お父さんとお母さんは、また仲良しになったの? 」
おばあちゃんはスクランブルドエッグを朝食の皿に盛りつける手を止めた。おじいちゃんは新聞のページをめくる手を止めて、ずり落ちためがねを直しもせずに黙りこくった。
お母さんは入院していると聞かされていたすすむが、こういう表現を使うのは初めてだ。テーブルまで食事を運んで来たおばあちゃんが、おじいちゃんと顔を見合わせて、凍り付いたようになったが、おじいちゃんはつくり笑いをして言った。
「そうだよ」
すすむはゆっくり、その言葉を噛みしめた。なにかほっと荷物を下ろすような感じだ。すすむはふと、これも春香の魔法のおかげかも知れないと考えた。
「あのね」
すすむは春香の魔法の事を二人にも話して一緒に感謝して欲しいと考えたのだ。すすむは最近何でも魔法に結びつけて考える癖がある。
「ううん」
すすむは首を振ってやっぱり黙っていることにした。報告をしようにも、まだ、すすむは春香の寂しさの秘密を解き明かしていない。そのまま、三人は黙っていた。みんな言葉を捜しているのだが、この場を表す上手な言葉がみつからない。
おじいちゃんはこの幼い孫の心をどうやって癒してやれば良いのだろう。
おばあちゃんはちぎれてしまった孫の心をどんな言葉で繋合わせれば良いのだろう。
すすむは今の心をどう表現すれば良いのだろう。希望、不安、温かな思い出、冷たい思い出、色々なものがすすむの心に同居して区別が付かない。
お父さんがすすむを背負う背中は大きくて柔らかだろうか。
お母さんがすすむを抱く腕はしなやかで暖かだろうか。
お母さんは笑うだろうか。お父さんに笑うだろうか。
お父さんは何かおしゃべりするだろうか。
お母さんに冗談を言って笑わせるだろうか。
そして、その二人は幼いすすむを受け入れるだろうか。
すすむは両親の間を駆け回れるだろうか。
家の中は落ち着いているだろうか。
家の中はずっと暖かに、すすむを包んでいてくれるだろうか。
色々な希望が浮かんだが、それはどれも不安を伴っていて沈んで行った。すすむの心の中は色々な考えで一杯で、すすむはご飯を食べる手を止めて言った。
「ごちそうさま」
すすむはテーブルを離れた。おじいちゃんも、おばあちゃんも、何も言わなかった。おばあちゃんはすすむがお腹をすかせた時の用心に、孫の食べ残しをラップでくるんだ。
すすむはズボンをはき替えた。昨日はいていたズボンだ。すすむはシャツも一人で着替えて、ダウンジャケットを身にまとった。オレンジ色のダウンジャケットだ。おばあちゃんは、すすむが外出支度をしているのに気づいた。
今日は雪だ。昨日と同じは寒すぎる。おばあちゃんは、すすむにフードのついたジャンパーに着替えなさいと命じたが、すすむは譲らなかった。このダウンジャケットは昨日、春香に可愛いと誉めてもらったものなのだ。おばあちゃんは久しぶりに頑固なすすむに負けて、マフラーと手袋をすすむに渡して譲歩した。
すすむは砂遊びのバケツとスコップを手に取った。別に砂遊びをする気はないのだが、手にしっくり馴染んで落ち着くのだ。
ドアを開けて出て行った孫の姿を見送って、老夫婦は考えた。子どもの心は複雑だ。うかつに入り込まない方が良い。すすむは階段の手すりを、手袋をした手で叩いた。すすむが始めて経験する音と感触だ。屋外に突出した階段の手すりにも雪が積もっているのだ。階段の1段毎にも積もっているが、先に誰かが通ったらしい。大人の足跡が付いている。すすむはその足跡を自分の小さな足跡と比べながら慎重に降りて行った。堅く凍り付いた雪は、すすむの予想外に滑り易いのだ。
すすむは地面のあちこちで足踏みをした。雪の堅い表面を踏み抜くと、きゅっと耳に心地よい音がして、すすむの体は安定するのだ。表面のか堅さと内側の脆さ、安定そうで不安定な表面と不安定なのに安定する中身。すすむは雪の感触を足で味わっているのだ。朝日に照らされて、雪の結晶の1粒1粒が輝いて、自分を覆っているように思った。
すすむは手袋をポケットにしまい込んだ。ひんやり外気が心地よい。すすむはアパート脇に駐車している車のボンネットを撫でた。ここの雪は地面の物よりサラサラだ。地面の物より光沢が柔らかい。指先がじんとするほど心地よい。すすむはこの雪が気に入って、サンプルを少々、彼のプラスチックのバケツに採取した。
こうやって、すすむは歩道の所までやってきた。すすむはちょっと失望した。歩道は人通りが激しいのだ。大勢の人の足跡がつながって、下の石畳が顔をのぞかせている。
車道はもっと失望する光景だ。白の雪の上に行き交う二車線の四本のタイヤの真っ黒な轍があって興ざめだった。自動車がひっきりなしに通って、深い意味もなく轍を広げて行くのだった。
次回はいよいよエンディングです。すすむと春香に残された未来。春香の哀しい選択肢は……




