魔法使いの春香
パタン。
いつもよりスケッチブックを閉じる音が緩やかで、両の手の平に包み込んで、自らの居場所を守っているかのよう。すすむはゆっくり目を開けた。いつもと違って春香は黙ったままだった。春香が黙ったままなので、すすむも春香を見上げたまま黙っていた。まるで、死を予感させるほど感情が絶たれた沈黙である。
すすむにも春香が今の童話に託して自分の気持ちをすすむに伝えようとしたのが分かる。
(分かってくれたかしら? )
春香が伝えたいのはそんな問いかけだ。すすむが黙っているのは、上手に春香を慰める返事を考えているのだ。すすむはしばらく考えて言った。
「春香さんも寂しいの? 」
すすむはそう言って作り笑いをした。あまり悲しい声で言ってはいけない言葉だと考えたのだろうか。すすむは幼い心で感じ取ったことがある。すすむは、お父さんやお母さんに捨てられて他に居場所がない。春香も同じなのではないかと感じ取ったらしい。すすむはぴょんと跳ねるように立ち上がって、春香の正面に向かって見つめ合った。
「でも、ボクは魔法使いが好きだよ」
それから、すすむは照れたように春香に背を向けて駆け出した。前方のコンクリートの小山まで駆けた。すすむは振り返って、照れくささに少し戸惑いつつ、言葉を続けた。
「春香さんのことも、好き」
すすむはそのまま山の側面に刻まれた階段を勢いよく駆け登った。すすむが頂上で振り返ると、春香が腰掛けから立ち上がって、ゆっくりと、すすむを追って来るのが見える。
「魔法使いって、いいな。いつでもお菓子が食べられるでしょ。ニンジンだって食べなくていいんだ」
すすむは頂上からすべり台を降りた。すべり台は小山を螺旋に回って春香の姿が見えなくなった。すすむは少し心配になって小山をぐるりと駆けて、春香の姿を求めると、駆け寄って続けた。
「おかずのニンジンが出てきたら、アイスクリームに変えてしまうんだ」
すすむは春香を見上げたが、春香は黙ったままだ。すすむは幼い工夫をして、話の観点を変えてみた。
「魔法使いなら、動物とお話して、動物を助けてあげられるでしょう? 」
すすむは一生懸命だ。すすむはブランコまで駆けて行って、支柱に両手でつかまってくるくる回った。春香は、すすむについて歩いて来るけれど、黙ったまま微笑みを崩さない。
ブランコのそばにタイヤが列を作って並んでいる。タイヤは下半分を地面に埋めて全体としてみると、芋虫の背中のようだ。すすむは芋虫の背中に乗っかった。そうすると、すすむの目の高さは春香と同じ位になる。すすむは春香の見上げるのではなく真横から春香の顔を見た。角度を変えても春香の表情は変わらない。
「魔法使いなら、子供達のお母さんになってあげられるでしょう?」
すすむは駆けて行ったかと思うと立ち止まって、足の間から春香を見た。春香の姿が逆に見える、でも春香の表情は変わらない。春香は、すすむが一生懸命なのを知っている。春香がすすむを包み込む雰囲気の中に、すすむに対する感謝の念が混じっている、でも春香の寂しさはそれ以上だ。
「あのね、あのね、」
すすむは次の慰めを考えて、駆け出そうとした、しかし、すすむの顔は春香の方を向いたままだ。
「あぶない! 」
春香が叫ぶように言い、何かを抱き上げるように腕を動かした。駆け出したすすむの足元に、土だけの花壇があって、すすむはそれにつまづいたのだった。花壇の向こうの尖った木の枝に頭をぶつけそうになって、すすむは悲鳴を上げた。
そのまま、すすむは自分の体が凍り付いた様に感じた、次いで、すすむの心が空気の中に融けて行った。すすむにはそういうことがずいぶんゆっくりしたものに感じられたが、実際にはごく一瞬の出来事であったに違いない。
すすむの心は、まず暖かさを感じて再生した。すすむの体は花壇のところで消滅し、今は春香の腕の中だった。ちょうど何もなかったバスケットの中にクッキーが現れるように、すすむは春香の腕の上にいるのだ。春香は魔法で、木にぶつかって怪我をしかけたすすむを救ったのだった。春香が花の女神を演じた日、椅子に腰掛けていたすすむがいつの間にかコンクリートの山の上に移動していた。あの時と同じ。物や生き物を瞬時に移動させるのは春香の不思議な能力の1つである。
目を開けると春香の顔がすぐ目の前だ。すすむは春香の腕の中でお母さんの胸の温みを思いだした。今まで、すすむが心の奥底に堅く仕舞い込んでいたものが、じんわり融けて沸き上がってきた。すすむは春香の頬に顔をつけてすすり泣いた。春香はゆっくりとすすむを下ろして言った。
「すすむクンの言う通りよね。魔法使いは魔法でお菓子が出せるのよ」
春香はすすむの前にしゃがんで、すすむの衣服の乱れを直した。
「動物たちとも話せるの」
春香はすすむの髪の乱れを直した。
「それにね、寂しい人と心を一緒にして、慰めてあげる事も出来るのよ」
春香は、すすむの背後に回って、すすむの衣服の乱れを確認し、すすむのお尻に付いた砂を払った。すすむはずっとべそをかいていたが、春香がすすむの背後から、ぎゅっと苦しいほどの強さで抱きしめたので、すすむは驚いて泣くのをやめた。春香は震えているのだ。春香の凍り付いた寂しさが、じんわり融けて、すすむの寂しさに混じり込んだ。
「でもね、すすむクンには分かるでしょ? 」
春香は言い、少し間を置いて続けた。
「たったひとりは、さびしいの」
夕方なのだが空は赤くなく、全ての物に影が無い。空はどんより重たく曇っていて薄暗いだけだ。公園から帰って行く二人の吐く息が白い。指先はかじかんで凍り付きそうだ。今夜はもっと寒くなるかも知れない。
すすむの涙がおさまるのを待って、すすむを公園の入り口まで手を引いて導いて、横断歩道を渡り終えるまで、寂しげな笑顔で見送った。
(頑張るのよ)
春香はそんな言葉を、すすむと自分にかけた。言葉と裏腹に、心が疲れ切って、普段は封じている心の扉を閉じる気力すら失って、失望を通り越したあきらめの感情がすすむ
に伝わった。残された居場所を守ろうとする気概も失われて張り詰めた精神が緩んで、肩に背負った荷を降ろしたような脱力感がむなしさに変わって彼女を支配している。心にわだかまっていた熱い感情の一部を吐き出して、心が芯から冷えている。
(もう、私の居場所じゃない)
自分の部屋や教室を思いだしてそう思った。普通なら感じるはずの不安感すらぼんやりかすんでいる。




