七日目 春香
親を交えた面談など別に珍しいことではないが、その時間に制約を受けた。まだ全ての生徒は下校してはいない。教師は担任のクラスのホームルームの時間を、保健体育の教師に代わってもらって職員室の片隅の応接室にいる。
クラスにとけ込めない生徒について母親を交えて相談しようと図ったのだが、近頃流行の韓流スターの催し物があるらしい。そんな母親のスケジュールを優先させた結果である。そして、教師はそんなイベントを娘より優先させる事実で、親子関係の一端をほぼ正確に推察した。
「実は、電話でもお話しましたが、春香君のことで、お母さんを交えてご相談したいと思いまして」
テーブルのファイルを置きつつそう語りかける男には、春香の担任教師という肩書きがついた存在であり、その目の前にいる女は春香の母親という肩書を振り回しつつ、なにやら裁判の被告席に座らされたかのような被害者意識を臭わせる。
「春香が何かをしたんですか? 」
「そういうわけではなくて、」
春香は会話には無関心で窓の外を眺めた。耳を澄ませるように精神を集中してみると、ホームルームの内容より、この応接室の出来事に興味津々の同級生たちの意識が流れてくる。
(何も、あるわけないわよ)
そう考える春香の傍らで女と教師の会話が続いている。
「では、どうしてこんな所で話をしなきゃいけないんです」
「春香クンが一人で悩んでいるような感じがしたものですから、」
春香はふと、視線を足下に落とした。春香の傍らに学用品の入ったカバンと合わせてスケッチブックがおいてある。昨日はスケッチブックでお話が出来なかった。常に持参していれば、学校帰りであっても、すすむとスケッチブックの世界を旅できるという配慮である。
春香の母親の立場にいる女が喚くように言った。
「私に関係があるんですか? 私はいつも家で、この子に気を使いっぱなし」
「いえ、お母さんの事を責めるとかではなくて、春香くんの立場で、何かしてやれることは無いかと」
「家庭に問題があるとでも仰るんですか。春香、あなたは先生にいい加減なことを吹き込んだんじゃない? 」
「いいえ、春香くんは何も、」
春香の感情は、小刻みに机を叩く指先に現れているが、感情のない表情で無関心を装った。春香が苛立つのは会話の内容ではなく言葉に乗って流れてくる感情である。娘のため、生徒のためと善人を装いつつ、保身のための意図が絡み合って春香の感情を刺激する。顔を背けて感情の流入を絶とうとする春香の姿は、教師と母親にそっぽを向いているように見える。
「春香くん。もっと真剣に考えたらどうだ」
「春香。あんたの事でわざわざ来てるのよ」
女と教師の話題の矛先が、春香に向いた。春香にとって、彼女の苛立ちが高じたタイミングである。
彼女は教師に向きあって言った。
「聞いて。トラブルの多い生徒を受け持つのは大変よね?家に小さな坊やを抱えて、学校をクビになったら大変だもの」
春香を気遣うような素振りをする男から流れ込んでくる感情である。
春香は続けた。
「ふぅん、あんな女と結婚するんじゃなかったって? 」
教師が心の底で封印している部分である。現在の妻と結婚する以前に恋心を抱いた女が居た。別段、恋愛が実らないというのは珍しい事例ではなく、恋人と別の相手と結婚するという事例などいくらでもあるだろう。ただ、ふと生活に疲れを感じたときにあ
の人と結婚していたらと別の人生を想像することもあるに違いない。春香は教師からそんな感情の流れを感じ取ったのである。
春香は女に向きあった。
「おなたが考えてることも分かるわ。迷惑な小娘さえオマケについてこなければ、もっとうまくやれたのに……」
迷惑な小娘という表現が、女が心に抱く言葉と一致して、女をギクリとさせた。
「な、何を」
「でも、私の家に入り込んで、生活費の心配はなくなったよね」
本音が暴かれる。その恐れが女と教師を刺激して、二人は感情を高ぶらせ、表情は平静を装いつつ話題を逸らせようと必死になった。
「藤森、それは? 」
教師は春香が抱きしめていたスケッチブックに手を伸ばした。何か生徒の感情の高ぶりと関係があるようにも見えたのである。
「嫌よ! 」
春香は手放すのを拒否して背中に隠すように後ろ手に持ち替えた。スケッチブックを持っていれば、学校の後、家に戻らずにすすむの公園に行ける。そう意図して持参したスケッチブックである。自分の居場所がこのスケッチブックの中だけであるかのような気がし、その中にずかずかと踏み込まれるのは嫌だった。
「春香、そんなモノ放して先生の話を聞きなさい」
後ろ手という不安定な持ち方と視界の利かない背後から伸びた女の手に、春香はスケッチブックを奪われた。春香は叫んだ。
「こんな風に、あなたは、私のお母さんからお父さんを奪ったんでしょ! 」
人前で琴線に触れる表現をされて、女は激高した。母親という姿をかなぐり捨ててヒステリックにスケッチブックに手をかけた。心の奥底をさらけ出されている焦りと不安と怒りを、教師の前で春香に向けるわけにもゆかずスケッチブックに向けて引き裂こうとしたのである。
「やめてよ! 」
春香は体を投げ出すように激しく抵抗してスケッチブックを奪い返して立ち上がり、制止する間もなく応接室を飛び出した。教師も女も駆け去る春香の後ろ姿を見送りながら、あの子とは決して交われない自分を自覚している。
春香は駆けながら、自らの感情と流れ込む感情が整理できない。彼女を傷つけようとする悪意ではないが、様々な感情が入り交じってどろどろと腐敗するようにまとわりつくのである。
「すすむクン、すすむクン……」
彼女は救いを求めるようにその名をつぶやいた。




