迷子のすすむ
いつもの時間、いつもの公園に、今日は春香の姿がない。すすむはふと、おばあちゃんに春香のことを話しかけたことを思いだした。僅かだが、すすむが約束を破って春香の事をおしゃべりしそうになったのを思いだした。
(きっと、ぼくが約束を破ったから……)
すすむは春香が現れない理由を決め込んで、急に不安になった。気まぐれな風が公園を吹き抜けた。念のため、すすむは公園をもう一回りした。すすむはもう泣きだしそうだ。公園の中央で辺りを見回したが、誰もいない。すすむは友達を失ってしまった。
すすむは公園を飛び出した。すすむは昨日のように公園前の歩道を南北に行ったり来たりした。今日のすすむは南の十字路を選んだ。東の方へ道路が伸びているのは北と同じだが、南の道路の方が小さな商店が多い。南の方がやりがいがありそうだと、すすむは探検の重要性を位置づけたのである。春香を捜しに行こうという決心を、そんな理由にすり替えた。約束を破って春香と会えなくなったとは思いたくはない。
十字路の端の店、こことよく似た店に、お父さんと連れられて行ったことがある。写真を売る店と見当を付けた。店の中には大勢の人がいて、どの人が店員でどの人がお客だか判別できない。
ショーウインドゥの中に写真のパネルがいくつもある。すすむは小犬の写真が一番気に入った。3匹の小犬が一塊になって一匹づつの境がハッキリしない。まん中の小犬が一番ぬくぬくしていて気持ち良さそうに目を閉じている。すすむは三匹に左から順に「すー」、「みー」、「むー」と名前を付けた。
写真店の隣は薬屋だが、トイレットペーパーから防虫スプレーまで品揃え豊かで、すすむには何を売る店かよく分からなかった。男が2人と女が1人ガラスのドアごしに見え、全員白衣を着ている。すすむは顔をしかめた。以前、歯医者に連れて行かれてから白衣が大嫌いだった。すすむは慌てて立ち去ることにしたが、店の前の兎の像に「ウーさん」と名付ける事は忘れなかった。
その隣は、ケーキ屋だ!! すすむは莓のケーキとコーヒー味のシュークリームが大好きだ。それ以外にも、すすむが見たこともないケーキや、いろんな形のチョコレートやキラキラ光る包装紙で包んだキャンデーが数え切れないくらいある。でも各々のお菓子には文字のついた札が付いていて、すすむが命名するまでもなく、何かややこしい名前が付いているに違いなかった。すすむが生クリームの白さや、カステラのしっとり重たげな黄色、スライスしたキューイフルーツの鮮やかな緑と黒いつぶつぶを夢中に見ていると、若い女の笑い声がした。
「坊や、どれが一番美味しそう?」
3人の若い店員がショーウィンドーの上から、すすむを見おろすように笑っているのだった。すすむは照れくさく笑ってさっさと隣の店に移動した。すすむの背後でもまた、3人の女店員の笑い声がした。その笑い声は、すすむを気恥ずかしくはさせたが、明るくて悪い印象はなかった。
ケーキ屋の横、細い路地を挟んであるのはパン屋さんだ。大きいのやら小さいの、柔らかいのやら固いの、白のクリームの付いたのやら赤のソーセージを乗せたの。色々あって迷いそうだ。実際に、中のお客さんはトレイを持ったままあれこれ迷っている。
店の奥には白の作業着のおじさんが一人いて、オーブンから熱々のパンのトレイを出したところだ。おじさんはオーブンからパンを出しては、隣のドアの付いた棚の中に移す作業をしている。頭に残った僅かな毛が汗に濡れておじさんの頭にぴったり貼り付いているのが暑そうだ。焼き立てのパンの香りに飽きると隣に移動した。
小さめのショーウィンドーにはコーヒーやジュース、サンドイッチやスパゲティがある。すすむはこういう物を提供する店らしいと推測したが、店の中はよく見えなかった。すすむは芳ばしく美味しそうな香りだけ味わった。
その隣は喫茶店と細い路地を挟んで本屋がある。すすむはさっさと通り過ぎた。絵本はお母さんを思い出させるからだ。本屋の隣はおもちゃ屋だ。おじいちゃんが買ってきてくれた砂遊びのスコップやバケツはここで買い求めた物かも知れなかった。店の中にはお父さんに手を引かれた女の子。すすむと同じくらいの年齢の女の子だ。親子は人形を買うらしい、女の子より娘を喜ばせようとする父親の方が熱心に人形を選んでいた。女の子が、すすむに気づいて一瞬きょとんとしたが、すぐに愛想良く微笑んだ。すすむは恥ずかしさにまた店の前を離れた。
おもちゃ屋の横は、奥行きがあり見上げれば空が見える空間がある。すすむは、こういう場所には車が止まっていることを知ってはいたが、今は一台の車もない。駐車場の横にあるのは大きな白いビルディング。一目で病院と分かる。すすむは注射が嫌いだった。風邪の時に喉の奥に塗られる薬も嫌いだ。
すすむは病院に背を向けてもと来た道を戻り始めた。すすむは大勢の人とすれ違っている。すすむを追い越して行く人もいれば、すすむが自分の視界を妨害する人を駆け足で追い越すこともある。
妙な話だが、すすむは今日初めて、この街に、こんなにもたくさんの人々が居たことを知ったのである。すすむはパン屋まで戻って、その横の路地に入った。そこは飲物の自動販売機とゴミ箱の林だ。林を抜けると狸がいた。スコップで叩くとこんこん音のする硬い狸だ。狸は、すすむより頭一つ分高くて、少し口を開け首を少し傾げて穴の開いた目でぼんやり何かを見ている。
突然、ガチャガチャうるさく、店員が大きな箱を下げて店から出てきた。うるさいのは箱の中のビール瓶だ。すすむはビール瓶に追い立てられるように酒屋の前を離れた。すすむは道路のまん中でくるくる辺りを見回した。道の両側に店が並んでいる。
車はここまで入ってこられないらしい。でもこの人の群れは何だろう。店の数が多すぎるので1つづつ詳しくチェックするのは止めにした。
食器や鍋や花瓶を並べた店。
テレビが何台も並べてある店。
赤や黄色の毛糸の束を売る店。
おしゃれなマネキンの並んだ洋服のお店。
すすむは1軒の画材店でスケッチブックを見つけた。春香の持っているのよりずっと小さいがすすむが持つには充分なように思われた。
スケッチブック?
わずかな間をおいて、すすむは春香を思いだした、公園を思いだした。ここは何処だろう?
すすむは大人の群れの中できょろきょろした。すすむは道も方向も失ってしまっているのである。すすむは方向も知らずに駆け回った。途中、何度も大人の人にぶつかったが、すすむは駆け回るのを止めなかった。
「はるかさん」
すすむはつぶやいた。すすむのぶつかった男の人が、すすむを不思議そうに見た。
「はるかさん」
すすむは呼んだ。道を歩く女の人が何人か、すすむを振り返った。
「はるかさん」
すすむは小さく叫んだ。店の奥から店員が顔をのぞかせた。すすむは立ち止まって叫んだ。
「はるかさん」
(……!)
言葉ではないのだが、心の中に感じたものは、すすむが迷っておびえる心を察した春香の感覚だ。どこかで、すすむの存在に気付いてくれたらしい。
「すすむクン」
春香の声が、すすむの耳に響いた。優しい、よく響く声だ。声の方向を見ると、今日は赤いカバンを手にした春香が、すすむのことを心配そうに見ている。息をはずませている所をみると、どこかから駆けて来たものかもしれない。
すすむは手の甲で涙を拭ってゆっくり春香に近づくと、スカートの裾をしっかり握って春香を捕まえた。すすむにはこの大勢の大人の中で、春香だけがたった一人の仲間のように思えたのである。
「さあ、公園へ行きましょう」
春香は、すすむを誘導して行く。すすむはようやく、いつもと違う感覚に気づいた。春香の声を耳で聴くのは初めてなのだ。すすむは春香を見上げたが、春香は意味ありげに微笑んだだけだ。すすむの涙が収まりきらないのを見た春香は、繋いで握る手の力に強弱を付けて、すすむにメロディを伝えた。ギターの弦を爪弾くように、1つ1つの音が歯切れ良く明るい感情を伴って、すすむを酔わせた。
すすむに新鮮な驚きが湧いた。春香がこんな朗らかな感情を伝える人だったのかという思いである。すすむの思いを伝え知った春香は苦笑いをして、繋いでいた手をふりほどき、すすむの肩に手をかけて、もっと寄り添って歩いた。すすむから伝わってきたのは、優しくて、内気で、慎重で、引っ込み思案、一言で言えば、根暗な少女の印象である。自分が今までこの子にこんな印象を与えていたのかと驚きもし、そんな印象にも関わらず自分を慕ってくれているすすむにほほえましさを感じてもいる。そして何より、分厚く重ねてしまった仮面や衣装を取り去って、ありのままの自分を生きる事が出来る開放感を味わっているのである。
路地を北に二つ分抜けると、病院が見え、その横の駐車場ごしに公園の生け垣が見えた。生け垣沿いに公園を回って、いつものように腰をかけた。一番左にすすむ、まん中が春香で、左には今日はバスケットの代わりに赤いカバンが座っている。すすむはもう一度春香を見上げてその存在を確認した。
紺のブレザーに、首の所には赤のネクタイ。スケッチブックは持っていないし、バスケットも無いが、春香に間違い無かった。
(ごめんなさい。待たせたわね)
春香は明るく詫びた。春香はまだ息を弾ませていて、髪が乱れていた。寒空だというのに、額に汗を浮かべて白のハンカチで拭った
「はるかさんはどうして夕方にならないと来ないの?。魔法使いは夕方にならないと出てこれないの? 」
(私は学校があるもの。学校が終わるまで来れないわ)
すすむは学校っていうのは厄介な物らしいな。と思った。
(そうかもしれないわね)
春香は笑って、すすむの額に自分の額をつけた。すすむの中に「学校」のイメージが流れ込んでくる。




