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出会い

挿絵(By みてみん)

 部屋のドアから駆けだしてアパートの階段を降りると、そこは隣のアパートに挟まれた路地である。さっきまで、すすむが窓から観察していた樹木があって、すすむは彼に敬意と親愛の情を込めて『モクモク』と名付けている。

 すすむは立ち止まってモクモクの幹をこんこん叩いて挨拶に替え、自転車にぶつからないよう駆けだした。小さなバケツの中でスコップがからからと寂しく賑やかに鳴っている。すすむの幼い体でようやく駆けることの出来る狭い道を通り過ぎると、前方から車のエンジン音が聞こえ、絶え間なく続く大小のエンジン音は、交通量の多さを想像させた。

 すすむは遮るよう現れたガードレールで足を止めた。片側二車線の黒いアスファルトの道路と、左右に行き交う車が、すすむの行く手を遮ったのである。すすむには激しく流れ下る大河にも見

えた。

 道路の向こうに目をやると、夾竹桃が並ぶ壁がある。壁の高さは、すすむの背丈の倍はあり、ブランコやコンクリートの白い山の頂上が、夾竹桃の壁の上にはみ出して見えていた。去年、すすむがおじいちゃんちに来た時に、夾竹桃の赤い花を見たことがある。

 しかし、目の前の生け垣に花はなく、その緑は車の排気ガスやほこりや泥にまみれてくすんでいた。

立ち止まったすすむの左15メートルばかりのところに、白く描かれた横断歩道は、アスファルトの川に架かる橋のよう。その橋を渡り終えたすぐ向こうが、公園の入口である。

 すすむは入り口にめがけて横断歩道を駆けた。

「いやん」

 突然、すすむは驚いて悲鳴を上げた。北風よりもずっと質の悪いつむじ風が、この幼児の鼻先を撫でて行ったのだ。一瞬の間をおいて、車のクラクションがすすむの耳を貫いた。運転手が窓か

ら顔を出し、すすむを振り返って何か怒鳴っているが、よく聞こえない。

すすむは放り投げてしまったバケツとスコップ拾い上げ、今度こそ信号が青になるのを待って道路を渡った。

 以前は、住宅地の中にあって、遊び回る大勢の子供が居たに違いない。しかし、今はオフィス街や町工場に飲み込まれかけた公園である。間もなく夕方を迎える公園にいるのは、すすむ一人だけだ。しかし、寂しくはない。すすむは大人から切り離されて、開放感すら感じているのである。

 すすむがその周囲をまわれば僅かに数分という手ごろな大きさの公園である。四方をぐるりと夾竹桃の生け垣に囲まれている。西と東の右の隅が入口として開いているだけで、夾竹桃の枝も、細長い葉も、余り密ではなく、側に立つと向こう側が透けて見えるほどだ。

 しかし、公園の中にいて、回りをぐるりと緑のカーテンに囲まれていると、ここが回りの人や建物から隔離された土地のように感じられるのである。すすむの砂場は、公園の入口近くにあって、すぐ側にペンキの剥げたシーソーがあるのだが、その支柱はさび付いていて鈍い音を立ててきしむ。シーソの横には鉄棒があって、すすむは自分の背丈より少し高い鉄棒をくぐって遊ぶことがある。

公園のまん中には、水の止まった小さな噴水。ずいぶん長く水が止まっているらしく、もともとの役割を忘れてしまったように乾ききって、風に埃が舞っている。その横にはブランコ、冷たく凍り付いたようで、すすむはこのブランコが揺れるのを見たことがなかった。

 その斜めにコンクリートの小山。中にはトンネルがあって、頂上からはぐるりと螺旋状に滑り台がついていた。すすむは人々に忘れられた滑り台を滑り降りて、積もった埃で衣服が汚れるという経験をしている。

 公園にもう一つある入り口の側には、木の切株に似せたコンクリートの円柱の腰掛けが5つ、曲線を作って並んでいるが人の姿はない。すすむはその切り株が冷え切って腰を下ろすとお尻が

冷たいという経験をしていた。公園として、ひと通りの遊具がある。ただ、楽しく遊び回る子ども達だけがいない、すすむ一人の遊び場だ。贅沢すぎる寂しさがある公園だった。

 すすむは、いつものように砂場のまん中に居座って、砂を盛り上げて山を作り始めた。しばらく夢中になって、砂を盛り上げたり、山腹を手の平で叩いて固めたりしながら、寂しさを忘れた

。忘れるために、その作業をした。すすむの構想通りの砂山が出来上がってみると、それは、すす

む本人もほれぼれするような代物で、彼が側に立つと、すすむの膝より少し低いくらいの高さがあり、その直径は彼の歩幅に換算して2歩分近くもある。その山腹は滑らかで、でこぼこ1つない。山頂がなだらかに丸いのは、彼が手の平で丁寧に整形したからだ。

 芸術家が自分の納得の行く仕事が出来た時の仕草で、すすむは作品からちょっと離れて、立ったりしゃがんだり、砂山の回り

を回って視点を変えてみたりして作品を丹念にチェックした。やりがいのある重労働に、すすむは少し額に汗をかいた。彼はマフラーを外してシーソーの端っこに掛け、手の甲で汗を拭った。木々をすり抜けて来る風の冷たさが心地よく、この時だけは北風が彼に好意を抱いているように思われた。すすむはちょっとお腹を突き出して腰に手を当てたり、頬に手を当てて考え込んだり、一通りの満足の仕草をした。

少し間を置いて、彼は辺りを見回した。自分の作品に同調してくれる人影を捜したのである。


 公園の中では強い風が生け垣の夾竹桃の葉を揺らし、すすむの周囲から押し寄せる葉擦れの音が不安をかき立てただけだった。すすむは小さくため息をついた。作品に向き直って、赤いスコップを握った。作品に手を加えるつもりだ。すすむは短い思案の末、手前の方からトンネルを掘り始めた。少しづつ慎重に堀りすすむめる。山を崩さないように、小さな世界の安定感を崩さないように。


 ふと、すすむは硬直したように手を止めた。しばらく、何かを考えるように全身の動きも時を止めた。誰かが、自分を眺めているような気がしたのである。顔を上げ、おそるおそる視線を正面の道路から右の方にずらすと、夾竹桃の緑のカーテン、続いてブランコが視界の端に入った。彼は視線を戻してトンネルを掘る手を動かし始めたが、不思議そうに首を少し傾げたままだ。

 が、やがて、すすむはまた手を休めた。人の気配が強まって明確に存在感を増している。すすむの動きを止めさせたのは、優しい女性の雰囲気だった。彼女の視線は、すすむのためだけに注がれている。唇は閉じてはいるが、微笑む表情に変化することのない安定感がある。彼女の腕は今にもそっと動いて、すすむを背後から包み込みそうな気配を感じさせる。

 しかし、その表情の目の奥に少し寂しさが混じるのはどういうことだろう。そんな明瞭な姿が、暖かな雰囲気に包まれて、すすむの背中の方から伝わってくるのである。すすむは見えない後

方に、若い女の人の存在を確信した。しかし、その確信がどこか儚い、変わらない優しさと不安感が入り混じって、今にも消えいりそうなのである。

 すすむはその人が消えてしまう前に、一目、姿を見るために慌てて左の方に振り返った。あんまり慌てたので、振り向きざま、彼は小さく尻もちをついてしまった。その様子がおかしかったのかもしれない。

(うふふっ)

 女性の柔らかな笑みが伝わってきた。微妙な表情を判別するには距離がありすぎるはずだ。しかし、すすむには好意がこもった感情が伝わってくるのである。

 すすむに伝わる表情が、肉眼で判別したものではなく、女性が発する雰囲気によるものだ。すすむもつられてはにかむように笑った。女の人とは距離が20メートルくらいある。なのに、女性のすすむに対する好感は、直にすすむに伝わって、すすむはその女性が自分のすぐ側で微笑んだ様に感じられるのである。

 すすむは砂場にお尻を着けたままの格好で、不思議な女性を眺めた。シーソーの向こう、木の切株の腰掛けのところ。年齢は、すすむよりずっと年上だが、すすむのお母さんに比べれば若くて少女と呼んでもいい年頃である。首にはふかふかの顎まで覆う赤いマフラー、長い髪が方の後ろに伸びている。それから、象牙色の柔らかなセーターと青いジーンズ、そろえた足の先には白のスニーカー。腕は胸の所でX字に組んで大きな本を抱え込んでいる。隣の切株にはクリーム色の籐のバスケットが置いてある。この少女のものに違いなかった。この雰囲気は、先ほど背中に感じたイメージとそっりだ。


 すすむは立ち上がってお尻の砂を払った。

(しばらくの間)

 すすむはそう感じたのだが、すすむはそのまま少女と見つめ会っていた。半分は好奇心、残りの半分は少女の視線に誘われて、すすむは歩き始めた。途中、木立の所に立ち寄ったり、コンクリートの小

山の上に登ったり、そこから滑り台を降りたり、屑入れの所にまで寄り道して、相手に興味の無い振りをしながら、視線を慎重に少女に向けたまま放さない。

すすむはそうやって、ゆっくり、ゆっくり距離を詰めて行った。少女は、すすむを待つように姿勢を崩さず腰掛けたままだ。すすむはようやく少女の元にたどり着いて、相手の正体を探るよう

に首をかしげながら、少女を見上げた。すすむの意図を察する気配がして言葉が投げかけられた。

(ボクのお名前は? )

 胸に抱えた本に顎を乗せるようにして、すすむをのぞき込んで、彼女はそう言った。全く時間の概念の無い言葉で、言葉の最初から最後までが、一瞬のうちにすすむの頭の中に響いたのだ。

「ボク、すすむ」

 すすむは名乗り、急いで付け加えた。

「あれっ、お姉ちゃんは喋らないの? 」

 すすむは自分の名前を口にしてみて、少女の言葉との違いに気づいたのである。すすむに語りかける少女は唇を動かさなかった。

(うふふ)

 少女は心の中で笑った。その声が温かな感情を伴って、すすむの心の中に響いて来る。

(心の中でお話する方が、ずっと仲良しになれるでしょう)

「うん」

 すすむは当り前の事のようにうなづいた。実際、すすむにとって全く不都合は無かったし、むしろ、この新しい遊びは彼の気に入った。

少女はバスケットを左の切株の腰掛けから右の方に移した。すすむに空いた腰掛けに座りなさいと導いたのがわかった。すすむには少女がそう話しかけたような感情が伝わってきたのである。

すすむは少女の横に腰を掛けて彼女を見上げた。地面に付かない足をぶらぶらさせて考えた。

(この人は誰?。何か、普通と違う不思議な人)

 すすむにとって、普通の大人と違うと言うことは信頼してよいということだ。彼女は微笑んだままだ。すすむはちょっと体を乗り出して、少女の体越しにバスケットを見た。白い普通の籐製のバスケットに

見えるが、何か秘密が隠されているのかもしれない。そう考えると、何か神秘的な光を放っているようだ。

 すすむは少女が大事そうに抱え込んでいる本に目を移した。薄っぺらいが、その大きさはすすむの絵本の倍の大きさがある。何か不可思議な呪文でも書かれているのかもしれない。少女が本を抱える右の指先が動いたかと思うと、細長い棒が現れた。

(鉛筆だ)と、すすむは思った。

 今まで本の影に隠れていたものか、それとも一種の魔法で指先に出現したものかよく分からない。

(きっと、魔法なんだ)と、すすむは見当をつけた。

 少女は、すすむの疑問に答えるように、すすむの目の前でゆっくりと本を開いた。中は白い画用紙だ。紙の白さには光沢が無くて柔らかな感じがする。その白い画面のまん中に、すすむの姿が

あるのだが、砂遊びをする姿は、まだ輪郭線のみで白い。

少女は、すすむのズボンを鉛筆で濃く薄く黒く塗り分け、髪の一部を強く塗ったかと思うと、指先でその黒さを押し広げて、ふんわりした幼児の髪の柔らかさを表現した。そうすると存在感が

加わって、すすむが画用紙の中で生きているかのようにみえる。


 少女の指先は無機質な線に生命感を込めているような神秘性を感

じさせた。すすむの足元にはちゃんと砂山も描いてある。すすむは自分の作品が評価されたような気がして、嬉しくなって言った。

「この山には、トンネルもついてるの」

 すすむは画用紙の山を指でつついた。すすむの指が画用紙を撫でる音がする。少女は鉛筆の先を滑らせて、素早くトンネルを描き加えた。

(さあ、このトンネルは、何処に通じているの? )

 少女の声が、すすむの頭に響いた。なにやら異質で興味深い。すすむは半分羨ましさを込めて、少女の顔を見上げた。少女の口元は少し開いてはいるが、全く動く気配はなく、ただ、微笑みを浮かべているだけだが、すすむむの耳元で語りかけるように意図が伝わってくる。

(ねえ? このトンネルは何が通るのかしら? )

 少女は、すすむの心に重ねて問うたが、やはり唇が動く気配はなかった。

「パンダさん」

 すすむは思い付いたように言った。それから少し考えて付け足した。

「パンダさんが・・・・・・、バスを運転してるの」

 少女はバスを描いた。少し、すすむを見つめて、トンネルを通って家に帰るバスを描いた。そして、運転手の帽子をかぶったパンダをその横に加えた。すすむは興奮気味に話を続けた。

「でもね、キリンは首が長すぎてバスには乗れないの。だからペンギンさんの運転する電車の中に寝てるの」

 少女の鉛筆が描き出す線がトンネルの入り口から伸びて画用紙の下の端に届いた。少女はもう一本、同じ様に描き足した。これは電車の線路だ。すすむが考えた通り、2本の曲線には枕木が加わって、ちゃんとした線路になった。


 少女の雰囲気が強まった。優しく暖かく、すすむを包み込む雰囲気。その雰囲気が、すすむの中の不安を満足感や期待に変えた。すすむはスケッチブックから少女に視線を移して見上げた。少女は相変わらず微笑んでいたが、僅かに開いた口元がゆっくりと閉じ、すすむを映す目に、不思議な真剣な光が加わったかと思うと、すすむはそのまま春香の目の光の中にとけ込むように吸い込まれて行った。


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