すすむの道と春香の道
パタン。
春香は鉛筆を止めて、静かにスケッチブックを閉じた。ふと気付くと、すすむが自分を見つめている。すすむの心を意図して探るわけではなく、すすむの感情が春香に伝わってくる。無垢な明るい驚きである。驚きはその理由まであけすけに伴っていて、春香を微笑ませた。この子は春香に、こじんまりとした手の平ほどの世界を語るというイメージを持っていたらしい。そうかも知れない。花の女神として、すすむと旅をした時も、子ギツネのコンの体を共有して自然の中を跳ね回った時にも、彼女の運命に選択肢はなく、閉じられた世界で、物語は行き止まりの結末だった。今日は様々な世界を旅したばかりではなく、旅を終えた春香に様々な未来があり、その1つ1つに希望が光って見えるである。
(ありがとう)
春香はすすむの心にお礼の言葉を伝えた。この子のおかげで堅く閉じていた心が開けているのが感じられる。
すすむはじっと春香に視線を合わせたままだ。春香はまるで話題でもそらすように視線を外し、視線の方向に右の腕を伸ばした。雀がいる。雀はしばらく首をかしげたり、何かチュンチュン呟きながら春香と見つめ合っていたが、ふと気まぐれでも起こした
ように飛んで来て、春香の回りをぐるぐる回ったかと思うと、人差指に止まった。その雀の仕草は、すすむが初めて春香と会った時のようだ。
雀は春香の指の上で、すすむを見ながら首を傾げて鳴いている。挨拶をしているのだ。春香は左の手の指先でクッキーを潰して、すすむの手に乗せた。新しい友達にあげなさいという意味だ。
すすむと雀はしばらく一緒にクッキーを食べたのだが、雀は、すすむが名前をつける前に気まぐれでも起こしたように飛び去った。
(ピーちゃんは飛んでいっちゃったわね)
春香はそう言った。そうだ。すすむは今の雀に『ピーちゃん』と名付けるつもりだったのだ。
春香は、すすむに笑顔を近づけて言った。
(すすむクンは私が恐い? )
言葉のニュアンスではなく、とまどい、恐れ、寂寥感、物悲しい感情が言葉に混じって流れてきた。すすむは首を傾げた。すすむは返事に困ったのだ。すすむはこの魔法使いに、憧れに似た好意を持っているし、この好意は、二人が心を共有しているので、嘘偽りなく春香に伝わっているはずだ。
(ごめんなさい。変なことを聞いたわね)
春香は、満足の感情を伝えながらも元気なく笑った。
(でも、ありがとう)
春香は、すすむを引き寄せて頬をあわせた。春香の柔らかな腕が、すすむを包み込んで、すすむは自分が春香のなかにとけ込んで行くような気がした。すすむは春香の中で、真っ暗で冷たい静寂に接した。静寂は大きさも分からないほど大きく、その深さも、すすむの理解を越えるほど深い。すすむはその静寂に落っこちてしまいそうな気がして恐怖した。春香は、すすむの恐怖に気づいて、彼の体を放した。心を切り放して、すすむを孤独からかばったのである。
春香はそっと詫びた。
(ごめんね。恐かった? )
すすむは黙っていた。実際に静寂が恐かったし、春香が、すすむと同質の寂しさを持っていて、その寂しさが、すすむの物、それ以上に深いことに驚いてもいたのである。
「春香さんも寂しいの? 」
すすむは尋ねた。春香は寂しく微笑んで答えない。赤い空の遥か彼方で、どこかの工場の終業を知らせるベルが響いている。二人は立ち上がって歩き始めたが、その歩みは考え事をしているようにゆっくりだ。
信号の所で、すすむは春香の手を握った。春香は、すすむが自分を励ましていることに気付いて、ほっと肩から力を抜いたようにため息をついた。そして、元気よ、と軽いウインクをして見せて、今日最後の魔法を使った。春香が、すすむに青く変わった
信号を指さしたかと思うと、真っ黒なアスファルトの道路にキラキラ輝く橋が架かった。天の川のようだ。すすむは星屑を踏みしめて橋を渡った。星屑が足元できゅうきゅう鳴るのが面白い。すすむが渡りきって振り返ると、すでに春香の姿はなかった。すすむにはすすむの道。春香には春香の道。




