五日目のお話 鯨のカナーン
すすむは今日は忘れずに信号を確認して道路を渡った。公園の入り口で中をのぞき込んだが、買い物帰りに一休みするお年寄りが一人いたっきり。
「はるかさん」
すすむはそう呟いてみたが、春香は現れなかった。空を見上げると、太陽は道路の向こうの電柱の高さにある。
「春香さんが来るまで、だいぶ時間があるのかな」
すすむは春香の顔を思い浮かべてそう呟いてみた。つまらなそうに唇をとがらせていたが、ふと、傍らの石柱に気付いた。公園を外の世界から遮断する夾竹桃の外側を守るように並んだ石柱である。その手近な1つを玩具のスコップでぽこぽこと叩いてみた。
意外にいい音がする。すすむの2歩分の間隔で、そんな石柱が鉄のパイプで手を繋いでずらりと並んで、音を奏でろと誘っているよう。すすむは誘われるまま、右手に持ったスコップで石柱の頭を叩いて北に歩いた。すすむが渡る幅の広い車道と市道が交差
する北の交差点。
すすむはスコップを左手に持ち替えて、南に向いて石柱の頭をこんこん叩いて歩いた。未だ春香の姿が見えない入り口を通りすぎて南の交差点。すすむが閉じこもる世界は、一辺がたった30秒の長さでしかないのである。交差点から市道が公園を包むように東に伸びて商店街が見える。しかし、すすむにはそこへ踏み込む気になれない。すすむは再びスコップを持ち替えて道を戻った。夾竹桃のカーテンの目は粗くて公園の中が透けて見える。公園で一休みするお年寄りは姿を消していて、公園に人影は絶えた。すすむが北の十字路に戻って、何かを探るように東の方向に目を転じた。そして、すすむが戸惑う様子を見せつつも、子供らしい冒険心を実行に移したのは、心にすこし余裕が出てきた証拠だ
ろう。
すすむは探検を始めたのである。東に延びる道路の端、道路を隔ててすすむの正面にあるのは花屋さんだった。店先には鉢が幾つも並べてあって、それぞれに名札がついている。少し角ばった文字は礼儀正しさを感じさせる。
きっと、『すすむ』とか『ドナルドくん』とか『ウェンディちゃん』とか、その花の名がついているのだ。真冬だというのにここだけは花が咲いて暖かな雰囲気に包まれていた。ハサミを持ったおじさんが一人、幾本かの花を束ねては白の包装紙でくるむ作業をしている。すすむはおじさんの器用な手つきが気に入った。
その隣はただの白のビルディング。眺め回しても、建物自体に変わった特徴を見つけることができなかった。建物の前に小型の使い古したトラックがあって、何やら荷物を積み込んでいる。すすむは推測した。
(引越しかもしれない)
その隣まで歩くと、もっとただのビルディング。人が忙しそうに出入りしているが、何の変哲もないビルである。すすむはビルの前にいた野良猫で好奇心をまぎらわせた。
その横は、ペットショップらしい。窓越しに幾つも篭があって、胴ばかり長い子犬や、すすむが見たこともない毛並の猫や、緑のオウムや太ったネズミが居る。すすむが一番気に入ったのは手前の篭の中で眠っている仔うさぎだった。丸まって白い毛並の塊になっているが、大きすぎる耳が隠しきれない。プラスチックのスコップで窓をコンコン叩いて合図をすると、驚いたように、体の中から弾け出したような後ろ足で跳ねて、赤いルビーの眼をすすむに向けた。すすむはしばらくそうやって、仔うさぎと会話していたが、ふと見上げる空に隣の建物の鉄塔が目に入った。これが、いつも公園の中から見える鉄塔の正体に違いなかった。すすむは隣の建物に移動した。車庫には赤い車が二台と白い車。赤いのは消防車だと、すすむは思った。大きな赤の車体にごてごてといろんな装備がついていて、それらの装備の1つ1つは科学の粋をこらした能力を秘めているのである。すすむは消防車が大好きだった。これを見ただけで、探検の甲斐があったというものだ。すすむはし
ばらく、消防車を操縦する自分を想像しながら、消防車に見とれていたが、ふと視線をもと来た方にやった。すすむの探検は、距離にして約40メートルほどだろうか。この車道はまだまだ続いており、右手の公園を囲む石柱も、もう少しつづいているようだ。ずいぶん遠くまで来たような気がする。石柱の内側の生け垣に隠れて公園の中が見えない。
突然、すすむは生け垣に向かって兎のように跳ねた。何か人の気配を感じたのである。葉っぱに邪魔されてよく見えなかったが、女の人の姿が見えるようにも思える。すすむは何かを確信して公園の入口へ駈け始めた。春香の声が、すすむの心に響いた。
(あわてて、転んだりしないでね)
すすむは生け垣沿いに公園の外周を回って、いつものように腰をかけた。一番左にすすむ、まん中が春香で、左に魔法のバスケットが座っている。
今日のすすむには話すべき話題に尽きない。すすむの傍らで春香は楽しげにスケッチブックを開いて、目をつむったまますすむの話を楽しんだ。
角の花屋の花の色の事、建物の前にいた野良猫の事、ペットショップのオウムやうさぎの事。最後に、すすむは消防所の話をした。
「その横にね、しゃうぼうしゃと、きょうきょうしゃがいたの」
(消防車と救急車ね)
「うん、それ」
(他には、何か変わったことは無かった? )
「うん、車の家に大きな塔があったの。ほら、あそこ」
すすむは生け垣の上に、消防署の鉄塔を見つけて言った。
(ああ、あれね)
春香も言った。すすむの話に何か想像力を刺激されたらしい。
(でも、あれはね。消防署じゃないのよ。あれは気球の停留所なの)
「ききゅうって何? 」
(大きな風船。人が乗る籠をぶら下げて飛ぶの。下の消防車に梯子がついていたでしょう? 大きな風船が飛んでくると、あのはしごを伸ばして乗り降りするの。消防車には大きなホースも付いてたでしょう。あれで風船に空気を入れるのよ)
すすむは春香の言葉を疑うことなくうなづいた。
「ふぅん」
(大きな窓の向こうに制服を来たおじさんたちがいたでしょう? )
「うん」
(あのおじさんが気球の切符を売ってるの)
春香はようやく鉛筆を動かし始めた。春香は白いページに大きな丸いキノコを描いた。
キノコの風船だ。風船の下には何本かのロープが下がっていて人が乗るための籠が付いている。
(風が吹いているわ。暖かいそよ風よ)
春香はそう言って、すすむをじっと見つめた。すすむは目をむって風を感じた。春香の中にとけ込んでいく感じだった。すすむはふんわり軽くなって、暖かな風に乗った。




