子ギツネの春香
スケッチブックを閉じる音は聞こえなかった。すすむは春香の寂し気な沈黙で目覚めた。
今日、物語にはちゃんとした結末がなかった。キツネのコンの行く先が定まらない。
すすむが目を開けたのは春香の手の温みを感じたからだった。すすむを引き寄せるように、すすむの右の肩には春香の右の手がある。すすむは温みをたどるように、春香の右の手から、背中の腕の温み、それから首の向きを変えて、春香に視線を移した。
スケッチブックはすでに閉じられており、春香は左の腕に抱え込んでいる。春香は黙ったままだ。すすむは春香の目を見たが、その目は生気がなく人形の目のようだった。すすむは何か急に恐くなって、春香の手を握った。春香が自分を残して遠くに行って
しまったような気がしたのである。
春香は、突然に揺り起こされたように、驚いた眼付きですすむを見たが、すすむの心を察したように微笑んで言った。
(ごめんね)
すすむはその声を聞きながら、さっきの仔狐の話をを思いだしたが、何故そんなものを思いだしたのかよく分からない。
(すすむクン。もし、私が普通の人と違っていたら、嫌いになる? )
「違うの? 」
(うーーん。見た目は同じなんだけど)
すすむには違いが説明しにくい。感受性は豊かで細かい違いや変化に気付く子だが、幼児らしい寛容性があって、春香の特別な能力を、違いだとは考えてはいない。
(村の子供たちは、コンがキツネの姿のまま、遊びの輪に入れてくれたかしら? )
「ぼく、一緒に遊びたい・・・・・・」
(コンは自分が人じゃないと気付いて、どんな気持ちだったのかしら? )
「独りぼっち? 」
春香は話題をそらすようにバスケットを取り上げてじっと見つめたので、すすむも視線を移した。何か物音がする。春香はすすむに物音のするバスケットを渡して、まるで、すすむに何かのクイズでも出すように微笑んでみせた。すすむがバスケットを開けて取り出したのはキャンデーだった。赤やオレンジ色や黄色のキャンデーが個々の風味を秘めて五つ、透明なビニール袋に入っている。
すすむは春香を見上げた。さっきはこんな物なんか入っていなかったはずだと考えたのである。春香は、すすむからバスケットだけ受け取って筆箱や色鉛筆をしまい込んだ。
すすむは深く詮索するのはやめにして、便利な魔法だなと感心するにとどめて素直に礼を言った。
「ありがとう」
すでに夕刻で、わずかに曇った空全体が赤い。風は無いが、身動きすると、じんと寒さがしみ通って来るようだった。その中で、すすむを導く春香の手だけが温かい。春香は、すすむと手をつないだまま黙って信号が青になるのを待っていた。すすむはふと気付いたように春香の顔を振り仰いで尋ねた。
「あの狐さんは友達と会えたのかな? 」
すすむはさっきの物語の結末を聞いた。春香は、すすむの手を離して、横断歩道の向こう岸を指さした。信号が青に変わっている。そして、言った。
「会えるといいわね」
すすむは駆けだしたが、振り向いて春香の表情を確認すること
はしなかった。
公園に取り残された春香は思った。
(寂しい子ギツネの春香・・・・・・)
物語が始まるときに決まった結末があったわけではなかった。すすむと共に物語が進展するにつれて、春香自らの姿が強く投影されて、あの結末に至ったのではないかと思い至ったのである。春香の心の中で、村里の子供たちと同級生の姿が重なった。彼女は同級生と意図して距離を置いているが、それでも同級生たちが彼女に奇異の視線を向けることがある。空想力豊かな年齢の同級生たちである。奇異な視線は思春期の生徒の想像力を突いて伝染病のように密かに広がっていた。
同級生が春香と話すとき、同級生が心に封印した本音が春香の口をついて逆流する。同級生たちは心の中を探られるような不快感を伴う視線を送るのである。嫌悪感は高じて露骨な嫌みや嫌がらせに繋がることさえある。彼女はそんな関わりを絶って無視しているのだが、同級生として断ち切れずに残る糸がある。




