四日目のお話 森に帰った子狐
山の尾根から見降ろすと、そこは杉の山々に囲まれた、小さな盆地の小さな村だった。すすむは初めてこんな高い、こんな離れた場所から村を眺めたのだった。
すすむの顔だけ見ると犬と区別がつかないのは、すすむがまだ子供だからだ。でも、よく見ると大きくてピンと立った耳やふさふさで先の白い尻尾で仔狐だと分かる。
すすむは大きな目をくりくり動かして辺りを見回した。秋の風が湿った鼻づらに冷たく、ピンと横に伸びたヒゲにくすぐったい。すすむはしばらく地面に腰を下ろして、珍しそうに村の遠景を眺めていたが、子供らしい気まぐれで4つ足で立ち上がって大きく気持ちのよい身震いをした。狐らしい大きな尻尾までぶるぶる揺れた。
すすむはその大きな尻尾を追いかけて地面の上でくるくると跳ね回った。それから、少し首を傾げてから歩き始めた。首を傾げるのはすすむの癖だ。空を見上げると赤や黄色に染まった陽光が降って来る。
すすむはまだ知らないのだが、木々も冬に備えて葉を落とす準備をしているのである。ふと見ると、地面の上を忙しそうに走り回っている生き物がいる。 ドングリで口を一杯に膨らませたリスだった。冬の食料を集めるのに一生懸命だ。すすむと会っても遊んでく
れたこともなく、挨拶すらしない無愛想なヤツである。今日のすすむはちょっと考えて、リスには興味の無い振りをして距離をじりじりと詰めていくと、突然、飛びかかるように駆け寄った。とにかく、近づくことが遊び友達になることの条件だ。
リスの方はそれを予想していてたように、さっさと逃げだした。リスの尻尾が揺れてすすむから遠ざかって行く。すすむはまた一人ぼっちだった。こんなことには馴っこなので、がっかりもせずに、また歩き出した。
肌寒い風が吹くので、僅かな木洩れ日が暖かい。黄色く柔らかな毛並みを通して、すすむに入り込む日差しと、体の中から沸き上がってはちきれそうな好奇心にくすぐられて、すすむはじっとしていられないのである。頭上では赤や黄色の木の葉がサワサ
ワ鳴ってやかましいくらいだった。
北には高くて細い滝。すすむはくぬぎやブナの木を縫って滝の方へ駆け出した。太いしっぽがまっすぐ後ろにたなびいた。滝から流れる小川が南北に流れて村を二分している。小川の中にはメダカがいるのだが動きが鈍い。水が冷たくなりはじめているのかも知れない。すすむは小川に鼻面を突っ込んで水をぺちゃぺちゃ嘗めた。冷たい水が喉を通ってお腹の中に入って行く感触が愉快だった。
突然に、すすむは凍りついたように身動きをやめ、耳だけひくりと動かした。人の声が聞こえたのである。大勢の子供の声だ。何かの遊びをしているらしい、駆け回りながら歓声を上げている。すすむはこっそり忍び寄って、物陰からそっと頭だけだして覗いた。人間の子供が5人、何かの歌を歌いながら輪を作って回っている。子供たちの一番のお気に入りの遊びだ。すすむもこの歌の旋律を記憶している。ただ、歌いたいと思っても、すすむの喉からは2つ足の子供たちみたいな歌がでて来ない。
すすむは羨ましそうに子供たちを眺めていたが、決して出ていこうとはしない。すすむには以前、歌に引かれてのこのこ出て行って子供たちに虐められた……、と信じている記憶がある。
子供の一人が、すすむの尻尾を握ったのだった。すすむは尻尾をいじられるのが大嫌いだ。別の子供は、すすむの前足を掴んで引っ張り上げたが、すすむは2本足では歩けないのだ。人間の子供たちの中にあって、すすむは自分と子供たちの差を見せつけられると何か急に、恐いような不安に包まれてひどく不安で、ひどく恐くて、ひどく寂しい、何も説明できないけれど泣きだしたいような感情に囚われた。そして、すすむは彼を抱える子供の手を噛んで逃げだしたのだった。
それ以来、すすむは子供たちには近寄らない。子供たちより彼らの中に居たときの不安な感じが恐いのだ。大きな尻尾、旋律の出ない喉、黒くて尖った鼻づら、みんな子供たちと違うものばかりだった。
すすむはしばらく子供たちを見ていたが、やがて諦めたように歩き出した。うつむきかげんなのと、尻尾を垂れているのは、すすむの気持ちの現れだ。
すすむは家に戻った。ここは村はずれの藁ぶき屋根の一軒家だった。すすむはこの家に炭焼きのおじいちゃんと二人っきりで暮らしている。
戸が閉まっている。すすむは引き戸の前に座り込んでくんくん鼻を鳴らして、前足で戸を叩くように掻いた。戸を開けてくれといういつもの合図だった。ぽんぽんと音がしたのは、囲炉裏の前のおじいちゃんが煙管をごつごつの手で叩く音だ。すぐにおじいちゃんの立ち上がる音がして、戸が開いた。すすむはおじいちゃんの足をくぐるように家の中に飛び込んで、囲炉裏の前まで駆けて行くと、おじいちゃんを迎えるように振り返っておじいちゃんが戸を閉めるのを見た。すすむはまたおじいちゃんの足元まで駆けて行って、おじいちゃんにまとわりついて、おじいちゃんの袖口を噛んで引いたり、くんくん鼻を鳴らしたり、キャンキャン吠えたりしながら、今日あったことの1つ1つを報告した。
葉っぱが赤かったことや、
山の上では村が小さかったことや、
リスが今日も無愛想だったことや、
メダカがのろまだったこと、
そして、
子供たちの遊びを見たことも、
順番もバラバラに思い付くまま話した。そして自分はいつ人間になれるのかな?とも聞いた。そう、すすむは物心ついた頃からおじいちゃんに育てられて、自分が人間だと信じているのである。すすむはあぐらをかいたおじいちゃんの足の上で丸まって時々くんくん鼻を鳴らしてさっきの補足説明をした。すすむはいつも一生懸命説明するのだが、おじいちゃんは、すすむの言葉を理解しない。すすむもおじいちゃんの言葉がよく分からない。おじいちゃんも、すすむに何かを語りながら、すすむの背中を撫でている。すすむは気持ち良さそうに、おじいちゃんの足の上でお腹の中に鼻づらが隠れるくらいにまん丸くなっている。時々耳を動かしたり、目を開けたりしなければ、すすむはただの毛玉のよう
。おじいちゃんのゆっくりした優しい口調は、意味はよく分からないが、眠気を誘う気持ちのよい口調だ。
きっとおじいちゃんは、すすむがあの子供たちのような人間になれる日の事を話しているのだ。
その日が来たら、
その日が来たら、
すすむの頭の上の尖った耳は無くなって、あの村の子供のよう、
すすむの長い口は小さくなって、歌を歌っていた子供のよう、
前足の指は長くなって、遊びの輪を作っていた子供のよう、
足は長く伸びて駆け回っていた子供のよう。
すすむはいつもそんな夢を見ながら眠りに付く。昼は駆け回って一人遊び、夜はおじいちゃんの上で人間の夢を見る。そんな日々を、すすむはもう何日過ごしたろう。単調な毎日の繰り返し。
おじいちゃん、今日はドングリがいっぱい落ちてたよ。ぼくは明日は人間になれるかな?
おじいちゃん、今日はもう緑の葉っぱを見かけなかったよ。ぼくは明日は人間になれるといいな。
おじいちゃん、今日は湖にいっぱい鳥が来たの。ぼくはいつ人間になれるのかな?
季節や森の仲間は何かせわしなく変化を見せているのに、すすむだけはいつまでも、取り残されたように同んなじだ。ただ本能で冷たい冬の来ることを察している。
森の木々は葉を落とす前に最後の化粧をしているのだった。葉っばが風に触れ合う音が、秋の音から冬の乾燥した音に変わりかけている。森の仲間は冬の食べ物を集めるのに、すすむの相手なんかしている暇はないのだった。でも、すすむがこんなにも森に心を引かれるのは何故だろう。
そのきっかけがあったのは、すすむが最初に赤い落葉を見つけてから3日めくらいの事、山の斜面や谷の小川を駆け抜ける風が、本格的に葉っぱを落し始めたのだった。中には、枝を走るリスに蹴落とされる葉っぱもある。すすむは谷間の渓流を飛び越え、川を流れ下る楓の葉を見た。山の細道を駆けながら柔らかな足の裏に、乾燥して細かく砕かれる落葉を感じた。そして樹木の間を歩きながら、突然目の前に舞い落ちる葉に驚かされたり、背中や尻尾に降って来る葉っぱの感触を面白いと思った。
その時、一枚の葉が、すすむの額に落ちてきた。すすむは考え事をしながら歩いていたので、驚いてきゅんっと目をつむって妙な悲鳴を上げた。今までに経験したことのない変な衝撃を感じたのである。すすむは本能的に体を丸くして衝撃を受けた。痛くは
無いが体中がむず痒い感じ。すすむはそのまま地面をころころ転がって、木の幹にどんっと、ぶつかって止まった。すすむはきょろきょろ辺りを見回した。衝撃を受けるようなものは何もない、今のはいったい何だろう。すすむは首を傾げながら、むずがゆい鼻面をなめた……、目の前にあるべきものが無い。すすむは前足で鼻面を撫でようとした。
「きゃんっ」
すすむは驚いて悲鳴をあげた。まるで、狐のような、悲鳴だ。今、すすむは木の幹を背にして腰を下ろしているのだが、目の前にまっすぐ伸びた足がある、まるで人間のようだ。
足先の白い運動靴は、すすむの後ろ足の先が白かったことの名残だと本能が教えてくれた。鼻面を撫でようとした前足も人間のよう。柔らかい白の手袋はやはり前足の先が白かったからだ。すすむはセーターを着ているのにも気が付いた、だぶだぶのセーター。あの子供たちが着ていたものと同じ。セーターが黄色いのは、すすむの元の毛並を反映している。よつんばいになってお尻を見ると尻尾が無い。お尻には青いジーンズをはいている。全身でここだけ元の毛並と違うのは、きっと、すすむが化ける前に青いジーンズの事を考えていたからだ。
すすむは幹に寄り添うように、そっと二本の足で立ち上がった。すすむは人間の子供に化けているのだ。すすむは知らなかったのだが、これが狐が持って生まれた魔法だった。狐は頭の上に葉を乗せる呪文で、何かに化ける魔法を使うのである。
すすむはしばらく、右の前足を幹に当てて不安定な体を支えながら木の回りを二本足で歩き回った。うつむき加減に足元を見ながら歩いて、すすむは二本足で歩くのが気に入った。すすむは急に走りだした。何か体の中から嬉しさ、希望がいっぱいに沸き上がってきたのだ
すすむはちょっと落ち着いてもう一度人間になった全身を見回した。地面をころげまわったので、全身落葉まみれで、きれいなセーターに土も付いている。すすむは狐だったときの習性で体の汚れを嘗めて取ろうとしたのだが、腕の先を嘗めた以外は頭も舌も届かない。これは不便だと、すすむは考えたがすぐにあの子供たちが転んだ時にお尻の土を手で払っていたのを思いだした。そうだ。二本足になったら、汚れは長い指がついた前足で払うものなのだ。
子供たち……、
(そうだ、きっとあの子供たちもこうやって2本足に化けたに違いない)
すすむはそう信じた。すすむはもう一度飛び跳ねながら人間になった全身を見回した
。二本足で、前足には仲間と手をつなぐことの出来る指があって、お尻には尻尾も無いのをもう一度確認した。鼻は顔のまん中で低くなって髭がない、耳は尖っていなくてちゃんと頭の横にある。新しい指で新しい耳や鼻に触れるのは 妙な感じだ。指先に新
鮮さに嬉しさの混じった感じだ。すすむはじっとしていられない。嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。父母からも、仲間からも、化け方を教えてもらっていない仔狐としては、上出来の化け具合いだった。
村の子供たちは顔を見合わせた。一人の男の子が少しはなれて遊びの輪を見つめているのに気づいたのである。男の子は戸惑うように、恥ずかしそうに笑っている。初対面……。でも、確かに以前何処かで会ったことのあるような気がする。いや、間違いなく何処かで合ったことがある。
「村の者がうかれ騒いでいると、山の精がその声に引かれて、若い女や子供の姿で現れることがある」
村の老人たちがこの山間の村に伝える民間信仰である。子供たちはそんな昔話を思いだして顔を見つめ合った。この子はきっと山の神の使いだ。すすむはまだ黙っている。どうやって子供達の中に入って行けばいいか分からない。やがて、ふと気が付いて、
歌を歌い出した。あの遊びの歌だ。子供達はまた顔を見合わせた。何かほっとしたような、何か嬉しいような気分だ。不思議な客人は、彼らと同じ歌を歌った。
すすむは子供達の輪に入った。子供達は、すすむの名も何処から来たのかも聞かなかった。村の長老の話で知っているからだ。すすむも自分がさっきまで狐だったことを話さなかった。皆も自分と同じように人間になったに違いないと信じていたから。子供達が打ち解けるのは早い。同じ歌を歌って駆け回ると、今日始めて出会ったのが嘘のようだった。
しかし、遊びの終演はいつも同じ。一人の子供が夕日を気にし始める。そして、それは伝染し、子供達は家に向かって一斉に駆け始めるのである。
残されたすすむもおじいちゃんの所へ駆け出した。すすむは今日の遊びの一つ一つをおじいちゃんに報告するつもりだった。いつもは前足で引戸を引っかくのだが、今日のすすむは前足で引戸を開けて家の中に走り込んだ。中にいたおじいちゃんが驚いたように言った。
「おやおや、」
おじいちゃんはこの無作法な珍客に驚いたが、この山の中で退屈を紛らわせてくれそうな期待もある。すすむは二本足で囲炉裏とおじいちゃんの回りをくるくる回った。おじいちゃんは不思議そうに笑っている。すすむも笑っている。お互いにどんな風に話
を切り出して良いか分からないのだ。すすむは照れくさくて、いつものように囲炉裏の側で横になり、くるりと丸まった。両膝の間からおじいちゃんの顔が見える。おじいちゃんは聞いた。
「分校の、毛利先生の息子さんかね? 」
毛利先生の奥さんが幼い子供を連れて、単身赴任の夫を訪問して来ると聞いたのを思いだしたからだ。
すすむは不思議そうに首を振った。おじいちゃんは、すすむのお父さんの名前を思い付くままに挙げたが、その都度、すすむは首を傾げたり、首を振ったりした。まもなく、おじいちゃんは名前当てクイズに飽きてしまった。
「まあ、ゆっくりして行くといいやな」
おじいちゃんは煙管を手に取って思い出したように続けた。
「もうじきコンが帰って来るからな。遊んでいくといい」
「コン? 」
すすむは聞いた。自分がそんな名で呼ばれていたのを思いだしたのだった。おじいちゃんは、初めてこの男の子と共通の話題を見つけた気がして、拾った狐の子の話をした。
この村でも少なくなってきた狐が二匹、お爺ちゃんの友達の猟師にしとめられたこと。たぶん、二匹は夫婦だということ。捜すと、まだ目も開かない仔狐がたった一匹、飢死を免れて生き残っていて、おじいちゃんに引き取られたこと。その子が今のおじいちゃんの唯一の家族だということ。
すすむはおじいちゃんの話をぼんやり聞いていた。おじいちゃんは男の子の目に、じんわり涙が浮かんだのに気が付いた。すすむは姿は違ったのだが、村の人々の間にいて、自分が人間だと信じていたのである。
すすむは生まれて初めて、自分がおじいちゃんたちとは違うと知った。木の葉の魔法は、すすむを人間にはしなかった。おじいちゃんは純朴だが、奇跡や魔法を信じない人間だ。しかし、初めて魔法を見た。
すすり泣く子どもの姿が溶けるように姿を変えて、黄色の毛並の仔狐になった。仔狐の額から、はらりと木の葉が落ちた。その夜、仔狐はおじいちゃんの家から姿を消した。
あくる日、村は子どもたちが一緒に遊んだという山の精の噂で持ちきりだったが、おじいちゃんは何も話さなかった。村の人々も、山の精と姿を消した仔狐を結び付けて考える者はいなかった。まもなく、山の精の話は人々の気まぐれの中に消滅した。
しかし、今でもおじいちゃんは見慣れない子どもを見る度に
「コン? 」
そう呼びかけることがある。




