四日目の朝
雀のさえずりが、すすむの目を覚まさせた。子供にとって早すぎる目覚まし時計だった。布団から露出した顔の肌の感覚が、きんっと冷たく張り詰めるような錯覚を起こしたのは、窓を通して見えた冬の空の青さのためである。
しかし、この部屋は暖かい。すすむはその温かさが早起きしたおばあちゃんが孫のために点灯したストーブという配慮だとは考えてはいない。
すすむがぼんやりと気配を探ると、玄関の方向に物音がする。出勤するおじいちゃんと、見送るおばあちゃんの気配だった。
(危険はない)
そういうことを、すすむはぼんやり考えた。そうすると、おしっこがしたくてたまらない。トイレに起きたすすむが姿を見せると、おじいちゃんとおばあちゃんは、挨拶より先に大人同士で何か話した。すすむには分からないように黙ったまま目と目で。すすむは気づかない振りをしてトイレに入った。すすむは生きるためにそういう演技を身に
着けていた。トイレから出たすすむは、ようやくおじいちゃんとおばあちゃんに気付いた振りをして朝の挨拶をした。
「お・は・よ・う」
すすむの挨拶に応じるおじいちゃんとおばあちゃんの返事には一拍の間があった。
「おはよう、すすむ」
「おはよう、寒くない? 」
おじいちゃんとおばあちゃんはすすむを観察している。二人とも、すすむが思ったより元気なので安心したようだと、すすむは考えた。おじいちゃんもおばあちゃんもすすむを余計に刺激しないように気を使っているのだ。おばあちゃんはすすむを寝床に戻した。子供が起きるにはまだ早すぎる時間だ。
寝床に戻ったすすむは、布団の中に顔を隠して、おじいちゃんとおばあちゃんのことを考えた。春香と比べてみたのである。
そして、
(何か違う)
と思った。
心でお話をする春香ではない。おじいちゃんとおばあちゃんのことである。時折、春香から滲み出すように伝わってくる寂しさが、すすむの共感を呼んで、すすむはおじいちゃんやおばあちゃんとの間に言葉で表現できないもどかしい壁を感じるのである。
次に、すすむが目覚めたのは、おばあちゃんが食事のためにすすむを起こしたからだ。すすむはいつもと同じように食事をした。食事をしながら、すすむは視線をあちこち移動させたが、その様子はいつもの怯える様子ではなく、好奇心が溢れてのことだ。
テレビの中で野ウサギが跳ねている。朝ご飯を頬張るすすむの頭もウサギに合わせてぴょんぴょん動いた。
食事が終わると、いつものように絵本を抱えて部屋の中を回ったり、木の枝を眺めたりする遊びを始めたが、時々、遊びに飽きたように窓の下の道を通りかかる人を観察したりした。そしてまた、部屋を出ては、おばあちゃんの側で洗濯機の中を覗いてみたり、食欲もないのに冷蔵庫の扉を開けて中をのぞき込んだりした。
すすむは決して何かを語ろうとはしなかったが、おばあちゃんは孫が何か変わったようだと考えた。そして、その原因を幾つも考えてはみたのだが、正解になりそうな物は一つも無かった。しかし、しょげかえっていた孫が子どもらしい無邪気な仕草で歩き回っているのは好ましいことだ。
おばあちゃんは、この秘密が知りたいと思った。
「すすむちゃん。何か良いことがあったのかな?」
すすむは驚いたような視線をおばあちゃんに向けたが、走って居間へ逃げ込んだ。しかし、ちらっと振り返った孫の姿には、気分を害した様子はない。
居間に逃げ込んだすすむは、ソファを乗り越えたりして、六畳ほどの部屋を一周して、白紙を発見した。新聞の折込みチラシの裏側だ。おばあちゃんがメモ用にしているもので、そばには鉛筆まで置いてある。
すすむは思い付いたように、何枚かの紙と鉛筆を握ると、窓辺の部屋に戻った。
すすむはまず畳の上に寝そべってから、画題を決めて、丸くて黒い顔を描いて、その上に耳をつけた。かわうそに見えないこともないが、本人はクマのつもりだ。すすむはクマのクリックさんを描いたつもりなのだ。クリックさんの頭は大きくて体まで描けない。すすむは強引に右腕だけ紙の中に押し込んだ。すすむは2枚目の紙に鉛筆を走らせ始めたが、今度は耳が長いので、ウサギだと分かる。すすむは小さなのと大きのを描いた。すすむうさぎと春香うさぎだ。
3枚目、4枚目と、すすむは描き続けた。画題は、すすむの思い付くままで、オリジナルであったり、絵本の模写だったり、模写にすすむのオリジナルを加えたものだったり、様々だったが、決して父母を連想させるようなものは避けて出て来ることはなかった。
すすむは食事をする以外、こうやって新しい遊びに熱中して時間を潰した。あまり熱中するので、おばあちゃんは、この子には才能が在るのかも知れない……、と考えたほどだ。
おばあちゃんは何度か孫のもとに紙を運んだ。しかし、昼のオヤツが終わってしばらく、すすむは一枚描く事に時計を見て、やがてマフラーをしてテレビを見ているおばあちゃんの所へ現れた。既にジャンパーまで着込んでいて外出の準備は整っている。外出着のすすむをみて、自分も何か羽織るものを捜すおばあちゃんに、すすむは首を振って、一人で行くと主張した。すすむは春香との約束を守つもりだ。
おばあちゃんは仕方がなく、すすむの服装をチェックした。重ね着する服の枚数は今日の気温に見合ったものか?
靴下は厚手のものか?
衿回りから風が入らないか?
ふと、おばあちゃんはすすむのポケットに何枚かの紙を見つけたが気付かない振りをした。すすむが午前中から描いた物の中、お気に入りの絵を選び出したに違いない。
すすむはおばあちゃんの服装チェックを受けると、弾けるように外に飛び出した。片手にバケツとスコップを持っているのはいつもの癖だ。
いつもと変わらない冬の風景。すすむは信号が青に変わるのを待ちながら、バケツの中で楽しくスコップの音を立てた。横断歩道の向こうの公園には人の気配を感じない。すすむは春香はまだ来ていないことを確信した。春香が来るに違いないと期待してしまうことが恐いので、公園に来た目的を『探検』にすり替えた。
探検と言っても、小さな公園だった。公園の入り口から見回しても、隅から隅まで見えるので、目に見えるもの1つ1つを丹念に調査するのである。。
まず、砂場に移動した。すすむの作った砂山がある。何度か手を加えているうちにトンネルが潰れてしまった。
次はシーソー。ペンキが剥がれかけているけれど、補修される気配が無い。きしむようにキイキイ鳴るのがかわいそうだと考えた。すすむはシーソーに腰掛けてみたが、一人で乗るシーソーには躍動感というものが感じられない不満がわいてきた。
公園の内側を夾竹桃のカーテン沿いに移動すると、切株を模った腰掛け、春香とすすむの指定席。一部、コンクリートの地肌が見えている。
左手のコンクリートの白い小山の麓には、自動車のタイヤが幾つも地面に半分埋まって並んでいる。そのつながりはイモムシの背を連想させる。すすむはスコップでぽんぽん叩いて音を調べた
次にブランコの所までやってきたが、座ってみるとブランコはだ、冷たいお尻が不安定に揺れるだけだ。
こうやって、すすむは公園を一周するのに約15分はかけたろうか。春香の姿はまだ見えない。すすむは不安に胸をどきどきさせてコンクリートの山の頂上に登った。春香は見えない。すすむはそのまま座り込んで、春香に見せるつもりだった絵を眺めた。
すすむがふっとため息をついてポケットに絵をしまい込むと、背後でブランコがキイキイ鳴っている。背中の方から、春香の柔らかな雰囲気。ちょうど始めて会った時のようだ。すすむは笑って滑り台に乗って螺旋状に山を降りると、ブランコの方にかけだした。
春香はすすむを迎えるように立ち上がった。白のセーターとデニムのスカート。質素な服装だが、左腕にスケッチブックを抱え、右手にバスケットを下げているのはいつもと同じだ。
すすむはバスケットの柄を介して春香と手をつないだ。バスケットを横目でにらむすすむに、春香は笑って手を離して、バスケットをすすむに任せた。魔法の道具の詰まったバスケットである。
今日は学校でトラブルがあって、いつもより来るのが遅れた。しかし、すすむの笑顔を観ているとそんな嫌な思いを振り切ることが出来そうである
いつもの切株に腰を下ろして、すすむはバスケットを振った。柔らかな音、硬い音、大きな音、小さな音が混じって聞こえる。すすむは春香に促されてバスケットの蓋を開けた。柔らかな音はソフトビニール製の筆入れ。硬くい大きな音は色鉛筆のケース。
小さな音はそのケースの中で鳴る色鉛筆だ。バスケットの中はそれだけだ。
春香は笑って色鉛筆を受け取って、スケッチブックの中に、白い新しい世界を開いた。
「こいぬ」
春香が描いた物を眺めたすすむはそう言った。春香は少し首を傾げて、スケッチブックに鉛筆を走らせて耳を大きめに描き直してから、すすむに見せた。
(狐には見えない? )
「それじゃあ、キツネさん」
(今日は、一人ぼっちのキツネのお話)
春香は狐の背後に山を描いた。画用紙の右端から左へ鉛筆を走らせて風を描いた。風には落葉が舞っている。
目をつむったすすむにも、全身の肌を撫でるように風の音が聞こえる。




